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宗教の本質


 前回のコラムを読まれた方は、青山がすべての宗教を否定しているように感じられたかもしれませんが、そうではありませんよ。
ごく健全なものであれば問題はないと思います。実際そういう宗教はたくさんあります。たとえば、町の教会など、気が向いたときに自由に出向いて自分なりに祈りを捧げる。お布施も気にしなくていい。お菓子代ぐらいなら出してもいいのでは?そうして同じ信仰を持つ仲間や家族とのふれあいを通して、日常の暮らしの中に一種の癒しが得られれば、それでいいのではないでしょうか?(全うな宗教は閉鎖的な集団を作らない。秘密などなく何事もオープン)
それも個人の好き好きです。別にキリスト教じゃなくてもお寺や神社に出向いてその癒しが得られるなら、自分に合ったものを自分なりに日常生活の中に取り入れて、ささやかに信仰を続けていけばいいと思います。そして人には強制しない。
ただし、科学を歪める宗教、宗教のくせに科学を偽るもの(科学を装い科学的だと人々をだますもの。最初からうちの宗教は科学的ではないと言っている方がまだ許せる)は、絶対に許さない!命に代えても粉砕してみせる!!なぜなら、それは人間から幸福を奪うものだからです。  青山個人としてはまったくの無宗教ですが、高校が仏教系だったこともあり、仏教(特に伝統仏教の歴史や思想)に大いに関心があります。宗派に関係なく全国の有名なお寺は訪れています。経典をはじめとする仏教の古典も一応読みました。(もちろん日本語訳) 特に開祖である釈迦の「一切皆苦」等の思想には共感しております。また仏教の話は後ほど。
 またこう言うと「青山は、新興宗教よりも既成宗教の方が価値が高い。新興宗教はことごとく駄目だと決め付けている」と思われるかもしれません。
正直に言うと青山個人は、どちらかと言えば新興宗教より既成宗教の方に興味があります。新興宗教の中で特別興味を引くものは一つもありません。ただし、これは青山の個人の趣味(好き嫌い)の問題です。新興宗教が害だと決め付けているわけではありません。
既成宗教が廃れ新興宗教がもてはやされる今日の状況。その理由はわかっています。悪いですが既成宗教は伝統にあぐらをかき、儀礼宗教、形式宗教、権威宗教、そしてビジネス宗教になり下がり、本来あるべき人々の救済を忘れているのではないかと思います。
決してそんなことはないと反論するかもしれません。あなたの宗教は確かにそうではないと思います。ただし他の宗教は堕落している。はっきり言って世の中に必要ない。だから人々もそんな宗教にはそっぽを向くのです。特に切羽詰った状況にあり、今まさに救いを求めている人々には何の役にも立たない。とくに若者の切実な悩みや真摯な疑問に答えうることが出来ない。堕落が原因で。これが若者ほど新興宗教にのめり込んでいく原因かと思われます。その若者たちは、彼らを狙うカルト宗教の格好の餌食となり、やがて若者たちの精神を蝕み、ひいてはオウム事件のような悲劇を生むのです。犯人は明らかに既成宗教の中で、ただ己の保身だけに宗教の体制維持に精を出す者どもです。もしその既成宗教がこんな状況なら、いくら長い伝統があるといっても、早々に消滅してほしいと思いますね。

■宗教の三つの要素
以下に宗教が持つ三つの要素についてまとめてみました。何が宗教の本質なのでしょうか?本当に大事なものとは何か?
1.権威
 人間の主体性を奪うもの。科学の自由な研究を妨げるもの。人間の幸福を規制するもの。力によって権力を得て、その権力を使って人々から自由を奪うもの。それが宗教的権威です。
もちろん自分一人がそれを認めるのは自由です。ただしその権威を人に押し付けたとたん、その宗教がいかに長い歴史を有していても、あるいは世界的規模に広まっていても、またどれだけたくさんの信者を抱えていたとしても、それは直ちにぶっ潰さなければなりません。
個人の願望として、自分が信仰している宗教の権威を高めたいというのはあるかもしれません。権威というものは誰もがそれに崇敬の念を抱くことによって認められるのです。そのために他人にもそれを信じるように働きかける。権威を認めさせたい人間としては、相手がそれを拒否する。あるいは認めない。信じないことがどうしても許せないのです。それは自分たちの宗教(神)を冒涜されているように思える。ただし、それが許せない背景には、自分自身を他人に認めさせたいという甘えた心理が働いているのです。
2.儀礼
 宗教には儀式・儀礼はつきものです。その科学的根拠はないかもしれません。ただしあくまでやりたい人の自由意志により、やりたければやる。したがって時代と共にやり手が(一種の流行によって)増えたり減ったりするかもしれません。場合によってはやり手が一人もいなくなりその宗教は廃れるかもしれません。しかしそれは仕方がないことなのです。なぜならその宗教をするかしないかは本人の自由ですから。
3.思想・哲学
 宗教の中には、長い歴史の中で人間にとって貴重な教えや思想が培われてきたものがあります。特に歴史の長いもの、(広範囲)世界的に広がったもの、奥の深い人類普遍の思想・哲学こそは全人類にとっての最高の宝といえましょう。

