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創造論科学


 進化は本当に起こったのか?本当に原始的な生物から人間が生まれたのか?やっぱりわかりません。現代の進化論であるダーウィンの自然淘汰や突然変異の理論でも説明がつかないことは沢山あります。細かい間違いも指摘されています。自然を理解することは一筋縄ではいかない。と言うことでしょうか。ダーウィンでは説明がつかない。進化論にも誤りがある。しかし、だからと言って神様が創ったということにはならないでしょう。
人間を含めて生き物はすべて神がお創りになった。宗教ではそう教えています。だから神を信仰している人たちは、進化など認めたくはない。人間の先祖が猿だなんて認めるのは嫌。そんなことを教えたら子供たちが、神を敬わなくなる。
ただし、前にも言ったとおり、宗教と科学は全く別物です。もし神が存在するならここに連れてきてほしいし、もし神が過去に存在したならその痕跡、すなわち神の化石を提示してほしいものです。
証拠がなければ科学的とは言えません。自分一人が何を信じようと自由ですが、人に信じてもらいたかったら(たとえそれが自分の子供でも)、何らかの証拠を提示する必要があります。
進化ではなく神が生物を作ったとしたら、どういうプロセスで、どういうメカニズムで作ったのか?説明できるならしてもらいたいものです。神はどこからエネルギーを得て、どのように無生物に作用して、そこから生物を生成したのか?それを化学式で表してほしいものです。
神が創ったという根拠は?それは聖書をはじめとする神話でしょう。最初の人間はアダムとイブ。でも神話は世界中にあります。どうして(旧約)聖書だけが正しいのですか?子供たちに聖書を教えるなら、世界中のあらゆる神話を教えなくては不公平です。神話は民族ごとに異なっています。たとえば聖書のアダムとイブに対して、日本の神話ではイザナギ、イザナミですが、どうして呼び名が違うのか?どうして「阿陀無」ではなく「伊耶那岐」(「古事記」より)なのか?どうして字が異なるのか?(補足1)
「呼び方が違うことなんか問題ではないではないか」。いいえ、そこが大問題なのです。もしアダムとイブの話が単なる神話なら問題ではありません。科学だからこそ問題なのです。(呼び名の)違いがあってはならないのです。
地球上にはどうしてこれだけたくさんの生物が生存しているのか?それが分からなかったから昔の人は神様を持ち出したのです。
しかし分からないから神様の存在を仮定すること自体、科学ではありません。それは神話と言うのです。なぜなら神様だったら何でも有りですから。神様で説明できないことなんか一つもありません。
宗教は自分の心の問題です。だから誰にも覆されません。それは自分一人の心に留めておけばいいのです。もし人に分かってもらいたかったら確かな証拠を示す。何度も言いますが、それが科学の基本です。
ところで科学の進歩とともに、次第に神話が真実ではないことが明らかになると、今まで神話を話してきた宗教者(神官、僧侶など)たちは、人々からの尊敬を失うことになりました。今までの既得権(お布施)を奪われて生活がままならなくなった彼らは、個人的な理由から、「科学は誤りだ」という教えで人々を惑わそうとしているのではないか?
科学の知識が浅い一般の人々はそれに騙される。しかも進化論は、生物の競争原理という救いとは反対のものをもたらす不愉快な思想として人々から敬遠されてきました。一部の熱心な信者は、進化論をどうしても許せないもの(人間の先祖は猿であることを認めたくはない)として攻撃する。その背景にあるのは、子供のころから敬虔な親たちに信仰を教え込まれたことにより、その信仰を捨てきれないというもの。
もちろん強いものが生き残るなんて思想は間違いです。(前のコラム「何が生き残るのか」参照)
あなたが信仰を捨てないのは自由です。しかし我々が論議しているのは宗教ではなく科学なのです。
進化論だって絶対に正しいわけではない。問題は山ほどあり穴だらけです。しかしそれ以外に果たして生物の多様性を説明できるものが現在あるでしょうか?間違っても宗教ではない。(もちろん将来、進化論にとって代わる新たな理論が出る可能性も十分にあります。ただしあくまで証拠が出たら)

