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自己と世界


 いよいよこの「科学概論」も最終章である第6章に入ります。ここにこれまでの課題、我々人間は何のために生きているのか?
科学によってなぜ幸福が得られるのか?本当の幸福とは何か?人間はどう生きるべきか?その答え(宗教的な回答ではありません)のすべてがここにあります。例によってわかりにくい点などありましたら、遠慮なくお尋ねください。
 
 まずはこれまでのまとめ。図72「自己と世界の在り方」を参照ください。
・ポイントその1
まず自分(あなたが)が存在していること。当り前だと思うかもしれませんが、確たる根拠はどこにもありません。自分など存在しないとも言えます。その存在しないということを認識しているのは誰でしょう。それこそが自分です。デカルト(注)の「われ思う。ゆえにわれあり」です。
ただし自分が存在していることは本当に確かでしょうか?「われがある」という根拠は、「われ思う」が前提となっていますが、「われ思う」が確かに有るかどうか怪しいのです。ただし自分が存在しないとすれば何も始まりませんから、あくまで仮定ですが、自分が存在していることを大前提として話を進めましょう。
(注) 1596〜1650 フランスの哲学者、科学者

・ポイントその2
自分はどういう存在か?それは認識の主体です。「あっ、何々がある」という認識があるなら、そう認識している者とは誰でしよう。自分以外に考えられませんね。そして自分は何を認識したのでしょうか?それは自分の周りに存在するもの。それをひっくるめて世界と呼びます。つまり認識があったら、その認識をしている(見ている)存在(認識の主体)が自分であり、認識されている(見える)ものが世界(認識の客体)です。
ここで注意してほしいこと、自分で自分は決して認識されない(自分で自分を見ることができない)ということです。なぜなら定義により自分とは認識主体です。認識されるもの(見えるもの)は自分ではなく世界です。つまり鏡に写っている(あなたの)顔はあなたそのものではありません。それは世界(の一部)です。自分とは何か?それは世界を認識する存在。(「自己とは、世界とは」参照)(補足1)
自分が認識しているものはすべて世界です。自分ではありません。もし認識されるもの(見えるもの)に自分と自分以外の二種類があったらどうでしょうか?境界線はどうにでも引けます。そのように引いてはならない根拠はないのです。つまり境界など意味がない。従って見えるものはみな同じ。自分と世界の区別はつきません。なぜなら認識される対象はすべてつながっている(関係している)からです。(補足2) 自分と他者を分ける境界線など引きようがない。(他者に混じって)自分が見えるというのは誤りです。見えるものを指して、「これは私、それはあなた」と分けること自体が無意味なのです。 つまり世界はすべて自分ではない。見えるもの(観察されるもの)はすべて自分以外。自分のからだも、この手も、この足も、そしてこの顔も、(自分が観察できるということは)自分ではなく世界の一部なのです。(補足3) 即ち、見えるもので自分が所有するものは何一つない。(補足4) 自分に属するものは何一つない。自分は自分以外の何者でもない。これを仏教では「非我」(我にあらず)と言います。
実はこの自分とは何かを誤解して認識していること、すなわち自分とは何かを正しく理解していないことが、自分が幸福を得ることができない原因となっているのです。従って、自分で自分を変えることはできない。自分という主体が自分自身を変えること自体矛盾です。自分が変えることができるのは世界の方です。自分が世界に働きかけて、自分の望む形に変える。それが自分にとっての幸福な状態と言えるのです。

