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一切は苦


まず初めに
 ここから先が本当の仏教の話です。
前コラム「十界」で示したとおり、仏教を学びたければ出家して修行する必要があります。(補足1)
在家に諭す教えとは、善い行いをすること。そうすれば好い報いが得られる。というもの。「善い行い」とは何か?例えば人に親切にするなどの日常の道徳です。それを守れば、この世で幸せになれる。あるいは死後天上(天国)に生まれる。というものです。(補足2)
これは仏教とは違います。仏教は宇宙の真理を体得することですから。
これから話すことは本物の仏教です。だから在家の人には話しません。話しても理解できないからです。例えば、仏教の基本である「一切皆苦」は在家者に諭すと間違って解釈します。それは在家にとっては危険なことです。
仏教では在家と出家は天地ほど違うのです。あなたが本当に仏法を学びたいのならまず出家してください。出家を済ませた上であらためてお話します。

■警告!!
ただし、出家と言うと例のオウム事件が思い出されます。あのような形の出家では間違いなく身を滅ぼすでしょう。
出家に際して、最低でも以下の態度が必要です。
いかなる(宗教団体)組織にも属さないこと。いかなる人間関係にも依存しないこと。自分は一人で修行を修めるという自覚が必要。
もし以上が出来ないのであればここから先は読まないで下さい。
出家は半端な覚悟ではできませんからね。間違って片足だけ突っ込むと、人生が破綻します。捨てるべきもの(地位や名誉だけではない。よき指導者も含む)が捨てられないようでは、出家などできません。
もし本気で仏道(仏陀になるための修行)を修めたいのなら、命を捨てる(決して自殺という意味ではありません!)覚悟が必要です。
前にもお話ししましたが、出家には、一切(当然、家族、宗教的指導者(教祖)、教団も含まれる)を未練なく捨てる(金剛石のように)硬い意志(これを「菩提心」という)が必要なのです。
それをまず警告しておきます。


では、出家者のあなたにお話しすることにしましょう。

一切皆苦
 この世は苦しみばかりです。人間(他の動物も含めて)は生まれてから死ぬまで苦しみから逃れることは出来ません。しかも一人の例外もなく。
仏教ではこの苦しみのことを四苦八苦と呼んでいます。四苦の四つの苦しみとは、前にも話しました「生老病死」。このうち「生」すなわち生まれることが一番の苦しみなのは言うまでもありません。なぜなら、この「生」があったからこそ残りの「老病死」があるのです。(注)
「老い」や「病」も逃れられない苦です。この老いについては、若い人にはまだ実感がないかもしれませんが、年を取れば取るほど嫌でも分かります。今までできたことができなくなる。そして一人ではどうにもならないことが出てくる。周りに迷惑をかけざるを得ない。今年配の人で、この老いを懸念している方がいるかもしれませんが、老いというものはこんなものではありません。今はまだ序の口。もっともっと苦しむのです。気楽な老後なんて嘘です。老いは誰にとっても苦痛なのです。
そして最後は必ず死が訪れます。いくら食べても、いくら金があっても、あるいはいくら(金をかけて専門の病院に入り)優秀な医者に掛かっても、死ぬのです。生き残ることはできない。生き残ろうという試みはみなことごとく失敗に帰すのです。いわば人間は一人の例外もなく、生まれたときに死刑を宣告される。ようなものです。いつ死が訪れるかわからない。これも本質的に死刑と同じ(日本の場合、刑の執行は前日にならないとわからない)です。死刑囚よりも”若干”自由があるだけ。とは言っても「死」から自由になれるわけではない。(だから死刑などを恐れる必要はない)(補足3)
あるいは少しでも長く生きようと努力する。100歳で死ぬよりも101歳で死んだ方がいい?
そんなことに何の意味があるのでしょうか。100歳まで生きたことと、100秒しか生きられなかったことの違いって何でしょう?死ぬという点では100年も100秒も同じです。
100秒より、100年の方が(生きているうちに)多くのことを成し遂げられる。たとえば家を建てる。会社を興す。歴史に名を留める。
いいえ、生きている間に何をしようが無意味です。あなたが為したことはあなたの死後、人々の記憶から消え去るでしょう。(「死後に残るもの」参照)
(注)八苦とは四苦に加えて、
愛別離苦・・・愛するものと別れなければならない苦
怨憎会苦・・・憎らしいものと出会う苦
求不得苦・・・欲しいものが得られない苦
五蘊盛苦・・・五蘊とは、存在するものが持つ五つの特性。それらに縛られる苦。
を入れて八苦です。