 アメリカでは、「インテリジェント・デザイン」(補足2)なるものがあるそうですが、こんなものは科学ではない。
もちろんアメリカ人すべてがおかしいわけではありません。アメリカ人でも優れた科学者、生物学者はいます。
彼ら(「インテリジェント・デザイン」を唱える人たち)は、単に進化論の問題点を指摘しているに過ぎないような気がします。どんな理論でも問題点は必ずあります。それを指摘することは、もちろんそれも科学です。
ただし、「インテリジェント・デザイン」なんて唱え瞬間、もしそれを科学などと言った途端、その批判の嵐は容赦のない攻撃として襲い掛かるでしょう。こんな”学説”でも”理論”でもないものと、「進化論」が対等に論議できるはずはありません。もしこの”インテリジェント”が存在するなら、この場に持参して欲しいものです。

 日本でも、有名人、タレント、元スポーツ選手?や政治家、実業界で成功した財界人たちが、科学ではド素人のくせに、いかにもわかっているような感じで偉そうなことを言っていますが、不愉快千万ですね。「科学をなめてんのか!」
「進化論は間違い、偶然なんかで生物は生まれない、人間の先祖は猿ではない、宇宙は創造主が創った」なんて。創造主って一体何?何か自分で調べたの?実験や観察を行った?
ただし、学術的にはいい加減でも、単純で分かりやすいから、科学の知識に浅い一般の人々の共感を得る。こういうところから人々は騙されるのです。
「ド素人って、おまえ(青山)も素人だろ」って言われかねません。別に科学は専門家じゃなければやってはいけないものではないのです。しかし科学である以上証拠を示す必要があります。なぜなら科学は誰もが納得しなければならないもの(納得させることを目指すもの)だからです。
いい加減なものは、「説明が科学的でない」、「証拠が不十分」、「理論に矛盾がある」と、他の科学者から容赦なく指摘されるでしょう。(補足3)
それが嫌ならいい加減なことを言うのは止めるべきです。逆に自分たちのやっていることが科学ではないなら、はっきりと「わたしの考えは非科学的」って最初に断っておけば、人々は騙されずに済むのです。(補足4)

 進化論が気にくわない宗教関連の連中がよく持ちだす話として、人間の身体のように精巧なもの(例えばこの”目”)が偶然に作られるわけはないという主張。しかし目の起源は皮膚だとすればそれはあり得ること。自然界には光に反応する物質があります。皮膚の一部の細胞の中に、その物質を細胞内で作れるようになったものが現れた。その細胞が集まってやがて目の原型ができた。それは自然界でも十分あり得ることだと思います。目にもいろいろあります。ハエの目、タコやイカの目、そして人間の目。光に反応する仕組みを目の働きとすれば、植物にも目があると言えるかもしれません。ここで誤解してはいけないこと。人間の目の方が他の動物のものより優れているというのは単なる思い込みです。タコやイカの目を人間のものと交換してもうまく働きません。そんなものは彼らにとっては不要であり害なのです。タコにとってはタコの目が最良。人間にとっては人間の目が最良。
宗教者(あるいは無知な信者)が唱えている誤解は、単に科学的知識の貧弱さからくる進化論に対する誤った認識が原因と思われます。以前にも話した、「猿から人間が進化したなら、なぜ今現存する猿は、みな人間にならないのか?」というのも進化に方向性があるという誤解です。(「進化とは」、図46「人間とサルの関係」参照)

