いかなる生物も(植物も含まれます)何かを食べないと生きてはいけません。当たり前。そして必ず最後は死にます。これも当たり前。 特に動物は、植物や他の動物を捕らえて食べます。それは相手から奪うこと、もっと言えば相手を殺すことを意味します。相手(獲物)を殺さないと自分が生きていけないからです。 人間も含めてこの世に生まれたものは皆生きていくために必ず殺す。殺生を禁じている僧侶でも、自分で殺さないまでも、農民や猟師が殺したもの(収穫したもの)を食べるのですから同じことです。 「食べないと死ぬ。生きていけないのだから仕方がない」とか「我々は他の生き物から多くの命を頂いて生きている」とか、さらには「魚や家畜は人間に食べられるためにいる」など、これらは皆自分勝手な解釈です。 「食べないと死ぬ」と言うけれど食べたって死にます。「生きていけない」と言ったって、生きていかなければならない理由なんかどこにもない。ただあなたが死にたくないだけです。「多くの命を頂いている」なんて。他の生き物たちが進んで人間に食べられようとしているでしょうか。生き物たちは捕まえようとしたら逃げるでしょ。なぜか?殺されるのが嫌だからですよ。もし人間に食べられることを望むなら決して逃げたりはしないはずです。(補足1) 「命を頂いている」なんてまるで泥棒のいい訳みたい。「人間に食べられるためにいる」なんて言い方ははなはだ頭にくる。愛する家族を暴行のすえ無残に殺した犯人が「俺に殺されるためにいた」なんて言ったら、犯人を100回死刑にしても飽き足らないと思いませんか?それと同じ言い方ですよ。 このように殺していい理由なんかどこにもないのに勝手に殺しているわけです。そして殺した者は殺される。 いかなる動物も食べられる。すなわち殺されるのです。百獣の王ライオンでも食べられる。(前コラム「何が生き残るのか」参照) 生物は絶えず逃げる。どんな強い獣でも逃げる。何から逃げる?死から逃げるのです。しかし最後は逃げ切れず殺される。今まで殺してきた報いを受ける。ライオンでもトラでもそして人間でも。それが生物の悲しい宿命なのです。 自然淘汰と利他行動 生物の世界では自己犠牲的な精神で他に尽くすものもいます。それを利他行為といっていますが。ただし、それらは慈愛精神にとんだものとは言えない。単なる自然淘汰の結果種が存続するために取った行動なのです。(アリやハチの子育てなど) 慈愛行動として必ず取り上げられることとして、親が子を養う。守る。可愛がる。そして育てること。特に哺乳類では当たり前です。もしこの養育を怠れば、子供は育たず、種は滅びるでしょう。だからこれも自然淘汰の産物です。なぜなら愛情はもっぱら子供(それも自分の子)にだけ注がれて、もう死に行くだけの年寄りを養う動物なんかいません。何とも薄情な愛情ですね。動物は自分もいずれ年寄りになることがわからないんです。老人福祉に精を出すのは人間だけ。それはこの子供に対する愛情、すなわち自然淘汰の延長なのです。 いずれにしても愛する対象は、自分と血のつながったもの。もしくは同じ群れの仲間。 もし関係ない者、ハチがハエの子供まで面倒見るようになったら、ハエは労せずして増えることになります。逆にハチは(余計なコストをかけた上にメリットないため)滅びるでしょう。(ハエの子であるウジは特に子育ては必要ない) だからあくまで遺伝的に似ている(別に遺伝子を調べたわけじゃないけれど、自分にどれだけ似ているかを判別して)仲間に尽くすだけのことです。(補足2) そうすれば種は生き残ります。 鳥の中にも熱心に子供に餌を運ぶものがいます。たとえばツバメ。鳥の子は最初は飛べないため親が餌を与えて飛び立つまで世話をしなければならないからです。そこでもし子育てに熱心な鳥の子と見分けがつかないほど似ている子を産める鳥がいたら、子育てをそのボランティア精神旺盛な(その小鳥を自分の子供だと思っている)親鳥に任せればいい。