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人生の目的


■人生って何
 人間は生まれた後、わけも分からず、ただ毎日あくせくと働いて、何とかこれまてで生きてきた。お金が貯まって少し好きな事をやりたいと思ったときには、すでに歳をとっている。病気になって後は死だけ。
若いうちに稼いで、歳をとる前に引退。後は大金を費やして楽しく毎日を暮らす。いわゆる勝ち組になれる人間はごくわずか。しかし引退した金持ちが、その後何をやるのか考えていなかった。今まで忙しすぎて考えている暇がなかった。あるいはずっと考えてきた。しかしそれを始めたけれど、次第にやっていることが空しく思えてきた。自分は何のためにこれまで生きてきたのか?疑問を抱えたまま死んで行く。これでは何もしない人生。あるいは何も考えない人生と同じです。
結局何をやっても自己満足。人々のため、社会のためと言いつつも、本当にこれが生き甲斐だろうか?確かに相手は喜んでくれているようだ。しかし心の内は分からない。ありがた迷惑と思っているかもしれない。人のため、世の中のため、それも自分の勝手な思い込みに過ぎないのでは?

■人生に意味などない
 この青山が子供の頃考えていたこと。人生の目的、つまり人間が一生の間にしなければならないことは、ずばり子供を残すこと。後からそれは間違いだと気づきました。そんなことは中学生レベルの考え方です。これは皆動物としての本能です。意味などありません。その後はこう考えるようになりました。人生の目的、つまり人間が一生の間にやらなければならないことなどない。ただこの世に生まれてきた以上は生きなければならない。今はそんな風には考えていません。そんなことは高校生のレベルだと思います。すなわち生きることも含めて、人間として何々しなければならないことなど一切ない。してもいいし、しなくてもいいのだと。
つまり、
・人生の目的は、子孫を残すことである。人間が生まれてきて最低限やらなければならないことはこれである。
・人生の目的は、とにかく生きることである。何のために生きるのではなく、生きること自体に意味がある。
これはすべて誤りです。子供のレベルの考え方です。この世で子孫を残さなければならない理由などない。(人類が滅んではいけない理由はない。そうさせたくないと思うのは、あくまであなたの個人の願望です) 人生に目的などない。生きている間、一生のうちにやらなければならないことなんか一つもない。これが正しい考え方です。
ただ生き残るため(子孫を残すこと)だけに頑張る人生なんて(生き残らなければならない理由なんかないため)空しい。頑張って社会で成功して名を残したからと言って、そんな人生に(いずれ死んでしまうのに)何の意味があるのでしょうか?まだ何も頑張らない人生の方がましかもしれない。「一生懸命」という言葉はなんと空しい響きであろうか。誰であっても生まれてきた意味などない。宇宙にとっては、生まれてこようが、生まれてこなくても、どちらでも構わない。イエスや釈迦であっても例外ではない。なぜならこの世界に意味がないからです。
しかしだから逆に自由なんです。何のために生きてもいいのです。頑張る人生であっても、頑張らない人生であっても、何かをやり残す人生であっても、何一つやり残さない人生であっても同じこと。死ねば一切は無になるのです。
目的は自分で勝手気ままに決めればいい。自分はこのために生まれてきたのだと思い込むのは自由です。ただし人から一切の賞賛を求めないこと。それはあくまでも自己満足です。しかし自己満足でいいじゃないですか?他人なんか関係ありません。だって他人の心の中なんて分からないでしょう。自分が幸せだと思えばいいのです。人間は何をしようが所詮すべては自己満足なのです。どんなに世間で活躍している人でも、当人にとっては自己満足以上の何物でもない。

