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死後に残るもの


 歴史上の人物が生前成し遂げたことは、そのまま歴史として残っていますが、当人は死亡しているため、(本人にとっては、それが残っていることなど)何の意味もありません。今現在生きている我々だけが、そのことを知るのみです。
ローカルな話ですが、日本の地方都市に出掛けると駅前にはよく、その町ゆかりの歴史上の人物の像が建てられています。大抵は戦国時代の武将(初代藩主等)で、甲冑を身にまとい馬に乗っている姿です。
地方都市にはこういった記念像が実に多いのです。ただしその像は後になって作られたもので、実際の本人の姿を写したものではありません。(肖像画のように彫刻家が本人を目の前にして作ったものではない)
もちろん肖像画は残されているから、それを参考にしたのか?それとも全く作成者の好みで作られたのか?いずれにしても既にモデルとなった人物は死んでいるのですから、誰の顔を写しても構わないわけです。(もちろん、男性なのに女性の姿を映すのも違和感がありますが)。本人がまだ生きているなら、顔が違うと文句をつけることもあるでしょう。しかし本人も死に、その人物の生前を知っている者も既にこの世にいないのですから、はっきり言ってモデルなんか誰でもいいのです。
 
 坂本龍馬。この人物の名は日本人なら誰でも知っていると思います。他の歴史上の人物なら好き嫌いなど人によってさまざまですが、彼に関してはあまり悪口を聞かないのが不思議です。それだけ人気のある日本史上のヒーローです。
ところで本当に「坂本龍馬」は実在したんですかね?そんなことを聞くと「バカ」と言われますが、「では、あなたは会ったことがあるんですか?」、と問われれば誰も会った人なんかいないでしょう。既に亡くなってから100年以上になります。仮に会ったことがある人でも既に死んでいます。
「だったら本当にいたのかどうかなんて分からないでしょう?」
「いや、彼の肖像写真(例の有名な台に寄りかかっているもの)が残っている」
「その人物が本当に坂本龍馬である証拠は?」
「???」
結局会ったことがないのですから、本当にいたという確証はない。あくまで伝聞です。従って「いなかったかもしれない」と言われたら明確に否定できないのです。(坂本龍馬の写真を実際に撮った写真家本人なら、「これは本物」と分かりますが、その写真家も既に死んでいます)
ただし「お龍さん」なら確かに「坂本はんはいらっしゃいました」と答えるでしょう。なぜなら彼の妻ですから。しかし既にお龍さんも亡くなっています。そのお龍さんから話を聞いた人も既に死んでいます。だからもはや誰も証言者はいないのです。すべては伝聞です。話した相手も既に死んでいますから、確かめようがない。
あなたにとって坂本龍馬は、心から尊敬する人物かも知れない。しかし、あなたが思い浮かべる憧れの坂本龍馬はただ幻影かもしれませんよ。なぜならあなたは本人に会ったことがないわけですから。
人間は例外なく、亡くなればみなこうなるのです。本当にその人物がいたという証拠、証言が廃れていくのです。坂本龍馬に限らず人が死んで最後まで残るものは、坂本龍馬という名前、否、「坂本龍馬」という”符号”だけです。
「坂本龍馬って何者?」と人に聞いても、みんな忘れてしまって誰一人として知らない。ということがいずれ起こるでしょう。本人が死に、本人を知る人が死に、さらにその人から話を聞いた人も死ぬ。このようにして次第に忘れ去られていくのです。
将来誰かが「坂本龍馬はオカマだった」という話を広めたとします。彼がまだ生きていたら、「おれはオカマじゃない!」と否定するかもしれませんが、既に死んでいるためそれはできません。あの世でいくら「違う!!」と叫んでも無駄です。その声は我々の耳には届きません。
結局最後に残るのは「坂・本・龍・馬」という四つの漢字だけです。それが何を意味しているのかもはや誰にもわかりません。いずれ遠い将来、「坂本龍馬」が人間の名前なのか、馬の名前なのか、それすらわからなくなる時がくるでしょう。
記憶は風化します。保存できる情報量には限界があります。もしこの宇宙に情報が無限に蓄えられるのならば、未来永劫「坂本龍馬」に関する情報は風化せずに残るでしょう。しかしそれは原理的に不可能です。なぜならこの宇宙は有限です。量子力学の不確定性原理によって、宇宙に蓄えられる情報には限りがあるからです。(「自然科学の基本法則」参照)
人間は、生前いかに大きな仕事をなしたとしても、時間とともに人々の記憶から消え去り、最後は符号だけが残る。
もちろん、その人物が残した業績、思想は残るでしょう。たとえば科学上の発見、進化論や相対性理論(という考え方)は永遠に残る。しかしその業績とその人物を結びつける情報は消える運命にある。(補足1)
人物に関する情報が時間とともに人々の記憶から消えていく。それが歴史というものです。
死んだあなたのおじいさんも、おばさんも、そしてあなたも、この青山も、歴史に名を残すか残さないかに関わらず、皆坂本龍馬と同じ運命をたどるのです。(補足2)
よく有名人か亡くなると、「惜しい人を亡くしました」なんて言われますが、(自分の身内はともかく)”惜しい人”なんかいるんですかね?生きている間に何をしようが(どれほど業績を残そうが)、人間は皆いずれ死ぬんです。
どれぼどの人物であっても、時間とともにその名は風化していく運命にあるのです。つまりこの世は「諸行無常」(常に移り変わるもの=後述)です。しかし逆に諸行無常だからこそ、その先に涅槃(ネハン=永遠の安らぎの境地=後述)があるのです。