釈迦だから悟れた
 この「生老病死」はどんな金持ちでも、あるいは文明の進んだ現代に生きる我々にとっても逃れ得ない苦です。よく凡夫が陥る間違いとして、世の中には苦しみを受ける貧乏人と、楽しみを味わえる裕福な人間の二通りがある。というのは嘘。特に貧しい人間にとっては、「自分は貧乏で苦しいが、王侯貴族や億万長者のように、苦しみなどない人間もいる」。そしてそういうお金持ちや身分の高い者にあこがれるのです。あるいは嫉妬する。そういう見方を捨てない限り、貧乏人はこの先何万年も何億年も、あるいは永遠に不幸のままなのです。人間は一人の例外もなく苦しみにあえぐ。苦しみだけの世界に生きている。
人間の欲望は尽きることはありません。ああなりたい。これが欲しい。など。釈迦のような経済的に恵まれた境遇の者は、望みが何でもかなえられて苦しみなどないように見えます。しかし逆にありとあらゆる快楽を味わった釈迦だからこそ、一切が苦であることを知ったのです。人間の欲望は尽きない。欲しいものが得られてもたちまち別の欲望が現れる。もっともっと欲しくなる。それが得られない内は苦しみです。だから苦は尽きないのです。
欲しいものが得られないうちは返って(苦しんでいるにも関わらず)一切が苦であることが分からない。それが得られれば苦が消滅すると思っているからです。だから苦が永遠に尽きないことが分からない。
釈迦のような生まれつき裕福な者の方が(短時間で苦が消滅するから)返って分かるのです。(分からない愚か者もいるが) どこまでも欲望はなくならない。従って苦は消えないことを。今まさに得たくても得られない貧しい者、または人間以外の獣は、自分が苦しめられているのに、苦であることが返って分からない。釈迦と違って貧しい者は、すぐに快楽が得られないからです。もし釈迦が貧しい家に生まれたなら解脱など出来なかったかもしれません。(まだ勘違いされているかもしれませんが、自分にとっての幸福あるいは不幸とは、自分が世界(周りを)を観察した結果として、自分が「幸福だ」あるいは「不幸だ」と判定することなのです。詳しくは、「幸福の定義」および図1「自分にとっての幸福・不幸とは」を参照ください)(補足8)

