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人間の一生 競争について


 人はなぜ争うのでしょうか?それはみな人間に進化する以前からある動物としての本能です。自然界ではすべての者が利益を得られる訳ではない。限られた利益を得るために我々動物は争ってきた。この争いによって勝ち抜いてきた者が今日まで生き残っている。つまり我々は争いに長けている。ただ争いに勝ったからといってそこに何の意味もない。勝った者もいずれ必ず死ぬのです。つまり最後には、負けるのです。勝ち続けるということは、永遠に死なないことです。そんなことはどんなに富があろうと不可能。
人は相手を支配したい、思い通りにしたいと思って相手に干渉する。しかし相手は素直にそれを聞き入れない。そこで争いが生じる。人を思い通りにしたいという考え方自身が愚かの極みであることに気付いていないのです。
この争いが極限に発展したものが戦争です。つまりどんな戦い、たとえ野球の試合でも、将棋の対局でも、相手に勝ちたいという思いの延長に人殺し、すなわち戦争があるのです。どんな些細なことでも(学校のテストでも)、相手に勝つことをやめなければ。この世に競争がある限り悲劇は繰り返されるのです。
しかし競争したから人類はここまで進歩した。競争が無ければ人類は進歩しない。と主張する人がいます。では、人類の進歩って何ですか?文化生活を営むこと?あるいは科学技術の発展により生活が便利になること?あるいは医学の進歩によって平均寿命を延ばすこと?(補足1)
そんなものがあなたにとって何の意味があるのでしょうか?あるとしたら単なるあなた個人の(動物としての)欲求を満足させるだけでは?そんなもの人類にとって意味があるのか?否、競争によって文化的に進歩したからこそ、人類は繁栄した、ここまで生き残ってきた。
人類が繁栄する(単に人口が増える)、あるいは人類という生物の種が生き残る。そんなことに意味など無い。宇宙にとってはどうでもいいこと。人類が生き残ろうが滅亡しようが、あなたがもし、人類には生き残ってほしい、と願うならそれは自然淘汰から生まれた単なる本能的欲求です。今まで話してきた通り自然淘汰、すなわち生き残ることに、何の意味も無いのです。

■正当な戦い
 人によっては、争いがあってもいい。正当な戦い。正義の戦いなら許されるという、考え方もありますが、果たして戦いに正当な戦い、不当な戦い。あるいは正義の戦い。そんなものがあるでしょうか?
正々堂々とした戦いなんか無い。それはあくまであなた一人の基準だ。卑怯なやり方などもない。あなたが、「そんなやり方は卑怯だ」と思っていても、相手はそう思っていない。相手はあなたこそが卑怯だと思っている。(補足2) 即ち正統な戦いなんて無い。どんな戦いであろうとも、戦いはすべて愚劣です。こういう考え方があるから、悲劇はなくならないのです。
競争原理(人々を競わせることによって社会を進歩させようとする考え方、仕組み)が導入されると、(売り手はお客さん受けを良くするためにサービス向上に努めるから)社会は良くなる。というのは真っ赤な嘘です。むしろ社会は悪くなる。売り手は儲からないところは手を抜きます。いやそんな非効率はやめます。つまり客へのサービスが悪くなる。なぜなら売り手とお客が求めるところが正反対だからです。お客としては儲けなんか関係ないから今まで通りのことをしてくれればそれで十分。しかし売り手はそれでは生きていけない。競争というものはそういうことです。
極端な話ですけど、企業の中には営業マン同士で売り上げを競わせているところがありますよね。しかしそれぞれの営業マンの管轄エリアが決まっていて、条件が悪いエリアならどんなに有能な営業マンでも売り上げが上がらないという羽目になります。まったく同じ条件での競争など不可能です。そこで不運な営業マンが考えること。それは条件のいい隣のエリアの営業マンに死んでもらうことです。そうすれば彼のエリアも含めて売り上げを伸ばすことができる。そのためには殺人をも辞さない。ようは犯罪を犯しても気付かれなければいいのです。もし警察が気付いたら警察官も皆殺す。ようは捕まらなければいいのです。そうしてその営業マンは身内、いや(犯罪に気づいた)家族をも殺すでしょう。営業成績を上げるためにね。競争原理とはこういうことだ。(少なくても、単純に売り上げが大きい=その営業マンは優秀。にはならないでしょう。スポーツ競技のようなまったく同じ条件など不可能ですから。)
すなわち人々が正当な戦い、ルールが定められた争いなどがある。という思い込みだけが、人を見ただけで殺し合うような社会になっていない理由です。

