続いて裁判の話。前回話したとおり、法律って何ためにあるの? 答え、国も法も、すべては国民の福祉のためにあるのです。権力者や大富豪のためにあるのではありません。 勘違いしている人もいますが、法律はもともと世界には存在しなかったのです。でも、それだと人々は喧嘩になるからルールを決めましょう。それが法律だと思っている人がいますが、違います。喧嘩になれば常に強い者が勝つのです。弱い者はいつも泣き寝入りです。それを救済するシステムこそが法律です。弱者を救済できなければ国も法律も必要ありません。 ただし、法律があまりにも弱者に有利であれば、今度はお金持ちの方が弱者(損を強いられる者)になってしまう。するとそっちを救済しなければならなくなる。あなたがいくら貧乏でも、あなたに常に保護を与えるために法律があるわけではありません。 では、やっぱり法律って人々の平等、公平のためにあるんだね。もちろんそうともいえます。ただし社会にはもともとルールがあるという考えは間違いです。 裁判における基本 ・裁判は訴える者(原告)と訴えられる者(被告)と、さらに判定する者(判事=裁判官)の3者がいなければ成り立ちません。当たり前だけど。 ・裁判官は、訴えがあって初めて仕事をする。誰からも何一つ訴えがなければ裁判官はやることがなく暇です。裁判所は自ら動くことはしない。(調査したりすることもない。原告側、被告側、双方から提出された証拠を基に判断する) 裁判制度に関する憲法上の規定 【条文例】 すべての国民(外国人を含む)は裁判所に対して訴訟を行う権利を持つ。 (1)裁判所 ・すべての司法権は裁判所に属する。 ・裁判所は、最初に訴訟を行う下級裁判所、および下級裁判所の判定に不服がある場合に再度訴訟(これを控訴または上告という)を行う上級裁判所がある。(下記「裁判所の種類」を参照) ただ一つの例外(議会に開設される弾劾裁判所)を除いて、司法権を行使するのは、上記常設の裁判所のみ。行政府、自治体はいかなる理由においても司法権を行使できないのです。 ・各裁判所は独立しており、判決において他の権力機関(立法、行政、その他の裁判所、自治体、他の民間団体など)から、指示、命令を受けることはない。 ・裁判官は他の裁判官の意思に干渉されることなく、ただ憲法及び法律のみに従い、自ら独立して職務を遂行する。 ・最高裁判所判事は議会が指名して、首相が任命する。 ・裁判官は任期期間中罷免されることはない。 裁判官の任期は、議会と同じ2年です。もし2年間のうちに判事が懲戒にあたるような不祥事を起こしても辞めさせられないということですか? いいえ、裁判官も罷免されます。ただし簡単にはクビにはできません。それなりの手続きが必要です。たとえば議会の圧力で無理やりクビにできたら、それは三権分立の精神に反します。 ・最高裁判所判事が辞職する場合は、自らその旨を首相に届け出て承認を得なければならない。 ■裁判所の種類 【条文例】 裁判所には、下級裁判所ほか上級裁判所として、高等裁判所と最高裁判所がある。 このような三審制度(3段階で審判する)だと下級裁判所、高等裁判所、最高裁判所に分けられ、最高裁判所は全国で一つ。下級裁判所は自治体単位に設置、高等裁判所はある程度の自治体をまとめた単位(日本でいえば、地方、道、州単位)にあります。 ■裁判所の独立性 【条文例】 各裁判所はそれぞれ独立しており、他の裁判所(最高裁判所を含む)による支配、管理、命令を受けない。 ・下級裁判所の判事は、各地方自治体により構成される委員会等によって選定される。 ・高等裁判所の判事は、管轄地区の複数の地方自治体により構成される委員会等によって選定される。 下級裁判所の判事は各自治体の議員や監査機関の代表により構成された司法委員会により選出されるというわけです。高等裁判所の判事もそれに準じて選出されます。 