子育てのコストを節約できます。それをただ乗り屋と言うんです。 ここで子育て熱心な鳥が自分の子と他の子を見分ける能力があれば、ただ乗り屋は生き残れません。子育て熱心な鳥が、自分の子と他をまったく見分けられないなら、その鳥は滅びます。(余計なコストのため) それによってただ乗り屋も滅びます。(育ててくれる鳥がいないため) ただ乗り屋が子供の数を制限(子供を少数しか産まない)できれば、熱心な鳥への負担も少なく、両方生き残ることができるのです。図49「自然淘汰と利他行動」参照。 自然淘汰と共生 有名な魚のクマノミとイソギンチャクの関係。イソギンチャクはクマノミに隠れ家を提供しています。イソギンチャクはクマノミを食べようと近づく魚を捕らえます。持ちつ持たれつ。互いに利益を分け合いながら、ともに生きる友愛精神の表れと思われますが、これも自然淘汰の産物です。 お互い利益とコストを比較しながら折衝を続けた結果、互いに了解した契約書を取り交わした。わけではありません。(補足4) (これはあくまで推論上の一例ですが)まずクマノミが突然変異によってイソギンチャクに対する耐性(イソギンチャクに触れても平気な体)を身に着けた。イソギンチャクの了解を得たわけではありませんが、そこを隠れ場所にした。それだけです。イソギンチャクにデメリットはありません。メリットは多少あります。 このほかに一方的な共生もあります。たとえば生物の腸内に住みつく寄生動物。(これは共生と言うより寄生が正解) 寄生動物は宿主動物の食べたものからおこぼれを頂くのですから、メリットは多い。それに対して宿主動物のメリットはゼロ。ただし、寄生動物の得る栄養は少なくて済む。さらに寄生動物の数も少なければ、宿主動物のデメリットも少ない。そこでこの共生が成り立ちます。これを図で示したものが図50「寄生動物と宿主動物のコスト関係」です。 宿主動物が寄生動物を駆除(殺す)こともあります。ただし駆除するにもコストがかかります。そのコストに対して寄生動物に奪われる利益が多ければ、殺すメリットもあるでしょうが、コストの方が取られる利益よりも勝れば、駆除しない選択の方が優位というとこになります。 好き好んで生きている訳じゃない いかなる生物も自ら望んでこの世界に生まれてきた訳じゃありません。肉食獣は好きで草食獣を食い殺している訳じゃない。ハエやゴキブリは好きで人間に嫌われている訳じゃない。病原菌は好きで人に感染する訳じゃない。そうせざるを得ないように運命づけられているのです。自身がそして種が生き残るために。ライオンもトラも、ハエやゴキブリも、ダニも細菌も必死に生きているのです。 いずれにしてもすべては自然淘汰として生き残りをかけた結果表れたものです。 前にも話したとおり、生物は他と戦って勝たなければ生き残れない。最後には必ず負ける(死ぬ)運命。この競争は同じ種の細胞同士、あるいは同じ個体内部に存在する同じ組織内の細胞同士でもあります。(図51「生命の悲劇」参照) 言ってみれば細胞は分裂した瞬間から(それは兄弟といえる)、互いに奪い合う、あるいは殺し合う関係になるといっても過言ではありません。人間の格言として「兄弟は他人の始まり」そのままです。個体としての兄弟も争いあう。限られた利益をめぐって。ここで得られる利益が無限にあれば兄弟が争うことはないでしょう。しかし、利益は限られている。誰だって欲しいものはいくらでも欲しい。たとえ兄弟でも分け合うのは嫌だ。これが兄弟の本音です。 このように生物は奪い合い、戦い合うもの。おなじ細胞同士も争う。それはこの宇宙に最初に生物が誕生(地球とは限らない)した時からの悲劇なんです。宇宙がビッグバンから冷えて原子や分子が誕生し、それが集まって次第に複雑な物質が生成された。その過程ですでに奪い合いが起こっているのです。無生物の物質が自分自身を増やす、大きくしようと、その材料になる物質を他から奪う。