・ポイントその3
世界には方向性も、目的も、意味もない。ただ在るようにあるだけ。何かそこに意図があるわけではないのです。否、もしかしたら世界の根底に意図や目的があるのかもしれません。神の意志が働いているのかもしれません。ただしもしそのような目的があったとしても、その目的って何でしょう?人間には判りようがありませんね。判らないならそれは無いといっているのと同じことです。
世界に目的などない、進むべき方向などないのです。だからこの世で起こっていることは何事も無意味なのです。そのようにならなければならない必然的理由はない。だからこの世で起こっていることすべては意味のない単なる偶然なのです。
たとえばこの宇宙に人類が出現しなればならない理由はない。恐竜が滅んで人類が出現してもいいし、逆に恐竜がそのまま生き残って、人類など出現しなくてもいい。恐竜が滅んだのは偶々なんです。あなたがこの世に生まれてこなければならない理由はない。生まれてきてもいいし、生まれてこなくてもいい。宇宙にとってはどっちでもいいのです。あなたが生まれたのは単なる偶然なのです。(「自己とは、世界とは」参照) (補足5)
否、この宇宙には自然法則が存在する。その自然法則に従って必然的に事象は起きている。
確かに自然法則は存在します。もし自然法則が存在しなければ我々は世界を認識することができないでしょう。ただし、神様ならいざ知らず、我々人間は未来を100パーセント確実に予測することはできない。恐らくそうなるだろうが、そうならない場合もある。全ては偶然である。99パーセントは確実にそうなる。つまり必然であったとしても、残りの1パーセントはどちらとも確定できないとなれば、やはり偶然です。(補足6)
ただし世界に目的がないからこそ、我々は完全に自由なのです。宇宙に目的があれば我々はそれに従う以外に何もできません。逆に目的がない。あったとしてもそれを(神様ではないため)認識できない。ならば、それは我々にとって(完全な)自由意志があることを示しているのです。何が善であり何が悪であるか?何が幸福で何が不幸なのか?それは我々が自由に決定すればいい。決定権は裁判所にあるのではなく、あなたにあるのです。
確かに我々は法律に縛られているし、自然法則を超えられません。しかしその法律に従うか従わないかはあなた次第です。自然法則は変えられないが、その自然にどう作用を施すかは、あなたが自由に選択していいのです。(補足7)

・ポイントその4
世界に意味や目的、存在理由や存在意義はありません。ただし、我々人間が世界をまったく捉えられないものであるかと言うと、それは違います。もしまったく捉えられないのなら、現実や宇宙は我々にとって存在しないに等しい。その現実を捉える手段こそが科学です。この世界を知るために有効な唯一の手段、それが科学です。
科学とは、この捉えうることが可能な現実について、普遍性、すなわち誰にとっても共通する、時間場所に関わりなく成り立つ自然法則が存在しそれを我々は捉えることができるという「普遍性の肯定」、および科学では絶対に正しいとは言いきれないという「絶体性の否定」。この二つの原理によって成り立っているのです。これを科学の基本原理と名付けましょう。(「科学の基本原理」参照)
そして科学の重要なポイントとして、科学と宗教は全く異なるものだということです。(「科学と宗教の違い」参照)

・ポイントその5
自分に対する他者。つまり隣人と自分との関係とは?独我論的には、今自分が相対しているのは、一人の隣人です。世界には自分とその隣人の二人しか存在しない。もちろん他にも存在しています。しかし今その人(隣人以外の他者)と自分は何も関係がありません。関係がないと言うことは存在していないのと同じです。(「独我論とは」参照)
我々は直接隣人を知ることはできない。隣人は個物(観測されたもの)を通して知る。そして個物の在り方が隣人の在り方であると知る。自己は個物を通して隣人に働きかける。どう働きかければ、隣人にふさわしいか?そのさい有効なものが科学です。
人間は意味なく、ただ目的もなく外界(世界)に働きかけを行っているのではありません。ある目的(それは自分の幸福実現)のために、有効な手段を用いて働きかけを行う。そしてその効果(好ましい結果)が表れたか、外界を観測して期待通りの結果が得られたかを検証する。その営みこそが科学です。つまり科学を用いてこそ、人間は幸福を得るのです。(「幸福の実現方法」参照)

