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仏法の基礎


初めに
 ここから仏教の基本についての話をします。宇宙の真理を悟る上で、まず声聞と縁覚が悟る仏法の基礎について、その後菩薩が悟る仏法の智慧(ちえ)について話します。

 この世のすべてが苦しみであること、つまり一切皆苦が解れば、後はその苦の原因を見つけて、それを取り除けばいいという結論に達します。
苦というものは現実における一つの状態ですから、苦が生じるための原因が必ずあるはずです。(これを因果の法則と呼びます) その原因を特定するとこ。つまりこれは科学の手法ですね。ただし苦の原因を取り除くことが可能かどうかは分かりません。
この「因果の法則」または「因果律」は仏教の基本中の基本です。仏教だけではなく「科学」の基本です。因果の法則、原因と結果の関係があるからこそ、我々は世界を認識できるのです。
ただし、誤解しないで欲しいことがあります。よく、善い行いをすれば良い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果が得られる。これを「善因善果」、「悪因悪果」と言います。ただ何が善で何が悪か、その普遍的(世界共通)な基準があるわけではありません。”法律”なんてものは人間が勝手に作ったものです。それに対して因果の法則は、人間誕生以前からあります。
善悪の判断はあくまで個人的な(人によって違う)ものです。科学は何が正しくて何が間違っているかの判定はしますが、何が善で何が悪かは、判定できません。仏教でいう因果律も同じです。ただ結果には必ず原因があると言っているだけです。「善悪」はまた別の問題です。(補足1) ここでよく迷信に引っかかるのが、例えば非常にケチな人間が不治の病で入院したとか、個人的な恨みを持った人間の乗った飛行機が墜落したとか。人によってそれを見て”自業自得”などと言ったりしますが、ケチと病気の間に、あるいは恨みと飛行機墜落の間に因果関係など一切ありません。これらはすべて嘘です。こんな下らない迷信に是非騙されないでください。

四諦八正道
 苦という事象があれば、その原因が存在するはずです。それを取り省けば苦は消滅する?という訳です。その際仏教では四諦という考え方があるので紹介します。
四諦というのは四つ真理と言う意味です。その四つとは、
(1)苦諦・・・この世が苦しみであるという真理
(2)集諦・・・苦の原因は、執着にあるという真理
(3)滅諦・・・この執着を克服すれば、苦も滅するという真理
(4)道諦・・・この執着を克服するための方法(修行法)があるという真理
 まず、この世が苦であるということは前回お話しました。この苦の原因は欲望にあります。食べたい飲みたいという動物としての欲は生きている限り消えません。
ただし、人間は本能的な欲を持っているという事実を知り、なぜこんな欲を持つのか、あるいは持たなければならないのか、その本質を理解した上で、この本能的な欲(補足2)に溺れないこと。この欲を完全に抑制するのではなく(抑制するのも欲です)、欲を正しく制御(補足3)、コントロールすることが肝心です。
それができずに、欲に流される。欲に踊らされる。そこから苦しみが生じるのです。
その根本原因は我々凡夫が現実に対して無知であり、自己に執着してしまうことにあります。
本能的な欲望から生じる、生に執着する、即ち死にたくないという願望、あるいは愛に対する執着、愛するものを自分のものにしたい、愛するものと別れたくないという願望。この叶えることが不可能なことに対して、何とかして死なないようにしたい。あるいは愛するものを得たい。または死んでしまったものを生き返らせたい。という願望を持つ。この執着、つまり不可能な望みを叶えたい、即ち不可能なことが解っていない(無知)、そのことから苦が生じるのです。
次にその執着から離れるためにはどうすればいいのか?要するに正しく世界を認識する(世界には可能なことと不可能なことがあることを知る)ことです。正しく世界を認識したら、正しい生き方をする。仏教ではその生き方を八つに分けて「八正道」と呼んでいます。この八正道については、図78「八正道」を参照願います。
仏教は実践の宗教です。ただ頭で理解するだけでは駄目です。最終的にこの八正道を実践して執着を離れて、苦を克服する。それが仏教の目的です。

