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老化と死


 人間を含めて生物はなぜ死ぬのでしょう?死なない方法はあるのでしょうか?そんなことは不可能。あまりに当たり前すぎて、拍子抜けしてしまいます。しかし、どうして生物は死ぬのか、その科学的な理由を説明するのは難しい。人間ははるか昔から、何とか死なない方法はないものかと、不老不死の薬を探し求めてきました。そのような薬はないにしても、現代医学の目覚ましい進歩によって、人間の(平均)寿命は驚くほど伸びました。もしこのまま医学が進歩し続けたら、いつの日か死なない方法が見つかるでしょうか?余興半分にこの問題について考えてみましょう。
人間を含めて生物は皆細胞から出来ています。細胞は誕生直後から老化(劣化)が始まっています。その劣化が限界を超えると細胞は死にます。この劣化とか老化は何を意味しているのでしょうか。すなわち細胞に傷ができることです。機械でも電化製品でも使っているうちに劣化するのは当たり前。傷がつく。傷は自然には治りません。人間の身体は怪我をしても自然に治ることがあります。機械にはその機能はありません。ただ機械も修理に出せば、壊れたところを直してくれる。あるいは部品を交換してくれる。ただし、壊れる前とまったく同じ状態にすることはできません。つまり修理をしたという痕跡は残るのです。それすら消し去ることはできない。それは人間の身体でも同じこと。怪我をしたところを治療しても、治療したという痕跡は残ります。なぜか?それは「量子力学」のところで説明した通り、熱力学の第二法則によって完全に元の状態に戻すこと(ある意味タイムマシン的に時間を前に戻すこと)は原理的に不可能だからです。(図25参照)
ところで老化という言葉は何か悪い意味に捉えられていませんか。逆にいい意味の言葉として進歩とか成長とか。人間でいえば、20歳ぐらいまでは成長して、それ以降は老いる。つまり日一日と悪い方向へ向かって後退しているようなイメージです。でも、歳をとればとるほど悪くなるというのはおかしな考えです。細胞は時間の経過とともに内部に不純物がたまってきたり、修復不可能な傷が少しずつ増えてきたりするものです。これを劣化(老化)と言うなら、細胞は生まれた直後から老化の道をたどっていることになります。つまり赤ん坊は生まれると少しも成長することなく、老化に向かうのです。逆に人間はいくら年をとっても勉強して知識を高めることはできます。そういう意味で人間は死ぬまで成長するのです。
進化論のところで話したように、進化に対立するものとして退化がある。という考え方は意味がない。同様に、成長の反対に老化があるというのも意味がない。そこにあるのは一つの変化です。だから成長とか老化という言葉を使わずに、「変化」という言葉を使えばいいのです。変化にはいい意味も悪い意味もありません。ただ何事でも変化する。という自然の法則があるだけです。この世に変わらないものは何一つない。仏教でいうところの「諸行無常」ですね。
 さて、細胞は時間とともに劣化(死に向かう変化)します。そして最後は死にます。しかし人間のような多細胞生物では、一個くらい細胞が死んでも残りが生きているなら死ぬことはないでしょう。(補足1) だったら劣化した細胞を見つけて、いち早く新しい細胞と交換すればいい。この営みを続けていけば人間は永遠に生きられるのではないか?さて、どうでしょうか。
新しい細胞はどうやって作り出せばいいのか?それはまだ劣化が始まっていない細胞が分裂することによって作り出せばいい。図46「細胞の再生」をご覧ください。ここで劣化が限界に達した一つの細胞が死んだとしましょう。すると隣の健康な細胞が二つに分裂して、死んだ細胞に置き換わった。一つの細胞は死んだけれども、多細胞生物の組織(同じ細胞の集まり)としては修復されて元のままの状態が維持されました。しかしこの分裂を果たした(まだ健康な)細胞も誕生してから時間が経過しているために、死に至らないまでも多少の劣化は起きているのです。もし隣の細胞が死んだとき、自分はまだ死んでいないが、細胞分裂できないほど劣化が進んでいたら、その細胞は死んだ細胞の穴を補うことができません。もし(同じ組織の)その他の細胞も皆この状態(死んではいないが分裂はできない)なら、組織は修復されないまま残るのです。これが組織自体の逆戻りできない劣化です。これがやがて生物個体の死につながるのです。
つまり隣(の細胞)が完全に死ぬのを待っていたら遅いのです。その間に自分も劣化してしまいます。できる限り早く、すなわち隣がまだ死ぬ前に(ただし、いずれ近いうちに死ぬことを見越して)、分裂して新しい細胞を作ったらどうか?すると弱っているけれども生きている細胞と新しい細胞の二つができます。組織内の他の分裂可能な細胞たちも、隣が弱っていることを知り(隣が)死ぬ前に分裂をしたら…結局組織内の細胞がどんどん増えていくことになるでしょう。それによって生物個体の体は山よりも大きくなる。そのためには食べ続けなければならない。食べて無限に大きくなることしか生物が死なない方法はないということです。(補足2)
もう一つ不死を実現する方法があります。遺伝子から作り変えてまったく新しい生物を作るのです。具体的に言えばそれは生殖です。つまり自分の子供を産むこと。子供が次の子供を産み、それが続いていけば、たとえあなたは死んだとしても、いつまでも(遺伝子は)死なない状態が実現される。しかしそれはあくまで自分ではありません。自分の子孫たちです。自分は間違いなく死ぬのです。それでは不死とは言えないですか?いやこれもある意味での永遠の命と言ってもいい?しかし、いくら子供でも、例えそれが自分の遺伝子から作られたものだとしても、他人には違いないのです。それを自分の分身だと思い込んでいませんか。子供はあなたとは独立した一個の生物です。分身ではありえません。だから子供とあなたとは生き方も考え方も異なるのです。当然ですが。それはあなたが花の種を鉢に植え、水をやって芽を出させ、そしてあなたの死後花を咲かせたとしましょう。その花はあなたの子供です。例えあなたの遺伝子から作られたものではないにしても。自分の子供を産むことと、花の種を植えることと一体どこが違うのでしょうか?命の連続とはこういうことです。もしこの意味が分かったら、生命はあなたの言う通り永遠かもしれません。

