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宇宙的生命


 さて、これまで生物は細胞でできていることが条件でした。しかしそれはこの地球の話。もし宇宙の他の星にも生物がいたら、それは細胞でできていないかもしれない。
では、改めて生物とは何か?あくまで独断で生命や生物を定義してみます。
◎定義:「生命」とはマクロな空間領域において、恒常的にエントロピーが減少する現象を言い、また、その領域を生物と言う。
ミクロな空間ではエントロピーが減少することもありえます。「恒常的に」という意味は、瞬間瞬間ではエントロピーの減少は起こっていると思われます。
これなら全宇宙で通用するかも?
閉じられた空間において(エネルギーのやり取りがなければ)、エントロピーは増大する事が物理法則で示されています。(図25参照) つまり生命とは、すなわち物理法則に逆らう現象です。しかし物理法則に反する事はできないため、絶えずエントロピーの少ないものを取り込んでエントロピーの高いものを排出する。すなわち生命を維持するためには物を食べ続けなければならないということです。(補足1)
◎考察:たとえば、ある人が手でプラモデルを組み立てているとします。するとその人物を構成している細胞が存在する全領域は当然生物ですが、手の先にあるプラモデルも(組み立てることによって秩序を生み出していることから)エントロピーが減少している領域であるとみなして生物に含めるのです。
おかしくはありません。生物は細胞だけではありません。(図53「生物とは」参照)
プラモデルが完成して、それをテーブルの上に飾った時点で、そのプラモデルは生物ではなくなるのです。その時点からエントロピーは増大を始めます。
■生物の進化と未来
 地球に最初の生物が誕生してから約40億年の歳月がたちました。その間生物はさまざまに進化を遂げ、人間のような知性を持った生物まで現れました。(補足2) さてこの先生物たちにはどのような未来が待っているのでしょうか?
人類を含む生物たちが今後どのように進化を遂げるのか、まったくわかりません。進化というものは未来を予言できないのです。どの種が生き残り、どの種が滅びるか、あらかじめわかるはずがないのです。人類だって将来も滅びないという保証はありません。ただし、宇宙がこのまま永遠に膨張を続けたとしたら、生物にはどのような運命が待っているのか、自然法則から推察するとこができます。(「宇宙の未来」を参照)
宇宙は閉じています。したがって宇宙全体のエントロピーは増加し続けるのです。これが熱力学の第二法則です。(図25参照) 生命とは宇宙に秩序を生み出す営みです。つまり自然法則に逆らっているのです。(図52参照) しかし生物の抵抗はいつかはついえます。この自然法則(熱力学の第二法則)を覆すことは、どんな高い知性を持った宇宙人でも不可能です。それが法則というものです。つまり宇宙全体のエントロピーが限界まで達すると、もはや生物が誕生する余地がないのです。それ以降宇宙には生物が存在しない世界が永遠に続くのです。宇宙は約130億年前にビッグバンによって始まりました。その当時の宇宙は大変な熱と圧力のため生物など生まれようがなかったのです。その後宇宙は冷えて、物質同士が結合して複雑な化合物が生成され、やがて生物が誕生しました。それ以前の宇宙には生物はいませんでした。最初の生物の誕生です。(この最初の生物が生まれたのは地球とは限らない) 以降今日まで宇宙は生物が存在する世界が続いているのですが、やがてすべての生物は死に絶えます。宇宙のほとんど無限に近い時間の中で、生物が存在する期間はわずかなのかもしれません。そのわずかの期間に我々は生きているのです。(図54「生物の進化と未来」を参照)
いずれにせよ生物は無限に増え続けることはない。一組の夫婦から3人以上の子供が生まれて、みな大人になるまで成長する。それが未来永劫続いていけば人口は増え続けることになります。いずれ地球の重量の半分を人間の総体重の合計が占めることになるのです。そうなったら人間は何を食べて生きていけばいいのでしょうか?自分が子供を産む、そしてその子供も子供を産む。そしてその子供もまた子供を産む。それが続いていけば自分の子孫は永遠に滅びることはない。何て言うのは嘘です。インチキです。幻想です。いずれこの宇宙から一切の生物が消え去る時が来るのです。それはいかなる生物にとってもどうにもならないことなのです。それが不満で、何とか人類を存続させたいなんて思いから、別の宇宙に引っ越したらどうか?ワームホールが使えるなんて、みなバカげた発想です。そんなあり得ないことを考えるよりも、今この瞬間自分は何をすべきか考えたらどうですか?犬や猫じゃないんだから、人間としてやるべきことがあるはずです。それは決して生き残ることではいないのです。

