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幸福と宗教 何のために生きるのか?その2


 人間は生まれてきたいと思って生まれてきた者はいません。そして生まれてきた以上はもとに戻れない。苦しみと悲しみしかない(一切皆苦)の世の中でどう生きていけばいいのか?
人生は何が起こるのかわかりません。未来を予言できるものは神様しかいない。人間は次の瞬間起こることも分からない。できるとしたら、「だいたいこうなる」という予想だけです。予想は外れることもあります。明日自分はどうなるか?もしかしたら死ぬかもしれない。明日には死なないだろうと安閑に考えているあなた、そんなこと分かりませんよ。明日のことは誰にもわかりません。一寸先は闇です。そして遅かれ早かれ、人は皆死ぬ。この青山も読者であるあなたもいずれ死ぬ。それを逃れることはできません。ただしいつ死ぬか?明日かもしれなければ100年後かも?しれない。
青山にも明日のことまったく分かりません。分からなくて結構。何が起ころうと構わない。青山は昔からこう考えています。
「自分は、次の瞬間死ぬことを前提として生きている」
この意味が分かりますか?簡単に言えば、「いつ死んでもいい」ということです。
「いや、そんないつ死んでもいいなんてことはない。今日死んだら困る。」そんなこと言ったって死ぬかもしれないじゃないですか?青山は別に構いませんよ。と言うより、「死後の世界」なんて無いと確信していますからね。というよりその(死後はないという)事実を知っていますからね。死んだら何もない。死んだ後のことを心配する必要も、この世でやり残したことを懸念する必要もない。(というより存在していないのだから「懸念」もありません)
だからいつ死んでもいいわけです。死んだら存在していないのだから、そもそもいいも悪いもない。ただし、生きているときからそういう気構えを持つと、生きているのが楽になります。というより、死後の世界があるなんて考えるから、いろいろ気兼ねするのです。そういう人間は死後なんかないと考えている者より不幸だと思いますよ。死後の世界なんてない。無になるだけ、と考えれば気が楽ですよ。気を楽に持てば人生やりたいことができる。幸福です。(補足1)
青山は、「次の瞬間死ぬことを前提として生きている」が「今この瞬間死を選択することはない」というわけです。つまり自殺はしませんよ。なぜなら、人間は自ら命を絶つことはできませんから。(「自殺について」参照)
とにかく生きているうちは、死んだ後の心配なんか一切不要。汚名を千年残したとしても気にする必要なし。だって死んでいるのですから、懸念する自分もいないからです。死んだ後のことは、生き残った人間に任せればいいのです。きっとやり遂げてくれますよ。生き残った者はそれなりにやってくれるでしょう。きっと我々が生きていた頃よりも素晴らしい世の中に変えてくれると思いますよ。我々は何も心配することはない。安心して死ねますね。

 青山もそしてあなたもいずれ死ぬのですが、生きている今何を為せばいいのでしょう。死ねば何もできませんからね。
死ぬと言っても明日死ぬとは限らない。10年後でもまだ生きているかもしれません。世の中には今ものすごく頑張っている人がいます。
もちろん次の瞬間死ぬことを前提に今全力で生きることも有りです。しかし死ぬとは限りません。まだまだ生きるかもしれない。その時はまた何度も燃え尽きるのです。今この瞬間に全力を出し切る。そして出し切った後もし生きていたなら、またその都度全力を出し切ればいい。それは永遠に続くかも?しれません。それが人生です。なぜならこれで燃え尽きた、もう終わったということは死を意味するからです。ところが人間は死を意識できない。死んでしまった後では、存在していませんから「ああ、これで燃え尽きた、自分は死んだ」という意識すらない。ある意味人間は永遠に死なない?のかもしれません。(補足2)