・ポイントその6
最初に結論を言いましょう。隣人に働きかける方法は二通りしかない。一つは(相手を)支配すること。もう一つは(相手に対して)慈悲を施すこと。後で詳しく説明しますが、自分は隣人を自由自在に支配することはできません。なぜなら隣人は他人であり自分ではないから。(補足9) 自分が相手に対して、こうしてほしい、ああなってほしいと願っても、そうなるとは限らない。相手の人間に「自分を好きになってほしい」と思っていろいろ働きかけても(相手に好かれるように振る舞っても)、それができるとは限らない。(補足10) 相手を自分の思い通りに動かすためにはどうしたらいいかという問題です。人を好ましく動かすためには、個物が従う自然法則(従うというよりも、自然法則そのものが個物の本質)に自分も従わなければならない。自然法則は自分では変えることはできません。従って隣人を支配するためには、個物が持つ自然法則に従うしかないのです。それはつまり、隣人を思い通りに支配するつもりが、世界の法則に従うしかない、つまり世界の(個物の)奴隷になるしかないのです。それに対して自分という能動主体を維持したまま隣人に接する唯一の方法があります。それが慈悲です。この慈悲こそがこの第6章のメインテーマです。それについてはまたご説明致します。(補足11)

(補足1) 自分が周りに(世界に)何らかの作用を行ったとして、その結果世界が変化したならば、それを自分は認識できるはずです。その原因を探っていけば、自分という存在に突き当たる。つまり自分の存在を確認できると思われます。しかしあくまで認識できるのは世界なんです。では、自分はどこにいるのでしょう?自分では認識できません。では、自分は存在しないのか?なぜ、存在しない者が世界に変化を与えられるのか?それは最終的に世界のすべてを把握することが不可能だということです。すなわち「絶対性の否定」です。(「科学の基本原則」参照) つまりどこまで行っても自分に行きつかない。あくまで自分は謎の(特定できない)存在として残るのです。それは「量子力学」とも矛盾しません。即ち、現在の宇宙における物理的状態を完全に決定することはできない。

(補足2) 我々が見ること(認識すること)ができる世界には様々な存在がありますね。花でも木でも、山や川、電車や飛行機、ペットの犬、そしてあなたの家族であるAさん。みな世界の一部ですが、みなそれぞれ関係しています。あるいは影響を及ぼし合っている。切り離すことができない。切り離すことができたとしても、それはあくまで仮です。この線で切り離さなければならないという基準はない。そのように境界線を引いてはならない理由はない。みな繋がっているとしたら本来は一つなのです。それを便宜上分けているだけです。世界は一つです。その世界の様々な存在が関係しあっている様を仏教用語で「縁起」と呼びます。これについてはまた後程。

(補足3) 自分の手と他人の手は明確に区別できる。自分の手は叩いたら痛い。他人の手を叩いても痛くない。従って、見えるものでも自他の区別はつく。というのは誤りです。視覚で捉えるのも、最終的に触覚で捉えるのも本質は同じです。触覚も含めて捉えられるものは自己ではなく世界なのです。
自分の脳すら自分ではない。記憶力も思考力も自分ではない。自分の頭がいいからと言って誇れるものではない。反対に頭が悪いからと言って卑下する必要はない。こんな低級の頭脳でも立派に使いこなしている。あるいは自分は障害を持っている。しかし、そんな身体でも立派に生きている。人のためになっている。それこそ誇りに思うべきです。

