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自殺について


 自殺をすることはなぜいけないのでしょうか?人が自殺するところを見たら、なぜ止めようとするのでしょうか?

 この世の中は苦しいこと、辛いことだらけです。楽しいこと嬉しいことなどまったくありません。生きているのが辛い。いっそ死んでしまおう。そう思ったことはありませんか?
確かにこの世界には楽しいことなどありません。釈迦が言うように一切は皆苦です。「いやいや楽しいこともあるでしょう」と言う人は、この世界の本質が分かっていない。楽しみや喜びなんて所詮は作り物、偽物、ごまかしです。「人生は楽しい」あるいは「今、最高にハッピー」と言っている人はただの無知です。いずれ快楽は空しいものに変わるでしょう。(注)
(注)仏教の話、特に「一切皆苦」については、また別途説明します。
 ところで自殺をする人はなぜいるのでしょうか?人生が辛いから?悲しいから?空しいから?生きる希望がないから?けれども大部分の人にとっても人生はやはり辛いのです。だからと言って自殺はしません。自殺をする人間は一部です。しかし、自殺をしない人でも、人生が素晴らしいから死なないのではありません。単に死にたくないのです。死ぬのが怖いのです。それでも自殺する人は、怖いよりも辛い方を何とかしたいのです。

 この青山は、今までに自ら死にたいと思ったことは一度もありません。よく気丈な人が「わたしは殺されたって死なない」と言いますが、殺されたら誰だって死にます。この青山だって殺されたら死ぬでしょう。青山は逆に、「殺しても死なない」と言うわけです。(←意味不明かもしれませんが)
青山にとって生きていることが一番空しく感じることとして、それは電車やバスにもう一歩で乗り遅れてしまったとき。次の電車が来るまで何と10分も待たなくちゃならない。それはとても悲しいことです。この青山にとってはね。
青山が自殺しない理由は、これまで余り悲惨な目に遭ったことがなかったというもの。人生の試練なんかも体験したことがない。結構のんきに暮らしているからです。不安や恐れがあっても、「まあ何とかなる」、「なるようになるさ」という風に気楽に構えています。毎日が気楽なのは、新しいことに挑戦しようなんて思わないから。何かを始めようとも思わない。別に何かしたいことがあるわけじゃないし。昔からそういう性格だから。それが悪いとも思っていない。前回話した通り、人生に意味はない。人生、何かをしなければならないことなどないと考えています。このまま何もしないで一生を終えても、それはそれでいいのではないかと思っています。さらに世の中のことも真剣には考えません。世界なんてどうなっても構わない。国が滅びようが、あるいは人類が滅亡しようが、大したことではない。なぜなら世の中がどうなろうと、自分も他人も皆いずれ死んでしまう。どうせ死ぬならそんなことは関係ないじゃないか。今やりたいことをすればいいだけです。別にやりたいことが何もなければそれはそれでいい。このまま何もせずに時間が過ぎていく。それでもいい。何とも楽観的です。
まあ、この世に生まれてきたことを今さら嘆いても始まりません。自分の意志で生まれてきたわけじゃありませんから。もし自分の意志で生まれたのなら、生まれてきた結果に対する自分の責任というものがあるはず。逆にそうじゃないとしたら、何事も自由。どこまでも自由ということです。生まれてきたということ以外は何一つ神から課せられたものはない。何も恐れる必要はないし、遠慮する必要もない。だから何でもやりたいことをやればいいのです。だからと言って青山は、単なる動物としての欲望に生きたいとは思いません。食べたい、飲みたい、お金が欲しい、有名になりたい。これはみな自然淘汰によって培われた動物としての本能です。それは欲望に使役されたただの奴隷です。そうではなく人間として生きる目的を自覚し、やるべきことをやる。やるべきこと=本当にやりたいとこをやる。ただ、やるからには命を掛けてやる。中途半端なことは一切しない。ただし、青山のペースで青山のやり方でやる。青山としてはいつ死んでもいい。次の瞬間死んでも構いません。この「科学概論」を書いて、皆様にご提示するのも、このやりたいことをやっているに他ならないのです。

