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仏法の基礎


初めに
 ここから仏教の基本についての話をします。宇宙の真理を悟る上で、まず声聞と縁覚が悟る仏法の基礎について、その後菩薩が悟る仏法の智慧(ちえ)について話します。

 この世のすべてが苦しみであること、つまり一切皆苦が解れば、後はその苦の原因を見つけて、それを取り除けばいいという結論に達します。
苦というものは現実における一つの状態ですから、苦が生じるための原因が必ずあるはずです。(これを因果の法則と呼びます) その原因を特定するとこ。つまりこれは科学の手法ですね。ただし苦の原因を取り除くことが可能かどうかは分かりません。
この「因果の法則」または「因果律」は仏教の基本中の基本です。仏教だけではなく「科学」の基本です。因果の法則、原因と結果の関係があるからこそ、我々は世界を認識できるのです。
ただし、誤解しないで欲しいことがあります。よく、善い行いをすれば良い結果が得られ、悪い行いをすれば悪い結果が得られる。これを「善因善果」、「悪因悪果」と言います。ただ何が善で何が悪か、その普遍的(世界共通)な基準があるわけではありません。”法律”なんてものは人間が勝手に作ったものです。それに対して因果の法則は、人間誕生以前からあります。
善悪の判断はあくまで個人的な(人によって違う)ものです。科学は何が正しくて何が間違っているかの判定はしますが、何が善で何が悪かは、判定できません。仏教でいう因果律も同じです。ただ結果には必ず原因があると言っているだけです。「善悪」はまた別の問題です。(補足1) ここでよく迷信に引っかかるのが、例えば非常にケチな人間が不治の病で入院したとか、個人的な恨みを持った人間の乗った飛行機が墜落したとか。人によってそれを見て”自業自得”などと言ったりしますが、ケチと病気の間に、あるいは恨みと飛行機墜落の間に因果関係など一切ありません。これらはすべて嘘です。こんな下らない迷信に是非騙されないでください。(補足2)
 ただし、この世界で生きている限り「因果の法則」から逃れることは不可能です。他人から命令されるされない。そうするように仕向けられた。騙された。脅迫された。に関わりなく、自分がその行為を行えば必ずその報いを受ける。子供も大人も関係ありません。未就学児は法律によって刑事責任は問われませんが、己の為した行為の責任は歴然と存在するのです。それは人間だけとは限らない。犬や猫であっても報いを受ける。ただし、いかなる報いを受けるのかは一概には言えません。罪と罰の関係は人間が勝手にこしらえたもの。世界はそんな単純なものではありません。世界というものは正にそういうものなのです。

四諦八正道
 苦という事象があれば、その原因が存在するはずです。それを取り省けば苦は消滅する?という訳です。その際仏教では四諦という考え方があるので紹介します。
四諦というのは四つ真理と言う意味です。その四つとは、
(1)苦諦・・・この世が苦しみであるという真理
(2)集諦・・・苦の原因は、執着にあるという真理
(3)滅諦・・・この執着を克服すれば、苦も滅するという真理
(4)道諦・・・この執着を克服するための方法(修行法)があるという真理
 まず、この世が苦であるということは前回お話しました。この苦の原因は欲望にあります。食べたい飲みたいという動物としての欲は生きている限り消えません。この欲望の対象は世界です。(食べ物や飲み物、あるいは異性は世界の一部) つまり、欲望の本質は世界(自分以外の外界)に執着することににあります。(これが「集諦」)
ただし、人間は本能的な欲を持っているという事実を知り、なぜこんな欲を持つのか、あるいは持たなければならないのか、その本質を理解した上で、この本能的な欲(補足3)に溺れないこと。この欲を完全に抑制するのではなく(抑制するのも欲です)、欲を正しく制御(補足4)、コントロールすることが肝心です。
それができずに、欲に流される。欲に踊らされる。そこから苦しみが生じるのです。
その根本原因は我々凡夫が現実に対して無知であり、目の前の世界に執着してしまうことにあります。(この状態を、即ち世界を正しく認識していないために、逆に”自己に執着している”状態とも言える)
本能的な欲望から生じる、生に執着する、即ち死にたくないという願望、あるいは愛に対する執着、愛するものを自分のものにしたい、愛するものと別れたくないという願望。この叶えることが不可能なことに対して、何とかして死なないようにしたい。あるいは愛するものを得たい。または死んでしまったものを生き返らせたい。という願望を持つ。この執着、つまり不可能な望みを叶えたい、即ち不可能なことが解っていない(無知)、そのことから苦が生じるのです。
次にその執着から離れるためにはどうすればいいのか?要するに正しく世界を認識する(世界には可能なことと不可能なことがあることを知る)ことです。正しく世界を認識したら、正しい生き方をする。仏教ではその生き方を八つに分けて「八正道」と呼んでいます。この八正道については、図80「八正道」を参照願います。
仏教は実践の宗教です。ただ頭で理解するだけでは駄目です。最終的にこの八正道を実践して執着を離れて、苦を克服する。それが仏教の目的です。