■戦いのルール
 人によっては、争いがあってもいい。ただしルールを守らなければならないという、考え方もありますが、果たして戦いにルールなどあるでしょうか?
世の中においてルールを定めることが一般的ですが、どんなルールであっても、一旦定めたら必ず一方に有利になるのです。
片や剣道着と竹刀をもって立ち向かってくる。片や和服を着て将棋盤の上で駒を持って座っている。この状態で勝負がつけられますか?(図75「競争とは(剣道と蛇使いの戦い)」参照)
ここでルールを定めるとして、これは剣道の試合だとすれば、剣道着を着ている方が有利だし、将棋の対局だとすれば、和服を着たほうが有利。つまりそれを得意とする者もいれば不得意とする者もいる以上、ルールを決めたとたん、一方が有利、他方が不利になるのです。
しかしルールが定められていても、どっちが勝つかがあらかじめ決まっているわけではありません。番狂わせは当然あります。たとえば相撲で、幕下が横綱を破ることもね。だから勝敗は偶然なのです。時の運なのです。勝ち負けは決して実力によって決まるわけではありません。(実力も大いに関係しますが、それは勝つ確率を高めるだけで、確実に勝つとは言い切れません) 勝ち負けに限らず、この世で起こっていることはすべて偶然なのです。(「自己と世界」参照)
世の中には特に実業界では成功者、スポーツ界では勝利者として注目を浴びている人たちがいますが、結局自分のテリトリー(得意分野)で勝っただけ。しかも偶然に。それだけのことです。みな大したことはないのです。勝利したからと言ってそれが何なのか。単なる自己満足です。それを素晴らしいと思ってやたら称賛している人たちも単なる無知?でしょう。
逆に負けたからといって悲観する必要もありませんよ。自分を情けなく思う必要はない。負けたのも偶然ですから。ただし一生懸命やったかどうか?そのために努力したかどうか?それだけが問題です。結果など問題ではありません。(補足3)
そういった世間の勝利者とか実力者などを手本にしない方がいいですよ。彼らが栄光をつかんだのは単なる偶然。あなたが彼らを目指しても、同じことができる保証はない。彼らは彼ら。あなたはあなた。みな違う人間ですから。

■ゲームとは?
 ルールがあるもの。それは戦いとは呼ばない。ゲーム(遊び)といいます。ゲームとはお互いが了解した一つのルールのもとでプレイをして、お互いが楽しむためのもの。例えば社内のゴルフコンペとか。ただし、ゲームであってもお互い勝ったか負けたかの判断は自分がしますから、お互いが勝ったと思う場合もあれば、お互いが負けたと感じることもあるでしょう。勝ち負けの客観的基準などないのです。
例えば、「あの人に負けても仕方がない」と思っているということは、ルール上は負けたが本人は負けたと思っていない。逆に「あんなやつにこんなにてこずらされるなんて悔しい」と思っているということは、ルール上は勝ったが本人は負けたと思っている。ルール上の勝ち負けなんか当人には関係ないのです。何時いかなる場合でも基準は自分が作っているのです。
もし青山があなたと試合をしたとします。あなたにはあなたのルールがあるかもしれませんが、そんなルールで青山は勝負なんかしません。そんなあなたの遊びに付き合っている暇は無いのです。(図75参照)

■ルールなき戦い
 本当の戦いにルールなどないのです。では相手に勝つということはどういうことか?
ルール次第ならどんなに優秀な相手にもこの青山は勝つ自信があります。(補足4)
あるいはルールが一切ない場合であっても、青山はいかなる相手にも勝てるでしょう。反対に誰もこの青山には勝てません。勝った負けたの基準は、この青山が定めるからです。
もしルールがまったく無かった場合、相手に勝つとはどういうことでしょうか?それは即ち相手を死亡させることです。死亡すれば相手に何もできませんから。だから青山は誰にでも勝つことができると言ったのです。なぜならこの青山は”やろうと思えば”(この地球上で生きている人間なら)誰でも殺害できます?から。ただし相手はたった一人の人間に限りますよ。殺害した後青山は生き延びようとは考えていませんからね。
ただし、相手を殺害したとしても、相手が負けたのを認めたわけじゃない。相手を殺せば勝ちというのはあくまで一方的なルールです。だから青山は、誰もこの青山に勝てないと言ったのです。所詮勝ち負けの客観的な基準などこの宇宙には存在ません。100人の人間がいたら100通りのルールがあるのです。