 話を元に戻して、自殺がいけない理由を考えましょう。そもそもいけない理由なんかあるのでしょうか?(補足1)
・人生苦しくても生きなければならない理由はない。
・頑張って生きてもいずれ死んでしまう。
・そもそもこの世に生まれてきた意味などない。(生まれてこなくてもよかった)
・結局自殺するしないは本人の自由。
にも拘わらず自殺を止める理由とは?
とにかく目の前で今自殺しようとしている人を見たら、あなたは止めるでしょうか。その時何と言って相手を説得しますか?何も言えませんか?「とにかく死んではいけない」と言うだけですか?「バカ野郎!甘ったれんな!」とただ怒鳴るだけですか?「世の中にはおまえよりも辛い思いをして、それでも頑張って生きている人もいるんだ!」そういって説教しますか?これらは皆自分勝手な、ただ相手に自殺されたくないという自分の欲のために止めただけです。あなたは嫌なのです。自殺されるのが。相手ではなくあなたが辛くなるからです。
つまり自殺した者が苦しむのではなく、自殺された方が苦しむのです。自分は苦しみたくはない。だから自殺者を止める。なぜ自殺を止めたいという感情(欲望)が起こるのでしょうか?それはまったくの本能です。つまり理由などありません。
強いて言えば自然淘汰です。人類という種を生き残らせるために。可愛そうな人を助けたいという本能。その本能があなたに備わっている理由は、仲間と共生する(助け合う)という働きがあったからこそ、あなたを含む人類は今まで生き残ってきたのです。
ただし、本能的(自殺されたら自分が困るという理由のため)に自殺しようとしている人間を見てそれを止めようとしても、それだけでは駄目です。
人の行為を止めさせるには一方的な力だけでは不十分。相手が納得するそれなりの説得力が必要です。
相手にしてみれば自殺をするからには何かしらの理由(借金とか病気とか、その他)があるはずです。それをその人間に代わって解決してあげるとこができますか?(自殺を止めたからには、止めた方にも責任はある。「なぜ止めたんだ」と問われたときに、理由を説明できなければならない) できなければ、ただ力ずくで止めているに過ぎない。
もしあなたが経済的な理由(莫大な借金)で自殺しようとしていた人を止めたら、その借金をあなたが肩代わりするくらいの気持ちがありますか?もしその気がなければ、相手は自殺を思いとどまらないかもしれない。なぜならそれが自殺の根本原因だからです。それ(借金)がなくならない限り自殺を取りやめる理由がないのです。
もしくは自殺が本質的に駄目な理由を相手に説明して納得させる。上記4つのこと(・で示した自殺肯定論)を覆すほどの、自殺が悪い理由を相手に説明する必要があります。あなたにそれができるでしょうか?(補足2)
とにかく「自殺は悪いことなんだ!」、「絶対に自殺してはならない!」と論もなく否定するだけでは、相手は納得しないかもしれませんよ。
相手がなかなか納得してくれないのに業を煮やし「ここまで説明しているのに、まだわからないのか。おれはおまえのために、自殺を止めてやってるんだ。」
相手のために自殺を止めてやっているような言い方ですが、それは嘘です。自分が自殺されたくないのです。
すると最後には開き直って、「だったら勝手に死ね!」。
まあ相手が見ず知らずの他人ならそう言うかもしれませんが、もしそれが自分の子供だったら、「勝手に死ねば」なんて口が裂けても言えませんよね。もし言えるのなら、親として失格。「早く首をつりなさい」と言ってやりたいくらいです。