 なぜ青山は科学と偽る宗教にこれほどまでに怒りを覚えるのか。それは科学に無知な人々、とくに子供たちを地獄に落とす結果になるからです。我々は皆子供たち(自分の子供とは限らない)を愛しています。その子供たちが悪魔の誘惑に駆られて道を誤るのを、黙って見ていることができるでしょうか?子供たちの知識が浅いのをいいことに、証拠もないのに嘘を教える。純粋無垢でまさに天使のような子供をだます行為は、それこそ神をも恐れぬ大罪です。
子供たちには包み隠さず真実を語る。その真実が我々にとってどれだけ恥ずかしいこと、隠しておきたいことであっても。それが我々大人たちの務めです。もし子供たちに嘘を教えたら、それがどんな些細なことであってもその子供が大人になったとき間違いなく犯罪者になる?可能性もゼロではない。あなたは子供たちを犯罪者にしたいのですか?
オカルトという悪魔、あるいはインチキ宗教が絶えず子供たちを悪の道に引きずり込もうと狙っている。我々が忙しさにかまけてつい子供たちから目を離したすきに悪魔達は虎視眈々と機会を窺っているのです。この幼い子供たちを宗教に引き入れる奴らのやり方に対して、もはや青山の全身は怒りの炎で爆発寸前です。宗教を”科学”だと偽るこのやり方は、科学に対する冒涜であると同時に、神に対する冒涜でもあるように思えます。
我々大人は、非科学的な思考、怪しげな宗教、嘘、インチキから愛する子供たちを身を挺してでも守らなければなりません。(彼から見れば進化論者の方が「悪魔」かもしれませんが・・・) まさにサッカーで上下左右からゴールを狙う敵のボールを、体全体で受け止めるゴールキーパーのように。(補足5)

 結局、(原理主義的な)宗教(人間は神が創造したという考え方)にどこまでも囚われている連中は、進化論を解さないがゆえに、返って自分たちの浅ましい習性、つまりけだものとしての本能の使役から逃れられない。食べたい。飲みたい。セックスしたい。あるいは金持ちになりたい。有名になりたい。歴史に名を残したいという欲望が、いかに浅ましい状態を作り出していることが分かっていない。進化論や自然淘汰を理解できないがゆえに、いつまでたっても連中は、動物的浅ましさから抜けられないのです。科学的に見て、人間は神が創造したなどあり得ないのです。
何度も言う通り、神を信じる信じないは個人の自由です。青山が絶対に許せないのは、宗教を科学と偽ること。間違っても、真面目な一般のクリスチャンの方の信仰を否定したりはしません。

(補足1) 因みに中国ではフクギ(伏羲)とジョカ(女カ)が男女の起源。このように神話の多くが世界にはまず最初の男性、最初の女性が現れたことを語っています。神話的、科学でいうところの文化人類学的に見て、これは偶然ではありません。民族として共通しているのです。ただし神話そのものが事実だと主張するなら、呼び方が異なること自体が問題です。(この意味が解りますか?アダムとイブは神話ではなく事実起こったことだと言っているのですよ)

(補足2) もともとキリスト教の原理主義者(聖書をそのまま事実として解する信者の一派)たちが、科学的に言って生物は神の創造によってできたと主張したことに始まります。それを「創造論科学」と呼ぶ。その後形を変えて「インテリジェント・デザイン」という。「インテリジェント」つまり知性を持った存在の計画的な創造が、生命の誕生および進化の結果だという考え方。
この「インテリジェント」って何?結局は「神」のことでは?宗教であることを隠すために、名前を言い換えたに過ぎない。一派の言っている「科学的」って何のこと?この神様が計画したなんてどこが科学的なんだ?単にキリスト教の権威を貶められることに我慢できないだけでは?そもそも科学と宗教は根本から違うという、この当たり前のことがなぜわからないのか。そこまでして従来の権威にしがみついていたいのか。第一進化論云々の話と、イエスの思想はまったく次元を異にします。(それは最終章で)

(補足3) 科学に限らず学問の世界では批判は当たり前。批判なしに前進はあり得ないのです。批判されて修正を余儀なくされ、苦労を重ねた結果真実にたどり着く。それが学問です。
ただし、科学者ではなくても、現在提示されている進化論の矛盾を指摘することはできるかもしれません。もちろんそれ(間違いを指摘する)だけでも、科学の進歩に貢献できます。ただし、その指摘はすでに専門の科学者によって提示されていることかもしれません。

(補足4) 生物学的に言えば、人間は脊索動物に分類されます。脊索動物としてはホヤなナメクジウオ(注)と同じ仲間です。つまり人間とこれらの生物は親戚です。体の構造が人間と似ているからです。似ていませんか?よく観察してみましょう。人間だけが特別だというのは単なる思い込みです。
人間と猿は親戚を超えた友達(上下関係なし)です。子供が尋ねます。「人間は服を着ているのに、なぜ猿は裸なの?」。賢明な大人が答えます。「人間も昔は裸だったんだよ。」、「じゃあ僕たちは猿と仲間なんだね。」、「猿も人間も同じ霊長類さ。だから似ているだろう。」、「じゃあ、イエスキリストも霊長類なの?」、「人間はみな霊長類さ。」
(注)海に棲む小動物。背側に脊索といわれる棒状の筋を持つ。