楽とは何か
 人生には楽もある。それでもなぜ一切皆苦なのでしょうか?
世間ではよく「楽あれば苦あり、苦あれば楽あり」と言われますが、これは苦の本質が分かっていない証拠です。人間生きている限り欲はなくなりません。欲は常に今現在叶えられるわけではないから、叶えられない間苦は続くのです。さらに人間は生きている限り常に不安です。心配事は絶えません。家族の心配、自分の健康の心配、仕事の悩み、人間関係の悩み、悩みは尽きない。この悩みや心配事をどうにかしたいのだけれど、次から次へと心配事悩みは現れてくる。どうしてもこれらを消し去ることができない。このように苦とは自分の思い通りにならないことを言います。
では楽とは何か?
楽とは苦しみがなくなった状態を指し、楽という実体があるわけではありません。すなわち苦と楽は完全に対称なものではなく、苦がなければ楽はないのに対して、楽がなくても苦は常に存在するというわけです。(図77「苦と楽」参照)
欲望が生じた瞬間それが叶えられるわけではないから、たとえ一瞬でも苦は存在するわけです。さらに一つの苦が滅しても別の苦(かなえられない欲望)が残っています。つまり「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」という考え方は、楽と苦を対称的に捉えてしまった点で、真理を解さない誤った考え方と言うべきです。まさに幼稚で世俗的な考え。それがこの「苦あれば楽あり、楽あれば苦あり」です。確かに一つの苦が滅すればそれを楽と感じるというが、楽によって苦が滅するわけではない。従って「一切皆苦」と言うわけです。
所詮”快楽”など、一時的なものです。仏教でいう「諸行無常」(次コラムで説明)によって、快楽などあっと言う間に消え失せてしまう。あるいは”快楽”など、相対的なものです。つまり他と比較して自分が優位であること(相手が劣悪であること)で満足する。またあるいは、”快楽”など所詮煩悩(後述)、すなわち動物としての生存本能欲(食べたい、飲みたい、セックスしたい)を満足させるものに過ぎないのです。(補足9) こんなものが「幸福」と言えるでしょうか?
すべては苦しみであると言うと、在家の者は悲嘆に暮れるでしょう。在家の誤解は明らかです。彼らは、(周りの人間と比べて)自分一人が不幸であり、他人は幸せだと思い込んでいる(幸せそうに見えるだけ)。このことから生じる苦悩なのです。(そうではなく、すべての人間の人生が例外なく(この世に生まれてきたことによって)不幸なのです。ただ多くの人間はそれに気づいていないだけです)しかし出家した者にとっては、自分だけが苦しいんじゃないことを悟る。生きとし生ける者はすべて苦を味わなければならない。それが世界の真理です。この世が苦であることを知っている出家者にとっては、たとえすべてが苦から逃れ得ないことを知っていても、この世が苦であることすら知らない在家よりはまし。すなわち世界の真理を正しく悟った出家者にとって、「一切皆苦」の教えは救いなのです。
この世に生まれてきた者は例外なく不幸なのです。「人生楽しくて楽しくてしょうがない」と浮かれている人間は単なる馬鹿です。ただし、この世が苦であることを知っている人間(青山およびあなた)の方が、知らない人間(その中には大富豪も王様も含まれるかもしれない)よりは(知っている分)少しだけましと言えます。この世は「苦」だと、その真実を知っている青山は、言いようによっては世界で一番幸福かもしれません。それでもこの青山は、この世に生まれてきたという点において、生まれてこなかった者に比べれば遥かに不幸なのです。世の中を見回しても、右も左も不幸。世界中探しても幸福な人間など一人もいません。幸福だと思い込んでいる愚か者はたくさんいますが。(補足10)