 じゃあ青山は自殺を止めないのか?と問われれば、やはり止めると思います。青山自身が相手に自殺されるのが嫌だからです。場合によっては力ずくで止めるかもしれません。ただしそれだけではありません。本質的に人間には皆慈悲と言うものがあります。(この青山にも多少ながらある)
慈悲とは自分のためではなく相手の幸福のために何かをすることです。(それも含めて最終的には自分のためですが)
だからたとえ相手が見ず知らずの他人でも自殺を止めるのです。自殺を止めても青山にとって経済的なメリットは何一つありません。それでも自殺を止めようとする目的は、相手を幸福にしたいがためです。
しかし止めたからには、相手に対して「自殺がいけない」理由を明確に説明する必要があります。その理由はあくまで相手が納得するものでなければなりません。自分だけが理解していても駄目です。
この青山は「自殺がいけない」決定的な理由を知っています。しかも上記4つの・で示した自殺肯定論を覆すほどのものです。しかも本質的です。では、その理由とは何でしょうか?
答え:人間は自分で自分の命を絶つことはできない。人間は生きている限り(自殺しようとしているまさにそのときでも)幸福になるために生きている。すなわち幸福になろうとして、首に縄をかける。ビルの屋上から飛び降りる。電車に飛び込む。劇薬(青酸カリ)を飲む。ピストルを頭に当てて引き金を引く。
これはすべて幸福になりたいがための行為なのです。人間は生きている限り何時いかなる場合でも幸福になろうとするのです。あえて不幸になろうとする人間なんかいません。(「幸福の性質」参照)
しかもあの世ではなくこの世で幸福になりたいのです。なぜならこの世でそのための行為(この場合は自殺)を行っているからです。(自殺しようとしている時点ではまだこの世に生きているのです。そしてこの世から見ればあの世は”無”です。)
しかし、結果的に幸福になった者は一人もいません。その行為を行った次の瞬間死んでいるからです。ようするに幸福になろうとして行った行為が、結果幸福にはなっていない。幸福どころか不幸になっている。もちろん死んでしまった後は存在していませんから幸福も不幸もありませんが、自殺した者はこの世に不幸を残して行くのです。それは自殺した本人にはもはや関係ありません。自殺されたわれわれが不幸になるのです。だから(われわれ)青山は止めたい。と同時に幸福になろうとした行為が間違いであり、不幸になってしまっていることに気づかせてあげたいのです。
それは一瞬(自殺を試みてから死亡するまでの間)であるが、自殺した人間にも分かることです。かつ自殺された我々にも分かる。というより、ほぼ永遠にその不幸を背負わなければならない。それは実に悲しいことです。
つまり相手は間違った行為をしているわけです。その間違いを正してあげること。それが相手に対する慈悲です。青山にとって自殺を止めるということは、その間違いを正してあげることに他ならないのです。
この首に縄をかける。ビルの屋上から飛び降りる。電車に飛び込む。劇薬(青酸カリ)を飲む。ピストルを頭に当てて引き金を引くのは、生きる上の行為(生き残るための行為ではない)であって結果的に死んでいるたけなのです。(補足3) 死ぬつもりがなくても結果的に死んでしまうことは、事故などでたくさんありますよね。車を運転中ハンドルを切り間違えて死亡。ハンドルを切らなければ死ななかった。それ以前に車を運転しなければ死ななかったのです。
あるいは、自殺したつもりが、死ななかった。助け出された。ということもよく起こりますよね。つまり自殺未遂です。
要するに命を停止させるさせないは自分で決められないのです。命をつかさどる者、あえて言えばそれは神です。人間は命そのものを扱えない。命を(無から)作り出すこともできないし(子供を生む行為は人間が命を作ったわけではありません)、命を消し去ることもできない。(補足4) 結果的にそうなっている。そうしたのは人間ではなく神です。
ではなぜ人間は自分で自分の命を絶つことができないのでしょうか?コンピュータ(パソコン)を使って説明しましょう。
コンピュータが自動的に電源を切る行為は、人間が自殺する行為と実によく似ています。(違和感のある言い方ですが)
コンピュータはなぜ自分で電源を切ることができるのでしょうか。図78「コンピュータの電源オフ」を参照願います。
コンピュータの大もと、すなわち命令を発するところ、人間では頭脳に当たる部分は、CPU(中央演算装置)と呼ばれています。コンピュータはこのCPUから信号を受けて全体が動作します。ところがCPUはCPU自体を停止させる。つまりCPU自体に命令を出すことができないのです。
コンピュータが電源を切る仕組みはこうです。
まずCPUが電源回路に電気の供給をストップさせるように命令を出す。
その命令を受けて電源回路は、電気の供給を止めます。
電気の供給がなければCPUも動作することができませんので、停止するほかない。
人間の場合は、脳が他の部分(手や足)に命令を下して、首に縄をかける等の行動をとるのです。その結果として、脳が(破壊されたり、血液が送られず)動作しなくなり死亡するのです。
コンピュータと実によく似ていますね。
因みに一旦停止したコンピュータは自然には起動しません。人間が電源ボタンを押さない限り動き出しません。その電源を入れる動作こそ、コンピュータに命を与えるための行為。すなわちコンピュータにとって人間は神様と同じです。
世間ではよくあること。相手に自殺させたくないために嘘をつく。たとえば「あなたが癌ではありません」、「あなたが死んだらみんなが困る」、「自殺したら地獄へ落ちるぞ」、「人生には誰だって生きる意味があんだ」これらはみんな嘘です。そんな嘘をつくよりも、たとえ相手を絶望させたとしても、真実を語った方が相手のためだと思いませんか?なぜなら嘘はいつかはばれるから。人間はいつか必ず死ぬのです。そのとき嘘を信じたまま、騙されたまま死んでいくのか、それとも真実を悟って死んでいくのか?どちらが幸せだと思いますか?
 もしあなたが過去に非常に悲しい事が有りそれ以来絶望の日々を送っている。あるいは毎日が苦しくて苦しくてしょうがない。いっそ死んでしまおうと思っていたとします。あなたは毎日死の誘惑に駆られています。死ねば楽になれると。誰の慰めもない。救いもない。そんなあなたに生きる力を与えるとしたら。それは「何のために生きるのか」と言う生きる目的。それが明らかになれば、どんなに苦しくてもどんなに辛くても、それを乗り越えていける。かもしれない。否、生きていけます。必ず。
一言だけ述べます。詳細はこれ以降に書きます。あなたは自分のために生きていませんか?自分の幸福のために。自分が救われることを願って。それでは強い力は得られません。では何のために生きれば強い力、「自分のため」よりも遥かに強い生きる力が得られるのか?それは自分のためではなく、人のため誰かのため隣人のために生きることです。たとえあなたが今病床に臥せっていて、手足も動かせない。口を利くこともできない状態であっても、人のためにできることが必ずあるはずです。あなたは生きているだけでも、人のためになっている。人の支えになっているかもしれないのです。
まあ、それも焦らないこと。無理しない。急がない。あまり深刻に考えない。気楽に生きましょう。人生何とかなりますよ。会社の倒産、難病、国家体制の崩壊。すべて小さなことです。あまり気にしない。その内何とかなるさ。どんな境遇になっても、人間はいつか慣れます。