■人間は必ず老いる
 この世に生まれてきた人間は例外なく誰でも老います。生まれた瞬間から老化は始まります。成長期にある若者にとっては、「昨日までできなかったことが、今日は(日々の努力によって)できた」と満足感に浸る。ただし年寄りはその逆、「昨日までできたことが、今日になったらできなくなった」と嘆く。
老いとはそういうものです。そして今あまり意識していない(というより実感が持てない)若い人も、いつか必ず老いるのです。(否、日々老いているはず)
生まれてきた以上老いから逃れることはできない。身体の衰えもありますが、頭の衰えもあります。新しいことが覚えられない。すぐに忘れてしまう。頭の回転が鈍くなった。いわゆる認知症です。医学の進歩により、身体は何とか生きている。しかし脳が痴呆状態になる。世間でいえば(失礼な言い方で済みませんが)ボケ老人です。高齢になってもボケない人もいる。なんて言う人もいますが、人間はみな例外なくボケるのです。身体が先に衰えるか、頭が先に衰えるかの違いです。死ぬまでボケなかったのは、「滝廉太郎」(注)ぐらいです。(補足1)
そして元気な時は強大な権勢を誇った権力者も、誰も逆らえなかった独裁者も、皆がひれ伏した大金持ちも、最後は力を失います。どんな強健な人物でも老いる。老いてしまえば、今までひれ伏していた者に簡単に負けてしまうでしょう。今現在君臨しているいかなる権力者であっても倒せます。彼が(彼女かもしれない)が老いぼれるのを待てばいいのです。近い将来必ずチャンスは巡ってきます。そして力を失った時こそ容赦なく攻撃を仕掛けるのです。
どれぼとの権勢を誇る権力者であっても、どれだけたくさんの民衆を従わせる独裁者であっても、いずれその力は衰えます。昨日まで、その強大な力によって人々を支配し、恐怖によって従わせてきた者も、今まで人々が受けてきた同じ苦しみを今日になって味わされることになるのです。あるいは幼い自分の子を虐待してきた親たちも、いずれ子供たちが力を持ち反対に自分の力が衰えてくると、その子供たちによって恨みを晴らすべくすさまじいまでの虐待を逆に受けることになる。虐待は息が止まるまで続く。それが自業自得というもの。もはやどれぼと謝罪しても許されない。そして苦しみの中死んでいく運命から逃れることはできない。
この「老い」は、いくら金があっても、貧乏人だろうが億万長者だろうが、みな平等に訪れる。あわせて「病」も、そして「死」も同様、生まれてきた者は絶対に避けることができないものなのです。
(注)1879〜1903 日本の作曲家 代表作は「荒城の月」

■人間は必ず死ぬ
 寿命なんか関係ない。長生きしても意味がない。(「誕生と人生の意味」参照)
人は老いる。そしてどんなに健康な人でも病に掛かる。(事故で死ぬ場合もあるが)  医学がどんなに進歩しても病気は消滅しません。高度な医学によって、以前は不治だった病も治る場合があるでしょう。しかし最後は必ず治らない病気にかかるのです。そしてその先には死がある。だれもその死から逃れることはできません。(補足2)(「老化と死」参照)
はっきり言って人間は、どれだけの大金持ちでも、どれほど身分が高い者でも、最後は自分自身の汚物の中で死んでいくのです。
「死」は誰にでもいずれやってくるもの。人間だけではない。この世に生を受けたものは皆必ず”死”を迎えます。
そして覚えておいてほしいこと。それは誰も”死の時期”を自分では決められないということです。つまりいつ死ぬかは分からない。今日かもしれないし、100年後かもしれない。本人にも分からない。そしてもう一つ、”死に方”を自分自身では決められない。誰もが安らかに死にたいと思う。しかしその希望がかなえられるとは限りません。死ぬときになって思わぬ病に掛かり、苦しみながら死んでいくかもしれない。癌で死ぬか?エイズで死ぬか?認知症で死ぬか?普段気を付けていても、そうならないとは断言できません。ただし、いつ死んでもいいと普段から心がけていること。死ぬことではなく、生きることのみを考える。なぜなら人間は生きている限り、”生きること”しかできないからです。人生においてやり遂げなければならないことなどありません。「今この瞬間を生きる」を心がけていれば、死の間際、いかなる状況になっても、後悔はしないと思います。その話はまた後程。

■そして死後の世界などはない
 そして死んだ後は何も残りません。死後の世界などないのです。 (「死後の世界」参照) 死とはすなわち無になるのです。残るのは生前その人物を知っていた人々の頭の中の記憶です。その記憶も歳月を重ねれば消え去るでしょう。生前どんな業績を残した人でも、例外なくそうなる。それが人間の一生というものです。