つまり下級裁判所、高等裁判所、最高裁判所それぞれ判事の選出方法が異なるということ。ただし、裁判所は自治体の組織ではなく、あくまで国の機関であるため、組織形態は統一されています。また、判事をはじめとする職員は、国の職員ということです。 ■裁判官の罷免 裁判官に限らず、国のいかなる地位にある者も国民の力によって解任させることができます。たとえ大統領でも国王でも、主権者である国民から「辞めろ!」といわれたら従わざるを得ない。 ■裁判員制度 日本では素人の一般市民が裁判官に混じって司法権を行使する裁判員制度というものがありますが、はっきり言ってこれは間違った考え方です。裁判なんて難かしいことを法律について右も左も解らない者がやったらどうなるか。ほとんど責任を取れないまま、まったくの遊びで終わってしまうでしょう。 大体何で法について無知な一般人が無償で裁判の仕事をこなさなければならないのか?もちろん本人が是非やりたいというなら話は別です。 しかし、そのリスクを考えたことがありますか?たとえば判決を不服として、原告、被告の両方から憎まれるなんてこともありますよね。もしかしたら、恨みから殺されるかもしれない。「私に恨みを持つなんて筋違いだ」なんて言い訳は相手には通用しません。ただあなたのことが我慢できないくらい憎いだけなのですから。 あるいはもし死刑判決を下して、既に執行が行われた後から無実が証明されたとしたら、判決の際死刑に賛成したあなたの行為ははっきりいって殺人です。あなたによって死刑にされた者は、復讐として逆にあなたを殺す権利があると(青山個人は)思いますよ。もちろんそれは(既に死んでいるため)不可能ですが。もし遺族がいたらあなたを殺したいほど憎むでしょう。(あなたがいくら根は善人でも) あなたが、そのときは殺されてもいいという覚悟があるなら話は別です。 裁判とはそのくらい厳しいものなのです。プロの裁判官は自らの意志で裁判官になり、それなりの報酬をもらっているわけですから、そういうリスクがあることを承知しているはずです。しかし裁判員の素人にそんな覚悟があるかどうか? そんなことはありえないと太平気分でいるんですか?そんな中途半端な気持ちでやるなら、最初から断ればいい。それをあえて承諾した責任はあなたにもあるのです。「知らなかった。わからなかった。」では済まされない。あなたの罪は、それを(裁判員になる要請に対して)拒否しなかったこと自体にあるのです。 そもそも法とは何かをその起源に遡って考察していないから、このような素人考えの制度が生まれるのです。それとも国民の無知に付け込んだものか?はたまた裁判官の責任放棄か?職務怠慢か?(補足1) ■死刑制度 一般的に死刑の話はタブーですが、青山にとっては何一つ遠慮することではないと考えています。 日本の刑罰について一言いいたいことは、罰が軽すぎるということです。「これでたったの懲役10年?」と思えるような軽い内容のものが多いというのが(個人的な)実感です。 これでは犯罪者は刑務所でタダ飯食って安閑と暮らし、大した反省もせずすぐに娑婆に復帰。だからまた同じ犯罪を何度も何度も繰り返す。これが日本の現状です。「懲役10年」なんて甘い。「懲役100年くらいにしてほしい」と思います。すべての刑を一桁厳しくする。そうすれば犯罪も減るでしょう。(補足2) ただし、死刑はよくない。死刑にすると犯罪者は何一つ反省もせずに死んでいくことになる。それにもし冤罪だったら取り返しがつかないぞ。法務大臣が100回腹を切ったぐらいじゃ済まされない。もし全く無実の人間が冤罪により死刑にされた。その事実が発覚したら、たとえそれが一人であっても、青山はそのために国が一つ滅んでもいいと思っている。否、そんな国は滅ぼすべきだ。社会のためにあるいは国家のために多少の犠牲はやむを得ないと言っている人間はもはや人ではない。