TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

人間の一生 誕生と人生の意味


■誕生
 人は誰でも自らの意志で生まれてくるわけではないですよね。生まれてくる以前は存在しなかったのです。存在しない状態では、生まれてきたいという意志もありません。人間は、親も生まれる国も性別も、そして生まれた家の地位も財産も選択できません。
いわば無理やり、有無を言わさず生まれさせられたという感じ。もし自分の意志で自分が性別も生まれる国もそして両親も選択できるのなら、すべての責任は自分にあります。しかし生まれるというのは就職とは違います。就職なら自分が就職先を選ぶのです。だから、就職した後で不満があったとしても自分にも選択したという責任があるのです。
誕生した家が金持ちか貧乏か、自分が選ぶわけじゃない。あるいは王家の子息として生まれたか、あるいは乞食の子として生まれたか、それも自ら選んだものではない。だから本人には一切責任が無い。
さらにここでどうにもならないこと、もっとも深刻な事実が判明します。生まれたいと思って生まれてこなかったとしても、一旦この世に生まれてきてしまった以上は、絶対に元には戻れない。生まれる前の状態に戻ることは決してできないということです。即ち母親の子宮に帰ることは不可能だということです。どんなに嘆いても、生んだ親をどれだけ罵っても、もはやどうにもならない。
生まれて来た者は誰であってもこの世で生きていくしかないのです。一体全体これ以上の悲劇が他にあるでしょうか?仏教でも明確に述べています。人生は苦しみであると。釈迦はその(苦しみの)代表として「生・老・病・死」を挙げています。その筆頭に上げているのが「生」、すなわちこの世に生まれたことです。仏教では「苦」とはどうにもならないことを意味します。生まれることは自分の自由にはならない。そして一旦生まれたら、もう戻れない。まさに「生」とは苦の極地ですね。
さて「生老病死」の「老病死」が苦であるということは誰にでも分かります。しかし「生」というのは苦ではなく、むしろ喜びだと解釈している人が多いですが、仏教を理解していない証拠です。
それは生む方(親や周りの大人たち、すなわち既に生まれてしまった者たち)にとってはそう(喜ばしいことと)思うかもしれませんが、生まれてしまった本人、すなわち赤ん坊にとっては、「苦」そのものなのです。だから赤ん坊は生まれるとすぐに泣くのです。泣くことによって「生まれてきたくなかった」と訴えているのです。(補足1)
 もはや一旦生まれてきた以上どうにもならない、元には戻れない。生まれてしまったことは仕方がない。しかしどうせ生まれるなら、貧乏な家よりも金持ちの家に生まれたい。乞食よりも王様の家に生まれた方が幸せに思うでしょう。ただし、生まれる本人はどこに生まれるのか分かりません。貧乏な家に生まれたとしてもどうにもならないのです。
金持ちの家に生まれようと思って努力することはできません。金持ちの家に生まれるか貧乏な家に生まれるか、すべては偶然によって決定されるのです。
しかも、生まれてしまった以上どうにもならない。その苦しみに比べたら、金持ちの家に生まれようが貧乏な家に生まれようが、あまり変わらないと思いませんか?金持ちの方が少しはましだという話は、ただの気休めにすぎないのです。
金持ちに生まれたら生まれたで貧乏人にはない別の苦しみや不安があるかもしれません。(例えば強盗に襲われたらどうしようかと思い悩む。貧乏人はもともとお金がないから強盗に襲われる心配はない?)
金持ちだろうが貧乏だろうが、生まれてきた以上どうにもならないことには変わらないのであり、金があろうが地位があろうが、釈迦の言った「老病死」(生まれた後に誰にでも例外なく訪れる苦しみ)はどうすることもできない。
例えばこの「死」ですが、金があれば医者に診てもらえる。寿命を延ばしてもらえる。だから金持ちの方が(若干)ましだ。
そうとは限りませんよ。金があっても事故で死ぬかもしれない。確かに確率的には、医者に掛かれる身分の方が命を(わずかではあるが)延ばすことができるかもしれない。ただし寿命を(若干)延ばすことに何の意味があるのでしょうか?
死は悲しいといっても、誰もが死を免れない。貧乏人だろうが金持ちだろうが遅かれ早かれみな死ぬのです。死を逃れられる者、死を味あわなくて済む者は、最初から生まれてこなかった者に限ります。死を苦しみにたとえるなら、この世に生まれてきた者は例外なくすべて不幸だと言えましょう。なぜなら、死は誰にでも訪れるからです。死をどうするとこもできない不幸とするならば、まさに人間は誰一人例外なく生まれてこない方がよかったといえるでしょう。(補足2)