(補足5) 科学的な根拠がないのに進化論を否定して、人間は神が創ったということを主張している人の方が、よっぽど野生動物に近い。なぜなら、その(宗教的な)考え方は自然淘汰による動物としての本能から生まれたものだからです。(次コラム参照)
より多くの生物を実際に観察して、その類似性により分類し、生物の本質を科学的に考察する科学者の方が、より人間らしいと思いますよ。とりあえず科学は人間にしかできないことですから。

個別発生説
 ここでは、以前話に出た「個別発生説」について、それが現実的ではないことを説明します。個別発生説とは、進化論に対して、生物は個々の種類ごとに別々に発生した(地球に出現した)というもの。本当にそんなことが起こりうるのか?
ここで知ってほしいことがあります。生物はどれも自分たちだけで生きているわけではないということ。絶えず他の生物(種)と関係を持っています。他(の種)に依存したり、反対に依存されたり。人類だって例外ではない。もしこの地球上から人類以外のすべての生物が消滅したらどうなるでしょう。人間は何を食べればいいのか?人類だけでどうやって生きていけばいいのでしょうか?すべての生物(種)は他の生物(種)がいなければ、それだけでは存在できないのです。(もしかしたら一部細菌の中に、自分たちだけで栄養を得て、他に依存することなく自前で生きているものがいるかも?しれない)
その種同士の依存関係を式に示します。Aという生物種がBという生物種に依存していることを、A<Bと表します。またBはCに、CはさらにDに依存しているとすると、A<B<C<D と表せます。さらにその依存関係をZまで追うと、最終的には以下の式に表せます。

 A<B<C<D<E<F・・・・・<Z

これが自然界における生物種同士の関係です。もちろんこんな単純なものではありません。AはBにもCにも依存していることもあるでしょう。例えば人間は肉(牛や鶏)も食べれば魚も食べます。ここではあくまで単純化させています。このようにすべての生物種は他と依存関係を持っています。さらにこの依存関係は終わらない。食物連鎖の関係が循環しています。つまり依存関係はどこかで途切れることがない。食物連鎖の頂点にいる肉食動物も、死ねばその死骸は何者か(昆虫や細菌)の栄養にされてしまうのです。式で書くと、

 A<B<C<D<E<F・・・・・<Z<A<B<C・・・・・Z<A・・・・・・・・・

この依存関係と循環系のお蔭で自然界、生物界は成り立っているのです。
さて、ここで個別発生説について考えてみましょう。もしも個々の生物種が全く他の種と無関係に(偶然に)出現したとしたら、生物種の間の依存関係など成り立ちませんから、出現した生物はみな死滅するしかないのです。もし偶然ではないとしたら。生物は他と関係を持つように予め創造された。どのようにして?またまた訳の分からない”インテリジェント”(知性を持った何者)が存在しなければならないことになる。それって一体何ですか?こんなものを想定しないと駄目なんですか?
しかしここで生物の種同士は無関係ではない。もともとは同じであった。即ち先祖が同一。ならば関係があるから、依存関係も必然的に成り立つ。とすれば問題解決。自然界を理解できるのです。この先祖が同じ。そこから新たな種が誕生した。この考え方を何と言うか知っていますか?ズバリ”進化論”です。
また、この生物種同士の依存関係はとても微妙です。少しでもバランスが崩れれば、いずれかの種が滅びます。依存関係の中で一つの種、例えば上の式のDに当たる種が亡びれば前後のCもEも少なからず影響を受けるでしょう。するとその影響でBもFも、そしてすべての生物の種が多かれ少なかれ影響されるのです。もちろんDが滅んだからと言ってすべての生物が死滅する訳ではありませんが。(人間だって、牛や鶏、あるいは豚が死滅して肉が口に入らなくなったとしても、魚はいます。しかし少なからず社会全般が影響を受けるでしょう)
この生物の種同士の間の絶妙なバランスが偶然によって生まれるでしょうか?またまた”インテリジェント”のお出ましです。しかもこの”インテリジェント”は予めスーパーコンピューターも及ばない高度な計算を行い、この絶妙なバランスを設計しなければならないのです。
では、なぜこの絶妙なバランスが生まれたのか?他の生物とバランスが取れた依存関係を築けなかったものはどうなったのか?死滅したのです。多くの生物はそれができなかったため現在では存在していなのです。それができたごくわずかな生物の種だけが現在まで生き残ったのです。大古生物の絶滅は数え切れない程ありました。(つまり”インテリジェント”は素晴らしい頭脳を持っている割には失敗ばかりを繰り返す無能者だったということ) この自然環境に耐えられたもののみが生き残る考え方を何というかご存知ですか。ズバリ”進化論”です。
進化論が信じられない方へ。もっと自然界を見渡してみましょう。さまざまな生物たちの生態を観察してみましょう。何かが分かると思いますよ。進化論は決して、すべての生物が持つ命の尊厳性を否定するものではありません。

