生物はダーウィンの自然淘汰によって進化した。ダーウィンは偉大な発見をした。彼は天才だ。とは、青山個人思っていません。進化論者がなぜダーウィンをそこまで持ち上げるのか理解に苦しみます。まさにダーウィン教という宗教の信者になったような感じ。 ただ我々人間を含めて自然淘汰の働きがあったことは確かです。例えば哺乳類にはオスの方が大型のものが多い。なぜでしょう?大半の動物はメスの方が大型です。なぜなら、メスの生殖細胞の方が大きいから。オスの方が大きいのはあくまで例外なのです。哺乳類の多くはメスを獲得するためにオス同士で戦うのです。だからオスは大きい方が有利。人間も進化の過程でこのオス同士の争いがあったことは確かだと言えましょう。つまり、人間もこの「自然淘汰」の影響を受けているというのは明らかな事実です。 しかし、自然淘汰って何?生物は結局遺伝子によって制御された一種のロボットである。生き残れるか生き残れないかは、生物個体自身では(遺伝子を自分で変えることができないから)決められない。それは自然が決定する。(補足1) つまり生物には自由意志がない? 自由意志がないなんて嘘でしょ。もし(自由意志が)ないなら我々は創造主によって作られたロボットですか? 創造主って何?結局は神様でしょ。我々は神様のシナリオ通りに生きる以外に選択の余地がない? もし我々が本当に自由意志を持たないロボットなら、我々は自分自身がロボットであることすら認識できない。できたら矛盾です。(補足2) 遺伝子を変えることができなくても我々は遺伝子によってすべてを支配されているわけじゃありません。(前コラム「DNAとは」参照) 創造主は神ではなく自然のことですか?しかし自然の背後には何もありません。自然そのものに意志はない。強いて言えば我々も自然の一部です。自然とはすなわち周りの環境ことですよね。周りの環境に左右される。あるいは影響される。ただそれだけのことでは?つまり仏教でいう「縁起」です。(補足4) そうすると自然淘汰なんか、ただ当たり前のことを言っているに過ぎないのでは?結局自然淘汰は、生物は自然法則に支配されると言っているだけです。 しかし「万有引力の法則」がこれこれだと言っても、それによって、生物が生き残るか生き残らないかの判定はできません。(確かに地球の重力に逆らうような大きな体の生物は死滅しますが) 生物の生存は一つ一つの法則で割り切れるほど単純ではありません。大体こう言える。地球が温暖化に向かえば、熱さに弱い生物は滅びるだろう。ぐらいしか言えない。でも、本当にそうなるかは保証できません。何とも曖昧。どんなに厳密に調べても統計的にこうなる。ぐらいがせいぜい。それが自然淘汰です。 自然淘汰の問題点 1.自然淘汰は後付けの判定。未来を予測することはできない。 自然法則というのは、ある決まった条件では、ある決まった結果が得られる。というもの。たとえば「ケプラーの法則」。万有引力に作用された天体の運行はきわめて正確です。何年何月何日にどこどこで日食が起きるか、前もって予測できます。 しかし、自然淘汰は、結果(ある種は生き残った。ある種は滅んだ)から推測して「自然淘汰」が作用したと、後から説明するもの。経済学だって未来の予測がある程度できるのに、この自然淘汰はまったくできません。できたらおかしなことになります。(補足5) 2.自然淘汰は何にでもあてはまる。 正反対の性格、例えばある個体は他の仲間と協調性がある。どんなことでも仲間に同調する習性を持つ。別の個体は常に単独で行動する。できるかぎり仲間と関わらず同調しない習性を持つ。さてどちらが生き残るか?それは分かりません。 独り者は窮地に陥った時仲間の援助が得られずに死に絶える。集団にいる者は自分が危機に見舞われても仲間の援助を得て生き残る。では、協調性のある方が生き残るのか?そうとも言えません。 集団が得る食料が不足したらその集団内で食べ物をめぐって争いが生じるでしょう。その争いの結果集団にいた者は滅びる。集団に慣れていた精で単独で生きることができないからです。反対に独り者は集団が見つけられない食べ物をこっそり自分一人探し当てて、一人分ですむから少ない食べ物であっても十分生き伸びることができる。 ここでいずれが生き残っても、前者は「集団に従う習性は自然淘汰によって身につけた」と(後から)言えるし、後者は「単独で行動する習性は自然淘汰によって身につけた」と正反対の習性でも説明できてしまう。