■人生の意味
 人生にはいいこともあれば悪いこともある。
人生生まれてから死ぬまで幸せ一杯だった。あるいは不幸の連続だった。というのも例外的にはあるでしょう。あるいは最初不幸だったが段々運が向いてきて最後は幸せ。反対に最初は幸せ、ある日突然不幸が襲ったということもあるでしょう。今金持ちでも一夜にして貧乏人になるかもしれない。
しかし往々にして、幸不幸は変動するということです。(補足3)
 人生に意味など無い。何々という事業(例えば歴史上の人物が成したこと、戦国武将の天下統一、維新の功労など)を生きている間に行ったからといって、それが何の意味があるのでしょうか?(補足4)
寿命の長さなんて関係ありません。80歳まで生きて様々なことに功績をあげてきた人生と、生まれてから8時間しか生きられずただ呼吸をしていただけの人生と、比較したところで差などない。あるとすればそれは個人の主観です。なぜなら世界に意味などないからです。人間にとって理想的な寿命などありません。ある程度の年齢まで生きられないと生きた促成を残すことができない?そんな足跡なんか残さなければならない理由はない。人生の内にやるべきことなどないのです。
人生は釈迦の言うとおり一切皆苦(注)です。従って長生きすればするほどたくさん苦しむのです。若くして死んだ人を可哀想だという人がいますが、人生が短いほど受ける苦しみも少ないのです。逆に70年も80年も長生きしたら、それだけたくさん苦しむから、むしろ若くして死んだ方が幸福?なのです。
ただし、若くして亡くなった人が不幸だとか、逆に70年も80年も惨めったらしく生きてしまった人が不幸だとか、そんなことは関係ありません。
長く生きようが短かろうが人生の価値は同じです。生きてきた間に何か足跡を残そうが残すまいが、関係ありません。なぜなら本人は死んでいるのですから。つまり足跡(生きている間に行った行為の影響。仏教では「業」といいます)だけが残る。それが生き残った人々には何かの意味があるかもしれませんが、もはや存在しない者(足跡を残して死んだ者)なんかは関係ありません。その生き残った人が(亡くなった人の)足跡の内容を覚えていても、それを残した人のことなどもはや人々の記憶から消えていることでしょう。
あなたがその足跡(何かの業績)を残して死んだ人間としましょう。しかし生き残っている人にとっては、別にあなたでなくてもいいのです。それを残した人物なんか(既に死んでいるのだから)誰でもいいわけです。その足跡(の中身)さえあれば。生き残った人々が記憶しておきたいことは、あなたの名ではなく、誰が残したかなんてどうでもいいその内容だけです。
どんな人生にも意味はありません。本人とっては意味があるかもしれない。しかし本人が死ねば、もはや本人とっても何の意味もない。なぜなら、あなたがいない世界はあなたにとって何の意味もないからです。ただ生き残った人とっては意味があるかもしれない。ただし、意味があるのはその足跡の内容だけで、「あなたがその足跡を残した」ということについては誰も関心を持たないでしょう。なぜならあなたはこの世にいませんから。
この、「人生に足跡を残しても意味がない」という話はまた後ほど触れたいと思います。
(注)この仏教の根本原理である「一切皆苦」については、また後ほど説明します。

(補足1)生まれてくる前は存在していなかったわけであり、生まれてきたいという意志もなかったと同時に、生まれてきたくなかったという意志も(存在していないのだから当然)、なかった。
従って「おれは生まれてきたくなかった!」と親や世間に文句を言うのもおかしな話です。