諸行無常
 諸行無常という言葉はよく知られていますが、この意味は、世界は移り変わるものであり、一時も留まることはない。ということです。世界を観察すれば、それは明らかです。これは宇宙における真理です。これを覆すことは出来ません。
この当り前のことが分からない。永遠の若さ、永遠の命が欲しい。これらのことはみな執着です。そこから苦が生じるのです。
(注釈) この諸行無常の「行」とは、存在が世界に対して行う行為です。それは現象として表れ、我々はそれを観測できます。例えば雨が降る。風が吹く、人が大声を上げる。犬が走る。鳥が飛ぶ。(これらは因縁(下記参照)によって起きる)などの現象は、一瞬たりとも留まることができず、それは変化そのものと言っていいものです。ということで、「諸行無常」とは、あらゆる行いによって、世界は常(つね)の状態に非ずと言う意味なのです。
つまり、永遠に変わらないものなんてない。健康な体もやがて老い、病に掛かって、いずれ死ぬ。あなたも青山も例外ではありません。この世の幸福の形(財産、名誉など)などもたちまち崩れて去ってしまうでしょう。(前コラム「一切は苦」参照)
人々は今の幸せ(安らぎに満ちた生活)が永遠に続くと信じ込んでいる。愛する人が永遠に存在すること。離別などない。変わらず自分を愛してくれると信じ切っているのです。それが(死別や裏切りによって)崩れ去ることから苦が生じる。しかしすべてが「無常」であることは、この世界の本質です。そこに捕らわれるから苦しむのです。

十二因縁
 人間としての最終的な苦である「老死」(老いと死)が存在する原因を(その原因、その原因という具合に)探求していくと十二の過程を経ていること、このことを示したのが「十二因縁」です。
この大もとの要因は、宇宙に対する無知(これを仏教では「無明」といいます)にあるとする。この「無明」が根本にあり、「老死」がある。つまり無明がなくなれば老死もない。というわけです。十二因縁については、図79「十二因縁」参照。
「因縁」という言葉の意味は、物がそこにそのように存在するためには、原因と周りからの作用(これを縁という)が有った。という意味です。
この十二の現象を一つ一つ考察することをそれほど重要視する必要はありません。細かい内容まで理解しなくても結構です。これは現実の世界の仕組みを表した一つの例に過ぎませんから。ただし「老死」の原因が生まれること即ち「生」にあるとこは、誰でも納得するはずです。人間は誰でも親によってこの世に生まれさせられたのです。この世がパラダイスなら文句も言いません。しかしこの世は正に地獄です。こんな苦しみしかない世界に生まれさせられた。誰でも親に文句の一つでも言いたいわけです。
そこでこの青山が世界中の子供たちを代表して、世界中の親に向かって文句を言います。「おれは産んだくれと頼んだ覚えはない。にもかかわらず何で産んだんだ!」(産んでくれたからこそ、この世で苦しまなければならなくなった)
この子供の問いに答えられる親が果たしているでしょうか?この素朴な我が子からの質問に、立派に答えられる親が世界中に一人でもいるでしょうか?普通の親だったらきっと顔を真っ赤にさせて本気で怒るでしょう。なぜか、答えられないからです。今まで子供からこんな問いを発せられることなど夢にも思っていなかったからです。こんな聞いてはいけないことを聞く我が子が憎いからです。それはただ単に自分が(答えられずに)愚かであることを証明しているに過ぎないのです。その自分の愚かさを突かれた親が怒りを爆発させているだけなのです。親はこう弁解するだろう。「こんなに苦労してお前を産んだのに、なぜそんなことを言うのか!!」って。これが答えになっていないことは明らかです。要するにそんなことも答えられないほど自分は無知だったのです。それを素直に認めたらどうですか?
しかし安心してほしい。こんなことを聞く子供は滅多にいないだろう。なぜでしょう。この質問はタブーです。こんなことを聞く子供を親はきっと大事に育てようとはしないだろう。親は産んだことに対して文句を言う子供より、「産んでくれてありがとう」と嘘でもそう言う子供の方をより可愛がって育てたいものです。つまり文句を言う子供は生き残れないのです。人間は進化の過程で、このこと(なぜ産んだのかと聞くこと)をタブーにしました。タブーにしないと親子関係がうまく形成されないからです。つまりこれも自然淘汰の産物です。
実は子供も本能的に恐れているのです。そんなことを親に聞いてはいけないものだと無意識的に知っているのです。それを聞いた途端自分が親になったときに子供に聞かれる。それが怖い。さらに親も怖いのです。子供にいつそのことを聞かれるのか?聞かれないように何とか話題を逸らそうと必死。だからどの親も子供に甘いのです。まるで釈迦の父親のように。
「うちでは子供には厳しくしつけをしている」なんて自分の子育てを自慢する親がいますが、例え世の中に名を残した偉人に自分の子供を育て上げたとしても、親というものは本質的に子供に甘いのです。なぜなら、もし、そう子供に聞かれたら、親として弁解できません。つまり親は宿命として子供に対して負い目を負っているのです。
この件について、もし釈迦の子であるラーフラが父である釈迦に対して聞いたとしたら、釈迦はどう答えるでしょうか?興味はありますね。しかし例え子供にそのようなことを聞かれても、堂々と答えられないようでは親として失格だと思いますよ。
この「なぜ産んだんだ」という子供からの問いに対して、唯一答えになることができる回答があります。それはまた別途。

