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釈迦の生涯 死と涅槃


 釈迦も人間です。老いて病に掛かり、そして最後は死ぬのです。

教団の維持
 釈迦は自分なき後、教団の維持をどう考えていたのでしょうか?
答え:今日では考えられませんが、釈迦は自分の死後の教団については、どうでもいいと思っていたのです。
一時は教団の中で最も優れた弟子を後継者にしようと考えたこともありました。それは弟子の中で一番有名なシャーリプトラです。ところがシャーリプトラは釈迦よりも先に死んでしまう。釈迦は非常に悲しんだと記録にあります。あわよくばシャーリプトラに教団を任せたかった。彼なら教団をまとめてくれるだろうと。しかし釈迦はその間違いに気付いたのです。
普段彼は弟子たちに「諸行無常」を説いていました。即ちすべてのものは移り変わる。愛する者とも別れなければならない。愛する者を手元に置いておきたいという執着から苦しみが生じると。
自分の死後の教団のことは、残った者に任せればいい。死んだ後までああだこうだと心配を焼くようでは涅槃(安らかな死)に至れない。

アーナンダと自灯明
 経典の多くは、釈迦が弟子のアーナンダに対して教えを諭す「アーナンダよ。云々」というくだりで始まります。なぜでしょう。
アーナンダが釈迦の世話係(常にそばにいた)だったこともありますが、そもそも他の弟子は速やかに悟っているのに、アーナンダ一人がなかなか悟れない。
そうです。経典の大部分はアーナンダ一人のために説いたものです。釈迦はアーナンダのことが心配でした。彼はアーナンダが自分を頼っていることを十分知っていました。もし先に自分が死ねば、アーナンダは永遠に悟れないことになる。
「アーナンダよ。私を頼ってはいけない。己一人を頼れ。」己とはアーナンダのことです。そう再三諭しました。
有名な言葉「自分を灯火とせよ。他人を灯火としてはならない。そして法を灯火とせよ。それ以外を灯火としてはならない。」
この「自分」というのは釈迦のことを言っているわけではありません。あなたにとってはあなた自身です。アーナンダにとってはアーナンダ自身です。そして法とは、世界を貫く真理です。(補足1)
特に新興宗教の教祖にありがちな「私こそ仏陀だ。救世主だ。イエスキリストの生まれ変わりだ。私をあがめよ。私を奉れ。私に命をささげよ。」
完全に狂っていますね。頭に欠陥があるのか?そもそも信者から金を巻き上げようとする詐欺師なのか?いずれかに違いない。
どんな宗教の教祖でも、少なからず自尊心があるものです。その中で釈迦の言葉は立派です。そんじょそこらのインチキ教祖とは違います。
齢80歳の釈迦は老いた体を引きずるようにして旅を続ける。さらに病が襲う。(その時の様子から、釈迦の病は大腸癌ではなかったか?と)
彼は自分の死期が近いことを悟る。もはや思い残すことはない。いつでも死ねる。ただ心配はアーナンダ一人。
釈迦はアーナンダに言った。「アーナンダよ。もし汝が望めば、私は寿命をもっと延ばすことができる。」
ここにもし他の弟子がいたら、釈迦は決してそんなことは言わなかったに違いない。なぜなら他の弟子は既に悟りに達しているため、釈迦を必要としてはいなかった。釈迦はまだ悟りを得ていないアーナンダ一人のためにそう言ったのです。
しかしアーナンダはそれを望みませんでした。このとき釈迦は悟るのです。アーナンダは自分が死ぬまで悟れないだろうと。釈迦としては何とかアーナンダに悟らせたかった。でも、それが無理だと分かったのです。
そのときかつて釈迦が解脱した際現れたマーラが再びやってきたのです。「釈迦よ。今こそ私との約束(入滅すること。仏陀の死を入滅と呼びます)を果たすときだ。」と。
釈迦は覚悟を決めて死の道へ進むのです。

死者への弔い
 今日日本の仏教といえば葬式の執り行い。そして墓に参ること。もともと仏教には先祖の墓を詣でる話なんかどこにもありません。釈迦が釈迦族の先祖の墓を参ったという記録はどこにもない。釈迦は先祖の墓を参りなさいなんて一言も言っていませんよ。はっきり言って先祖供養などは仏教ではない。
どうしてこんなことになってしまったのか?まあそれにはいろいろ事情があったのです。そんな話は無駄ですからここではしませんが、釈迦臨終のときの話。
アーナンダが釈迦に尋ねた。「世尊(釈迦のこと)よ。仏陀の遺骸の措置はどういたしたらよいのでしょうか?」
その話を聞いた釈迦は大いに悲しんだ。「アーナンダよ。汝は仏陀の遺骸のことなどに思いわずらってはならない。どうかアーナンダよ。汝出家の者はただひたすら修行精進に励んでくれ。そのような聖者の葬儀については在家の者どもにやらせておけばよい。」
アーナンダはさらに釈迦に尋ねて「では、在家の者にどのように(葬儀を)やらせたら、よろしいでしょうか?」
すると釈迦は延々とその方法について説明を続けた。それが契機となって仏教では死者の葬儀の執り行い方、死者に対する供養を専門とする宗教になってしまったようです。
つまり本来の仏教では、(出家者においては)何人に対する葬儀も行ってはならないのです。なぜならそれは死者に対する執着だからです。