(補足4) 従って、これは俺のもの、それは君のもの、という所有権という考え方自体がおかしいのです。すべては誰のものでもない。ということです。

(補足5) 世界には方向性がないということは、世界がどうなってもいいということです。子孫が断絶しても、国家が崩壊しても、あるいは人類が滅亡しても、そんなことはどうでもいい。「どうでもよくない。人類が滅亡したら大変だ!」というあなたに質問です。なぜ、人類が滅んではいけないのですか?人類が滅びようが滅ぶまいがあなたは間違いなく死ぬのです。あなたが死んだ後のことまでなぜ気にするのですか?その理由をあなたは答えられないと思います。滅ぼしたくないから滅んではいけないとしか言えないでしょう。つまりそれは動物としての本能だからです。食べたい。寝たいというのと同じです。そこに理由はありません。食べたいから食べるとしか答えようがありません。犬や猫と同じ感覚です。それはこれまでに何度も説明してきた通り(進化論の)自然淘汰から来る欲求に過ぎないのです。もしあなただけではなく人類の大半の者が「人類なんか滅んだっていいじゃないか」と思えば、人類は今日まで生き残ってはこれなかったでしょう。そこには人類は生き残らなければならない。と言う理由なき論理(理由がないから論理とは言えない)しかないのです。
人間には、人類の生き残りよりも、あるいは社会の秩序よりも、国家の存続よりも、あるいは世界の平和よりも、大切なものがある。それがこの6章のテーマです。

(補足6) 本当はすべて必然かもしれません。神のような全能な存在にとって世界は完全に必然です。しかし全能ではない我々不完全な存在にとっては、世界の事象はすべて偶然なのです。
自然法則に基づき厳密に計算したとしても、未来を100パーセント予測するとこは不可能です。なぜなら、この自然界は原理的に不確定を免れ得ないからです。(「不確定性原理」参照)
この偶然の問題については、新たに別コラム「偶然と必然」を設けましたので、ご参照願います。

(補足7) もしかしたら、我々は自由に見えて何者(神)かに支配されているのかもしれない。愚かな我々は自由を手に入れたと思い込んでいるだけで、実は支配されているのかもしれない。ただしそれを確かめる手段は何人にもない。つまり神の存在を証明することは誰にもできません。我々にとって神などいない。と言っているのと同じことです。(補足8)

(補足8) 図72では、最初に「認識」があるということです。認識とはそれがそれであるという確認事項。認識があるということは、その認識の”主体”である自分が存在することを意味します。すなわち認識がなければ存在もない。そして認識にはその対象(客体)が存在しなければなりません。それが世界です。世界は自分とは独立した存在で、自分の思い通りにはできません。(他人が自分の意志に従わないことは多々ある) つまり自分にとって世界が思い通りにならないからこそ、逆に世界が認識できるわけです。もし自分の思い通りになるなら、世界と自分が同一の存在ということになり、自分は世界を認識できないことになります。(自分にとって世界など存在しないことに等しい)
もしも神が存在して、神にとって世界(我々人間を含めた存在)が完全に思い通りになるなら、神にとって我々は存在しないことになる。即ちもし我々が存在するなら、逆に神は存在しない。つまり我々にとって、客観的実在としての神は存在しない。それは間違いなく確実と言えます。

(補足9) これは自分のものだ。これは自分の身体だ。というあたかも自分の所有物だという考えは単なる思い込みに過ぎないのです。もしそれが自分自身なら、あるいは自分が完全に自由にできるものなら、念じるだけで、否、そうしたいと思うだけで、あなたの身長を10センチ伸ばしてみてください。あるいは、あなたの目の前の赤い花を、青に変えてみてくれませんか?そんなことはできませんよね。赤い花に青いペンキをかければ青くなりますが、あなたはそういう手間をかけないと(色を変えるという自然原理に従わない限り)色を変えることができないのです。それを自分の完全な自由だと言えますか?もし完全に自由自在と言うなら、自然法則そのものを変えてみてください。神様ではない限りそれは不可能です。あなたがどれだけ力を持っていようとも、世界を支配することなんて不可能でしょう。

(補足10) 自分は他人とはあくまでも別人です。この青山とあなたは他人です。青山はあなたにはなれません。だからあなたの心の中は分かりません。誰であっても他人の(真実の)気持ちなんかわからないのです。たとえ親子や夫婦の間でも。「彼(または彼女)は嬉しいと思っている。喜んでくれている。」と言うのはあなたの勝手な解釈なのです。あなたが相手から好かれたいがために、相手に向かって「わたしはあなたが好きです」と言ってください、と頼んだとします。その一言さえ言えば、お金(100万円)を出す。と言えば相手はやってくれるかもしれませんね。気持ちなんか込めなくてもいい。ただ無表情的に「ワタシハアナタガスキデス」と12語言えばいいのですから。そしてあなたはそれ以上のことを求めない。でも、それであなたは満足ですか?