■とんだ思い違い
 社会には法律がある通り、この世界にはもともとルールが存在する。それは真っ赤な嘘です。法律は人間が作ったものです。
ルールなどもともと存在しません。それはごく一部の人間(社会の支配者層)が勝手に作ったものです。人間が作らなければこの世にルールなんて存在しません。
世界にはあらかじめルールが存在するという思い込みを捨てて、なぜ人間社会にはルールが必要なのかを改めて根本から問い直してみてはいかがでしょうか?(大人も子供も男も女も大統領もホームレスも)皆で議論した結果、ルール(それは戦いのためのルールではない)は人間が幸せになるために必要だという結論に達したなら、そこで初めて、「では作ろうか」という話になるわけです。

■救いがたき愚か者
 世の中には相手に勝つことによって優越感に浸りたいと思っている愚か者がいます。自分の得意分野で相手を負かして、相手に嫉妬を抱かせたい。あるいは相手に悔しい思いをさせて、一人優越感に浸りたい。そういう心がねじれている者は相手にしないことが一番です。愚か者たちは、こちらを執拗に挑発して戦いを挑もうとしますが、そもそも共通のルールもないところで、人に(特定のルールのもとで)勝っても意味がないじゃないか。そんなことも解らない愚か者です。そんなバカは相手にしないことが一番ですね。
政財界、あるいはスポーツ界でも勝利者、成功者と言われている人たちがいますが、その中に尊敬できる人なんて(滅多に)いませんね。成功者たちは自分の偉業を誇る。そうして周りから尊敬を集めたい。それを否定されると憤る。まだまだ(人生の)修行が足りない証拠です。
  
■勝手なルール
 この世界は(戦争していない国、たとえばこの日本でも)建前上一応秩序が保たれた平和な社会ということになっていますが、実際競争は行われています。それは主に経済競争です。人よりも稼ぐ、人よりも金持ちになりたい。そう思って人々は他(他人、ライバル会社)と競争するのです。その競争の際に適用されるのは不公平なルールです。結局完全に公平なルールなんか実現不可能ですよ。そんなものはこの宇宙には存在しない。どんなルールでも不平等は残る。(補足5)
法律を作っている連中(一種のエリート、いわゆる政財官)が、自分たちに有利なルールを勝手に作っている。連中が自分たちに不利になるようなものをわざわざ作るわけがありません。いかにも公平に見せた法律によって、その上で(自分たちの得意分野で)経済競争に勝ち、負けた我々に向かって「負けたんだから、文句を言うな。勝ちたいなら、自分が頑張ればいいじゃないか」と言う。そんなおまえらに有利な条件(経済競争、マネーゲームなら、それに長けた金持ち連中、起業家が勝つに決まっています)で戦っても負けるのは当り前。もし青山が本気で戦うなら、まず相手の家族を攻撃します。これが青山のルールだから。
法律は公平じゃありません。勘違いしてはいけないこと。法律の目的は平等(社会の公平性)を実現することではなく、不平等を作ることなんです。だったら法律なんか作らない方がいいのか?と言う人がいたら、こう答えましょう。法律は戦うためのルールではない。人々の福祉のためにあるのだと。(補足6)
だから青山は誰とも競争しない。相手に勝つこと自体まったくバカバカしいと申し上げている次第です。