それでもまだ、「一切皆苦」が分からない。「楽だってあるじゃないか」とおっしゃる方へ。
 図77で示した通り、楽とは苦が解消したこと(欲望が満たされたこと)を指します。一つの苦が解消しても、他の苦は残ります。例えば、腰痛は治った(楽)が、貧乏の(生活に困った)まま(苦)。苦(不満、思い通りにならないこと)は、一つや二つではないはず。誰であっても多数存在します。無限といってもいいくらい。それらすべてが一片に解消することなどありません。図77は一つの事象(欲望、例えば腹が減った、何か食べたい)に着目しただけのあくまで例です。事象は当然複数存在します。人間は同時に複数の事象を捉えることができません。従って一つの「苦」が解消すると「楽」を感じてしまうのです。いくら楽があったとしても、その時点ですべての苦が消滅したわけではないことがご理解いただけたでしょうか?
しかしその時点では確かにその(一種類の)苦が解消されたのであるから、そこだけに着目すれば、苦は滅し、楽が生じたことにはならないか?
とおっしゃるかもしれませんね。しかしこの楽を得たことが、結果としてさらに大いなる苦を味わう要因になっている。お分かりですか?人間の欲は死ぬまで尽きることがない。一つ得られれば、もう一つ欲しくなる。つまり二つ得たいという思いが生じます。一つ得るより二つ得る方が得難いのは確かです。すなわち受ける苦も大きくなるのです。もし最初の一つが得られないままであれば、二つを得たいなどとは思わないでしょう。二つ欲しいという願望が生じた原因は、一つ得たこと。つまり楽を得たことにあるのです。すなわち大きな苦の原因が、実は楽であったわけです。それだけでも楽と苦は、対称ではないことがお分かりですか?
お金がいくらあっても苦しみは苦しみ。確かにお金があれば、この世の苦を忘れることができます。ただし、それは現実を誤魔化しているに過ぎない。お金が自然に湧いてくる。あるいは空から降ってくればいい。しかし現実はそうはいきません。お金を得るためには労働をしなければ。たくさんのお金を得るには、それ相当の苦役が必要です。
そしてもう一つ(一切皆苦の)決定的な理由があります。人間も所詮動物です。本能のまま、食べたい、飲みたい、という欲は誰にでもあるはず。さらには人間として、お金が欲しい。有名になりたい。周りから称賛されたい。人々のリーダーになりたい。などの欲も、動物としての本能的欲と全く変わりません。なぜなら動物としての本能欲は、ただ生き残りたいという生存欲の一種です。すなわち自然淘汰によって得た盲目的な欲望であり、結果として「人類」という種を生き残らせてきただけの話です。しかしこの種が生き残るということに意味などないのです。宇宙にとっては、人類など滅んでもいいわけです。恐竜が生き残って、人類が滅んではいけない理由はありません。そのような自然法則などないのです。それにも関わらず人間には、食べたいなどの生存欲(食べないと死ぬからこの欲は進化論的に必要)、あるいはお金が欲しいという金銭欲(金があれば裕福な生活ができ、結果として子孫を残せる)があります。それはすべて「自然淘汰の産物」なのです。(参照「自然淘汰とは何か」)
結局人間も種を生き残らせるというこの無意味な働き(それは偶然が支配する進化の作用)に使役されているだけだと知るべきです。図77の「本能的欲による作用」を参照願います。人間も動物ですから、生きていくために「食べたい」、「飲みたい」などの使役が起こるのです。その働き(欲)に身を任せれば、おそらく生き残るでしょう。しかし生き残ることに意味はありません。食べても飲んでも、いずれ(一人一人が)死ぬのは避けられません。つまり楽とはこういうことです。意味のない(生存)欲が起こり、それを満たしたとき、楽と感じるだけの話。この欲を満たそうとする性質をこれまた意味なく持っているに過ぎないのです。この生存欲は動物としてこの世に生まれたことによって生じます。すなわち無理やり我々が持たされたものに過ぎないのです。生まれなければ、こんな(食べたい、飲みたいという)生存欲などに使役されることもなかった。人間は誰でも本人の意志に関係なく(生まれる前に意志などない)、生まれさせられた。この一切皆苦の筆頭に「生」を挙げている意味が分かりましたか?生まれる。有無を言わさず生まれさせられるのはどうにもならないこと。そして生まれさせられたことによって、人間はこの浅ましい生存欲を無理やり持たされた。生き残るために。そして生き残ること自体に意味はありません。この理不尽な欲を持たされたことによって、そして仮にその欲を満たしたとしても、そこには本当の「楽」などないのです。そこにあるのは奴隷としての快楽です。なぜなら無理やり持たされた(奴隷としての)欲望ですから。
人間もあくまで動物です。しかし同時に自分が何者であるかを知る存在です。自分が浅ましい動物的欲望(これを仏教では煩悩といいます)に支配されて、意味のない人類の生き残りのために使役されていることを知れば、それを脱しようとするのが人間ではないでしょうか?本当の楽。楽というよりも「幸福」はその先にあるのです。すなわち、動物的な本能欲を満たしたもの。例えば財産や名声の獲得。あるいは煩悩によって使役された欲を満たしたもの、例えば成功や人望の獲得。それがいかなるものであっても、そこで得た楽はまやかしです。そこで得られた幸せは偽りなのです。後でも説明しますが、この「煩悩」(動物的本能)がすべての苦の要因なのです。煩悩は生きている限り無くなりません。すなわち人間は生きている限り、すべてが苦しみなのです。
以上説明が長くなりましたが、結論としていかなる論理を用いようとも、「一切皆苦」を否定することはできないわけです。

今この瞬間が”苦”
 すべての人間は今まさに苦の極致、苦しみのどん底なのです。ただし、多くの人はそれに気付いていない。まやかしの楽に浮かれているだけ。愚かです。しかし、いつか必ずこの苦しみを味わうことでしょう。
この瞬間に一切の苦がある。息をするのも苦しい。瞬きをするのも苦しい。身を横たえるのも苦しい。手を上げるのも苦しい。寝ていても苦しい。心臓を動かすのも苦しい。この世で生きている限り、何もかも苦しいのです。

