TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

全体と個人


 ■全体か個人か
 全体とは何か?たとえばあなたが日本人なら、日本人の中からノーベル賞受賞者が出たら喜ぶでしょう。ただし、その受賞とあなたは全く関わりがない。何一つ貢献していません。(ごく一部の人を除いて) わが国がロケット打ち上げに成功したら、あなたは喜ぶでしょうが、その成功にあなたはどれだけ貢献したのですか?同じ国の人間だからまったく関係がないとは言えないはず、と言ったら、世界のどこかの国のロケット開発も無関係とは言えませんね。あなたがロケットの部品の一部でも作っていたなら話は別ですが・・・(その部品は中国製かもしれない) 要するに自分と国を同一視しているだけです。本来は別のものを無理やり結びつけて関係を持たせているに過ぎないのです。あなたがあるサッカー選手のファンなら、その選手と自分を(勝手に)結び付けて、その選手が活躍したら自分も嬉しいのと同じです。
 世の中には一人ひとりの人間よりも全体が大事だという考え方の人がいます。単純に考えて、一人の人間の価値を1としたら、10人ならその10倍の10。100人になら100。1億人なら1億。単純に足していけばいいのです。だから数字的に言えば、個人一人を重んじるよりも、全体の合計数をいかに多くするかを問題にします。こういった考え方を功利主義といいます。
しかし一体”誰”にとって”数が増えること”の方がいいのでしょうか?それは「全体」にとってです。個人ではありません。しかも「全体」というものに主体はありません。ただ人間を単純に合計したものです。1億人いるなら、その身長を合計して約1億5千メートルにした。これが「全体」だと言っているのと同じです。
全体にとって良くても、あなたにとってはあなたがすべてです。全体のことなんか個人にとってはどうでもいいことなのです。主体性(自らの意志で行動する)を持っているものは、あくまであなたです。全体という存在はありません。
いや全体にも意志があると思い込んでいる人に質問です。「全体の意志」って何ですか?多数決ですか?
それはある時点の統計学上の傾向でしかないのです。そのようなものは年がら年中変化します。しかも世界中の人間から意見を聞くことなんか不可能です。アンケートはサンプルでしか集められません。サンプルのとり方によって数値なんかいくらでも変化します。そんなものを人類普遍の真理などと間違っても言えませんね。
要するに全体(国家、人類など)というものは意志を持たないのです。全体のため、国家のため、あるいは人類のためとか言う人がいますが、それって具体的には何のために、何をどうすることですか?どうなったらその効果があり、どうなったら効果なし。あるいはなぜそうすることが人間にとって必要なのですか?何のために??結局功利主義なんかまったく意味がないのです。
 皆さんにお聞きします。
「人類は今から100年後に滅亡する」、「国家はあと50年後に崩壊するだろう」、「あなたの命は余命5ヶ月」
もしそう言われた場合、この三つの中で、あなたにとって一番衝撃的なのはどれですか?
もちろん最後の「余命5ヶ月」ですよね?当り前です。これに比べたらその他の事なんかどうでもいいように思います。
「いや人類の滅亡、国家の崩壊も大きな問題だ」それはそのときになったら大変なことになるでしょうが、もしその前にあなたがすでに死んでいるのなら関係ないことです。あなたの子孫は大変かもしれないが。
人間は皆確実に死ぬのです。死んだ後のことを心配してもしょうがないでしょう。
あなたが医者だったとします。一人の患者を命に関わる病から救ったとします。しかしその患者もいずれ死ぬのです。あなたが自殺しようとしていた人間を止めたとします。あなたの説得によって自殺を思いとどまった。しかしそれでもその人間はいずれ(自殺じゃなくても)死ぬのです。今生まれた子供も遅かれ早かれいずれ死ぬ。人類の滅亡といっても一片に死ぬのか時間差をおいて死ぬのかその違いだけです。(補足1)
死ぬといっても時間差をおいて死ぬから、そのあいだに子供を作れる。だから個々の人間は死んでも人類という種は生き残ることができる。
その人類という種が生き残るということに何の意味があるのでしょうか?
何度も言っているとおり、それは自然淘汰の産物です。
あなたがもし「人類なんか滅んだっていいじゃないか」という話を聞いて、もし不快感を覚えるなら、それはあなたのDNAの中に「人類が滅んではいけない」という無意識の本能的性質が組み込まれている証拠です。その性質が組み込まれていたからこそ、あなたの先祖は生き残ってきたのです。あなたが今ここにいるのもそのためです。
しかしではなぜ人類が滅んではいけないのか?と問われたら「とにかく滅ぼしてはならない」という思い、感情があるだけで、このなぜ(という正当な理由)には答えられません。なぜなら、自然淘汰(生き残るために身に着けた性質)は意味がないからです。
あなたはただ意味もわからず「人類なんか滅んだっていいじゃいか」という話に対して、どうしてか抑えきれない嫌悪感を抱くのです。どこからともなくその感情が湧いてくるのです。これを「理由なき嫌悪感」と呼んでいます。
人類が生き残ろうが滅びようが、あるいは恐竜が生き残って人類が出現しなくても、また恐竜が滅んで人類が発生しても、宇宙にとってはどっちでもいいことなんです。
そうです。世界に方向性なんかないんです。この世界には意味も理由も目的もない。ただあるようにあるだけ、なるようになるだけ、それがこの世界の本質です。
逆に世界に目的がない、方向がない、意味がないからこそ、我々一人一人は何をしようが完全に自由なのです。したがって我々は誰であっても世界を思いのままに変えることができるのです。そんなことは無理でしょう?いいえ、必ずできます!あなたにその気があるならね。