人生はすばらしい
 釈迦はアーナンダを連れて最後の旅に出る。病に倒れ老いた体を携えての苦しい道のりです。もはや自分は数日中に死ぬだろう。彼は悟った。
人間誰しも死期が近くなるとこれまでの人生を振り返る。人間の一生は苦しみの連続です。釈迦も例外はない。老、病、そして死の苦しみの中からふと語った言葉がいい。「アーナンダよ。人生は甘美である。」と。(補足2)
今まで、人生は苦、この世は汚れていると語ってきた釈迦が最後の最後に「人生はすばらしい」と悟るのです。
若い時分には「人生すばらしい」なんて分からないでしょう。人間は歳を重ねて多くの苦しみを経験し、一切を受け入れる境地を得て初めて悟るのです。

涅槃
 涅槃とは何か?それは一切の欲望が消滅し、苦しみや穢れがなくなった状態をさす言葉です。インドでは炎が自然に消えるさまに喩えられます。
人間は肉体を持つ上で欲望を滅することはできません。肉体を失えば欲望も消える。欲望が消えれば苦もなくなります。苦を克服することが仏教の究極の目的でした。
その最後の目的を達成するためには肉体を滅ぼさなければならない。つまり「死ぬこと」イコール「涅槃」です。
人間は悟りに達しただけでは本当の目的を達したわけではありません。最終目的は涅槃、苦からの解放。そのためには死ねばいい。これは決して自殺することではありません。(「自殺について」参照)
人は誰でも死にます。死ぬためには充実して(目的を持って)今を生きることが大事です。
すると反論されます。充実して生きなくても、いい加減に生きても、人は皆死ぬんだから、そんなことはどうでもいいのでは?と。
いいえ。違います。なぜなら我々は今この瞬間は涅槃に達していないからです。
確かに人は必ず死にます。死が涅槃なら誰でもいずれ涅槃に達します。しかし今現在は涅槃の状態ではありません。この世で生きているからです。この世でどう生きるかは、涅槃に達していない今死ぬまでの間問われ続ける課題です。この世があるから涅槃がある。(この世で涅槃を意識する) 涅槃があるから今がある。この意味、あなたに分かりますか?(つまり自分自身は今この時に(まだ死んでいない、この世で生きている今)しか存在しないということです。今この瞬間が全て)

最後の説法
 釈迦は最後の最後まで説法を続けました。病に倒れて床に伏してもなお弟子からの質問に答えていました。最後に彼は弟子たちに言います。
「この世はすべてうつろいゆくものである。怠ることなく精進を続けなさい。」 
そうして釈迦は息絶えた。この釈迦自身、最後まで説法を続け、弟子に対しても精進を続けよという。このことから仏道とは、生きている限り最終到達点などない。終わりなき努力を死ぬまで続ける。そして死に際しては説法を続けたまま、精進を続けたまま、そのままの姿勢で死ぬ。仏教とは現在進行形の宗教だと言えます。(補足3)
悟りを得て仏陀になることは、死ぬことではありません。仏陀と言うのは(覚者という意味で)生きている人間を指すのです。そして仏陀になった瞬間、もはや為すべきことが無くなったわけではない。仏陀となっても修行を続けているし、多くの人に説法するという仕事が残っていました。生きている限りそれを続ける。自分が死ぬまさにその瞬間まで。それが釈迦の生き方です。
人間は例え仏陀となっても、あるいは仏陀でなくても、死ぬまで努力・精進を続けなければなりません。釈迦が弟子に向かって最後に語った言葉「放逸することなく修行に励みなさい」(上記と同じ意味)のように、常に修行を続けていなければ、人間はたちまち煩悩(動物としての本能的欲望=食べたい。飲みたい。金が欲しい。人に勝ちたい。有名になりたいなど)の虜と化す。釈迦ですら、修行を怠ればその煩悩に使役されてしまう。そのための修行であると。そして死の間際まで不放逸に努力を続ける。そこにこそ、次に涅槃が訪れる。という生き方が可能になるのです。
世の中には、 そろそろ現役を引退し後輩に道を譲ろうと考えている年配の方が多くいらっしゃいます。それはそれでいいことかもしれません。若手に責任のある仕事を任せるという点でね。ただし、第一線を退いた後は悠々自適に暮らしたい。やるべきことはやり遂げた。もはややり残したことなどない。だから後は楽しく余生を送りたい。それは少し甘い考え方だと思いますよ。
やるべきことって何ですか?そんなものがこの世にありますか?あなたが今まで何十年間生きてきたのか知らないが、まだまだやるべきことが残っていませんか?それは生きている限り尽きることはない。若い人に仕事を譲っても、まだ自分が熟すべき仕事はあるはずです。今まで10頑張ってきたなら、これからは20頑張るつもりで生きるべきだと思いますよ。もちろん、体力的にも知力的にも若い人に叶わないのは当然です。ただし、やるべきことはやり遂げたなど、そんなセリフはまだ100年早いのでは?
今までの人生を振り返ってみてください。自分は何もしてこなかったに等しいのでは?人生はこれから。まだまだ足りない。まだまだ不満。もし本当にやるべきことはすべて成し遂げたと言うなら、もはや生きている意味などありません。一日も早く棺桶に入ってください。
世の中にはこうした甘ったれたジジババども(←失礼)がいる。皆さんは人生半ばにして、もう生きることを辞めてしまうのですか?まだまだ人々のために、本当に人々の幸せのためにやるべきことは沢山あるはず。人間は生きている限り休息などない。死ぬ直前まで緊張感を緩めることは許されないのです。それが人生というものではないでしょうか?
釈迦を見習いましょう。死の直前まで精進を続ける。人々のために生きる。それでこそ生を全うしたと言えるのではないでしょうか?