なぜ一切皆苦は強調されないのか?
 一切皆苦は、仏教の真理です。しかし今日寺院でも僧侶も余りこの一切皆苦を強調しません。なぜでしょう。一切皆苦の教えでは、人生が悲観的になります。在家の者にそれを諭せば、もしかしたらうつ病になるかも?またはそれが高じて自殺に至るかもしれない。あるいは人生投げやりになる。そして何より大衆が世の中に対して消極的になる。すると皆物を買わなくなる。結果として景気が後退する。
喜びや快楽なんてものは、全て商業主義が作り出した虚構に過ぎないのです。企業は物を売るためにコマーシャルや宣伝活動を行う。そのCMに使われるタレントやスポーツ選手は、報酬を得る代わりに笑顔を演出するという苦役を行わなければならないのです。彼らの顔を見れば、そこにあるのは作り物の笑い。本心から幸福を感じていないことがすぐに分かります。
在家に一切皆苦を諭さない第一の理由は”物が売れなくなる”からです。政府が必死に進める景気対策の効果が期待できなくなる。政治家、および財界人たちはそれを恐れているのです。つまり今テレビなどで流されている明るいニュースや希望に満ちた話題は、大衆を絶望的な現実から目を背けさせるために造られた模造品。全部嘘!全部インチキ!すべて誤魔化しです。現実は暗いニュース、絶望的な話題しかない。状況は最低最悪。これが紛れもない真実です。この世は正に何一つ希望のない地獄そのものなのです。それが証拠に、周りを見ても、苦しみにさいなまれている人ばかりで。逆に喜びに満たされている人なんか一人もいません。(幸せだと思い込んでいる愚か者はいますが)
しかしこれは仏教の教えを歪めていることに他なりません。出家者にはちゃんと仏教最大の真理である「一切皆苦」を教えています。なぜならこれが分からないと仏教のすべてが分かりません。しかし在家には教えません。だから在家は永遠に悟れない、愚かなままなのです。
あなたは騙され続けてきたのです。生まれた時から。この世には楽しいこともあると。子供の時に親や周りの大人に言われたこと。あなたはその嘘にとっくに気付いているはずだ。あなただけではない。世の中のすべての人間は騙されているんです。仮に親が騙したとしましょう。しかしその親も自分の親に騙されてきたのです。さらにその親も騙された。それが延々と続いている。この騙している大もとの人間なんかいません。政府、政治家あるいは宗教、教祖が騙しているわけではない。みなで騙し合っているのです。あなたも騙されてきたと同時に騙してきたのです。(補足11)