愛欲
 愛は一般には(特にキリスト教では)最も尊いものとしていますが、仏教では最も悪いものとしています。
なぜでしょう?この十二因縁に登場する「愛」は、動物としての本能の働き、すなわち対象に対する執着を意味しています。それが原因で苦が生じる仕組みです。だから愛を滅しなければならない。というのが仏教の考え方です。(補足4)
今日、仏教徒が多いに日本でも、この愛が悪いものだという話はまったく聞かれません。その反対に、素晴らしいものとして理解されています。少なくとも仏法を学ぶ者は、この愛を正しく理解して、それから離れる努力が必要です。
愛についてはまた別途。

縁起
 釈迦の思想の中で最も重要なことです。世界のあらゆる存在はつながって(関係をもって)おり、互いに影響を及ぼし合う関係にあるというものです。作用するものと作用されるものは対等である。作用するものも必ず相手から作用を受ける。そこには大もとの作用など存在しない。即ち事象の根本原因などはないと言うことです。(図80「縁起」参照)
世の中では「縁起がいい、縁起が悪い」という言い方で使われます。これは単に関係があるというだけの意味しか有りませんが、縁起の意味はもっと深いのです。この縁起という宇宙の真理が分からないと、仏教もまるで解らないことになります。
縁起は単なる因果の法則ではない。因果の法則、即ち一つの結果にはその原因があるというのは科学の根本原理ですが、仏教ではさらにその先を行っているのです。因果の法則に留まっているだけでは、良いことをすれば良い報いが、悪いことをすれば悪い報いがある。などという幼稚な思想が生まれるのです。これは在家の考え方です。
世間では、縁起というものをあまり重要視しません。縁起を追及していくと責任の所在があいまいになるからです。誰が悪い、誰の責任かがはっきりしないことになる。そうなれば社会では受け入れにくいのでしょう。しかしこの縁起が解らないと、この後出てくる「無我」や「空」の哲理もわからなくなります。つまり世界の真の姿はあくまで「あいまい」なのです。「無我」や「空」こそは仏教の根本です。
仏教は出家者に対する教えです。是非この縁起を正しく理解して下さい。

諸法無我
 法とは世界の有様です。そこには我(主体)がないという真理です。
法とは、社会における法律のことではなく、宇宙を貫く自然法則です。宇宙には様々なものが存在します。石ころ、草花、虫、獣、そして人間、その他人工物である自動車、ビルディング、そして自然の産物である山や川、地球、太陽、それら全ては我々の目に見える存在として観測可能です。これらはみな自然法則に従って存在しています。自然法則がなければ何ものも存在しないのです。自然法則を超えたものなど存在しない。逆に自然法則だけあって存在がないということも有り得ません。従って法とは存在そのものと言えるでしょう。
そしてこれらすべての存在はそれ自体主体を持ったものは何一つない。ということは、常に周りの何かと関係性を持つ、その関係性を切ることができない。(実体がない)
さらに、いかなるものでも分解可能である。そのもの自体どこまでも細かく分けることが可能。どれだけ分解しても根本的な存在(そのもの自体)には到達できない。(すなわち実体がない)
以上から、いかなる存在も主体を持たない。これを諸法無我と言います。(上記諸行無常の「行」と諸法無我の「法」の違いに注意。「行」は現象、「法」は存在を表しています)(補足5)

【挿話】 法灯明と無我
 釈迦は弟子のアーナンダに「自分を拠り所とせよ。他人を拠り所としてはならない。」つまり「自灯明」を教えました。(「釈迦の生涯 死と涅槃」) その時同時に「法を拠り所とせよ」とも教えています。これを「法灯明」と言います。言うまでもありませんが、「法」とは刑法や民法などの国が作った法律のことではありません。法とは自分以外、すなわち世界を指します。ただし、他人(その中には主君や親、あるいは師も含まれる)ではありません。いわば自然法則です。自分一人の独断に陥っては世界を正しく観ることはできません。世界は自分とは独立した存在であるから、それを見極めよ。法の存在を無視してはならない。と教えています。
ただし、この「法」は無我です。法に実体はありません。だからこそ法に執着してはならない。法とは自分が観察可能な世界のことです。家族や友人あるいは師匠も法そのものではないが法の一形態です。水や空気もそうです。その法の存在を無視してはならないが、決して絶対視してはならないと。「法灯明」と「諸法無我」は、即ち「自灯明」と同じ意味なのです。

