TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

十界


 仏教の教えは広大です。釈迦オリジナルの教えに、大乗仏教まで加えるとその教義は非常に膨大になります。そのすべてをここに記すことは不可能です。
ここではその要点だけを述べるに留めます。要点と言ってもそれは一般的な話というより青山個人の考えに基づいたものです。あくまで青山が分かりやすいように順を追って羅列したものです。分かりにくい点、あるいは疑問に思われる点も多々あるかと思います。ご意見ご質問は今まで通りお寄せいただければと思います。

十界
 十界というのは、人間の精神のレベルを10個の段階に分けて、順次高い段階に登ってく。つまり仏の状態に達するためには各段階でどのようなことを学び修めればいいのか。について表したもの。もちろん釈迦の教えではありません。大乗仏教の考え方の一つです。しかし仏とはどのような精神状態を指すのか?仏になるためにはどうしたらいいのか?を分かりやすく語れるので、ここで採用してみたいと思います。

 十界の10個の段階とは以下の通りです。
注意:下に示した10個の段階については○○界という呼ばれ方をしますが、誤解しないでほしいことは、これはあくまでも現在の人間の(心の)状態を指しているもの(人間は心の状態がそうだと、そういう世界にいるような感覚を持つため)で、現実世界とは別の世界、例えば天国や地獄という世界があり、その世界に住む人間の様子を指しているのではありません。

地獄界・・・苦しみの極致
この世で悪事を働いた者が死後赴くところではありません。あくまでこの現実世界における人間の状態を指します。つまり不幸のどん底。苦しみの極致。それは地獄の描写として描かれる、鬼がいて罪人を責めたてる、針の山、火炎地獄ではありません。この世のことです。この世にも地獄の様はあります。
はっきり言って地獄とはこの世のことなのです。(補足1)

餓鬼界・・・欲望が盛んであるにもかかわらず、それが得られない。(逆に得られないからこそ欲望が盛ん) 常に満たされない状態を指す
お金が欲しい。人から愛されたい。という贅沢な欲望だけではなく、動物としての基本的な欲求。食べたい、飲みたいが得られない。常に喉が渇いている状態に譬えられます。そして食べても食べても満足しない。地獄の絵にある餓鬼と言う怪物は、欲望盛んな人間のなれの果てです。いくら食べても満足せず、骨と皮の状態で、自分の排泄物、あるいは脳みそさえ食べている者もいる。
人間でいえば貧乏の家に生まれて、常に物がほしい。金持ちになりたい。出世したいという欲望盛んな人間は、餓鬼界(餓鬼道)の状態です。

畜生界・・・けだものの本能的な状態
力に恐れをなし、権力に媚びへつらう。力に依存する。庶民の権力者(政治的指導者、宗教的指導者など)への依存、盲目的な従属に現れています。
この畜生界にいる人間は、権威、門閥を重んじ、人を差別し、世間体を重んじ、人間的に腐敗した心根を持つ。

修羅界・・・常に戦いに明け暮れている状態
敵を討ち倒すことに専念し、相手から攻撃を受けると必ず仕返しする。最初は個人の喧嘩、それが発展して国と国が争う戦争に。もちろん正義の戦いなどない。つまり殺し合いの(殺すか殺されるかの)状態です。
どんな些細な競争(テストの順位争い、その他スポーツ競技を含む)も、相手に勝ちたいという気があれば修羅の状態です。「人に勝ちたい」という思い。この浅ましい心根を捨てなければ、争いは永遠に尽きないでしょう。

人間界・・・普通の人間の精神状態
本能的欲望に支配されず、理性を持ち、恐れや不安もなければ喜びもない。良くも悪くもない状態。

天上界・・・喜びの状態
宗教で述べる天国の状態。キリスト教やイスラム教の聖典で描写されている天国(パラダイス)の様。それを味わっている状態。

 以上地獄から天上までを仏教では六道と言って迷いの状態を指します。普通の人間は生まれてから死ぬまで、この六つの状態をぐるぐるとめぐる。あるいはさまようのです。状態は刻一刻と変化します。今天上界、つまり喜びの状態にあったとしても、一瞬にして地獄界へ落ちるのです。