仏教の根本思想
 仏教の課題は苦の解決。苦を知れば仏法を半分理解したことになる。ただし、知らなければ100段ある仏法の教えに対して1段も登っていないことになります。
苦の徹底的な理解。すべての人間、一切の衆生(生き物)は生まれてこない方がよかったと言えます。なぜなら、この世に生を受け者は例外なく苦しむ。釈迦やイエスも例外ではない。どんな金持ちでも、どんな有名人でも、どんな歴史上の人物も、一人残らず生まれてこない方がよかった。(なぜなら生まれてきた者はみな必ず苦しむから) 親や周りの大人たちが子供に向かって言います。これから楽しいこと嬉しいことがたくさんあるよ。そんなことはすべて嘘です。人生は苦しみと悲しみしかないのです。こんな世の中になぜ生まれてきたのか?
世間一般の人に、「あなたは生まれてこない方がよかった」なんて言うときっと怒るでしょう。
生まれてこない方がよかったのは、あなただけではありません。皆全員です。金持ちだろうが貧乏人だろうが、どんな身分に生まれようとも、あるいは人間だろうが、飼い主に可愛がられている犬や猫だろうが、みな例外なく生まれてこない方がよかったのです。(なぜなら生まれてきた者はみな必ず苦しむから)
「生まれてきてよかった」と言っている人も含めて。誰もが生まれてこない方がよかったのです。(なぜなら生まれてきた者はみな必ず苦しむから)
そう言ったとしても人によってはまだ怒るでしょう。テレビで有名なあの人もこの人も、世間で知名度のあるあの人もこの人も、例外なく生まれてこない方がよかったのです。誤解してほしくことは、生まれてきて良かった人間と生まれてこない方が良かった人間の二通りがあるのではなく、すべて生まれてこない方が良かったのです。
ただし、人間は一旦この世界に生まれてきた以上悲しいことに、生まれる前の状態に戻ることは絶対に不可能です。泣いても叫んでも、あるいは親をどれだけ恨んでも、もうどうにもならない。どうにもならないからと言って、「一切皆苦」の方を否定する。「一切皆苦」は間違いであり、「最近の調査では釈迦がそんなことは言っていなことが明らかになった。一切皆苦は、仏教最大の誤解だ」と。一切皆苦が正しいか正しくないかは、釈迦が言ったか言わないかは別にして、自分で世界を見渡して確かめてみればいいことです。生まれてきたことが絶対に否定できない以上、一切は”楽”だと思い込む。あまりにも安易でそれは”けだもの”の発想ですよ。
つまりこれは真理なのです。この真理を理解することなく、悟りを得ることは出来ません。
このぐらい、苦を徹底的に強調しなければ、(こらから先の)仏法は理解できません。(補足12)
今日の仏教のように苦をあいまいにする。あるいは強調しない姿勢では、一切皆苦は理解できないでしょう。これが理解できないなら仏教もまったく理解されないのに等しいのです。
人類は長い歴史の中で、この「一切皆苦」を隠してきたのです。よく若者の自殺が深刻な問題として取り上げられます。周りから、「人生楽しいこともたくさんある」なんて騙されながら生きてきた。しかしそれが大嘘であることに気付き絶望する。周りは幸せに見える。自分だけなぜ不幸なんだ。苦しい。生きているのが辛い。死にたい。しかし真実は人間誰であろうと苦しいのです。生まれてこない方が良かったのです。あなただけではない。全ての人間は不幸なのです。それを教えないで誤魔化してきた結果が、若者たちの自殺を食い止められない現実です。我々大人は一切の誤魔化しを排して、今こそ真実を語る時ではありませんか?

 人間は何のために生まれてきたのか?生まれてきた目的などありません。なぜなら人間は例外なく自分の意志で生まれてきたわけじゃないから。生まれる前は存在していませんから、当然意志もありません。(補足13) 人間は幸福になるために生まれてきたと言う人がいますが、それは嘘です。この世に生まれてきた者は間違いなく苦しむのです。この世が天国のように素晴らしいところならわかりますが、この地獄のような世界に敢て生まれてくる者なんかいません。(補足14) この世界でどれだけ幸せになれたとしても、生まれてこない人間の方が比べものにならないくらい幸せなのです。その点からいえば、この世に生きている限り大金持ちもホームレスも(幸福度は)あまり変わりません。この世に生まれてきたという点で既に”不幸”なのです。人間はこの世でどれだけ幸福を得たとしても焼け石に水です。無駄な努力です。正に人間は苦しむためだけに生まれてきたのです。
この世は苦しみ、まさに地獄です。しかし逆にそれを知ると、この世以上の地獄はないことになります。今まさに最低の地獄を味わっていることになります。だからむしろ希望が持てるのです。これ以上落ちることはありません。(逆に、この世が最低の地獄であることが分からない人間は、もっともっと落ちる)
これ以上の地獄へ落ちることはない。だから怖いものはない。我々は何ものも恐れず、やりたいことができるのです。

(補足1) 出家して修行している者を僧侶といいます。今日日本でも僧侶は沢山いますが、大半は勘違いしているようです。僧侶の仕事は、自らの修行であり、人々の救済ではありません。

(補足2) ジョン・レノンの歌(注)の通り天国なんかありませんから。それは在家者に対する方便です。死後天国に行けると思えば皆善人になろうとするでしょう。そして善い行いを続けていけば、心が善良になり、いつの日か本格的に仏教を学びたいと思うでしょう。そのとき出家すればいいのです。
つまり在家が到達できる最高点は天上界に生まれることなのです。
(注)有名な曲「イマジン」の歌詞

(補足3) 宗教の中には死後の世界を説いたり、永遠の命などをうたっているものがありますが、死にたくないという人間の願望(補足4)が生み出した虚構です。その点仏教は死後の世界を否定しているのですからまともです。もし仏教が死後の世界を肯定しているなら、生老病死など説かないでしょう。(補足5)