涅槃寂静
 上記、諸行無常、諸法無我を体得したら、静まり返った涅槃の境地に達するというものです。もちろん欲望が完全に消滅したのではありません。欲望の完全な消滅は死んでからです。
だから本当の涅槃ではないけれども、心が静まり返り、欲望に溺れることもなく、あらゆる世俗的な穢れ、精神的な不安や苦しみから解放された状態を得るという意味です。
もちろん、これは出家者しか味わえない境地です。修行に修行を重ねた果てに到達できる一つの理想的な境地です。

 以上、仏教特に釈迦の教えの基本について述べました。考えてみると、無常とか縁起とか、何か特別なことを言っているわけではありません。世界を冷静に見渡せば、それはごく当り前のことを言っているに過ぎない。我々でも容易に理解できます。釈迦は特に天才ではなかったかもしれない。もし、これが我々が理解できないオカルト指向のものだったり、釈迦は宇宙人だったなどの話になれば、カルト的で危険な宗教となるところですが、科学(我々が日常経験している事実)に反しないし、教義の内容も当り前ですし、危険性はないと考えます。
ただし当り前と言っても、その教義を頭で理解することだけが仏教ではありませんから、あくまで日常の中でそれを体得し、宇宙の真理に従って生きる実践がなければ、仏教の目指す心の平安は得られないでしょう。
本来の仏教は、声を上げて意味も解らずお経を唱えることでも、お寺で様々な仏像を拝んで願い事をすることではありません。これらのことはみな在家の人間のすることです。仏教は出家して修行をし、悟りを得ることを目的としています。

(補足1) 善悪の基準はあくまで個人的なものだとしても、善い行いには良い報いが、悪い行いには悪い報いは、本当に起こります。それは自分にしか分かりません。なぜなら善悪の判定は自分にしかできないからです。

(補足2) 動物としての食欲や性欲の他に、人間としての、愛したい愛されたいという欲、金銭や名誉を求める欲、競争に勝ちたいという欲、社会的に認められたい(自分の存在価値を認識したい)という欲。それらはみな動物としての本能的な欲です。つまり自然淘汰により身に着けたものです。

(補足3) 欲の中で何を解放するのか、何を抑制するのか、また何のためにそう(解放、抑制)するのか、明確な目的を持つことです。

(補足4) 仏教では、渇愛(喉が渇いてどうしょうもない状態で、水を求めるがごとく愛する)、貪愛(あくなき求め欲する愛)とか言いますが、全て悪い意味です。

(補足5) この「諸法無我」で誤解されるのが、この「我」とはそもそも自分自身ではないということです。もし自分なら「無我」とは自分が存在しないことになります。自分自身が存在しないとしたら、もはや何も始まりません。この「科学概論」を書く意味もありません。釈迦が言った「自灯明」の意味も解らなくなります。(「釈迦の生涯 死と涅槃」参照)
「我」とはもともとインドの思想にある「アートマン」のことを指し、個々の存在にある主体性を意味します。要するに「諸法無我」とは、自分自身が見ている世界における個々の存在(諸法)に、我(主体的存在)はない。ということです。決して自分自身が無いと言っているわけではありません。自己と世界の本質(認識するものと認識されるもの)が分かれはこのような誤解はありません。この「諸法無我」の戒めは、自己自身は決して観察できない。目の前の世界は自分ではない。その世界を自分自身(自分が所有するものの一部)として執着してはならない。と言うことです。
ただし、自分自身(あなたにとってはあなた自身、青山にとっては青山自身)が確実に存在している保証はありません。「我思う。ゆえに我あり」(注)と言われますが、自分が存在するためには、”我思う”が確実であることが前提です。無論絶対にそれが確実とは言いきれません。後でも述べますが、自分とはずばり”意識”のことなのです。その意識が確実に存在しているとは言えない。自分が存在しているというのは、あくまでも仮定であり、自分が存在していなければならない理由はどこにもないのです。(自分の存在を保障する者は”神”しかいない。しかし神は存在しない)
(注)フランスの有名な哲学者デカルトの「方法序説」による。

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