進化とは何か?簡単に言えば、「生物が世代を経るにしたがって、形態や内部構造(遺伝子ではない)が変化する事象」 ここでの変化は、世代を経るにしたがって起こるのであり、時間が経つにつれて起こるのではないということ。つまり、一つの個体(たとえば人間の佐藤さん)が、成長するにしたがって体が大きくなるとか、年齢を重ねるにつれて頭髪が薄くなること、を言っているのではないということ。当たり前だけど勘違いしやすいのです。 また進化という言葉は、進歩・発展という、良い方向に向かうという意味に解されますが、生物の進化に良いも悪いもありません。 さらに進化の逆の言葉に退化というものがありますが、言葉としては進歩の逆、悪い方向へ逆戻りしたような感じですが、そんな意味はありません。 たとえば南米に「ナマケモノ」という動物がいますが、今から100万年前の先祖は「メガテリウム」という巨大な体(現在のナマケモノは、体長60センチ、メガテリウムは6メートル)をしていました。体が小さくなったからこれは「退化」か?いいえ。小さいほうがいいからそうなったのです。進化に方向などありません。生物学的には「退化」なんて言葉は不要なのです。 さて、進化の根拠って何んでしょうか? ところで科学の基本は、前にも話したとおり実験と観察です。実験や観察は現在でしか行えません。すでに過ぎ去った昔については、記録をとっていれば話は別ですが、そのときのことを今更確認することは不可能です。したがって進化が起こったかどうかを確認する術はない。 しかしもし現在まさに起こっていることが、過去にも起こったということは十分は考えられます。たとえば現代でも雨が降っているなら、2000年前に雨が降ったとしてもおかしくはない。はず。 ということで進化の根拠を現在の状況から推察してみましょう。 人間でも他の動物でも子供が生まれています。それはまさに現在起こっていることです。たとえば上記佐藤さんの子供が生まれました。その子供の遺伝子としては佐藤さん(父親)とも奥さん(母親)とも異なります。ただし親子だから似てはいます。 似ているけど違う(似てない部分もある)。もしも佐藤さんのお孫さんが生まれたら、やはりお子さんとは親子だから似ていますが、やはり違います。佐藤さんとも似ていますが、やはり違います。そしてよく見ると、佐藤さんとお孫さんは佐藤さんとお子さんよりも違うところが多い。(お子さんより似ている場合がたまにある) その根拠は? 親戚を較べてみましょう。近い親戚たとえば実の兄弟と遠い親戚、先祖を何十世代も遡るような場合と比較して、どうでしょうか?実の兄弟のほうが赤の他人よりも似ていませんか?このように子供、孫、ひ孫と言う具合に似てはいるけれども、少しずつ違いが出てくるというもの。これが何万年も何億年も経ったらかなり違ってくるのでは? 進化の疑問 疑問1、魚から鳥が生まれた例はない。猿から人間が生まれた例もない。だから何世代経ても魚が人間になるわけではなく、(顔つき体つきは変わっても)人間は人間のまま変わらないのでは? と思うかもしれませんが、何万年、何億年経っても同じ人間のままだとは誰も言い切れないでしょう。なぜなら1000万年前の先祖が現在も生きているわけはないですから(化石はあっても)、比較のしようがありませんよね。同じ種であることを(たとえば交配などによって)確かめる術がない。(補足1) 疑問2、進化と遺伝の法則は矛盾する。 遺伝の法則というのは、簡単に言うと、親と子は似るというもの。自然界、あるいは人間界を観察すれば遺伝の法則が正しいことは明らかです。 ただし、進化と遺伝では時間のスケールが違います。進化は永い永い年月を経てゆっくり進むものです。 メンデル(注1)がエンドウマメを育ててから二百数十年しか経っていない。これが2000万年たってもエンドウマメがエンドウマメなら、進化論に疑問符を打つべきでしょう。 疑問3、進化が起こっているなら、遥か古代にいた生物が今も生き残っているのはおかしい。 進化についてその変化の度合いはさまざまです。何億年前からほとんど変わらないものもあります。たとえば「シャミセンガイ」。 進化とはこうです。たとえば同じ親から生まれた兄と弟。兄弟だから非常に似ている。ただ世代を経ると、兄の子孫はほとんど親と(形態が)同じ。それに対して弟の子孫はまったく違う。ということも当然ありえます。 何億年前にいた生きた化石といわれているシーラカンスが見つかったからといって、進化論が間違っていたという証拠にはなりません。 疑問4、もし進化がゆっくり進むとすれば、猿から人間に変化したとして、その中間体(猿と人間のあいの子)がいないのはおかしい。 昔々(400万年前)、猿にも似ているそして人間にも似ている「猿人」というものがいたことが骨の発掘でわかりました。それがなぜ現代にいないのか?滅んでしまったんです。 ちなみに、「人間の先祖は猿」というのは誤り。いつ高崎山(注2)の猿から人間が生まれた? 正しくは「人間と猿は共通の先祖」。先祖が共通、つまり親戚だから似ている。 もし親戚じゃないなら、どうして猿と人間がここまで似ているのか説明できません。人間は皆例外なく猿に似ているのです。馬に似ている。あるいは豚に似ている人間なんかいません。