結論
 人間は自分で自分の命を絶つ、つまり自分を消滅させることはできない。人間の行為はすべて幸せになりたいがための行動。しかし自殺によって幸せにはなれない。だから自殺を止めようという訳です。それは相手に対する慈悲に他なりません。
自殺した人間も、死にたいわけではない。実は生きたいのです。本当は(この世で)幸せになりたいのです。幸福になりたくない人間なんかいません。
ただし、青山がどんなに止めようとしても相手はそれを振り切って自殺されてしまうかもしれない。もしそうなったらそれはそれで仕方がないと思っています。だって自殺するのは本人の自由ですから。
しかしここでもし青山がその相手の自殺を止めたのなら、青山には責任があります。青山がその人に生きる力を与えなければならないのです。そうでなければ、なぜ止めた、という事になります。自殺の理由はさまざまです。ただし、青山には借金や不治の病を抱えた人に処置を施すことができません。お金も病を治療する医学の技術もないからです。それでも自殺を止めたのなら、少なくとも生きなければならない理由をその人に語る義務があります。
もちろん青山はそれを語れる。そしてどんな人間であっても(どれほど絶望の縁にいる人間に対しても)、自殺を思いとどまらせる自信があります。その生きる目的こそがこの「科学概論」の最終テーマ。それをこれから語っていこうと考えています。

最後に一つだけ
 世の中には「自殺は絶対にいけない。苦しくても最後まで生き抜く、それが人間だ。」と言う人がいますが、その人はこれまでにそんな自殺したいほど深刻な目に遭ったことがないのかもしれません。(青山は遭ったためしなし) 否、自分はこんな辛い境遇に遭った。何度も自殺しようとした。しかし思いとどまった。
分かりました。あなたはとても強い。ただし、恐らくですが、あなたも最後には自ら命を絶つかもしれません。
大部分の人間、どんなに精神的に強い人でも、とても自殺などしないだろうと思われるような人、自殺は絶対にいけないと日ごろから言っている人も、最後は飛び降りる、つまり自ら生きるのを止めると思いますよ。死ぬとわかっていながら。
それはどういうことかと言うと、人間は普段それほど苦しくはない。中には今にも死んでしまいたいと思うほど苦しい人もいますが、大抵の人は、そんな今すぐ死にたいほど苦しくはない?でしょう。それは山歩きにたとえるなら、足下は崖ですが、それほど危険ではない。木の枝や岩など何かにつかまらなくても普通に歩ける程度の道を歩いている状態を指します。
しかし最後に病気になるとしましょう。たとえば全身癌に侵される。あなたは末期癌の状態です。苦しい。痛い。今日明日にも死ぬところまできています。あなたは精神を強く持ち、何とか頑張ろうとする。しかしその気力も限界です。生きようとする力をどこまで維持できるか。それは登山でたとえるなら、足場は一切なく、あなたはただ腕一本で一つの鎖に捕まりながらどこまでも進まなければならない状況と同じです。腕一本でどこまで自分を支えられるのか?腕が痛くてたまらない。腕に力が入らない。もう限界だ。しかしここで鎖を離せば千尋の谷底に落ち、間違いなく自分は死ぬ。それが分かっていながら今ここで腕を離すことは自殺行為です。しかし永久に腕を保持していることはできません。あなたは、いや誰だって、自分で腕を離しますよ。最後にはね。それはまさに臨終の縁で苦しみ抜いた末に、気力体力共に限界に達して、最後に生きようとする力を自ら放棄することに似ています。
鎖から腕を離した瞬間、あなたの体は宙に浮く。そしてとてもいい気分、穏やかな気持ちになって、救われるでしょう。死とはこういうことです。あなたもいずれ体験するかもしれません。