 この釈迦の老いから死に向かう過程は人間としての最高の人生にたとえられます。つまり、釈迦がそうかといえば意見が分かれるところですが、仏陀とは理想的な人間を指すのです。
つまり人間は皆仏陀のように生きるべき。ということが仏教の教えと言えるでしょう。

最後に一点注意
 仏教に限らず、今日多くの宗教の教義は体系化されています。それはもちろん後々長い時間をかけて弟子や後継者たちが体系化したのです。釈迦の時代は教えの体系などありませんでした。釈迦は体系としての教えを弟子たちに示さなかったのです。第一釈迦は自分の教えを文字にはしませんでした。弟子たちもそれを文字に書き留めておく必要はないと考えたのです。理由は単純です。釈迦と弟子の対話の多くは、単なる日常の会話です。釈迦が現代にいたなら、弟子と喫茶店に入り、お茶を飲みながらたわいもない雑談をしたことを、弟子は一々記録にとどめるでしょうか?しかしその日常の会話の中に、広大なる哲学が含まれていたかもしれない。同じようにイエスと弟子の会話もたわいもないもの。体系化された教えなどではない。だから教えを文字に残してはいません。そんなことは当たり前です。

(補足1) 自灯明とは、師も友も頼ってはならない。自分のみを拠り所とせよ。ということです。考えてみると当り前です。自分さえも拠り所としなければ、自分など存在しないに等しいからです。しかし自分の独断は誤りを犯す原因となります。つまれそこに自信過剰や慢心が生まれます。それが大変な損害(例えば自身の暴走により様々な犯罪を犯す。その原因は善悪の観念が失われることにある)を与えることもあるのです。それを防ぐためには、自分以外からも(何かを)学ぶ必要があります。当然身近な師や友からも学ぶべきでしょう。ただ問題は特定の師や友からのみ学んではいけないということです。全てから学ぶのです。この「全て」とは「法」のことです。つまり全宇宙(即ち法)こそが師なのです。
出家者にとって一番大切なことは、何者(師や友)に対する執着も捨てよということです。だから自分に対する執着も捨てる(自分を過信しない)ことです。一切のものから偏った執着を捨てれば、清い目で世界を正しく見ることができます。
誤解してはいけないこと。それは「自灯明」とは自分に依存せよと言っているわけではありません。自分に執着することも問題です。自分にすら執着してはならない。ましてや他人(家族や友人あるいは師匠)に依存するなどもっての他であると教えているのです。「自灯明」とは、誰よりもまず自分を起点にして世界を観察せよと言っているわけです。

(補足2) 釈迦が、「人生は甘美である」と言ったかかどうか不明です。ただ彼は最晩年、布教のために訪れたインドの「ベサリー」という町がとても気に入ったようです。そしてその町を去るとき微笑んだと記録にあります。なぜか?自分はまもなく死ぬ。この町を訪れるのもこれが最後だと思ったからです。この微笑みの中に、どのような思いがあったのでしょうか?これまでの長い人生の道のりを思い、やっとゴールにたどり着いた時に浮かぶかすかな喜びだったのかもしれません。

(補足3) 釈迦は最後にクシナーラーというところで亡くなったと言います。起き上がれなくなった釈迦は、決して仰向けには寝ず。横向きに横たわったと言います。(この姿を模したものを「涅槃像」という) なぜなら彼は死の床にあってもまだ弟子たちの方に顔を向けて説法を続けていたからです。そして北の方角に頭を向けていました。なぜ?北の方向に特別に意味があったわけではありませんよ。彼は北へ向かいたかったのです。布教のために北へ旅する予定でした。つまり死の直前まで説法を続ける。続けたままの姿勢で死ぬ。これがこの世で充実した生を全うし、涅槃に至る道筋だからです。

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