 人間はいずれにしても最後には死ぬ。死ねば何もできません。ただ今は生きている。生きているからには何かをしなければならない。どうやって生きればいのか?何のために生きればいいのか?これは生きている人間すべてにとってのテーマです。もし死んでいるならそんなテーマは不要です。
何のために生きるのか?生きる目的もなくただ生きる。己の欲望に従って生きる。それでは人間でなく犬や猫です。犬や猫は本能に従って生きています。食べたいものを食べ、生きたいように生きる。動物としての人間もまた犬や猫と同じです。毎日毎日本能のまま食べ、本能のまま働く。本能のまま家庭を持ち、本能のまま電車に乗って会社に行く。これらはすべて遺伝子にそうプログラムされていることを熟しているだけです。そこに意味など有りません。あるのは自然淘汰によって培われた「生き残りたい」という生存欲だけです。犬や猫は死ぬまでそのことに気付かない。その背後に何かがあるわけではありません。有無を言わさず生まれさせられた結果なのです。
しかしいくら生き残りたいといっても、必ずみな最後は死ぬ運命なのです。結局”種”(例えば人類という種)だけが生き残るのです。しかし人類が生き残る意味などない。この何のために生きる。生きる目的があるかないかが、人間と動物を隔てているものなのです。この浅ましい本能的欲望から解放してくれるものこそが、ここで言う「生きる目的」(の自覚)なのです。「生きる目的」を明確にしてこそ”人間”と言えるのです。
何のために(今)生きる。それは以前にも話した通り、(今この世で)幸せになるためです。もちろん自分が。(「何のために生きるのか?」参照)
さらにどうすれば幸せになれるのか?その方法(手段)が「科学」です。(「幸福の実現方法」参照)。しかし科学では「何が幸福なのか」については答えが出せない。それは自分自身が(自分一人の意志に従って)決めることです。自分にとって何が幸福なのかが決まれば、あとは科学の手法を使って、この現実世界に幸福を実現すればよい。
なぜ、「幸福とは何か?」という問に対する答えが科学では出せないのでしょうか?それは世界に方向性や目的がないからです。もし世界に目的があれば、自ずと幸福も決定されます。(これは後々出てきますが、仏教では世界は「空」であるとしています。それは即ち世界に確固たる主体がないことを意味するのです) つまり何が幸福かは、人それぞれ自由に決めればいいのです。(補足3)
ただし、「幸福とは何か」を自分で決めればいいといっても、よっぽど人生経験豊かな人(あるいは人生の達人)でない限り、何一つ指針がない状態で決めることは難しい。何か拠り所が欲しい。しかし科学そのものは拠り所にはなりません。そこでいろいろ考えました。人間は考える動物です。さらに自分の人生経験だけではなく、はるか昔から様々な先人、あるいは賢者、哲学者、思想家、そして宗教家(単なる一宗派の教祖ではなく、長い歴史の上で人類普遍の哲理を悟った賢者)たちが、そのヒントを残してくれています。それを参考にできないだろうか?最終的に「何が幸福なのか」を決定するものは自分以外にはあり得ませんが。
それでここからは少し宗教(あるいは哲学)の話を進めます。もちろん青山は無宗教だし、何かの宗教をあなたに勧めるつもりはありません。

■宗教とは
 何度も言っている通り、宗教と科学はまったく異なるものです。科学は現実に働きかけるもの。宗教は個人の心の問題。科学は実際に現実の状態を変化させることができる。宗教は心の中で幸福を実現するもの。つまり科学は(何が幸福かが決まれば)現実に幸福な状態を実現するもの。対して宗教は「幸福になったような気分」を味わうもの。(補足4) ただし、気分だけでもないよりはまし。しかし最終的に現実が好ましい状態にならない限り、気分だけでは満足しないのが人間です。
現在世界中にある宗教は、非常に歴史が長いもの、世界中に広まっているもの、あるいはつい最近現れたもの。いろいろありますが。信者にとっては、ご利益があるから続けているもの。それは信者じゃない人には多分分からないでしょう。その宗教の良さが。しかしそんなことは信者にとってはどうでもいい。自分が満足なら。ただし、そのような個々のご利益など青山としては興味ありません。だからここでは一切取り上げません。
ここでは、様々な宗教の中で、とくに思想性があるもの。その思想が深く広大で、信者だけではなく人類にとって有用な真理?を含んでいるもの。そして科学に反しないもの(オカルトではないもの)を、ここで話題にしてみたいと思います。ただし、いずれの宗教も絶対的なものではなく、あくまで参考として、あなたにご紹介するものです。間違っても宗教を勧めているわけではないことをご理解下さい。
では、ここでは(これは青山の個人的興味から来るものですが)、三大宗教と言われる「仏教」と「キリスト教」を中心にお話ししていきたいと思います。まずは仏教についてです。