■全体なんか関係なし
 国民を統一する必要はない。人間みな違うんだから、それを一つに束ねる必要なんかない。国家は家族ではありません。家族ですらみな(生き方も、考え方も)違うでしょう。
宗教だって統一なんか絶対不可能です。なぜなら拝んでいる神様がみな違うからです。人間の数だけ宗教があります。
一つに束ねて大きな事をする?大きな事って何?戦争ですか?他国を侵略して奪うこと?大勢でかかれば奪えるよ。ただし、奪ったものを大勢で分けないといけないからね。そのときまた喧嘩になるでしょう。今度は国内で争うことに。
前にも話したとおり、人々が協力し合って一つの事をする。その一つの事とは、助け合いか平和の実現しかないのです。それ以外はすべて戦争になります。

■個が大事、自分がすべて、あなたがすべて
 間違えないでください。全体は個人を合わせたものだから全体の方が大事?いいえ、あなたにとってはあなたが全てなはずです。個は全体の一部ではありません。ただし、あなたの権利を優遇するために、他の人間の権利を縮小することではありませんよ。(補足2) 個は自分一人ではない。他人、隣人を含めて、人間一人一人を指します。
つまり全体なんかどうでもいい。それは世界に意味も目的も方向性もないからです。個人が全体の犠牲になる必要はない。1億人のバカがいい気持ちになりたいがために、一人が犠牲になる。こんなバカバカしい話はありません。よく、国を守れとか主張する人たちがいますが、国の"何"を守るのですか?国家の体制(国というシステム)ですか?そのために国民一人ぐらいは犠牲になってもいいと?それとも守るべきは国民一人一人ですか?一人のホームレスも国民ですよ?そのために是非予算を投じてください。
全体のことなど、大多数の傾向など気にする必要はない。周りに合わせる必要、全体に合わせる必要もない。歩き方も、階段の上り方も、食事の仕方も、周りに合わせる必要なし。自分のやり方でやればいい。功利主義など無意味です。
みんなで決めたことは守らなければならない。もちろん自分もそれに賛成したら守るのは当然。しかし全員が賛成する中で一人だけ反対するのも自由。反対したならそれを守る義務はない。「大多数で決めたことには従わなければならない」というのは間違った考え方です。
つまりこうならなければならない理由はない。別に国家が崩壊してもいい。人類が滅亡してもいい。そうなってはいけない理由はありません。だからどんな犠牲も正当化されない。たとえばテロリストが立て籠もっている砦に攻撃を仕掛けようとする。その周辺には人々が暮らしている。ここで攻撃をすれば住民に被害が出るのは必至。それをわかっていながら攻撃した場合、その犠牲をやむを得ないとする理由がない。その悲劇の必然的存在理由がないのです。世界に目的がないからです。
もし今国家が崩壊したとします。だからって死ぬわけにはいかないでしょう。時代劇の侍のように「もはやこれまで!」と言って腹を切るのですか?全体は個によって成り立っています。国家がなくなっても人は生きてはいけます。ただ人がいなければ国家は成り立ちません。もちろん国家を故意に崩壊させる必要は全くありません。国家は必要です。何かと役に立ちます。否、無くては困ります。国家の崩壊は極力食い止めなければなりません。ただし、自分が死んでしまったら、元も子もありません。
あるいは突然あなた以外の人間がすべて死んだとします。世界に生き残っている人間はあなた一人。だからと言ってあなたも死ぬのですか?人間生きている限り、生きていくという選択しかありえないのです。
結局、政府や国家があなたに幸福を与えてくれるわけではないのです。幸福は自分で(自分の努力によって)掴むのです。国家がこの地獄のような現世を極楽浄土に変えてくれるのですか?生まれる前の状態にまで戻してくれるのですか?(これは仏教の「一切皆苦」、あるいは「生老病死」の教え。その話は次章で)
よくある話として、政府の役人や企業の幹部が何か不祥事を起こした時の言い訳、「組織のためにやりました」。個人のためにやった誤魔化しなら責められても、組織のためなら許されるのか?まったく子供の言い訳よりもひどい。組織なんかにしがみついているから精神的に弱くなる。組織なんか糞くらえだ!(青山的に見て、組織中にいる人間で尊敬に値する人は一人もいない。という感想です)
人間は誰しも(神様じゃないから)自分の幸福を第一に考えます。どんなに愛に満ちた人でも自分さえ幸福になれればそれで十分なのです。(利他行為も自己犠牲も自分の幸福のため。自分よりも人のためという考え方は、幸福を単なる(物質的)利益と考えることによる誤解)。あなたも自分が第一。あなたは他人なんかに合わせられますか?人間は決して多数決などには従えない。あくまで自分は自分であり、(たとえ自分一人であっても)他人や(大多数の)周りに合わせることができない。他人の価値を押しつけられるのは死んでもご免。それが人間です。個が全体の趣味に合わせなければならない理由はあれません。