 もし遠い未来、医学が究極に進歩したとき、この不老不死の夢は実現できるでしょうか?もしこのまま医学が進歩し続けたら、人間は現在よりもはるかに長い寿命を獲得することができるかもしれない。しかし寿命を延ばすことができたとしても、死を克服することはできない。というのが結論です。つまり人間は未来永劫死から逃れることはできないのです。まさに仏教でいうところの「生老病死」ですね。(補足3)(補足4)
「そんなこと言えるのか。不死が不可能なんてどうして言えるんだ。将来医学がどれだけ進歩するかわからないのに」と反論する人もいるかもしれません。しかし、その人は科学の原理を理解していないと思います。不死は人間にとって永遠の夢かもしれません。しかし青山からいえば、そんなありえない夢を抱くことは愚か。そんな先のこと(また訪れていない死のこと)を考えるよりも今この瞬間何を為すべきかを考えることが、人間として重要な課題ではないでしょうか?(補足5)

(補足1) よく誤解されるのが「花のいのちは短くて」と言う言葉。花が蕾からそれが開いて萎んでいく様が時間的に短いのを譬えているようですが、あれは個体の死ではありません。言ってみれば女性の生理と同じもの。周期的に起こる現象の一つです。

(補足2) 海綿は、ある決まった大きさや形を持ちません。食物さえあれば細胞が無限に増える可能性があります。しかしそのためには無限に食べ物が供給され続ける必要があります。そんなことは無理ですね。

(補足3) 蘇生医学とトランスヒューマニズム
 今日の目覚ましい医学の進歩により、昔は絶望的だった死からの蘇りが可能になりました。事故などにより身体がバラバラになった状態から、元の身体に戻すことも不可能じゃない。いや、手足や臓器、あるいは目や耳などの感覚器官は人工的なものでもよいのです。むしろ高度な現代テクノロジーを応用した人工身体の方が、優れた身体能力、感覚能力を身に着けることが可能です。(このような考え方を「トランスヒューマニズム」という) ただし脳も神経も一切が人工だとすると、それ自体が果たして”人間”と言えるでしょうか?それはロボットと同じです。
さらにいくら蘇生術が進んでも、戻れないところまで身体が破壊され一旦死んだ人間を再び生き返らせることはやはり不可能と思われます。例えばバラバラになった身体の一部の細胞から、まだ破壊されていない遺伝子を取り出し、そこからまた同じ身体を構成することは可能です。しかし、出来上がった人間は、その時死んだ人間とは遺伝子が同じなだけで、言わば他人と同じなのです。(一卵性双子と同じ) もちろんバラバラになった状態でもまだ完全に死んでいない(戻れない所まで行っていない)状態なら蘇生は続けられるでしょう。遺伝子から同じ人間を作れると言っても、その人間の蘇生を願う人々にとっての希望とは、同じ遺伝子を持った他人の創造ではなく、一旦身体がバラバラになった人間が、自分は事故に遭ったという記憶(および身体に残る事故の痕跡)を持ったまま、この世界に復活することなのです。