(補足4) この死にたくないという願望があったからこそ人類は生き残っているのです。これも結局自然淘汰の産物です。

(補足5) 今日、特に日本の仏教では死後の世界、あるいは地獄、極楽を説きますが、あれは皆間違いです。後で出て来ますが、仏教では「無我」を説きます。つまり自分としての根本主体である「我」などというものは存在しない。それが仏教の根本です。自分の主体がなければ、死後も生き残る「霊魂」などもない。
仏教では、輪廻や業(ゴウ)を説きますが、それも誤解しています。そもそも我がないのに輪廻転生などありえません。輪廻とは原因と結果があくまで”この世”で(当人は死んでいる(消滅している)にも関わらず)繰り返されることを意味します。(補足6)
「業」とはこうです。ある人間がこの世でとてつもない犯罪(何十人もの人を無残に殺した)を犯した。その被害の影響は犯罪者が死んでも(死刑になっても)ほぼ永久に(この世に)残るという意味です。
つまり輪廻も業もこの世で完結しています。当り前ですが、死んだ人間には関係ありません。業は生きている我々が背負っていかなければならないものなのです。(補足7)

(補足6) 仏教の本質であるこの「一切皆苦」を理解せず、一時的な楽しみに浮かれている者は、その後に訪れる苦を忘れ、(動物と同じように)この苦と楽を永遠に繰り返す。それを「輪廻」に譬える。「輪廻」とは無知ゆえにこの愚かな繰り返しを永遠に続ける様を言う。この「輪廻」からの解放を解脱といい、それは生まれないことを意味する。生まれるが故に苦があり、且つ表面的な楽がある。子供を生み続けること、この営み(動物的な本能によって親が子を産み、子が孫を産む)を繰り返せば、苦しみから永遠に解放されない。この苦しみにとらわれている様を輪廻(繰り返し)と表現するのである。「輪廻転生」などない。世界をただ「空」と悟れば、輪廻を繰り返す状態から解放されて二度と生まれない。それを涅槃という。つまり「輪廻転生」を信じている者は苦しみを繰り返し(自分が死んでもその苦しみを子供が引き継ぐ)永遠に救われない。「輪廻などない」すなわち”無我”を悟れば、輪廻を脱して二度と生まれることなく、二度と苦しみを受けることもない。

(補足7) 死んだ人間が業を背負ったまま死後に赴くなんておかしい。なぜならこの世界からその業の分が消えることになる。それはこの世の原理(法則)に反する。
犯罪を犯した者が、そのまま罪を償うことなく消滅する(死ぬ)のは不公平だと言う人がいますが、まったくこの宇宙の原理を理解してないとしか思えませんね。あなたに問います。公平不公平って何?そんな決まりこの世にあるの?それは人間が故意に作った法律(刑法)だね。そんなものが宇宙の原理ですか?
その犯人が犯罪を犯すのを止められなかった、あるいは犯罪を犯した者に罪を償わせることができなかったあなた自身にも責任はあるんじゃないですか?その責任を棚に上げて、不公平だの図々しい話だ。あなたは反論するかもしれない。「どうしてまったく関わりのない犯人の犯罪を防止する義務がこの私にあるんだ!」と。あなたもこの社会で生きている以上無関係だとは言えないよ。事前に犯罪を防止することだって絶対に不可能とは言えません。誰がどれだけ責任があるかという責任の分界点だって、あなたがあるいは法律が勝手に解釈しているだけでしょう。あなたはそれが気に入らなくて、あるいは自分が後悔するのが嫌で、死後の世界のなんてものを作り出しているだけでしょう。それは結局誤魔化しですよ。

(補足8) 釈迦のような贅沢な家に生まれた者とは反対に、食べるものさえ手に入らない者がいるというのに、釈迦が「人生は苦だ」と言ったのは罪しらずな人間だと、憤る方がいるかも知れない。裕福な家に生まれたことを感謝すべてきであると。それは大きな勘違いだ。もしも世の中に2グループがあって、一つは裕福または五体満足、今一つは貧乏または障害を持って生まれた。自分がいずれのグループに属するかなんて一切関係ない。ようは世界に一人でもそのような不遇な生が存在すること自体、この世は苦である、あるいは理不尽だと言える。この世が理不尽だから(不幸な人間が一人でもいるから)、釈迦自身苦しい。苦しくて苦しくてしょうがない。なぜ不幸な衆生が存在するのか!釈迦はそのことを言っているんです。自分の境遇のことを指して、幸せだ。不幸だなんて、釈迦はそんなバカではありません。