(補足1) 自殺は自意識を持っている人間だけが行うことができる行為です。犬や猫は決して自殺などしません。なぜでしょう。犬や猫は自分が「幸せだ」あるいは「不幸だ」とは思わない。犬や猫だって喜ぶときはある。悲しむことはある?かもしれない。しかしだから「俺は幸福だ」とは思わない。主人から冷たくされたから、「俺は不幸だ。死にたい」とは思わないでしょう。犬や猫は自分が幸福、あるいは不幸だという自覚を持てないのです。

(補足2) 死後の世界肯定論者の中には、自殺が悪い理由として「自殺をした者は地獄に落ちる」なんて、あたかも見てきたようにいい加減なことを言う輩がいますが、そんなことは100パーセント嘘です。やんごとなき事情でやむを得ず自殺をしてしまった人に対して、同情心を持つどころかさらに悪く言う態度には本当に怒りを覚えます。その人間に自殺をさせてしまった、自殺を止められなかった罪は我々(世の人間すべて、即ちあなたとこの青山)にあるのです。結果として自殺が悪いということを相手に説明できなかったわけですから。自殺してしまった者に罪などありません。自分の罪をさしおいて、「自殺をした者は地獄に行く」なんて本当に不愉快な考え方ですね。
ただし、自殺は絶対にいけない。今もしあなたが自殺を考えているとしたら、どうか思い留まってほしい。それがこの青山の願いです。

(補足3) 人間の行為はすべて生きるため(幸せになるため)であり、生き残るためではない。

(補足4) 人間は他人を殺害することもできない。ある人間が行った行為(たとえば相手の心臓をピストルで打ち抜く)の結果、相手が死ぬか死なないかは神が決めることです。

 近年人間の「生きる権利」というものが、声高に主張されます。何人も(いかなる権力からも)生きる権利を阻害されない。という意味です。では死刑囚にも、生きる権利はあるのか?殺されない権利、死刑を逃れる権利です。(補足5) もちろん法的にはありません。(でも、この現実世界に存在している以上、「哲学的」にはある?) 
人間には、生きる権利はあっても、死なない権利はない。(どんなに死ぬのは嫌だと言っても、いずれ死は免れない) あるいは、生まれる権利もないし、生まれない権利もない。結局人間に委ねられているのは、「生きる権利」ではなく、生き方をある程度(生身の身体で空を飛ぶ。湖面を歩く。死者を生き返らせる。年齢を遡るなどは神でない限り人間には不可能)選択できる権利だと言えます。例えば、結婚相手を自由に選ぶ。様々な職業の中から自分が就きたい仕事を自分が選択する。これらは他人から強制されることはない。いかなる相手から命令されても従う必要はない。自分の生き方は自分が決定するのです。当然です。そして自ら命を絶つのも、生き方を選択する権利の一つです。即ち、生きる権利だと言えます。それでも死なない権利などはない。人間は死にたくなくても必ず最後には死ぬ。つまり殺されるのです。誰に殺される。もちろん神です。殺されるというよりは召されると言うべきか。命を左右できるのは神のみです。もしかしたら、人間にはもともと(永遠にあるいは本質的に)「生きる権利」などないのかもしれません。

(補足5) 当然裁判の再審を求める権利は認められる。

 さて、ここでこれまでに青山が述べてきたことをポイントとしてまとめてみました。(「ここまでのまとめ」参照)

追伸:この節を終わるにあたって、最後に「自殺について」というテーマで恐縮です。
よく、「人間はどうせ死ぬんだから」と言われます。何となく生きることを否定したような言い方です。しかし、だからと言って死ぬことを選択できる訳ではない。人間は生まれてきた以上「生きること」しか選択できないのです。だからもっぱら人間に与えられたテーマは、「どう生きるか?」ということだけなのです。単純な答えとして、「幸せに生きる」ということですが、食べたい。飲みたい。金が欲しい。出世したい。有名になりたい。人に愛されたい。これらはみな動物的な欲です。こんな欲を満たすことが本当の幸せではありませんよね。本当の幸せとは何か?そして人間はどう生きるべきか?その答えはこの章(これ以降)にあります。
  
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