その営みの果てに生物が誕生する。 奪い合うこと、殺し合うこと、そしてすべての生命は終わりを迎える。それが命というものなのです。人間だって例外ではない。生まれてきたこと、今まさに生きていることは悲劇なのです。 命といえば素晴らしいもの、尊いものと言うイメージですが、実はその反対として悲しいものということです。 この生命の悲劇、生物学者はそのことを知っているはずです。それを人々には隠している。あまりにもその現実が悲しいことだからでしょうか。(補足5) 生物同士は(同じ種であっても)永遠に相争うもの。よく生物の共存共栄とか、あるいは人類の共存共栄とか言われますが、「共存共栄」なんか幻想に過ぎない。そんなことは自然界では100パーセントあり得ないのです。 以上のことについては、図52「生命とは」も参考にご覧ください。この図52で述べていることは、生物の目的は、活動するためにエネルギーをたくさん得ること。ではありません。それはあくまで二義的なもの。生物は皆自分自身の身体を維持する。それを目的に生きているわけです。そのために他から奪う。奪い合う。そして必要以上に奪うことができれば、その材料で子孫を残す。必要な材料を奪えなかったら、死が訪れるだけです。これがすべての生物の宿命です。 (補足1) 枝に実をつける木々などは、その実を鳥などにわざと食べさせるのです。鳥に食べられたとしても硬い種子は消化されず、糞として地面に落ち、やがて芽を出します。つまり木々は鳥を使って種を遠くまで運ばせているのです。 (補足2) 自分の仲間と敵を区別して、仲間同士は助け合うが、よそ者は攻撃する。そういう卑しさは人間にもありますね。 同じ国の者同士は親しみを感じて助けるけれども、外国人は敬遠する、あるいは嫌うなど。(補足3) それはすべて自然淘汰の産物です。もしも似ている似ていないに関係なく、すべての他者に対して慈愛精神を示したら、慈愛のかけらもない利己主義者たちの繁栄まで手助けすることになります。他方の繁栄はこちらの衰退を意味します。そのような種は生き残れないのです。 (補足3) 仲間同士は助け合う。なんて、人間として醜い思考だと思いませんか?人いや生き物を分け隔てすることなく、すべてに愛情を注いでこそ、本当の愛だと思いませんか? (補足4) 寄生は一方的なものです。ただし相手が拒否しなければ成り立つのです。ただし相手は不満かもしれません。拒否しない理由は、拒否するためのコストを支払うことができないためです。しかし一方の不利益があまりにも大きいと死滅するかもしれません。そのため共生関係は成り立たないのです。 (補足5) この生命の悲劇を、生物学者は知っていながら隠しているのか、それとも解っていないのか? ならば誰も知らない?いいえ、それが2500年前、仏教の創始者「釈迦」は、「一切皆苦」、「生老病死」と言っています。ただ仏教徒でもこの意味を理解していない様です。詳しくは6章で。 最後に 以上生物として生まれてきたものの悲劇は、他を殺すことによって生き延び、最後は必ず殺される。その宿命をもって生きざるを得ないということです。それは生物がそもそも宇宙の基本法則である「熱力学の第二法則」(エントロピー増大の法則)に逆らっていることから生じるのです。食べるという行為も、子供を産むという行為も、あるいは何かを生産する。金を儲ける。社会で出世する。そして人類そのものが繁栄する。これらすべては自然法則に真っ向から反逆する行為なのです。だから困難を伴う。宇宙から反発を食らう。そこに苦しみが生まれる。人生は苦、一切は苦(これは仏教の教え)なのです。もし自然法則に従って、エントロピーを増す方向に向かえば、このように苦しみは生じないでしょう。この一切皆苦の話はまた別途。
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