 自然は美しい。人間が産み出したいかなるものよりもそれは美しいのです。自然は精緻。人間が創り出したいかなるものよりも精密。それは我々にとって驚異と言う他ない。とても人間が真似できるものではありません。その美しさ、精緻さの要因は、自然科学の法則(量子力学の原理)が、寸分の狂いもなく成り立っているからに他ならない。我々が自然を認識できるのはそのためです。世界とはそういう存在です。(補足6) しかし、だからと言ってその背後に知性的な意図が隠されているわけではないのです。(例え意図が存在したとしても、我々はそれを知りえない) そのことだけは認識誤りを犯さぬように。

(補足6) ここに一つのマイクロチップがあります。それは指の上に乗るくらいの小さなサイズですが、トランジスター1億個分の働きをします。こんなものが自然に作られるでしょうか?無論そうではありません。これは精密機械工場で人間によって作られた物です。しかしこんなマイクロチップよりも、比べ物にならないくらいもっと精巧で緻密なものがあります。それは地球だけではない。生物のいない星、例えば金星や月にも存在します。ずばり原子です。分子です。結晶です。それは自然が造りだしたものです。(他にも生物とは無関係なマクロ的自然現象として、オーロラ、あるいは土星の輪。これらは自然法則による規則性がなければ生まれません) つまり生物のいない天体にもある泥や砂、ありふれた岩石中に、人間の知性を超えた(原子や分子という)精密性、精巧性が存在するのです。自然はサイコロを振るように全くの偶然によって世界を創ったのではありません。全くの偶然からは何も生まれないでしょう。
結局自然の生みだした芸術から生命が生まれ、そこから人間が発生してマイクロチップなどの精密機器を作り上げたのです。つまりこのマイクロチップも自然が創りだしたものだったのです。

最後に
 人間は猿から進化した。進化論が正しいか正しくないかに拘わらず、現在この地球に生息している生物と、そして周りに存在する人間たちを観察した結果、人間も一動物であることは誰もが認めることだと思います。人間は形態的には脊索動物、生態的には哺乳動物に該当します。人間と馬や牛、あるいは犬や猫を比較してみると、それは明白です。つまり人間はいかなる知性を備えたエリートも含めて、けものの性質を大なり小なり備えているということです。
人間も所詮けだものです。その動かしがたい事実を無視した結果、人間はいまだに浅ましい生態を改善できない。返って悲惨な状況を生んでいるような気がします。野生動物のそれ、弱いものを攻撃し、弱いものから搾取し、強いものには媚びる。互いに相手から利益を奪うために争う。その浅ましい性質は人間である限り誰もが備えているものです。
我々はその現実を直視して、それを極力抑えるように努めなければなりません。(人間も野獣という)その現実を知らないと、いつまでたっても人間はこの嘆かわしい状態のままです。(と言って、この青山は決して高尚な人間ではありませんが)
「狂人は自分が狂人である事を知って初めて正気に戻る」(この意味が分かりますか?) 同様に、人間は自分がけだものの性質を有している事実を知って初めて、本当の人間に昇格できるのだと思います。

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