 死んだ者はいつか忘れられる。ただし、生前のその人と直接関係があった人たちにとっては死ぬまで忘れられないかもしれません。特に家族や親しかった友人など。いつまでも人々の心の中で生き続けていることでしょう。
ただ、親しかった人も、あるいは家族であっても、時間とともに記憶が薄らいでいくことは仕方がないことかもしれません。いや、いつまでも忘れない。それもいいでしょう。いつまでも亡くなった人のことを思っていたってしょうがない。だから忘れる。いや、無理に忘れる必要はないと思います。ただし、無理に覚えている必要もない。もしも逆縁、自分の子供や孫、本当に愛してやまなかった人物に先に死なれてしまった人にとっては、それは忘れてはならないことかもしれません。でも順縁、自分の親や祖父母に死に別れたとしても、最初は悲しいことですが、親や祖父母が先に亡くなるのは自然なこと。むしろ忘れてあげるのも供養の内かもしれません。

(補足1) 「アインシュタイン」という名は、もはや「相対性理論」を引くためのインデックス(しおり)でしかない。この意味が分かりますか?もはや「アインシュタイン」という単語は人間の名前ではないと言うことです。将来いつのまにか、「相対性理論」を考えた人物が「ゲーテ」になっているかもしれません。後世の人にとっては、それがアインシュタインであっても、あるいはゲーテであっても、どちらでもいいわけです。なぜなら、二人とも既にこの世にはいないわけですから。
もちろん「相対性理論」に対応する単語は「アインシュタイン」であって「ゲーテ」ではありません。ただし「アインシュタイン」というのは単なる単語です。そこに当てはまる人物が生きていた当時は「ゲーテ」と呼ばれていた人間に置き換わったとしても問題はありません。
このように「相対性理論」という学問上の理論(思想)は、人類が滅亡するまで残ると思います。ただしそれを考えた人物の記憶は消えさる運命にある。残るのは単なる単語同士の関係。「相対性理論」=「アインシュタイン」のみ。

(補足2) 自分が何をしようがしまいが、この世にわずかの間でも生きていたのなら、その”影響”(自分が世界に対して行ったことの影響)は永遠に残るでしょう。その影響を自分の生きた証だといえば、その通りです。もちろんその証を確かめることはできません。自分は死んでいるからです。しかし今自分はこの世で生きているとして、死後それが残るとみて、今を生きることはできます。何をすれば証が残り、何をしなければ証は残らないというものではありません。何をしても証は残ります。要するに自分の生きたいように生きればいいのです。

 人間は誰一人例外なく死ぬのです。そして人生何十年かわからないが、生きている間に何をしようが、どれだけの事業を成し遂げようが、その証跡はすべて人々の記憶から消え去るのです。80年生きた人生も、8時間しか生きなかった人生も何も変わりません。人生に目的などない。何かをしてもいいし、何もしなくても同じこと。人生において、やり遂げなければならない事など一切ないのです。よく世間では、後悔しない人生を送ろう、なんて言われますが、果たして後悔する人生なんかあるでしょうか?それは単なる欲望を満たしたいという動物的な本能です。満たしたい欲望には切りがない。80年どころか、80億年生きたとしてもやりたいことは尽きません。そういう考え方では、何をしても後悔するのです。後悔のない人生を送った人間など人類史上一人もいません。逆に何もしなくても、ただ生きてきただけでも、人生は無意味だと知れば後悔などありません。生まれてから死ぬまで何もしない人生だってある意味素晴らしいことかもしれません。せっかく生まれてきたのだから、やりたいことをやらないと損。いいえ、損なんてありません。人間いずれ死ぬんだから。あなたは単に騙されているだけです。(この話はまた次章で)

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