(補足6) 人間でも、「集団の慣習に従う」、「弱い者をいじめる」、「集団内のリーダーに従順になる」、「若者は年長者に激しい憎しみを抱く」。(補足7) 他にも無数にあるこれらの習性は、すべて自然淘汰で説明できます。(補足8) いかなる生物個体の取る行動も、あるいは個体が身につけた性格も、自然淘汰にあてはまらないものは何一つなく、どんな説明(物語を作ること)も可能です。(補足9) 逆にこうも言えます。こうこうこういう性質があったからこそ、その種は滅んでしまった。例えば、ある種の恐竜(現に滅んでしまった)は大型で、獲物を捕らえるのに強力な牙を備えていた。そのため他の種から襲われることもなく、獲物を獲得する競争においても優位であった。だがしかし、それが返ってその恐竜が滅んだ原因となった。と。要するに大型の身体を維持するために多くの食物を得なければならず、他の種との不要な闘いを避けることをしなかった。だから滅んでしまった。つまり生き残った要因を自然淘汰に求めるのとは反対に、滅亡の原因をその種の特徴に求める論法も可能と言うわけです。もしも将来人類が滅んだなら、「人間の知性、特に自然の仕組みを理解し環境をコントロールする能力を備えていたことが、返って滅亡した原因の一つである」と。人類滅亡後遠い遠い未来に、地球にやってきた異星人が、地球の歴史をそう分析するかもしれません。 ここでもう一度科学の原点に立ち返って、自然淘汰とは何かについて考えてみたいと思います。 確認事項その1:自然は予測不可能。したがって今生存しているどの種が生き残り、どの種が滅びるかをあらかじめ知ることはできない。 確認事項その2:生物個体が生き残るとは、誕生から死までの間に、少なくても1体以上の個体を産むこと。ただし自然淘汰されるのは個体ではなく「種」である。なぜならあらかじめ自分の子供を残さないことを了解している生物も存在する。(補足10) 確認事項その3:自然淘汰の結果とは、先祖が生き残る際身についた(身につけたではない)有利な器官、機能、性質である。今現に生存している生物個体が持つ器官、機能、性質はすべて自然淘汰によって発生した。(自然淘汰の影響を受けたというだけで、自然淘汰のみによって発生したわけではない) 確認事項その4:前コラム「DNAとは」で話したとおり生物は遺伝子の完全な支配を受けているわけではない。ただし遺伝子の影響は十分受けている。 考察1、弱い者をいじめたくなる(仕事がうまくはかどらない者を非難する。罵る。自分のきびきびした行動に対して、要領の悪さをじれったいと思う)傾向と、弱い者いじめに激しい憤りを覚える。その感情。ともに「自然淘汰」による性質である。ただしいずれの性質を有しても、それが生き残ることにはならない。 考察2、ある一つの個体が持つ習性は突然変異によるものか?自然淘汰によるものか? 例えばある個体は、生まれつき同じ種の個体を見つけると殺害したくなる習性を持っている。これは自然淘汰によるものか?突然変異によるものか? 同じ種の個体にそういう傾向がないから、これは自然淘汰ではない。しかもこの個体は子孫を残せないため生存的には不適格である。 否、(自然淘汰とも突然変異とも)どちらとも言える。他を攻撃する傾向はシカなどの哺乳類のオスがメスを獲得するために相手と争う性質(生存力が高い子孫を残すため)から来ているとしたら。そういう(オス同士が争う)性質なら他の個体でも持っている。さらに、この個体が子孫を残せないとは言い切れない。その親にも同様の傾向がある可能性もある。 考察3、心臓という臓器の発生は自然淘汰によるものか? すべては自然淘汰による(関わる)ものである。生き残るために心臓は必要だからである。ただし、心臓を持つ個体でも子孫を残せないものがいる。心臓を持っていることの要因すべてが自然淘汰のみによるものとはいえない。 考察4、子供を欲しがらない夫婦は自然淘汰によるものか? 子供を欲しいがらないから、生存としては不適格である。ただし、その性質は自然淘汰の結果身につけたものである。子供を育てることは経済的なリスクを負うためである。リスクを避ける習性は自然淘汰によるものである。