声聞界・・・教えを聞いて悟りを得た状態
ここからが仏教を学ぶ者が到達できる状態です。つまり仏教を知らないとどんなに頑張っても天上界止まりです。
(本格的に)仏教を学ぶためには出家しなければならないため、声聞界の人間はみな出家者です。

縁覚界・・・一人で修行して悟りを得た状態
人から教えを聞いているだけでは駄目です。自分で学ばなければ。人に指図されるのではなく、自発的に学ぶのです。そして純粋な目を通して現実世界をよく観察した上で、一人になってじっくり考えるのです。これまでの世俗的な誤った考えを捨て、根源から考え直すのです。
師匠を頼っていては駄目です。自分自身が考えるのです。何が正しいか何が誤っているのか、その最終判定者は自分です。

菩薩界・・・自分のみならず他者にも悟らせる姿勢。利他の精神を得た状態
自分が悟ったら他人にも悟らせる。他者にも是非この悟りの境地を味あわせてあげたい。それはとてもすばらしいものである。そのために人々にも出家して、仏教を学ぶことを勧めるのです。
本来釈迦の教えに利他の精神はありませんでした。釈迦は解脱した後人々に法を説き始めました。説法を続けていく内に利他の精神を学んでいくのです。
ここで注意、他者に対して仏教を勧めるにはまず自分が仏法(仏教の哲理)を体得している必要があります。自分が未熟なのに人々に法を説くことは出来ません。人に悟らせるためにはまず自分が悟る。そして菩薩界に達するには声聞界、縁覚界を必ず経なければなりません。人間界から一気に菩薩界に上がれません。
にもかかわらずやたら利他精神を重んじる。悟れていない者が他者に教えを諭すと、間違ったことを教えてしまい、返って(他人に対して)道を誤らせすることになりますよ。(補足2)
当り前のことですが、ここを間違えている人が多い。果たして不幸な人間が他人を幸福に出来るでしょうか?人を幸せにしたかったらまず自分が幸福になりましょう。さらに菩薩は次なる段階、最後の段階である仏陀を目指して修行するのです。その修行方法についてはまた別途。

仏界・・・世界の真理を悟った状態
生きている間に達成できる、目指すべき仏教の最終目的に到達した状態です。すなわち仏陀の状態です。世界の真理を体得した者はみな仏陀と言えるのです。ただしそのためには菩薩となって修行しなければなりません。
では、世界の真理とは何か?それをこれからお話ししましょう。

(補足1) この世はまさに地獄です。いやいやこの世はそんな恐ろしいことばかりではない。快楽もあるではないか?
あなたはきっとこの世の苦しみの様を知らないから、そのようなことを言っているんだと思いますよ。この世がどれほど地獄的か、もっともっとこの世の悲しみ、苦しみの様子を見てください。楽園のような喜びなど、はっきり言って偽りの現実です。この世以上の地獄はありません。考えられるありとあらゆる地獄がこの世界に存在するのです。(この世でその怖ろしい様を思い描けるということ自体、この世が地獄である何よりの証拠)
逆にこの世を脱すれば、地獄ではない世界に移行できるのです。あなたは(この世の地獄を知り尽くしたなら)今以上の地獄を味わうことはない。宗教で諭す死後の世界としての地獄など存在しません。そのようなものは全て嘘です。
地獄なんかを作り出してしまった訳は、悪い事をすれば地獄に落ちると人を脅し、悪事を諌めるためです。なぜそんな嘘までついたのでしょうか?
仮に地獄を設けないと人間はみな悪事に走る。それは人類の存続を脅かしかねない。つまり地獄を作り出したのも、人間という哺乳動物が進化の過程で身につけたいわゆる自然淘汰の産物に他ならないのです。