 「四諦」で示した通り、苦しみの原因は世界に執着することににありました。この執着とは世界を誤って認識していることから起こるのです。まずは世界の本質を正しく認識してこそ、苦を克服する道だと思います。そこでこの世界の本質を理解するために、世界の真理として以下仏教の有名な言葉、「諸行無常」や「縁起」について説明します。
ここで注意。もしも今もっとお金を儲けたいという願望があったとしましょう。しかしいろいろ試してみても思うように儲からない。欲望が叶えられない状態を「苦」とするなら、正に今は苦の状態です。この苦、つまりお金が思うように儲からないことには原因があり、それを解決することが苦の克服なら、ビジネスのやり方をこう変えればよい。よくビジネス書などに書かれている方法が苦から脱する教えであると。仏教はそんなことは教えていません。その手段によりお金を儲けることができたとしても、それは一時的な満足を得ることのみであり、根本的な解決にはならない訳です。仏教は根本の根本から原因を問うのです。そんな下らない話をしているのではない。何事にも原因があるという因果の法則を誤解しないでほしいものです。

諸行無常
 諸行無常という言葉はよく知られていますが、この意味は、世界は移り変わるものであり、一時も留まることはない。ということです。世界を観察すれば、それは明らかです。これは宇宙における真理です。これを覆すことは出来ません。
この当り前のことが分からない。永遠の若さ、永遠の命が欲しい。これらのことはみな執着です。そこから苦が生じるのです。
(注釈) この諸行無常の「行」とは、存在が世界に対して行う行為です。それは現象として表れ、我々はそれを観測できます。例えば雨が降る。風が吹く、人が大声を上げる。犬が走る。鳥が飛ぶ。(これらは因縁(下記参照)によって起きる)などの現象は、一瞬たりとも留まることができず、それは変化そのものと言っていいものです。ということで、「諸行無常」とは、あらゆる行いによって、世界は常(つね)の状態に非ずと言う意味なのです。
つまり、永遠に変わらないものなんてない。健康な体もやがて老い、病に掛かって、いずれ死ぬ。あなたも青山も例外ではありません。この世の幸福の形(財産、名誉など)などもたちまち崩れて去ってしまうでしょう。(前コラム「一切は苦」参照)
人々は今の幸せ(安らぎに満ちた生活)が永遠に続くと信じ込んでいる。愛する人が永遠に存在すること。離別などない。変わらず自分を愛してくれると信じ切っているのです。それが(死別や裏切りによって)崩れ去ることから苦が生じる。しかしすべてが「無常」であることは、この世界の本質です。そこに捕らわれるから苦しむのです。