例えば、あなた一人がAを選択し、他のすべての人類がBを選択したからと言って、あなたが選択し直さなければならない義務はない。そのままAを選択し続けるのは、あなたの完全な自由。そのためにあなたが周りからどんな反発を招こうと、大勢に従う理由はないのです。(補足3)
社会では多数決が優先される。もし多数決で負けたなら、それに従わざるを得ない。なんて言うのは体制側の勝手な論理です。「みんなで決めたことは、みんなで従う」。もちろん自分も賛成したならそれに従わなければならない。しかし、みんなで決める=多数決ではない。もし、ある政策の是非を問うために1億人の有権者による多数決を行った。結果51パーセントが賛成。残りの49パーセントが反対。よって政策は可決されたとします。しかしその政策は反対した49パーセントの人間にとっては明らかに不利益。それも死活に関わるもの。つまり4900万人の人間が殺されるに等しいとしたら、例え多数決でも従えない。最後の一人になっても反対するのは当然のことです。そもそもこの政策そのものが不備です。要するに、例え一人でも不利になるような政策は、そのものが無効です。
それでもあなたが「全体の方が大事」だと思うのは自由です。それはあなたの好みの問題ですから。自分はミカンよりもリンゴが好きだと言っているのと同じです。そんなもの(個人よりも全体の方が大事だとする考え)を人類普遍の真理などとは言えませんね。もし言えるとしたら、ではなぜ「個人よりも全体の方が大事」なのかを、単なる好みではなく、明確な理由として提示してほしい。明確な理由などあるわけがありません。なぜなら、世界には目的がないから、こうならなければならない理由なんかないし、こうであってはいけない理由もない。ただあなたがこうしたい、ああしたいという個人的な希望を言っているに過ぎないのです。もしも世界に方向性があるなら、その方向とは何か?その必然的理由を説明してほしいと思います。
このたった一つの誤った思想、つまり世界には理由がある。目的がある。方向性がある。意味があるいう考え方。何かのために何かがあるという考え。その何かのためなら犠牲も正当化されるという思想。そのためなら何をしても許される。たとえ殺してもいい。という勝手な思い込み。この場合仕方がない。全体のためなら多少の犠牲はやむを得ない。こっちのためならこっちはどうでもいい。それはプライオリティーが低いから。(この世にプライオリティーなどありません。それは個人の趣味の問題です。青山に言わせれば、国家や人類なんかもどうでもいい) これらの考え方は、功利主義の思想を背景に、単に自分を正当化したい、納得させたいというだけの話です。それが、これまでいかにたくさんの犠牲を出してきたか。なぜこの思想が悪いのでしょうか?それはナチスドイツの思想、ヒトラー、親衛隊の思想と本質的には同じだからです。
すべての間違いはここにあったのです。そこにあるのはただ、この世界に理由があってほしい。この世界に意味があってほしいという願望があるだけです。願望があるからと言って世界がそうなっていなければならない理由はないでしょう。要するにすべては本能から来る欲望があるだけです。あなたが食べたい、飲みたいといっているのと同じです。
なぜそんな欲望があなたに備わっているのでしょうか?
答えは、自然淘汰です。そういう欲望があったからこそ人間という種が存続してきたのです。しかし人類という種が存続しなければならない必然的理由は宇宙にはありません。すなわち個人よりも全体の方が大事だとする理由なんかどこにもないんです。あるのはただ自然淘汰に培われた欲望だけ。そしてその自然淘汰自身に意味がない。生き残ろうが滅びようが関係ありません。そこには滅びたくはないという理由なき願望があるだけです。(補足4)
人間はあくまで自分の意志に従い、本能に従うのではない。なぜなら本能は外部(客体)のもの、本来の自分ではないからです。(この話は次章で)
ここで言わんとすることは、全体、社会、国家、世界、あるいは人類、それよりも主体としての存在である自分が大切であるということです。なぜなら自分がいなければ何も始まりませんから。何もできませんから。幸福になりたいのはあくまで自分。あなたにとってはあなたがすべてなのです。次の章では、最後の課題として自分自身が、あなた自身が、どうすればその幸福になれるのか?その前に本当の幸福とは何か?それを追求していきます。
全体よりも個人が大事。一人ひとりの人間の命が大切なのです。あなたの命は何ものにも代えがたいほど尊いのです。個が全体の犠牲にならなければならない理由はないのです。全体が大事だとする考え方は間違っています。それはあくまで個人の趣味の問題。主体は一人ひとりの人間にあります。
ただし、間違っても誤解してほしくないこと。個が大事と言っても、個の”利益”が大事という訳ではありません。個人の利益、要するに金儲け、そんなことはどうでもいいのです。