卑しいけだものである! お役所の人間にとって一番いいのは、犯罪者は死刑か、無罪か、の二つ。だって懲役刑が多いと、受刑者を収容して飯を食わせておく刑務所をたくさん作らなければならないし、看守も雇用しなければならないからお金がかかる。「そんなところにお金を回すなら、私の給料を上げてよ」と役人なら言うかもしれない。死刑は簡単でいい。死体を処分すればいいだけです。死んだらただ飯食わせる必要もないしね。 現在先進国が次々に死刑を廃止している状況で、いまだに死刑制度があるなんて、海外から「野蛮人の国」と呼ばれますよ。(補足3) そもそも死刑に抑止効果なんかありません。死刑になってもならなくても人間はいずれ死ぬのです。いずれ死ぬなら死刑なんか少しも怖くない。死刑があるから人間は犯罪を思い留まると言うあなたは、本日只今から死刑をなくしますと政府が宣言した途端、人を殺しますか? よく知られているように、刑罰には、応報刑(行った犯罪の報いを受けさせる)と教育刑(罪を自覚させ自ら反省するように教育する)という二つの考え方がありますが、死刑に教育刑なんてありません。当たり前。教育刑の目的は更生ですから。(補足4) しかし応報刑といったって、これだけの犯罪をしたら、これだけの報いを受けるなんて基準はどこにも存在しない。(科学じゃないんだから定量的判定など不可能。だいたい二人殺してどうせ死刑になるなら、100人殺しても、1000人殺しても同じ。日本ならどっちも同じ絞首刑。犯罪者じゃなくても人間いずれ死ぬんだから、死刑なんか怖くもなんともない。) 死刑にして犯罪者を始末(この世から消す)したからといって(殺人の場合)殺された被害者が生き返るわけではない。 あなたがもし愛する家族を殺された遺族だったとして、憎っくき犯人が死刑になったら、「ああ、国が敵を討ってくれた。法務大臣が私に代わって仇討ちをしてくれた」と喜びますか?それは犯罪を無かったことにしたいがためのごまかしではないでしょうか? しかし現実に犯罪は起こった。そこから目を背けたいから犯人を死刑にして、それで(偽りの)満足を得ようとしているに過ぎないのでは? もし青山が愛する人を殺されたとしても、死刑だけは絶対反対だ。死刑なんかで殺させない。殺すならこの青山が自らの手で殺す。 では、どうするんだ?反省させるのです。徹底的に、死ぬほど、そのために生かすのです。どんな犯罪者でも必ず更生できる。というのが青山の信条です。(補足5) ただし、それはとてつもなく大変な道のりです。どんなに些細な罪でも消えるまでには(永遠と言ってもいいくらいの)永い永い歳月がかかるでしょう。しかもどれだけ歳月をかけても完全に更生させることは不可能。過去は修正できませんから。ましてや人を殺した者など一生死ぬほど償ったとしても、1億分の1いや1兆分の1も取り返せない。 しかしやるのです。更生させるのです。それしかないからです。更生させるのが面倒だから、金がかかるから、大変だから、さっさと死刑にしてしまえ。というのでは社会は何も変わらないし、遺族にとっても救いがない。残された遺族は永遠に気持ちが癒えないからこそ、代わって国がやるのです。 そうして死の直前まで償わせる。最後に「悪かった」と少しでも罪を知って死ねば、それが遺族にとっての(ささやかだけど)救いだと思いますよ。 裁判の話とは無関係ではありますが、人間は誰もが罪を犯す動物です。すべての人間は生まれながらの罪人(つみびと)なのです。だれにとっても死ぬまでがその罪の償い。人生とは罪を償い続けることだ、といえるでしょう。 死刑とは本質的に、凶悪犯罪を犯した者をこの世界から消去すること。つまり存在しなかったことにすること。しかしそれは結局現実の否定です。凶悪犯罪が起こったのは事実ですから。無かったことにはできません。犯罪者を死刑にして、すっきりした?嘘です。