(補足1) 世の中「どうせ死ぬんだから」という言い方があります。なんとなく人生を大切にしない。投げやりな言い方のように聞こえますが、これは人生は自由である。という楽観的な言い方に捉えることができます。そうです。何の制約も受けずに、自分のやりたいように生きればいい。青山はそう思っています。死は必ずやってきますから、死ぬ前から死を恐れる必要はない。死を恐れなければ何でもできる。自由なのです。頑張って生きようが、頑張らずに生きようが、いずれ死ぬ。どうせ死ぬのなら、何も恐れる必要はない。好きなことをやればいい。自由です。
ただし、いくらやりたいことと言っても、食べたい。飲みたい。金が欲しい。有名になりたい。では単なる動物としての本能的欲望を満たそうとする働きに使役されているだけです。それは本当の幸せではありません。単なる(無意味な)生存(生き残り)ための欲望です。(この欲望のことを「煩悩」と言う。詳しくは後ほど)

(補足2) このように今この瞬間頑張りすぎる人のことを、メンタルヘルスでは「燃え尽き症候群」と呼んでいます。現役中に頑張りすぎて、引退した後生きる気力を失った腑抜けのようになる。スポーツ選手なんかに多い。ようは今この瞬間に頑張るのはいいですが、そこで終わりとは限らない。まだ先がある(無いかもしれないが、そんなことはわからない)かもしれない。だからその度に何度も燃え尽きればいい。何回も何十回もあるいは永遠に。人生はいつか終わる。しかし次の瞬間終わらないかもしれない。この先は続く。生きている限り死はないのです。

(補足3) 世界に目的や方向性がないということは、宇宙にとっては何人であっても、生まれてもよかったし、生まれなくてもよかったこと。そもそも、幸せの基準なんかどこにも存在しない。あなたが勝手に決めればいいのです。

(補足4) 信じている宗教を自分一人の心の中に留めておけば、(それがいかなるものであっても)問題は起こりません。宗教は自由です。ようはそれを自分の心の外にまで出すこと。(補足5) あるいは社会全体に広げようとしたときに問題が起こる。つまり社会全体を正に「幸せになったような気分にさせる」。特に国家権力は、政治的、あるいは社会的な事柄にまで宗教を注入してくる。ナチスドイツも北朝鮮もそして戦前の日本も、みなあれは一種の宗教、プロパガンダによる国民への洗脳です。特別な宗教を社会に広げることによって、国民の不満をそらし、ナチスドイツのように国民の一体感を増大させ、国民の精神に訴えて、人々の気分を(全国民が一斉に「ハイル、ヒトラー!」と唱えることによって)ハイにさせ、現実を隠して思考停止に陥れる。これが(洗脳型)宗教でなくて何なんだというのでしょう。
それほど強権政府でなくても、たとえばオリンピックで国を盛り上げようという仕掛けも、一種の宗教、政府による布教活動の一つだと言えましょう。それに騙されてはいけませんよ。視るべきものは現実。必要なものは科学。このように現実を直視する科学と現実から目をそらす宗教は正反対のものと言えましょう。

(補足5) 信者たちは自分たちが信じている宗教が宇宙最高のものであり、(世界平和のために)それを世界に広げることは良い行い(天国へ行ける因)、あるいは正しいことをしていると思い込んでいる。前にも話した通り、人類普遍の最高の宗教など存在しません。一つの宗教が全世界を統一することなど何兆年かかっても不可能でしょう。いずれの宗教も自分たちの宗教が一番正しいと信じている。そのために他の宗教ととことん争う。戦争、虐殺、略奪、迫害、諸悪の根源こそ宗教です。