(補足4) 医学の目的は病気を治療することにある。それは究極的には永遠の命を授けることを目指すことになるのではないだろうか?寿命を多少延ばすことはできるかもしれない。しかしここで示した通り不死は不可能である。いかなる病気も完全に治す(病気が発生する前の状態に戻す)ことは不可能である。患者が医者に腰の痛みを何とかしてほしいと訴えてきたら、医者はそれを少しでも軽減してあげる。それが医術である。万病に効く薬、あるいは永遠に死なない方法を研究すること。果たしてそれが医学といえるだろうか?
人間はみな誰であっても死ぬことはわかっています。わかっていても死にたくはない。それが人間の本音です。しかし死は免れない。人間は誰一人例外なく生まれたときすでに死刑を宣告されたのも同様です。死ぬのが嫌だから(あるいは人に死なれるのが悲しいから)、消滅するのが嫌だから(無になるのが納得できないから)、肉体は死んでも魂は永遠に残る。死後の世界は存在する。なんて言うのはすべて間違い、ただの誤魔化しです。人間はもっと現実を見なければ。

(補足5) 動物には皆「死にたくない」という願望があります。人間も例外ではない。犬や猫、その他野生動物にもあります。その死を厭う習性は動物としての本能です。生まれながら誰もが身に着けているものです。その習性があったからこそ人間をはじめとする動物たちは今日まで生き残ってきたのです。ただし、いくら死にたくないという願望があっても、いずれのものも最後には死ぬのです。つまり叶わない願望なのです。(補足6)
数万年前、人類は食料の確保もできず医学などもなく、滅びるか滅びないかは運次第。他の野生動物と何ら変わらなかったのです。その頃の人間の寿命は今とは比べ物にならないほど短く、人口も少ないままでした。自然災害や気候変動などによって人類が絶滅する危機も多分にあったでしょう。何とか生き延びてきたのは偶然です。
しかし人間だけは、その死にたくないという願望を叶えるために知恵をしぼり、工夫を凝らし、試行錯誤を積み重ねながら、やがて食物を保存する方法を編み出し、自ら大量に作り出すことを覚えた。それによって食料の莫大な確保が可能となった。一方ただ自然治癒力のみを当てにしてきた人類が、医学というものを生みだし、結果寿命は飛躍的に伸び、人口も爆発的に増えるに至ったのです。ただそれでも死を回避することはできませんでした。人間はいずれ死ぬ。いくら食料の確保や医学が発達しても。果たして少しでも長く生きることが、個々の人間にとって幸福だと言えるでしょうか?

(補足6) 他の動物にも当てはまりますが、特に人間の場合について言えば、死とはこういうことです。この世界で生きている者は誰もが困難に打ち当たります。事故や病気の他思わぬ不幸が襲い掛かる。例えば戦争で敵の攻撃を受ける。不治の病にかかり医者から余命を宣告される。など絶体絶命のピンチを迎えます。人はそれを試練と受け止めるかもしれない。その困難を何とか乗り越えようと頑張る。苦難に耐える。やがて困難は去り危機的状況から生還する。しかし将来さらに大きな困難に遭うかもしれない。それも乗り越えた。しかし困難は次々に襲い掛かる。そして最後には乗り越えられないほど過酷な困難が待ち受けている。乗り越えられない困難とは即ち”死”のことです。人は誰も例外なく最後にはそれに負けてしまうのです。
よく言われる言葉として、「神は乗り越えられない試練は与えない」。それは嘘です。最後にはどうしても乗り越えられない試練が待ち構えているのです。その時は素直にその死を受けいれば良いのです。死よりも大きな苦難はありません。死以上の試練はない。死は乗り越えなくてもいいのです。そう考えれば少しは楽になる?と思います。

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