ただ、「子供を欲しがらない」という性質が子孫に伝わらないから、個体としては不適格者であるが、種の存続という点では自然淘汰の影響を得ているかもしれない。もし種の全てにその性質(子供を欲しがらないという傾向)があったら、その種は滅びる。しかし、個々の個体が身につけた性質は自然淘汰の影響を少なからず受けているはずである。そうでなければ今まで生き残っていない。一つの性質は多数の要因による複合的なものである。(補足11) 考察5、子孫を残せるか残せないかは偶然による。ただしその機能や傾向は子孫を残す上で有利である。 否、統計的に有利であっても生き残れる保証はない。(現に先祖の遺伝子を受け継いで存在しているのだから)生存しているものに有利も不利もない。 結論 ・すべての器官、機能、性質は自然淘汰の影響を受けている。しかし自然そのものに意志や方向性はないから、何が生き残っても、あるいは滅んでも、それは起こりえる。すなわち生き残るか、生き残らないかは偶然により決定される。または変動要因を含んだ統計的な傾向(○○は生き残りやすいとか、○○は滅びる可能性があるなど)のみで表れる。 つまり自然の行く末そのものが不確かだから、結局自然淘汰は後付の説明以上のものにはならない。 アンチ進化論者の言い分(「自然淘汰」は何も語ってない)もわかりますね。 ・すべての生物の器官、機能、性質の発生要因は自然淘汰のみに拠っているのではない。ではその他に何に拠っているのか? 一つの例はランダムな突然変異。他にもあるかもしれないが不明。なぜなら自然(宇宙そのもの)を完全に捉えることができないからである。もしかしたら種の保存を超えたところに生存の意味があるのかもしれない。(話が哲学的になってますが、それについては最終章で) ・我々生物が見事に自然に適応して生きているのは、自然淘汰の精だけではない。我々自身が自然の一部であり、かつ我々には自由意思がある。すなわち我々自身が自ら適応しているからである。(補足12) よく言われることとして、「生物の中で人間だけに、他の生物にはない特別な特徴が備わっている。人間はこの地球上で特別な存在だ」。(補足13) 特別な特徴って何?そんなものはありませんよ。それは思い込みです。この”人間だけは特別”という考え方は明らかに間違いです。人間の身体、機能いずれの特徴を取っても生物としての原則を少しもはみ出していない。人間もバクテリアも、DNAの同じ遺伝暗号を使用している。これは人間もこの地球で進化してきた証拠です。例えば「脳」が飛躍的に大きい。それ自体驚くことでもなんでもない。他の動物の中にも身体のある一部の特徴がとびぬけて肥大化したものなどいくらでもいます。いかなる知的エリートであっても、よくよく観察すればその行動パターンは、動物としての本能(食欲、性欲)に基づく機能に他ならないのです。 完全にオカルト的な考え方として、人間は宇宙人の遺伝子操作によって造られた!宇宙人は何のためにそんなことをしたのでしょうか?彼らはそんなに暇なのか?その背景には「人間だけは特別」と思いたい心理があるのです。人間は猿から進化したのではない。ダーウィンは間違いだ。つまりいつまでも宗教にしがみつきたい習性。それは人間の驕り以外の何ものでもない。それ自体が自然淘汰の産物であることに気がつかないでいるわけです。 (補足1) この「自然淘汰」の”自然”とは、生物にとっての周りの環境のことを指します。その環境には、他の生物種の影響も大いに関係するでしょう。周りの環境がその個体を子孫が残せる時まで生かすかどうか。それが生き残るか生き残らないかの分かれ目です。ただし、結果として生き残るかどうかの判定基準は、その個体ではなく、その生物の”種”です。 (補足2) もし創造主がいるなら、創造主は何のために我々を造ったのか?それすら分からないし、結局そんなものは(創造主なんて)いないんです。 ロボットは人間がある目的のために作ったのです。人間には意志があります。すなわち明確な目的があるのです。それに対して自然には意志がない。だから自然界に存在するものにロボットなどありません。どんな単純な生物であってもロボットではない。生物どころか石ころなどの鉱物であっても、機械(の一部)なんてものは一つも存在しません。(人間が機械ではないことを示す上で、人間の脳とコンピュータを比較してみました。