■勝つことは無意味
 人間は人生のスタート時点で既に不平等なのです。ある子供は親が裕福であり、何人もの専属の家庭教師をつけて高等教育を受けられたとして。別の子供は親にそんな経済的余裕などない。普通の学校に行くこともできない。そこに無視できない教育格差が生まれるのです。貧しい子供はどう頑張っても裕福な子供に勝てない。例え成績で追いついたとしても、さまざまな不利な条件を負っていることは動かしがたい事実です。ただし、世の中には貧しい家の子供でもごくわずかに成功を掴む者もいます。すると世間はその例外中の例外を取り上げて、「貧乏でも成功できる」ともてはやしますが、そういった例はあくまでも少数に過ぎない。このことは成功なども単なる偶然の積み重ねに過ぎないということの証です。
青山なんか生まれつき頭も悪いし怠け者。自分の意志でわざわざ怠け者の性格を持って生まれることを選択したわけではありません。(自らの意志で生まれたわけじゃないから) もともと怠け者の性格ですから、努力家になろうとしても無理です。競争では努力家に生まれた方が有利でしょうから、人間はすべて生まれたときから不公平なのです。(青山が怠け者なのも、A氏が努力家なのもすべて偶然)
結局公平なルールなど存在しません。すべての戦いは無意味です。戦って勝利する。人生に勝利する。こんな下らないことはないのです。(補足7)
勝ち組、負け組などもない。そもそも人間に優劣など存在しない。順位や序列などはない。人間は誰しも主役なんです。優劣がないということを理解している人にとっては。(理解していない人は、ただ空しい一生を送るでしょう)
世の中には、人間は順位をつけないとそれなりに頑張らいない。人は相手に勝ちたいと思うから頑張るのだ。という人がいますが。では、何のために頑張るのですか?頑張る必要なんかあるんですか?相手に勝ちたいだけ?そんな下らない事のために頑張るの?すると「頑張っちゃいけないのか!」と開き直る。もちろん相手に勝つために頑張るのは自由ですよ。しかし明らかに頑張りどころを間違えている。そんな言い訳は、「人を殺して何が悪いんだ!」と言っているのと同じですよ。
もしこの世において自分が一番になりたかったら、戦う相手(自分を除く人類すべて)が一人残らずこの地球上から死滅してくれることを願えばいい。あなたは戦わずして一番になれますよ。(補足8)

■戦争と平和
 最後に前々から申している平和の問題について再度話します。
人類の悲願として、本当に争いを回避して平和を実現することができるでしょうか?戦争はもともと個人の争いが発展したものです。戦争にルールなどありません。こちらが和服を着て将棋の駒を持って立ち向かったとしても、相手は迷彩服を着て機関銃を持ってくるかもしれない。争いを回避する方法はとにかく戦わないことです。まず武器を捨てることです。その際、相手より先に自分がまず捨てるのです。武器を捨てられないのは怖いからです。相手を恐れていたら戦いを回避することなんかできないでしょう。
ここで重要なことは、こちらが武器を捨てたら相手にも武器を捨てさせること。武器を捨てた今だからこそ、堂々と相手に対して「あなたも武器を捨てないさい」と言えるのです。武器を持つ持たないは相手の自由。というのは間違いです。一体相手は何のために武器を持っているのでしょうか?こちらが攻撃してきたときの備えのためです。しかしこちらが既に武器を捨てているため、相手も武器を所持する必要はない。
武器を手放さない者に相手に武器を捨てよと言う権利はない。こちらが武器を捨てているからこそ、相手に対してそう言えるのです。
ただし、もしかしたらこちらが武器を捨てたのを見た相手は、チャンスと見てこちらを攻撃してくるかもしれない。こちらは既に武器を捨ててますから戦いようがありません。もしそうなったら逃げるしかないでしょう。そうです。戦いを避ける方法は人と関わらないことです。誰とも。たとえ親子でも喧嘩は起こります。だから親子でも出来る限り避ける。それが争わないコツです。平和の知恵です。決して不可能ではありませんよ。
ただし、それでも一生の間にまったく人と関わらないことができるでしょうか?ほとんど不可能でしょう。その際意見の対立が生じて、やがて争いに発展するかもしれない。その時は仕方がない。戦うのです。もちろん自分のルールで。一旦戦うと決めたらそれは命掛けです。死んでもいいという気持ちがなければ、戦いなどできません。
戦いに勝ち負けなどありませ。負けるという結果などないのです。相手がいかに強力でも。こちらは勝つしかないのです。勝った者が生き残るのではない。勝っても負けても自分は死ぬのです。それが戦いです。同時にこの戦いで相手が死ぬかもしれない。相手を殺害するつもりで戦うのです。戦いは遊びではない。ゲームなどではないのです。ただし相手を殺害するにしても、それは決して相手への憎しみ、相手に勝ちたいという欲望、相手を自分に従わせたいという本能に因っていては駄目です。あくまで相手に対して”慈悲”を持つこと。そうでなければただのケダモノの(弱肉強食という)醜い争いに過ぎません。人間はそんなことは決してしてはいけないのです。そんな浅ましい争いをするくらいなら、無抵抗のまま相手に殺された方がましです。
世の中には、武力を用いずただ話し合いによって平和を実現するなんて不可能、現実的でない、ナンセンスだと、軽蔑気味にあるいは評論家ぶった口調で言う人たちがいます。彼らは一体何が現実的だというのでしょうか?何を守りたいというのでしょうか?戦争で死のうが何で死のうが、人間はいずれ死ぬのです。人間なら生きている間に守りたいものは、己の平和に対する理念(考え方、ポリシー)だけではないでしょうか?人間は果たして自分の理念・信念あるいは理想以外の何のために生きているというのでしょうか?その理念のためなら死んでも構わない。それこそが人間だと思います。
この慈悲とは何か、それはまた後程お話しします。