死刑は何の解決にもなっていないのです。もしも神が世界を創造したのなら、死刑は神を否定することに等しい。凶悪犯罪者も世界の一部です。 (補足1) 法律のイロハも理解していない素人が、裁判という(人の一生を左右する)重大な事柄に対して、遊び気分で関わる。感情に左右されず理性的に判断することを一市民に期待すること自体無理があります。人間はそれぞれ考え方も生き方もまったく異なるもの。つまり裁判員の集め方によって判決内容が天地ほど変わってくる。こんな茶番に付き合わされて、被告も原告も可哀そうだ。それより裁判員は人間の内面(プライベートな事柄)にまで関わらざるを得ない。それは(よほど悪趣味な人間は別にして)無理やり裁判員にさせられた者にとっても精神的な苦痛です。こんなバカげた制度を考えた者は一体誰だ。それよりも誰もこの制度にまったく疑問を感じていないこと自体不思議というより恐ろしささえ感じます。思うに国民は生まれてきた以上、国のため、社会のために何かしらのことをするのは義務である、という誤った思い込みをしている精かもしれません。人間は誰も自分の意志で生まれてきたわけではないのに。 (補足2) 刑務所は受刑者にタダ飯食わせているわけじゃない。刑罰なんだから国のために一年365日死ぬまで?無償で働かせればいい。(経済的価値はあまりないが)国の利益になるし、更生にもなる。一石二鳥です。 ただし、一日24時間働かせるわけにはいきませんよ。だって殺すための罰じゃなんだから。そんな中世の獄門島みたいな強制重労働なんて今時ありえません。 どんな悪人にも、食べ物は与えられるし、医療だって普通に受けられる。労働していない時間は考えさせればいいのです。座禅でも組んで自分とは何か、存在とは何かって自分自身に問うてね。(もしかしたら悟りに達するかもしれない) 時間はたっぷりあるんだから。それが更生につながり、二度と犯罪は犯さないようになる?のです。 再犯を犯す者はこのとき何も考えなかったから。考えられないのは余計な物品を所有しているからです。だいたい刑務所は受刑者に何でもかんでも与えすぎ。テレビ、雑誌なんかもある。巷の貧困家庭よりもずっと贅沢では?だから、原則受刑者には物(食べ物や着る物は別)は与えない。刑務所内では私物、共用物に限らず物の所有を認めない。物を所有したいと思うから犯罪を犯すのです。 刑務所は修業僧(修業もしないクソ坊主は別)を見習うべき。何一つ物を所有してないし、食事もいたって質素。それでいて満足。僧たちはこれを苦行だとは思っていない。物を所有する(物に執着する)方がよっぽど苦しい事を知っているのです。 (補足3) 死刑制度を完全に廃止したら、逆に「無期懲役」や「終身刑」の冤罪が増えるかもしれません。死刑ではないから人道的に許されるという安易な考え方が、再審請求を許容しない風潮を生み、冤罪の放置につながることがあるかもしれません。 (補足4) イエスキリストの教えとして、「人を裁くな」というものがあります。人間が人間を裁くことはできない。人間を裁けるものは神しかいないというわけです。なぜなら人間は不完全だから、裁判で絶対に間違いを犯さないという保証はない。しかし更生を目的とした教育刑なら、そこにあるのは慈悲の精神ですから、人間が為しえなければならないものなのです。応報刑のようにこの罪に対してはこの罰を与えるという判定は神に委ねればよいのです。 (補足5) この世界に、更生が不可能なほどの悪人はいない。なぜなら、(そんな凶悪な罪を犯す)悪人は最初から存在することができない。つまり生物学上の限界を超えるような悪人は生まれてくることができないからである。ただし、どんな小さな罪を犯した犯罪者でも、更生させるまでには大変な年月がかかる。
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