図48「コンピュータと人間の脳の比較」を参照)(補足3) 例えば”蚊”のように小さい身体で自由に飛び回れるロボットを人工的に作れるでしょうか?あるいは顕微鏡サイズの”ダニ”の模型。しかも蚊もダニも脳を持ち、感情を持ち、意志を持っています。例え将来精密機械技術が極度に進歩して、あのような生物の模型を作ることができたとしても、意志や感情を持った生き物をゼロから作ることなど不可能でしょう。人間が単純だとバカにしている生物たちも自然そのものが作り上げたもので、極限の精密度を持っているはずです。それを人間が真似ることはできません。生命を自由に支配できるという考え方は、単なる人間たち(結局は人間も生物)の驕りに過ぎないのです。 (補足3) この図48では、最近話題になっているAI(人工知能)についても触れています。AIでよく言われているのが、いずれAIが人間の頭脳を超え、人間はAIの奴隷(命令に忠実に従う家畜)と化す。そしてAIを管理できる一部のエリートが全世界を支配する。あり得ない話ですね。むろん記憶や思考では、我々はAIに太刀打ちできないでしょう。「生産性」という点から言えば、人間はどれほど優秀なエリートであっても、AIに勝つことは不可能です。すなわちAIにとって人間は(エリートを含め)無用な存在なのです。奴隷として活かす価値すらありません。価値のない者ははっきり言えば抹殺した方が経済的なんです。もしそうAIが判断したら、我々人類は一人残らず殺されるでしょう。だから人間が奴隷になるなんてことはあり得ないのです。 (補足4) ダーウィンの理論は、「万物は神が創造した」、それが当たり前だと思っていた(キリスト教徒が大半の)ヨーロッパの人々にとっては驚くべきことだったのかもしれません。それに対して、キリスト教思想に馴染みがなく、仏教などの思想を基調としている東洋系の人間にとっては、ヨーロッパの人々がなぜこれほどまでに神にこだわるのか理解に苦しむわけです。 例えば日本人の多くは、万物は自然に発生したと考えていますから、自然淘汰の話に衝撃なんか受けません。ダーウィン理論を教えられても「何を今頃言ってるんだ。そんなこと当たり前じゃんか」という具合です。第一日本人の大半は絶対的な神なんか信じていません?から。 なぜ人間には、”良心”があるのか。 人は、例えば強盗や殺人、レイプ、あるいは政治の不正、汚職、そして弱い者いじめ、これらに対して嫌悪感を持つのでしょうか?そこに人としての”良心”があるからでしょうか?その良心は神から与えられたものでしょうか?いいえ、そういった殺人などの悪に対して嫌悪感を持つのは、人類が進化の過程で身に着けたいわば”自然淘汰”の産物です。なぜなら、もしそれらの悪を嫌悪する働きがなければ、人類は互いに憎しみあい、生き残ることができなかったでしょう。つまりこれは皆自然淘汰の産物です。 では、なぜ実際に強盗や殺人、レイプ、あるいは政治の不正、汚職、そして弱い者いじめが未だに行われるのでしょうか?それも自然淘汰の産物です。神など存在しません。 (補足5) 生物自身が未来を予測できる。「○○年後に我々は滅びる」なんて分かったら"自然"淘汰ではなくなりますから。 (補足6) 子供をできるかぎり沢山欲しがる者、子供はできるかぎり産まない者、進化論的にどちらの性質を持った方が、”種が生き残る上で”有利なのか不利なのか、そんなことは分かりません。子供がたくさんできると、子供たちは限られた食べ物を巡って争うでしょう。この争いの結果種は滅びるかもしれない。子供を欲しがる夫婦と欲しがらない夫婦、どちらがどれだけの割合で存在することが一番最良なのか?それは時代や地域、すなわちその当時の周りの環境によるでしょう。つまりは統計学上の問題です。 (補足7) 極端な話、(殺人犯による)他人を殺したいという欲求、あるいは他人を犯罪から守りたいという優しさ、ともに自然淘汰によるものです。犯罪者のどのような残虐性も(欲求、行動ともに)自然淘汰によって説明できます。またその犯罪を憂う心理も自然淘汰によるものです。 (補足8) (中世以降の)西洋絵画のモデルになる女性に、豊満で健康的(少し脂肪太り)なものが多いのは、丈夫な子供をたくさん産める女性を男性が好むから。これも自然淘汰の一例。しかし男性の好みなんか人によって違う。反対にやせ形の女性が好きな男も当然いるでしょう。 平均すれば(統計的には)豊満な女性を好む男性の方が多い?