(補足1) 成長期を終えて細胞の数が増えなくなった個体でも、生きている細胞は絶えず造りかえる、すなわち新しい(エントロピーの低い)物質と交換しなければなりません。だからお年寄りも死ぬまで肉や魚あるいは大豆を摂ることは必要です。

(補足2)地球史上知性や文化を持った生物は人間だけです。その人間が出現するためには40億年の歳月が必要だったのです。人間は哺乳類です。しかし哺乳類から知的生物が生まれなければならない理由はありません。進化はちょっとしたきっかけにより急激(地球史的にはほんの一瞬)に進みます。今から1億年前に、ちょっとした進化の仕方で、爬虫類から知的生物が出現してもいいわけです。あるいは3億年前に、現在世界中の多種多様な環境に適応している種類豊富な昆虫から、知的生物が生まれても問題はなし。それがなぜ哺乳類だったのか?生物進化学上の謎です。偶然に偶然が重なったのでしょう。しかし他の惑星では、もっと早い時期に知的生物が出現して驚くほど進化を遂げた生物がいるかもしれない。

最後に我々を含めた生物をキーに、「存在」とは、「いのち」とは、といういささか哲学的な話題について、以下少し考察してみることにしましょう
■人間は意識的に行動を選択しているのではない
 我々は意識的に行動しているわけではありません。すなわち意識が主体的に自分の身体に命令を下しているわけではない。(図55「意識と行動」を参照)
意識的に行動しているように思えて、実は別のことろから命令が下されているのです。
ただし、そこに意識を支配している何かがあるわけではありません。ただ作用が連続して起きているだけです。何かが起こってそれが他の何かに作用し、また何かに作用する。その作用したものにも別のところからの作用があり、そしてその前にもそれに作用する何かがある。それが無限に続いている。一番最初の第一原因なんてない。命令の大もとがあるわけではないのです。これが仏教でいう「縁起」です。言っていることは至って当たり前のことです。(図56「人間の行動における命令と作用」を参照)
■意識を観測できる形としてとらえること、意識の全てを脳細胞の状態に対置させることは不可能
 ある人の脳の中をモニタリングして、その人物が何かを考えたとき、その意識を映像として示したとしても、それが今の自分の意識の状態と判定することはできません。自分の意識を自分が確かめるということ自体がおかしいのです。(図57「意識を確認する」を参照
なぜなら、映像を見て自分の意識を確認した瞬間、映像が変化する。そして映像が変化したのを確認した瞬間、またしても映像が変化する。いつまでたっても自分の意識は静止することがない。同時に映像も変化するため、結局自分の意識を確認することが出来ないのです。
モニタの画像は第三者でも確認できますが、自分の意識は自分本人しか確認できません(しかも今現在の意識しか確認できない)ので、「これがあなたの脳のすべてです」と言われても、まるで他人の胃の中を見ているような感覚で、自覚は得られません。
■観察されるすべての存在は主体性を持つ実体
 すべての生物は他からの作用を受けて、それに従って行動しています。他からの作用を受けずに他へ作用するもの、つまり神のようなものは存在しません。
人間も含めてすべては受動的(作用を受けて行動するもの)であり、ただしあくまでこの世界に実在するものです。それを実体と言います。(図58「主体的存在」)
作用を受けたとき、それをどのように他へ働きかけるかは、その存在自身によっています。たとえば足下の石ころを蹴るとします。石ころは物理法則に従って転がるしかないのです。ただしどう転がるかはこの石ころによって決定される。角ばった石ころと丸い石ころでは転がり方が違います。生物、無生物に関わらず、他へ作用する仕方を自身が決定する存在、つまりどう行動するかを自分自身で決められる存在を主体的存在と言います。ただし、固定された存在などない。目も一つの存在、耳も、口も、すべては存在とみなせる。人も存在、人が集まったグループも一つの存在。定義次第で何でも存在とみなせる。そしてどんな存在もそこに含まれる要素を持つ。どんな存在もそれを含む大きな存在の一部になりえる。このような存在を仏教では「空」と呼んでいます。
■自分自身の本体は何か?それは決して認識されない