■一種の宗教
世の中には宗教そのものではないが、宗教と全く同じ性質のものが多々存在します。人々はその信者になっていることに気付かない。例えば、政治的プロパガンダ。商業主義による大衆に心理効果を与える(思わず買いたくなる)CM。カリスマ的国王や政治的指導者への(盲目的)服従。国民的アイドルへの熱狂的支持。ナチスドイツによる国民への扇動。北朝鮮も戦前の日本も。そして社員を働かせるための会社側による洗脳「売り上げ頑張るぞ!!」。これらは皆一種の宗教です。このようなものはあなたの身近にもたくさんあると思います。気をつけて騙されないようにしましょう。共通点は、現実から目をそらせる。真実を見せないようにする。だから宗教は科学とは正反対なのです。科学はあくまで現実を直視すること。隠すようなことはあってはならない。(補足1)

■宗教のあり方
以下に宗教の本来のあるべき姿についてまとめてみました。
・宗教は個人の自由 やるのも自由、やらないのも自由、ご利益がなければ止めるのもありです。(補足2)
誰が何を信じるのも、あるいは信じないのも自由。(たとえ家族であっても)他人から「信じるな」と言われる筋合いはない。「ヒトラー」を神だと信じるのも自由。「ヒトラー」が神ではないということを証明することは不可能です。あるいは”パンダ”を神とあがめる”パンダ教”なるものに帰依しても。すべては個人の自由です。ただ他人に押し付けなければいいのです。
ただし、間違っても勘違いしないでほしいことは、例えばお札を買ったら試験に合格した。神様に祈ったら病気が治った。その宗教に入信したら家庭が円満になった。お札を買うこと、神様に祈ること、宗教に入信することと、試験に合格、病気が治る、家庭円満との間に、因果関係(それが原因でそれが起こった)は全くありません。そんな単純な嘘に騙され、また次のご利益を期待するために金を宗教に貢ぐ。何と馬鹿馬鹿しいことか。それはまさに一度当たった賭けが、再び当てたいがためにギャンブルにのめり込むのと同じ心理。この因果関係があるのかないのか、よくよく考えてみてください。晴れ男や雨男の話と同じように人間が天候を左右することはありません。すべては偶然です。科学的に考えればわかることです。
・宗教に客観的な優劣の差はない。みな平等。
・無神論、無宗教も自由。
 日本人は無宗教が多いですが、よく海外に行った際、入国カードなどに宗教を書く欄があります。そのとき無宗教では相手に信用されないという懸念を持っている人がいるようです。本当は無宗教なのにわざわざ○○教と書く人がいますが、嘘を書くほうがよっぽど信用されませんよ。無宗教なら胸を張って無宗教だと主張しましょう。無神論、無宗教は決して異常ではなく、少しも恥ずかしいことではないはず。
・信教の自由があるなしに関わらず、他人を強制的に勧誘しないこと。たとえ家族に対しても、相手の意志を尊重する。ただし、人に布教するのも自由です。誰もそれを規制できない。ただ相手から「ノー」と言われたらそれ以上勧誘してはならない。(補足3)
・自由な雰囲気。
 教祖が雲の上の人ではない。友達のような関係。自由な雰囲気、組織が窮屈ではない。金を要求しない。参加も自由、やめるのも、いつでも自由。組織からの指示なし。勧誘の指示もなし。
・政治的目的を持たない。
 元来、政治と宗教は目的が異なるものです。
・宗教を統一しようなんていうことは絶対に不可能。統一する必要もない。宗教はバラバラでいい。みなそれぞれ違っていてもいいはず。宗教の本質、根本は一つであるというのは誤り。人間の数だけ宗教はある。(補足4)