十二因縁
 人間としての最終的な苦である「老死」(老いと死)が存在する原因を(その原因、その原因という具合に)探求していくと十二の過程を経ていること、このことを示したのが「十二因縁」です。
この大もとの要因は、宇宙に対する無知(これを仏教では「無明」といいます)にあるとする。この「無明」が根本にあり、「老死」がある。つまり無明がなくなれば老死もない。というわけです。十二因縁については、図81「十二因縁」参照。(補足5)
「因縁」という言葉の意味は、物がそこにそのように存在するためには、原因と周りからの作用(これを縁という)が有った。という意味です。
この十二の現象を一つ一つ考察することをそれほど重要視する必要はありません。細かい内容まで理解しなくても結構です。これは現実の世界の仕組みを表した一つの例に過ぎませんから。ただし「老死」の原因が生まれること即ち「生」にあるとこは、誰でも納得するはずです。人間は誰でも親によってこの世に生まれさせられたのです。この世がパラダイスなら文句も言いません。しかしこの世は正に地獄です。こんな苦しみしかない世界に生まれさせられた。誰でも親に文句の一つでも言いたいわけです。
そこでこの青山が世界中の子供たちを代表して、世界中の親に向かって文句を言います。「おれは産んだくれと頼んだ覚えはない。にもかかわらず何で産んだんだ!」(産んでくれたからこそ、この世で苦しまなければならなくなった)
この子供の問いに答えられる親が果たしているでしょうか?この素朴な我が子からの質問に、立派に答えられる親が世界中に一人でもいるでしょうか?普通の親だったらきっと顔を真っ赤にさせて本気で怒るでしょう。なぜか、答えられないからです。今まで子供からこんな問いを発せられることなど夢にも思っていなかったからです。こんな聞いてはいけないことを聞く我が子が憎いからです。それはただ単に自分が(答えられずに)愚かであることを証明しているに過ぎないのです。その自分の愚かさを突かれた親が怒りを爆発させているだけなのです。親はこう弁解するだろう。「こんなに苦労してお前を産んだのに、なぜそんなことを言うのか!!」って。これが答えになっていないことは明らかです。要するにそんなことも答えられないほど自分は無知だったのです。それを素直に認めたらどうですか?
しかし安心してほしい。こんなことを聞く子供は滅多にいないだろう。なぜでしょう。この質問はタブーです。こんなことを聞く子供を親はきっと大事に育てようとはしないだろう。親は産んだことに対して文句を言う子供より、「産んでくれてありがとう」と嘘でもそう言う子供の方をより可愛がって育てたいものです。つまり文句を言う子供は生き残れないのです。人間は進化の過程で、このこと(なぜ産んだのかと聞くこと)をタブーにしました。タブーにしないと親子関係がうまく形成されないからです。つまりこれも自然淘汰の産物です。
実は子供も本能的に恐れているのです。そんなことを親に聞いてはいけないものだと無意識的に知っているのです。それを聞いた途端自分が親になったときに子供に聞かれる。それが怖い。さらに親も怖いのです。子供にいつそのことを聞かれるのか?聞かれないように何とか話題を逸らそうと必死。だからどの親も子供に甘いのです。まるで釈迦の父親のように。
「うちでは子供には厳しくしつけをしている」なんて自分の子育てを自慢する親がいますが、例え世の中に名を残した偉人に自分の子供を育て上げたとしても、親というものは本質的に子供に甘いのです。なぜなら、もし、そう子供に聞かれたら、親として弁解できません。つまり親は宿命として子供に対して負い目を負っているのです。
この件について、もし釈迦の子であるラーフラが父である釈迦に対して聞いたとしたら、釈迦はどう答えるでしょうか?興味はありますね。しかし例え子供にそのようなことを聞かれても、堂々と答えられないようでは親として失格だと思いますよ。
この「なぜ産んだんだ」という子供からの問いに対して、唯一答えになることができる回答があります。それはまた別途。

愛欲
 愛は一般には(特にキリスト教では)最も尊いものとしていますが、仏教では最も悪いものとしています。
なぜでしょう?この十二因縁に登場する「愛」は、動物としての本能の働き、すなわち対象に対する執着を意味しています。それが原因で苦が生じる仕組みです。だから愛を滅しなければならない。というのが仏教の考え方です。(補足6)
今日、仏教徒が多いに日本でも、この愛が悪いものだという話はまったく聞かれません。その反対に、素晴らしいものとして理解されています。少なくとも仏法を学ぶ者は、この愛を正しく理解して、それから離れる努力が必要です。
愛についてはまた別途。