(補足9) 人間を含めた生物は、自然淘汰によって進化してきた。その過程で食べたい、飲みたい、死ぬのは嫌だという生存欲が身に着いたのです。それを先祖から受け継いでいるに過ぎない。もしこの生存欲がなければ人類は死に絶えているでしょう。しかし人類が生き残らなければならない理由はないのです。猿が生き残り、代わりに人類が滅亡してはいけない理由はこの宇宙には存在しません。(「自然淘汰とは何か」)

(補足10) 「一切皆苦」を知っている人間は、ある意味(自分は幸福だと思い込んでいる)大富豪や王侯貴族よりも”幸せ”だと思いますよ。しかし幸せだと言っても他の人間によりもほんの少しましだという意味です。その人間が幸せなのではなく、大多数の人間が”不幸”なのです。つまりこの世に生まれてきたという時点で、生まれなかった人間に比べれば遥かに不幸というわけです。

(補足11) これが”集団洗脳”の正体です。洗脳している大もとなどない。社会を支配している悪の秘密結社・陰謀組織が我々を洗脳しているわけではありません。つまり自分で自分をだましている。と同時に他人も自分をだましている。と同時に自分も誰かをだましている。もちろん無意識的に。従って、自分がだまされている。あるいはだましていることに気づかない。これが洗脳です。
何が洗脳しているのか?強いて言えばそれは人間の脳に最初からプログラムされている動物としての本能です。「人生は苦しみばかりではない」、「楽しいことだってたくさんある」そう信じて疑わない。こういう具合にネガティブには考えない。考えようとしない。誰かに命令されたわけでもないのに、「楽しいことを考えなければ駄目だ」、「何事も前向きに」(何だかインチキ宗教?)、この世が苦しみだなんて、考えてはいけない。と教えられている。考えたら何か罰があたると、自分で自分を脅している。恐怖におびえているのです。しかしそれに気がつかない。意識できない。洗脳というものはそういうものです。

(補足12) この「一切皆苦」の思想だけを、少なくても20年以上考える。具体的には、過去も含めて世界中のありとあらゆる苦しみ悲しみのみに目を向ける。この世の中がこれほど悲惨なものだということを嫌と言うほど思い知る。これでもかこれでもかと言うほど繰り返し見る。見たくないこの現実を見る。それはとてもつらいことです。だから在家には無理かもしれません。しかし現実から目を背ければ真実を知ることは不可能でしょう。この世には悲劇しかないのです。この世の楽しみ喜びは全てまやかしです。
話が少し逸れますが、青山は新聞の社会欄と国際欄しか読みません。政治欄、特に経済欄はまったく興味がありません。社会欄でも、例えば芸能ニュースなどは一切読みません。社会的事件、特に悲惨な事件の全容を知り、その要因が何かを、何日もかけて考察するのです。それははっきり言って辛いことです。精神的に参ってしまいます。しかし現実から目を背けたくない。真実を見ずして、その解決方法は得られない。ただそれだけです。

(補足13) よく世間では、「甘えるな!世の中は厳しんだ!」とよく言われますよね。ではなぜこんな厳しく辛いこの世に生まれてきたのか?自らの意志で生まれてきたわけじゃない。好き好んでこんな厳しい世の中に生まれた者などいない。だったら人間はみな不幸ですね。

(補足14) 世の中には、「この世は天国に思える」と言う人がいますが、なぜこの世が天国に見えるのでしょうか?地獄に見えるなら生まれてくること自体不幸です。だったら子供も産まないでしょう。そういう人が増えれば人類は生き残れません。人類が現代まで生き残っているのは、この世が素晴らしいという観念を植え付けられているからです。すなわちそれも(この世が天国に思えるのも)「自然淘汰の産物」に過ぎないのです。それに対して”この世が苦”というのは論理的に正しいことが証明できるのです。

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