■本当の宗教とは
 政府の仕事は普く広く人々に対して福祉事業を展開すること。生活が困窮している、あるいは悲惨な境遇に見舞われた者を救うために。ただし、あらゆる行政機関はたった一人の人間に多大な手間と時間と費用をかけている余裕がない。その人間の悲惨さが度を超すと、行政と言えども見捨てざるを得ないのです。
同じように不治の病に侵された患者は、最後には医者から匙を投げられる。それはその医者が無慈悲であるからではありません。医者がどんなに手を尽くしても治療不可能なほど重い病だからです。もちろん医者の中には最後の最後まで手を尽くす者もいるでしょう。しかし医者も最後には無理だとあきらめざるを得ない。
見放された人間にとって、匙を投げられた人間にとって最後の救いは宗教です。宗教は見放された者、見捨てられた者こそ救う。ただし大きな教団となってしまった既成宗教は見放すかもしれない。なぜならたった一人に構っていられないからです。
それに対して新興宗教の中にはこれを願ってもないチャンスと捉える。それは決して利害のためではない。人を救うことが自分たちの使命だと考えているからです。すべてから見放された者は藁にもすがる思いで飛びつく。そして地獄で仏に出会うのです。
もしかしたら教団は見放された者を救うことによって、それを教団拡大のいい宣伝材料にしようとするのかもしれない。
しかしそれでも我々はこの新興宗教を非難できるでしょうか?周りから見放された者に救いの手すら差し伸べなかった我々が、救われがたい者を救った唯一の教団に対して、偉そうな口を一言でも叩けるでしょうか?
結果的に誰からも見捨てられた者を最後の最後に救った唯一のものがこの新興宗教なのです。
青山はもちろん宗教など信心していません。いかなる宗教団体にも属していません。しかし青山の気持ちとしては人々を救いたい。この新興宗教と同じように見放された者ほど救いたいのです。青山は決して見放さない。どれだけ不幸な人間をも見捨てない。しかも宗教に因らずに。
ただし、そのためには行政によって救われた者には構っていられない。逆に自力で救われる者は相手にしない。たった一人の苦しむ者、限界に達している者に対してのみ語る。いかなる者にも働きかける。あきらめることなどない。青山は確信しているのです。この世において、何によっても救われないほどのどん底の(不幸な)状態などないと。いかに悲惨な状況でも必ず救ってみせると。気持ちだけでもそう思いたいのです。
この話は第6章に続きます。

(補足1) 他にも、宗教法人を名乗らない団体として、自己啓発セミナーやオカルト研究グループ、あるいは近年注目されている新興政党、人気商品販売の企業等、実は皆(一種の)宗教なのです。
特徴は皆非科学的。若者を中心に支持を得ている。大衆の心理を利用して知名度を上げている等々。今世間で熱狂的に人気がある(新興)政治家、斬新な経営で売り上げを伸ばしている(若手)実業家、テレビによく出るカリスマ的コメンテーター、社会問題まで発言するテレビタレントなど。これらもいわばある種宗教の教祖です。騙されないようにしましょう。

(補足2) これを「ご利益宗教」と呼んでいます。つまりご利益を期待し信仰する。ご利益がなければ即止める。たまたまご利益があったら、その時は喜べばいい。次のご利益を期待しないならば、止めるのも自由。止めたら罰が当たる?そんなものはすべて嘘。罰なんかありません。

(補足3) その宗教を信心していく際、自分(たち)だけでその信仰を留めておくならば(他に広めなければ)、何も問題はない。宗教は自由ですから。しかしもし公に布教活動を行えば、世間から非難を受けても仕方がないと心得ましょう。周りは遠慮なく批判するでしょう。それは信仰を持つ者にとっては、自分たちの宗教を冒涜されているようにも思える。しかしそれは当然のことです。批判されたくなければ、第三者に布教することなど止めた方がいい。
余談ですが、青山だって、この「科学概論」をインターネット上に公開している以上は、どんな批判も受ける覚悟です。

(補足4) またこれを「一人宗教法人」と呼んでいます。ご利益があるなしに関わらず、自分だけの宗教、自分一人の神様を信じている。

基本的に今世界中の人々が信じている宗教は、この「ご利益宗教」か「一人宗教法人」なのです。

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