縁起
 釈迦の思想の中で最も重要なことです。世界のあらゆる存在はつながって(関係をもって)おり、互いに影響を及ぼし合う関係にあるというものです。作用するものと作用されるものは対等である。作用するものも必ず相手から作用を受ける。そこには大もとの作用など存在しない。即ち事象の根本原因などはないと言うことです。つまり神など存在しないということ。(図82「縁起」参照)
世の中では「縁起がいい、縁起が悪い」という言い方で使われます。これは単に関係があるというだけの意味しか有りませんが、縁起の意味はもっと深いのです。この縁起という宇宙の真理が分からないと、仏教もまるで解らないことになります。
縁起は単なる因果の法則ではない。因果の法則、即ち一つの結果にはその原因があるというのは科学の根本原理ですが、仏教ではさらにその先を行っているのです。因果の法則に留まっているだけでは、良いことをすれば良い報いが、悪いことをすれば悪い報いがある。などという幼稚な思想が生まれるのです。これは在家の考え方です。
世間では、縁起というものをあまり重要視しません。縁起を追及していくと責任の所在があいまいになるからです。誰が悪い、誰の責任かがはっきりしないことになる。そうなれば社会では受け入れにくいのでしょう。しかしこの縁起が解らないと、この後出てくる「無我」や「空」の哲理もわからなくなります。つまり世界の真の姿はあくまで「あいまい」なのです。「無我」や「空」こそは仏教の根本です。(補足7)
そして縁起から導かれるもう一つの重要な点。それは、”世界は一つ”だということ。縁起によってすべての存在は関係し合っています。一見無関係な物(王様と乞食、あるいは何億光年離れた星の生命体と我々)でも全てつながり(関係性)があるのです。すなわちすべては平等です。そこに貴賤も優劣もありません。そして自と他の区別もありません。他と別の他との境界もありません。一切はすべてで一つなのです。全宇宙を巨大な機械に喩えるとその部品一つ一つが人間一人一人です。ただし誤解してはいけないこと。人間一人一人は機械の部品のように同じ一つの目的のために存在しているのではありません。
仏教は出家者に対する教えです。是非この縁起を正しく理解して下さい。(補足8)

諸法無我
 法とは世界の有様です。そこには我(主体)がないという真理です。
法とは、社会における法律のことではなく、宇宙を貫く自然法則です。宇宙には様々なものが存在します。石ころ、草花、虫、獣、そして人間、その他人工物である自動車、ビルディング、そして自然の産物である山や川、地球、太陽、それら全ては我々の目に見える存在として観測可能です。これらはみな自然法則に従って存在しています。自然法則がなければ何ものも存在しないのです。自然法則を超えたものなど存在しない。逆に自然法則だけあって存在がないということも有り得ません。従って法とは存在そのものと言えるでしょう。
そしてこれらすべての存在はそれ自体主体を持ったものは何一つない。ということは、常に周りの何かと関係性を持つ、その関係性を切ることができない。(実体がない)
さらに、いかなるものでも分解可能である。そのもの自体どこまでも細かく分けることが可能。どれだけ分解しても根本的な存在(そのもの自体)には到達できない。(すなわち実体がない)
以上から、いかなる存在も主体を持たない。これを諸法無我と言います。(上記諸行無常の「行」と諸法無我の「法」の違いに注意。「行」は現象、「法」は存在を表しています)(補足9)

【挿話】 法灯明と無我
 釈迦は弟子のアーナンダに「自分を拠り所とせよ。他人を拠り所としてはならない。」つまり「自灯明」を教えました。(「釈迦の生涯 死と涅槃」) その時同時に「法を拠り所とせよ」とも教えています。これを「法灯明」と言います。言うまでもありませんが、「法」とは刑法や民法などの国が作った法律のことではありません。法とは自分以外、すなわち世界を指します。ただし、他人(その中には主君や親、あるいは師も含まれる)ではありません。いわば自然法則です。自分一人の独断に陥っては世界を正しく観ることはできません。世界は自分とは独立した存在であるから、それを見極めよ。法の存在を無視してはならない。と教えています。
ただし、この「法」は無我です。法に実体はありません。だからこそ法に執着してはならない。法とは自分が観察可能な世界のことです。家族や友人あるいは師匠も法そのものではないが法の一形態です。水や空気もそうです。その法の存在を無視してはならないが、決して絶対視してはならないと。「法灯明」と「諸法無我」は、即ち「自灯明」と同じ意味なのです。