 この何のために生きるのか?そんなことを考えてもしょうがない。と思っている方も多いかもしれません。もちろん犬や猫は考えません。人間だからこそ考えるのです。「何のために生きるかなんて、どうして考えなきゃいけないのか?」。もちろん考えなくてもそれは個人の自由です。ただし青山はあなたを犬や猫とみなします。犬や猫のように、食べたいから食べる。飲みたいから飲む。セックスしたいからする。金が欲しいから働く。それだけですか?それは獣としての生き方ですね。つまり本能的な欲望を満たそうとしているだけです。食べること、飲むことに意味などないのです。「食べなければ死ぬじゃないか!」。いいえ、食べてもいずれ死にます。あなたが人間なら、是非考えてください。もしあなたが背広を着た犬なら結構ですが。
そんな「何のために生きるか」なんて、そんなことに悩んでいたら、ただ時間を費やすだけで、人生何もせずに終わってしまう。そんな人生は無駄ではないか?
いいえ、無駄ではありません。何も考えずに生きる方が無駄です。犬や猫の一生と同じになってしまいます。そうではなく、人間としての生き方があるはずです。それは何のために生きるのかについて、しっかり答えを得た上で生きることです。これは哲学的な問いです。自己とは何か?世界とは何か?存在とは何か?認識とは何か?
そんな難しいことを考えていたら頭がおかしくなるのではないか?もしくは悩んだ末に自殺するとか。
いいえ、そこが大変な誤解なのです。悩んで自殺するのは、逆に考えないからなのです。人間一度は考えるこの「何のために生きるか」について、いくら考えても答えが出ない。だから考えるのを止めてしまう。(よく若い時に、自分は「何のために生まれてきたのか?」について考えたが、大人になって仕事に就いたら、考えなくなったという話を聞きますが) それは犬や猫になるのと同じです。悩んで頭がおかしくなるのは、異常な思考をするからです。つまり自分自身を理屈によって無理やり誤魔化そうとするからです。悩んだ時、それを解決する方法はただ一つ、もっともっと考える。ひたすら考えるのです。そして考えた末に、本当に自分が納得する答えを得たなら悩みは解決するでしょう。つまり考えなければ悩みは続くだけです。
しかしこの「何のために生きるか」について、答えがあるのか?考えれば”答え”にたどり着けるのか?
たどり着けます。それはこの先(第6章)を読めば解ります。答えは必ずあります。青山が保証します。ただしあなた自身よく考えてください。考えない者に答えはありません。

最後に青山として
 青山なんか宇宙にとっては屑、ゴミにしか過ぎません。青山だけではない。この世に存在するいかなる有名人も、所詮”屑”です。何の存在価値もありません。人間いつか必ず死ぬんです。長生きしても意味ないし、今死んでも構わない。そして死後の世界などありません。(死後の世界があるなんて話はすべて嘘。デタラメ。) どうせ死ぬならやりたいことをやろう。青山にとってそのやりたいこととは、今世界を変えることです。もちろん、できるかできないかは全く別です。そんなことはこの青山にとってはどうでもいいこと。世界で起こっていることはすべて偶然だし、人生に試練なんか無いと考えています。だから逆に自由にやりたいことをやる。世界を変えようと思っているのです。
青山は有名になりたいとか、金が欲しいとかか、そんなことのために世界を変えようと思っているわけではない。もしそのような世俗的(動物としての生存本能的)願望を満たすための欲から世界を変えようとするなら、それはどんな人間でも不可能でしょう。仮に世界を変えることができても、それは単なる偶然です。本人が変えたのではなく、周りの環境が変わっただけです。本人はそれで自分が世界を支配していると幻想を抱いているに過ぎない。
青山が世界を変える理由は一つです。それを唯一の目的とすれば、あなたにも世界を変えることができます。その目的とは何か、この第6章で明らかにします。

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