(補足1) 「老人」という言葉はもともと尊敬の意味がこめられていました。「敬老」という言い方がありますが、老人とは言わず「お年寄り」と言いますよね。
しかし本当に若い人(若者だけではなく老人になる手前の人まで)たちは「老人」を尊敬しているのでしょうか?心の中では厄介者と思っているかもしれません。「こんなに手間が掛かるじいさん(あるいはばあさん)なんか、早く死んでくれないか」と口に出しては言わないけれど、そう思っているかも?この「お年寄り」と言う言葉の響きも何となく年寄りを馬鹿にしたように聞こえます。
自分もいずれ間違いなく年寄りになり、周りに迷惑をかける。そのことが若い時分には分からない。それが年を取ると家族からも「厄介者」として扱われる。自分がかつて年寄りを邪魔者扱いにしたように。その報いを年を取ってから受けるのです。その時になって初めて知るのです。人生の辛さ、はかなさ、空しさ、人の冷たさを。
年寄りの中には、莫大な財産を抱えている人もいるでしょう。周りの人間は当然その財産を目当てにせっせと世話を焼くのです。金がない年寄りの世話を焼く人なんかいません。そこで大金持ちの年寄りは大満足です。
あなたは莫大な(国家予算に匹敵する)財産を持っている老人だとします。あなたはこう思うでしょう。「金さえあれば老人になっても邪険にされないぞ。至れり尽くせりだ。」、「自分は病気になっても身体が動かなくなっても、死ぬまで面倒を見てくれる。周りの人間は喜んで自分の世話をしてくれる。わたしは死ぬまで幸せだ。」、「確かに金目当ての奉仕かもしれないが、それが何だ。心の中ではどう思っているのか知らないが、とにかく(周りの世話係は)何でも言うことを聞いてくれるのだから。」
本当にあなたはそれで満足ですか?本当に周りの人間は、死の間際まであなたの言うことを何でも聞いてくれると思っているのですか?
あなたは死の間際だとします。あなたはもう自分で動くことができません。手を上げるとこともできない。ただし、「水が飲みたい」と言えば、すぐにあなたの口元に運んでくれるでしょう。あなたはただ口で「こうしてほしいと」言えばいいのです。財産のあるあなたですから、誰もそれを拒否しません。どんなことでもしてくれるでしょう。
しかし最後にあなたは口を開くことさえできなくなりました。あなたが「水をくれ」、「足を撫でてくれ」、「痛みを止めてほしい」と言っても、周りにはあなたの声が聞こえない。あなたは目で周りを人間の様子を伺う。みな楽しそうに話をしている。その声も聞こえる。自分がこれほど頼んでいるのに、なぜ周りは気づいてくれないのか。自分は今これほど苦しいんでいるのに、なぜ周りは何もしてくれないのか。昨日までは、何でもすぐにしてくれたのに、今日になったら・・・
周りの人間の楽しそうな姿を見ていると、自分が死ぬのを喜んでいるみたいだ。自分は裏切られた。
そして瞼も閉じられ再び開くことはなくなった。何も見えない。ただ声だけは聞こえる。「本当に死んでくれてよかったよ。おれはいつもこいつが一日でも早く死んでくれることを願っていた。死んでくれればもうこいつの世話なんか焼かなくて済む。これでこいつの財産はみなおれたちのものだ。」
この大金持ちの老人は最後の最後に絶望のどん底に突き落とされる。金がいくらあっても死は死。いやむしろ金持ちほど不幸な死に方をするようです。

 「人間としてやるべきことをやり遂げてから死にたい」、「悔いのない死に方をしたい」、「周りに迷惑を掛けずに死にたい」、「綺麗に死にたい」。よく人生の下り坂に入った年配の方が言われます。しかし、それは”甘い”と思います。
人間はいつ死ぬか分かりません。明日かもしれません。今日かもしれない。次の瞬間かも。人間としてやるべきことって何ですか?そんなものは一つもありません。悔いのない死に方なんてできません。必ず悔いは残ります。やりたいことなど切りがありません。そんなことを言っている内は死ねません。苦しむだけです。周りに迷惑を掛けずに死ぬ。不可能です。死ぬときは皆周りに迷惑を掛けるのです。誰もが恥をかくのです。そして死んだ後は人々から多かれ少なかれ憎まれる。避けられません。あなたを称える人などいません。死体はいずれ腐る。醜い様をさらして死んでいくのです。美女も白骨になる。それはどうにもならないことです。嘆く必要はありません。死は決して厭うものではない。腐敗した自分を悲しむ必要はない。いずれ時が経ち人々の記憶から消えていくに従い、あなたは成仏する。あなたは救われるのです。