そうとも言えませんね。好みなんか時代によって変われます。やせ形の女性がもてる時代には、きっと進化論者は「やせ形の女性の方が贅沢な食事を好まず経済的に有利」と自然淘汰の妥当性を説明するでしょう。 豊満な女性を選ぶ男は権力者が多い?それも嘘。楊貴妃のような弱々しい女性を愛した玄宗皇帝とか。 現代でも、子供を産まなくても(産めなくても)その女性を愛するという男性は多い。彼らは自分の遺伝子を残すことにこだわらないのです。しかもそういう男性は社会的に裕福な人が多い。 (補足9) 目の前に魅惑的な人妻がいれば、欲情を持ってそれを見るだろう。誰も見てない所で足元に大金が落ちていたら、拾って自分の物にしたいと思うだろ。ただ後で猫ババがばれるのを恐れて、それを躊躇するかもしれない。これら欲情を持つ(=性的欲求)、自分のものにしたい(=物質的欲求)、ばれるのを恐れる(=恐怖心)。これらはみな自然淘汰の結果です。これらの働きがあったからこそ人類は生き残ってきたのです。これらの性質は人類の存続に必要なのです。 (補足10) よく知られている働きアリや働きバチは、自分の子供ではなく母親の産んだ子供(すなわち妹)の世話をする。そして自分自身は子供を産まない。このようなシステムの方が群れ全体、引いては種が生き残る上で有利である。人間でも自分たちの子供を産んで育てるよりも、他人の子供(何らかの理由で母親が育児できない子供)を里親として育てることを希望する夫婦もいる。 (補足11) なぜ(人間にとって)人間の子供は可愛いのでしょうか?あなたはそんなことを考えたことはありますか?これも「自然淘汰の産物」です。可愛くない子供は(まあ育てないとは言いませんが)大事に育てないのです。親の愛情を(多く)受けられないのです。だって親だったら可愛くない子供と可愛い(自分の好みに合った)子供とどちらにより世話を掛けたいか? 「そんなことはない。例え障害を持って生まれたとしても親は愛情を持って育てるはず。それは親としての義務だ」そう言う人もいますが、子供の人権意識(どんな子供もみな宝)が芽生えたのは最近のことです。「石器時代」もそうだったと言えますか? 片や「産んでくれてありがとう」と(嘘でも)言う子供と、片や「産んでくれなんて頼んだ覚えはない」と文句を言う子供と、どちらをより可愛がって育てたいか?だから可愛くない子供は進化の過程で間引かれた。最終的に親好みの可愛い子供だけが生き残ったのです。つまり人間も自然淘汰によって進化してきたのです。 結局どんなに知性と財力を有する社会のエリートでも、子孫繁栄、人類の繁栄を願う者。それを疑問なく受け入れる者は、(その傾向は自然淘汰によって培われたものであるがゆえに)獣と同じなのです。言ってみれば、この自然淘汰を知らない知的エリートたちは、所詮スーツを着たたけだものです。 (補足12) 再度自然淘汰とは何かを説明します。 ・自然淘汰は自然法則ではない。物理法則のように、それを覆すことができないわけではない。万有引力の法則は、人間が逆立ちしても覆せない。 ・自然淘汰とは、生き残るか生き残らないかは自然が選択する。個々の生物個体あるいは種が選択権を持っているわけではない。 ・今現在生物個体が持っている性質、機能はすべて自然淘汰の結果である。すなわち生き残るために必要なものである。その性質や機能があったからこそ、その個体は今生存しているのである。 ・しかしその機能があれば未来も生き残れるとは限らない。たとえば子供を多く生む種は、今後も子供を多く生めば生き残っていける。とは限らない。果たして、子供を多く生んだ方が生き残れるのか、それとも少なく生んだ方が生き残れるのか?結果が出る前に答えることはできない。ただし、ある条件では子供を多く生んだ方が生き残りやすい。とは言えるかもしれない。しかし必ずしもそうだとは言えない。あくまでも生き残れるとは断定できない。 ・結局、生き残れるか生き残れないかは偶然である。ただし人間のように意志を持ち状況を判断できる動物は、より生き残れる可能性がある方法を選択できる。ただしそれでも必ずしも生き残れる保証はない。 ■そしてここからが結論です 簡単に言えばこうです。動物には(人間にも)闘争心というものがあります。相手に勝ちたいという願望。これが争いの基です。