(補足11) 慈悲とは何か?それは読んで字のごとし、慈しみと悲しみと言う意味です。よくわかりませんが仏教用語です。キリスト教の「愛」と似ていますが厳密には異なります。簡単に言えば、相手、他人、つまり隣人に、幸せになってもらうための施しを指します。隣人とは誰のことかも含めて、後々お話しします。

最後に
 「プラトンの洞窟の譬え」という話をご存知ですか?古代ギリシャの哲学者であるプラトンが考えた架空のお話です。囚人が洞窟の中で鎖につながれていて、壁を見ることしかできない状態のまま生きています。その壁に人間の影が映る。するとその影を影だとわからず”実体”と解釈してしまう。しかしその壁に映っていたものは、木で作られいる人間の形をした単なる像に過ぎなかった。人間は誰しも、目の前に見ているものを真実と認識してしまう。それを世界の実体と解釈してしまうというもの。そしていつの日か洞窟から出たとき、それが誤りだったと知る。
この囚人が例え一生洞窟から出られなかったとしても遅かれ早かれ真実(その影が偽物)を知るのです。なぜなら世界は理解できるものだから。普遍性を持つからです。そうでなければ科学をする意味はありません。ただし、科学には完ぺきなもの、絶対に間違いがないものなどありえない。常に間違いに気づいて修正を加える。その営みは永遠に続くのです。従って現時点では、今見えているものが全てです。それは後々修正されるとしても、今の認識が現時点では正しいのです。その見えているものから新たな真実(洞窟の外の世界)に気づくかもしれません。アリと人間を比較して、アリの知っていることより、人間の方がより正しいことを知っているというのは単なる思い込みです。(これもある意味、それなりの根拠を持った現時点での正しい見解かもしれません)
この科学の原理と「独我論」に従えば、プラトンの洞窟の譬えをはじめ、思考による譬え話(注)など、考察すること自体無意味であるといえましょう。あなたがもしこの世界における”主体的存在”とするならば、この独我論的視点のみが唯一価値を有するものなのです。すなわち、あなたにとって真の意味での客観性や社会的な功利主義など意味がありません。全体が個に優越するなんて原理もありません。人類の存続なども関係ないでしょう。あなたにはもっと重要なことがあるのです。(補足12)
この話はまた後ほど。
(注)他にも似たような譬え話としてたくさんあります。例えば、我々の目の前の映像はすべて作られた映画であり、ある作為によって我々にバーチャルな現実を見せているに過ぎない。しかしその作為に、我々はいずれ気づくでしょう。プラトンの囚人と同じように。あるいはこの世界はすべて神が書いている小説の中の出来事であり、我々はその小説の登場人物の一人に過ぎない。というもの。確かにそうかもしれません。それは否定できない。(且つ我々には肯定もできない) しかし例えそうであっても、我々は神のシナリオ通りに生きていくことしかできないのです。(なぜなら神はこの現実を超越しているから。我々が神を認識することは不可能です。神は我々にとって思考の中の存在に過ぎない) そんなことを思考したって意味がないわけです。つまりそれが現実的に理解できる(科学法則に則っている)のなら、いつかそれに気づき、それを超越しているのなら、我々は無力だということ。

(補足12) 無論わざと人類を滅亡に導く必要もありません。ただ「人類の存続」こそが、あなたの人生の至上の目的ではないということです。獣ではないのだから。
  
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