(補足2) よく、「どうせ死ぬなら安らかに死にたい」とか「家族に看取られながら、穏やかに死にたい」とか言う人がいますね。しかし、それは間違っています。「安らかに死にたい」のではなく「安らかに生きたい」のです。(安らぎを感じているのはまだ生きている証拠) なぜなら、死とは”無”になることですから。「死」に安らかも穏やかもありません。理想的な死に方なんかありません。(理想的な生き方はあるかもしれませんが。それはまた後ほど) 死はすべて同じです。死に方に良いも悪いもありません。
特に男性に多いのですが、妻に先に死なれると急に生きる気力が失われ、奥さんが元気な時はあれだけ積極的だった人が自殺願望に襲われる。年を取った男が奥さんに、「俺より先に死なないでくれ」と頼む。要するに自分を看取ってほしいと。ではあなたに死なれた奥さんは誰に看取ってもらえばいいのでしょうか?要するに一人で死にたくないと言いう願望ですが、甘えているとしか言いようがありませんね。人間は誰もが一人で生まれてきて、一人で死んでいくのです。死ぬときにそばに誰かがいないと怖くて死ねない?臆病もいいとこだ。人間は、場合によっては、誰にも看取られず、一人孤独に死ぬこともあるのです。その時後悔しないのは、普段からいつ死んでもいいという心構えを持っていることです。人を何人も看取って最後は自分一人で死んでいく。自分は良いことをしたという思いを噛みしめながら。それもまあ死に方の一つですね。

 人生に目的はない。生きている間に為さなければならないことなどない。人生をスパンで考えれば、その一生の間に成し遂げなければならない人生の目的など何もないのです。
ある意味人生に目標やゴールなんかありません。生きている限りゴールなどないのです。ただし、いずれ誰もが「死」というゴールに出会うでしょう。その時これまでの人生を振り返って、果たして自分は何をしてきたかを問うのです。その時後悔するかしないか?その際人生には目的があると考えている人は返って後悔するでしょう。人生においてやらなければならないことがあったのに、自分は何もできなかったとね。そんな目的などないと考えている人は何一つ後悔などしない。なぜならその時すでに死んでいるからです。生きている間に何をしても、あるいは何もしなくても後悔する必要などないのです。(補足3)
そもそも自らの意志で生まれてきたわけじゃありませんからね。自ら望んで生まれてきた。そんな人間は一人もいません。生まれる以前は存在していなかったからです。たとえば町内のマラソン大会。それに参加した人に、「なぜ、参加したんですか?」と尋ねれば、明確な答えが返ってくるはずです。なぜなら自らの意志で参加したのですから。それに対して、なぜ生まれてきたの?と問われて答えられる人は一人もいないでしょう。このように人生の目的なんかないのです。
ただし、今何をなすべきか、今何のためにそうするのか、今この瞬間何のために生きているのか、人生をスパンで考えるのではなく、現在ただ今この瞬間というワンポイントで考えたとき、何のために生きているのか?その理由、その目的は存在する。それすら無いなら、人間はただ本能に任せて生きているのみ。犬や猫と同じです。それを誤解しないでください。生きる目的についてまた別途お話しします。
とにかく、人に優劣がないのと同様、人生にも優劣などない。価値ある人生も無駄な人生もない。どう生きるのも自由です。

(補足3) 我々は神様のように完ぺきではありません。従って人間は誰しも過去の失敗を後悔する。しかし後悔したところで、過去には戻れません。後悔するのはこの世で生きている証拠です。死ねば、この世の失敗は全て帳消しになるでしょう。しかしまだこの世で生きているのなら、失敗を素直に失敗として認め、取り返しのつかない過去を振り返って、その失敗もいい経験として生かす。失敗したとこもある意味”得をした”と思い、前向きに生きていくことはできるはずです。

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