(補足1) イエスは奇跡を起こされた。イエスが呼びかけると死んだはずのラザロが墓から出てきたのである。人々は驚嘆した。(「ヨハネによる福音書」) その後ラザロはどうなったのでしょうか?ラザロは死んだのです。もしそうでなければ今もこの地球で生きているはずです。ラザロはイエスによって、少し寿命を延ばしてもらっただけです。寿命がわずかに長くなったことに意味などあるでしょうか?人はいずれ死ぬのです。

(補足2) 個人よりも全体、社会や国家、あるいは人類を重要視するという考え方がなぜ生まれるのか?それは我々が動物(哺乳類)だからです。個よりも全体を重んじ本能的性質があったからこそ、人類は生き残ってきたに過ぎない。つまり自然淘汰の産物です。全体に対する自己犠牲と言うのはこんな浅ましい?動物的本能から生まれたものだったのです。全体が生き残って何の意味があるんですか?個々は例外なく死ぬのに。
このように全体を重んじる考え方を功利主義と言います。国王や国のカリスマ的指導者の命を(一般庶民よりも)重んじることは、これらの者に何か危機的状況(死亡等)があったら、多数の国民に(生活、その他精神面でも)多大な影響を及ぼすからです。これも結局は功利主義的な考え方なのです。つまり最大多数の人間(国民)を生き残らせることが、種(国家)の存続として有利だからです。
功利主義の極みは、国家が一つの企業と化すこと。すなわち共産主義です。国民に自由はなく、結局国家の奴隷です。

(補足3) 大衆一人一人は、大勢に逆らっても自分の主張を押し通す者は少ない。何事も周りに同調する。自由だと言われながら、「私はこう思う」と他に賛同しない人間は、「では勝手にどうぞ」と、周りから突き放される(見放される)のを、何よりも恐れる。

(補足4) 国家を憂えるのも、人類の存続を願うのも、動物としての本能から来る食べたい飲みたいという欲と同じ。それは生存のため、すなわち自然淘汰から来る欲望に過ぎないのです。なぜなら、どうして人類が存続しなければならないのかと問われた時に、答えられないのがその理由です。だからといってそういう欲望を抱いてはいけないとは言えません。

結論:全体のために”個”があるのではない。全体を重んじる性質は生物学的な要因。すなわち自然淘汰によって培われた種が生き残るための本能です。我々は犬や猫ではありません。個人の主体を確立してこそ人間です。
つまり、一人の人間にとって、社会の安定よりも、国家の維持よりも、世界の平和よりも、人類の存続よりも、もっともっと大切なものがあります。
それが何であるのか?すべての答えは次章にあります。

ご意見・ご質問