(特にチンパンジーの子供と、人間の(大人ではなく)乳幼児とをよく観察してみて下さい。その体形、その行動、驚くほど似ています)(補足2) また、高崎山の猿を何万年、何億年観察しても、そこから人間が生まれてくるわけではない。進化は二度と同じことは起こらない。後戻りができない。なぜなら、進化は偶然の出来事だからです。ただし、別の生き物に進化するかもしれない。知性を持ったミミズ(?)のような生物(外見が似ているだけ、系統は異なる)にね。(補足3) 進化は何が何に変化するかがあらかじめ決まっているわけではありません。 この疑問3と疑問4は、進化論を知らないあるいは誤解しているために生じるのです。 ただし、進化論も一つの仮説です。(昔のことなんて、タイムマシンがない限り確かめようがない) (注1) 1822〜1884 オーストリア もともとは修道会の司祭。修道院の庭でエンドウマメを育てているうちに有名な「メンデルの法則」を発見。 (注2) 日本の大分県にある山。猿がたくさんいます。 最後に 進化論でよく問題になるのが、進化は偶然起こったものか、必然的に起こったのか?ということです。確かに人間が誕生したのは偶然かもしれません。後で述べますが、進化のメカニズムは、「突然変異」と「自然淘汰」によって起こるとされていますが、いずれも偶然的なものなのです。(これが現代進化論の主流) それに反して進化は必然的に起こったという説には根拠がありません。この説に因ればまさに自然界は何者(ずはり神)かがコントロールしていることになり、そういう筋書きは科学ではなく”神秘主義”です。科学が相手にする話ではありません。では、世界はまったくの偶然か?否、全くの偶然であるなら、科学は成り立ちません。そこには偶然と必然が相互に絡み合っている。細かい点では偶然。そしてそれを覆う自然法則という必然が存在する。これがこの世界の現実です。 (補足1) 「種」って何ですか?人間にもいろいろな顔つきの人がいますが、人間は生物学的には一つの種であるといわれる根拠は? 「種」とは生物のグループ分け。つまり同じ仲間同士を集めたものですが、ただ似ていることではありません。たとえばイルカとサメは似ていますが、まったく異なっています。(注3) つまり遠い親戚ということ。 生物学的にいうと、種とは自然な状態で交配可能(結婚して子供を生める)であること。人間は一般的に黒人と白人の間でも結婚可能、普通に子供が生まれています。だから人間は一つの種なのです。ただし、1000万年前の人(すでに死んでいます)と結婚できるかどうか確かめようがないから、同じ種(人間には変わらない)とは言い切れませんね。 (注3)イルカもサメも脊索動物ですが、片や哺乳類、片や軟骨魚類です。内部構造が違うのです。 (補足2) 他にも進化の証拠として挙げられるのがDNAです。生物は皆遺伝物質としてDNAを利用しています。別にDNAを使わなくても他の遺伝物質(高分子化合物)でも良かったのに、なぜかみなDNAです。誤解してはいけないことは、他の物質よりDNAの方が生き残る上で有利だったからではありません。DNAを選択したのは偶然です。DNAでなければならない必然的理由はない。だとすると、他の生物がそれぞれ独自の遺伝物質を持っていてもいいことになります。にもかかわらず、みな同じDNAになったのは、最初の生物がDNAを使ったからです。その一つの生命体(単一とは限らない)から現在のすべての生物が発生した。これこそ進化の証拠です。 単純に考えて、なぜ人間も犬もライオンも、鳥も魚も、目が二つで、口が一つで、肛門もまた一つなのか?これを当り前だと思ってはいけません。(純粋な子供なら大人に質問してくるでしょう。) 肛門が一つである必然的な理由なんかありません。二つでもいいのです。三つでもいいのです。つまり人間も犬も、鳥も魚もみな親戚だからである。というしか説明できません。 テレビ番組でもよく、オランウータンやチンパンジーと人間が戯れているシーンがあるでしょう。オランウータンやチンパンジーは人間と非常に近い関係(近い親戚)です。だから形態以外にも、その行動や習性がそっくりです。知性レベルを比べても、人間とチンパンジーの間の差なんかわずかしかありません。もし進化を疑うなら、こういった動物と人間の行動を生でよく観察して、比較してみてください。 (補足3) 人間の先祖は(今現存する)猿ではないかもしれませんが、昔の人すなわち我々の(尊敬すべき)ご先祖様はみな裸でした。そのご先祖様、つまり我々にとっての大ご先祖様は毛むくじゃらでした。(毛むくじゃらだったからこそ、寒さに耐え凌げたのです) いや先祖が裸な訳はない。パンツすら履いてないわけはない。そんな破廉恥な話はない。そんな野蛮な人間が先祖だったら、子供たちは先祖を敬わない。 だったら我々の先祖は最初から服を着ていたとでも?アダムとイブだって全裸ですよ。衣服だって進化するのです。子供たちから敬われないから、そんなことのために事実を捻じ曲げるのか?それこそ先祖に対する冒涜です。いや、先祖を敬わなければならない理由はないのです。
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