 手や足、頭や顔を含んだ身体(それを構成している細胞、さらに遺伝子DNAを含めて)、すなわち鏡に映った姿を自分自身と思われがちですが、そうではありません。なぜなにらそれらは自分で観察できるから。観察できるものは自分ではありません。なぜなら観察できるものに自分と他者の二つがあったとしたら、全ては(縁起によって)関係し合っており分離不能のため、その二つの間に境界線を引くことができないからです。だから観察する側を自分とみなし、観察される側を自分以外すなわち世界とみなすのです。
果たして自分の本体が何なのか。あるいは自分など存在しないかもしれない。しかしもし自分が存在するとしたら自分はどこにいるのか?
自分は決して観察されないが、世界に働きかけることができる。だからこそ自分は間違いなく存在している。観察されないが存在している。そんなものがあるでしょうか?
世界は観察されるものがすべてではない。観察されるものの隙に潜む何か、(量子力学の不確定性原理等によって)その未知の存在こそが自己である。自己は永遠に未確認。つまり自分は自分以外の何者でもない。この話は6章に続きます。
■地球の支配者
最近耳にする言葉、「地球にやさしくしましょう」。”地球にやさしい”ことって何ですか?地球を大事にすること。つまり、土地開発や森林伐採によって、あるいは工業生産により大気汚染を出したり、そうして地球を汚すことは、地球にとっても悲しむべきこと。だから我々人間は地球をもっと大切に扱うべき。え、森林伐採や大気汚染を止めたら地球が喜ぶとでもいうのですか?地球に意志も感情もありません。地球にとって綺麗も汚いもないのです。すべての樹木を失っても、地球は宇宙空間に当たり前のように存在します。人間による開発が行き過ぎて、将来人類含めすべての動物および植物が死滅し、地球全体が砂漠となりわずかな細菌のみが生きている。そうなったとしても地球は決して悲しまない。それは地球にとって憂慮すべき出来事ではなく、人間自身とって憂慮すべきことなのでは?人間自らの行為によって人間自身が危機的状況に陥っているに過ぎないのです。地球が望んでいるのは砂漠ではなく緑豊かな星?いいえ。地球が人間に求めることなど何もありません。人間が地球に対して何かをしてあげる。余計なお世話です。地球を維持する責任を人間が負っている。など思い上がりもいいとこです。(てめえが困るだけだろう) 「地球にやさしい」これほど地球をバカにしている言葉はない。人間が地球の支配者なんてとんでもない。地球にとって人間などカス、ゴミ、クズ、垢に過ぎないのです。
■人類もいつかは滅びる?
文明がこのまま高度に進化し、ありとあらゆる自然を支配して、政治の力で人類の課題、経済問題、人口問題、人類間の紛争を解決し、すべてをコントロールできたとしても、人類はいつか亡びるかもしれない。なぜならいかに高度で強大な権力機構も、自然および人類の完全支配など不可能だからです。人類が未来永劫存続できる保証はどこにもありません。人類が何時の日か滅んだとしてもそれはそれで仕方がないことかもしれません。人類が滅びる時あなたは何もできないでしょう。なぜならあなたはその前に死んでいるからです。あなただけではない。あなたの子孫も、それがどれほど先(遠い遠い未来)の子供であっても、年を取って死ぬのです。死ぬ前に子孫を残せばあなたの家系は生き残るかもしれないが、そんなことに何の意味があるのでしょうか?人類を未来永劫存続させるために、将来生まれてくるまだ見ぬ子孫たちの幸せのために、今出来る限りの努力をする。子供たちに生き残る知恵を授ける。果たしてそんなことのために我々は生まれてきたのでしょうか?将来において人類が死滅する。それは仕方のないこと。別に悲しむべきことではないのです。
■自然淘汰を超える
 生物たちは自然淘汰の結果として生存しているのです。生物たちは生き残ろうと必死です。しかし、何が生き残り、何が死滅するかは結局は偶然によります。自然淘汰とはそういうことです。この世界において生き残ることなど無意味に等しいのです。我々はそのことを知るべきです。自然淘汰の摂理を知って、我々はそれを超えなければならない。
もはや人間は種の生き残りなどに拘束されず、あくまで自由に生きたいように生きればいいのです。
我々は誰一人として生まれてきたいと思って生まれたわけじゃない。そして我々を産んだこの宇宙にも、産んだ目的があるわけじゃない。自然淘汰に意味などない。宇宙はただあるがままにあるだけ、なるようになるだけしかない。だからこそ我々は自由なのです。この話も6章で。

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