(補足2)人が亡くなると、不幸があったといいますよね。人が死ぬのは当たり前。遅かれ早かれ死ぬのです。人生の先には死しかない。ということは人間はみな不幸になるために生まれてきた。不幸になるために生きている。といえます。
あるいは、人が亡くなるとその家族は悲しむかもしれません。それを不幸といいます。即ち不幸は死んだ者ではなく、残された家族のことを指すのです。しかし人は必ず死にます。家族に先に死なれたくはないと思っても無理です。亡くなった者はこの世に不幸を残して死んで行くことになり、残された者は死んだものによって不幸にさせられるわけです。
つまり(死んだ)自分が不幸になるか、(生き残った)人を不幸にさせるか。いずれにしても不幸なのです。
ただ、家族は違いますが、別に赤の他人が亡くなったぐらいで悲しくなることなんかないと思いますよ。よっぽど親しい友人ならともかく、世間一般で騒がれている人、その他著名人、特に新聞に訃報として記事が載る人。その中で亡くなられて困った人なんていましたか?例えば自分がお金を貸していて、それを返さないまま亡くなった場合は困りますが、そうでなければ誰が亡くなろうと関係ありません。世間では有名人が亡くなるとお悔みとか惜しい人を亡くされましたとか言いますが、果たして”惜しい人”なんているでしょうか?逆な早く亡くなってくれた方がありがたい人間はいますが・・・

(補足3)人間は幸福、不幸を味あわされると、幸不幸の基準を自分なりに変更します。たとえば不幸に陥った人は、これぐらいの給料でも満足。逆に宝くじが当たった人は、はした金を見てもゴミとして扱います。このように人間は次に訪れること、未来に起こることに対して、基準を設けて幸不幸の(自己的な)判定に用いるのです。これを「想定原理」または心理学的に「幸不幸のスキーマ」と呼びます。しかも幸不幸の変動に伴ってその基準も変動するのです。

(補足4)結局長生きできたことも、何かの業績を残せたのも偶然です。この世で起きたことはすべて偶然です。(「自己と世界」参照)
結果はすべて偶然です。誰かが結果を残せたとしてもそれは偶然です。もちろん本人の努力もありますが、必ずそうなるとは限りません。努力するのは絶対にそうなるようにするのではなく、"なるべく"そうなるようにする。つまり確率を高めるだけです。結果を自慢する人がいますが、結局は偶々そうなったに過ぎない。そういう人間は思い上がっているのです。身の程知らずです。もちろん本人の努力も大いに関係しているでしょう。ただしそれだけではないということです。
結果がすべてではない。結果よりも大事なことがあるのです。それが方向性です。向かうべき道は何か?こうしたいという指針です。その方向が正しいか誤っているか?それが問題なのです。正しい方向に向かうこと、それを目指して努力する。結果は偶々です。だから好ましい結果が得られなくてもまた努力する意味があるのです。正しい方向、それが逸れていなければ、いずれ好ましい結果が得られるでしょう。その確固たる指針さえあれば、たとえどんな結果が出ようとも構わない。何も恐れる必要はありません。

■誤解しないでください
 ここで誤解しないでほしいことが一つあります。ここで言っている「結果がすべてではない」のは”人生”についてです。それに対して科学はあくまで結果、すなわち事実がすべてなのです。科学は実験や観察を行った結果が最も重要です。それを歪めてはいけません。ただしそれに意味を与えるのは人間一人一人です。科学では意味は与えられません。なぜなら「結果がこうなりました」として、だから何なの?それがどうしたの?その問いに科学は答えられません。
われわれが行うべきことは、科学による正しい結果をもとにそこに意味を見出すこと。それが人間の生き方です。事実を偽ることではない。たとえば失敗は失敗なのです。よく「失敗は成功のもと」と言われますが、それは失敗を失敗として認めて初めて言えることなのです。
われわれは全能ではないから、必ずしもその結果を得ることはできない。結果よりもその結果を得たいという姿勢、方向性、生きる指針が重要なのです。好ましい結果が得られるかはその時の運です。結果として失敗に終わっても、それを生かす。そのためには失敗した事実から目を背けないこと。この営みこそが科学であり、そして自分が生きるべき方向に向かって歩み続けることなのです。

ご意見・ご質問