だけどもしこの闘争心がまったくないとしたら、その種は生き残れるでしょうか?敵にただ奪われてばかり、何も反撃しない。それでは生き残れませんね。しかしその闘争心が強すぎると、仲間同士でも争うことに。それが種の滅亡につながることもある。では、どの程度まで闘争心はあった方が良いか?そんなことは一概には言えません。時と場合によって異なります。ある程度の闘争心を維持した。たまたま生き残った。やはりそれは(人類を含めて)偶然に過ぎないのです。 そもそも生き残ることに意味なんかあるでしょうか?出来る限り生き残るための努力をする。そのこと自体無意味ではないかと思います。 では、なぜ生き残らなければならないのでしょうか?なぜ生き残りたいと思うのでしょうか?理由などありません。生き残りたいから生き残りたいのです。強いて言えばそれが生き物としての本能だからです。なぜこのような本能を身に着けたのか?わかりません。しかしそのもっとも可能性が高い理由は、”自然淘汰”です。生き残りたいという気持ちがあったからこそ、今日まで生き残ってきたのです。しかしその自然淘汰に意味などありません。「より生き残る」ことにも何の意味もないと思います。(そういう考え方に対してあなたがある種の”不快感”を覚えたとしたら、それは自然淘汰の精です。なぜならその不快感の理由があなたにはわからないからです。つまりあなたが生まれつき持っている先祖代々受け継がれてきた本能によって理由なく不快に感じるわけです) 生物、特に動物は(もちろん個々の個体が意識しているわけではないが)種を生き残らせるめに、互いに命を掛けて競争し合い(特にメスを獲得するためのオス同士の血みどろの争い)、それに勝つことにより強靭な体力を持ったオスだけが残り、種が持つ生存力を高めることによって、過酷な地球環境の中で生き延びてきたわけです。しかしそんなことは全く意味がなかったのです。互いに競争などせず、その結果弱い個体だけが残る。この生存力の低下が種の絶滅の要因ですが、絶滅してはいけない理由などそもそもないのです。人間だって例外ではない。人類という種が生き残らなければならない理由などどこにもないのです。何しろ個々の人間(個体)は、子でも孫でもひ孫であっても、いずれ死ぬことは事実ですから。個々の個体は死滅しても種というものは生き残る。そこに何の意味がありますか?(この話は第6章へ) (補足13) 様々な動物を観察すれば明らかですが、動物には種によってある部分が特別肥大化した、一部の機能がずば抜けて進化したものなど、ザラにいます。例えば象の鼻やコウモリの指、シカの角、犬の嗅覚、猫の目(きりがない)。動物は何かしら他にはない独自の特徴を備えている。それによって今日まで生き延びてきた。と言えるでしょう。このように動物は進化の過程で、ある特徴、機能、器官が他とは比較にならないほど発達したわけです。それがその動物の特徴と言えるのです。 では、人間の場合は、ずはり脳です。脳だけが肥大化したのです。これも動物は皆一部の機能が特化した。という性質の一つに過ぎない。この脳がは発達したおかげで、人間は文明を築き、地球上にこれぼどまでに繁栄したわけです。そして科学と言う素晴らしいものを手に入れた。しかし逆に宗教(神や死後の世界を信じる)と言う弊害も生み出した。 人間もやはり自然淘汰に支配される動物の一種に過ぎないわけです。犬も猫も馬も猿も元をたどれば原始的な単細胞生物に行きつく。しかし人間だけは神から進化した。馬鹿げた発想です。王侯貴族も、世界的な大富豪も、あるいはどれぼとの知的エリートでも、いや釈迦やイエスであっても、所詮霊長類(猿の仲間)に過ぎないのです。 最後に 人間も生物です。間違いなく自然淘汰の影響を受けているでしょう。ただそれが自然淘汰によって先祖から受け継がれたものであることを認識している人は少ない。例えば、女性が外見を綺麗に飾るのは男性の気を引くため?よく男は勘違いするのです。自分の気を引くために着飾っているんだと。そんなことを口にすれば、間違いなく怒られますよ。ただし本当はこれも自然淘汰なのです。自然淘汰だと分からないところが自然淘汰なのです。人間は是非この性質を理解して、自分の振る舞い、あるいは人との付き合い方に、注意を払いましょう。
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