(補足2) 新興宗教の中には信者に何かと利他行(人々のために何かをする)を勧める(あるいは義務として強制する)ものがありますが、結局は(信者を利用して)利他と称して人々を自分たちの宗教に勧誘するのが目的。信者を集めればそれだけお布施も手に入る。つまりは金儲けです。そんなインチキ宗教に騙されないように。利他の前に是非自分が正しく悟ってください。

最後に一言
 仏教は遥か古代、2500年前にインドの釈迦の教えから始まりました。そんな古い考え方が現代において何か役に立つのだろうか?という問い。伝わっている仏教の教えのいくつかはもちろん現代でもまったく無益ではありません。昨今その仏教の教えを現代風にアレンジした自己啓発本、ビジネス本、メンタルヘルスに関わる本、人間関係の対処法などが書かれた数々の書籍が出回っています。中にはベストセラーになるものも。修行を志す僧侶とは無関係な一般の読者にも読まれています。ブームになることさえあります。何で仏教が金儲けに役立つのでしょうか?それらはすべて社会のニーズに合わせたものです。ただし、仏教は処世術、生活の知恵ではありません。もちろん釈迦の話の中には時代に関係なく有益なものもあるでしょう。例えば、ある弟子は、意志が弱く、何事も長く続けることができない。そんな弟子の悩みに釈迦は何らかのアドバイスを施す。その助言は現代人にも役に立つ場合がある。他にも他人から激しく批判を受けた場合の感情の整え方など、あくまでも僧として修行をする上での対応方法ではありますが、無論現代でも有効です。ただそれはそれぞれの弟子の性格、立場、状況によってアドバイスの中身が異なる。意志の強い弟子には同じ教えは施さない。100人の弟子がいれば、100通りの教えがある。当然弟子によって異なる。だから釈迦の教えをただ集めたものを比較すれば、正反対なことを言っている場合もあるのです。それらは当然立場、立場が異なる現代人にも通用するでしょう。要するにこれらは日常のちょっとした助言であり、当然仏法の真理ではありません。つまり釈迦の教えの大半は普遍性などなく、相手の状況に応じた方便に過ぎないのです。でも役に立つ?もちろんです。
同じように戦国武将の生き方は現代人にも役に立つことがある。戦国時代と現代は全く違いますが、戦国武将も現代のビジネスマンも同じ人間であり、働く。家庭を守る。敵と戦う。という日常があるのです。だから、その時代や武将たちを主人公にした本が売れたり、ドラマになったりもするのです。はっきり言って、昔から伝わっている何らかの知識の中で、現代では役に立たないものなどない。ただし、その当時と現代は異なるということです。
仏教の話に戻れば、伝わっている日常の助言、人生の知恵を集めたものの中にも役に立つものは大いにある。それらを求める人に教えることが現代の仏教の役割だと。人々の悩みを聞く人生相談、心を癒すカウンセリング、さらに経営コンサルティングとして事業を立ち上げたり。開き直った僧侶の中には、それをビジネスと位置づけて、生活の糧にしている者もいます。儲けることがそんなに悪か?坊主だって人間です。食べないといけない。お金も欲しい。仏教を生かしたビジネスも悪くはない。そもそも社会に需要がある。それに仏教の専門家として応える。顧客は満足を得る。その見返りとして報酬を得る。社会での当たり前の事業活動をしているだけ。何も悪いことをしているわけではない。ということです。
しかし、仏法の本質は明らかに違う。そもそも仏教とビジネスは目的が全く異なる。本当の仏教は世界の真理を体得することです。その為に修行があり日常があるのです。即ち仏教は在家のものではなく修行者たちのものです。だからはっきり言って、仏教は人間関係やビジネスには何の役にも立たない。ということです。だからこの「科学概論」では、現代のあらゆる状況に応じた(人によって異なる)対処方法を示すつもりはありません。そんなことをしたら終わらない。個々の方便を話したら切りがない。そんな話は書店に並ぶ多くの処世術の本を読めばいい。ここでは、普段のあなたの日常にとってはまったく役に立たない真の仏教の話をするつもりです。

ご意見・ご質問