(補足1) 確かに社会は時代とともに進歩しているかもしれません。人権意識、平等意識、社会的弱者(子供、女性、障碍者、お年寄り)への保護、世界平和への意識など。ただし、それは競争原理によって進歩したとは言えません。また、社会の進歩が、あなた個人の幸福と一致しているとは限らない。

(補足2) 剣豪宮本武蔵に確実に勝つ方法があります。二人で同時に攻撃すればいいのです。相手は二刀流ですが、こっちは二人で四刀流です。「一斉の声!!」で二人同時に刀を振り下ろすのです。順番に振り下ろしてはいけません。別々の方向から攻撃すれば武蔵といえども受けきれないでしょう。2対1の戦いなんか卑怯ではないか?いや、殺し合いに卑怯なんかありません。
つまり卑怯の定義が人によって異なるということです。問題は宗教です。どの宗教にも倫理はあります。殺してはならないと神の定めがあります。ただし、異端者、背教者は神の名のもとに殺しても構わないと。すると信者たちは何の罪悪感もなしに人を殺すのです。もしそんな信仰心など持っていなかったら殺害を躊躇したかもしれないのに。宗教は本来善人であるべき人間を狂気に変えるのです。

(補足3) ここでまた誤解しないでほしいことがあります。科学はあくまで結果が全てです。事実を曲げることは許されません。しかし結果がこうだから何?勝ちは勝ち、負けは負け。しかし勝ったからって何?負けたからって何?それがどうしたの?と問われたら、科学ではもう答えが出ない。勝ち負けの結果は覆せません。しかし勝ち負けなんかに意味があるのかと問われれば、それに答えるのはあくまでも自分です。

(補足4) 今青山の手にカスタネットが一つあるとします。このカスタネットを早く5回叩いた方が勝ちとします。どんな相手に対しても青山が勝つに決まっていますよね。だってそのカスタネットは青山の手の中にあるのですから。(図75(タンバリン早叩き競争)を参照)

(補足5) ルールを決めるということは、カニとジャンケンをするようなものです。何事も最初にルールを決めた方が有利なのです。自分の得意分野で勝っているだけですから、ある意味勝つのは当然です。人はそれぞれ得意分野が(微妙に)異なるのです。

(補足6) なぜ社会に(富や地位などの)格差が存在するのでしょうか?それは政・財・官のエリート連中が自分たちの得意分野でいつも勝つからです。そのルールに従えば我々庶民が(庶民にとっては不利なルールだから)奴らに勝てるはずはないのです。だからこの格差は永遠に変わらないのです。

(補足7) 同様に国と国が優劣を競うことも無意味です。例として、お酒のうまさを競う。A国のAという酒がうまいのか?B国のBという酒がうまいのか?競争しても意味がありません。Aがうまいという人も、Bがおいしいという人もいるはずです。(国民は自国の酒がうまいというに決まっています)この場合多数決も意味がありません。(世界中の人間が判定するのか?) そしてスポーツ競技。A国のスポーツとB国のスポーツは違うはずです。それがA国発生のスポーツなら、A国が勝つに決まっていますから。そんな国と国のスポーツ競技なんか観る価値なし?(勝ち負けを争うのではなく、親善的なものなら良い)
  
(補足8) スポーツにも、もてはやされるものとそうでないものがあります。野球やサッカーの選手は何かと話題になりますが、綱引き競技の選手は話題になりません。人気スポーツの選手は他のスポーツの選手よりも優れているなどとは決して言えません。綱引きなどにもすごい選手がいるかも知れない。しかし人気がないスポーツは話題になりません。人気のスポーツで活躍している選手はお金も儲かります。つまり結局は需要と供給のバランスによる経済効果に過ぎないのです。世の中の需要は変動しますから、数年度には、綱引きをやる人が増え、逆に野球やサッカーをやる人は誰もいない。ということになるかもしれません。

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