涅槃寂静
 上記、諸行無常、諸法無我を体得したら、静まり返った涅槃の境地に達するというものです。もちろん欲望が完全に消滅したのではありません。欲望の完全な消滅は死んでからです。
だから本当の涅槃ではないけれども、心が静まり返り、欲望に溺れることもなく、あらゆる世俗的な穢れ、精神的な不安や苦しみから解放された状態を得るという意味です。
もちろん、これは出家者しか味わえない境地です。修行に修行を重ねた果てに到達できる一つの理想的な境地です。

 以上、仏教特に釈迦の教えの基本について述べました。考えてみると、無常とか縁起とか、何か特別なことを言っているわけではありません。世界を冷静に見渡せば、それはごく当り前のことを言っているに過ぎない。我々でも容易に理解できます。釈迦は特に天才ではなかったかもしれない。もし、これが我々が理解できないオカルト指向のものだったり、釈迦は宇宙人だったなどの話になれば、カルト的で危険な宗教となるところですが、科学(我々が日常経験している事実)に反しないし、教義の内容も当り前ですし、危険性はないと考えます。
ただし当り前と言っても、その教義を頭で理解することだけが仏教ではありませんから、あくまで日常の中でそれを体得し、宇宙の真理に従って生きる実践がなければ、仏教の目指す心の平安は得られないでしょう。
本来の仏教は、声を上げて意味も解らずお経を唱えることでも、お寺で様々な仏像を拝んで願い事をすることではありません。これらのことはみな在家の人間のすることです。仏教は出家して修行をし、悟りを得ることを目的としています。

余談ですが
ネットを見ていると最近「ワンネス」という言葉が流行っているようです。意味は、宇宙は一つの存在であるという考え。
仏教的に言えばこの宇宙の存在はすべて縁起によって関わっています。そして諸法無我により、存在というものはどのような切り口でも作れます。つまり宇宙全体を一つの存在とみなしてもいいわけです。そしてその構成要素(個々の存在)が一人一人の人間です。しかし個々の存在は協力関係または愛し合う関係とは限りません。対立するあるいは敵対することもあるのです。
例えば「国会」。構成要素は議員です。議員は共通の目的、国民の幸福のために働いています。しかし常に喧嘩をしていますね。仲良くなれません。当たり前です。人間一人一人はみな他人です。意見の相違があるのです。人間同士は争うのです。戦争が無くならない理由はこれです。
宇宙の要素である個々の人間はみな幸福になりたいという共通の目的を持っています。でもいつも争っています。親子でも兄弟でも夫婦でも。なぜなら幸福の価値観がみな異なるからです。これが共通の幸福の基準だというものはありません。さらに競争する上での共通のルールなんてものもありません。だから勝ち負けもありません。ゲームとかスポーツ競技じゃないんだから。従って相手を殺すまで戦うのです。
でもそれでもいいじゃないですか。本当の闘いは相手を屈服させるのではありません。思い通りにさせることでもないのです。それは相手を幸福にすることです。そのために命を懸けて戦うのですから。

(補足1) 善悪の基準はあくまで個人的なものだとしても、善い行いには良い報いが、悪い行いには悪い報いは、本当に起こります。それは自分にしか分かりません。なぜなら善悪の判定は自分にしかできないからです。
人間が世界に対して何らかの作用を及ぼせば、必ずその影響は残ります。そしてその反動(世界からの作用)にそれは現れます。つまり自分の行った行為の報いを必ず受ける。ということです。そしてその影響(痕跡)は永久に残る。自分が為したことを無かったことにはできません。そして逆に自分が受ける世界からの作用には、自分がかつて行った行為の影響が少なからず含まれるのです。これは真理です。即ち善いことをすれば善い報いを受ける。悪いことをすれば悪い報いを受ける。も間違いではありません。ただし、何が善で何が悪かは主観が決めることです。(法律や裁判官が決めるのではない) 善悪の基準が無い状態では「善を為せば善を受け、悪を為せば悪を受ける」には意味がない。「努力すれば報われる」という言葉も意味がない。ことになります。(図83「行為とその報い」参照)

(補足2)他人に親切にした人、国家に命を捧げた人、努力をして成功を掴んだ人、あるいは他人に意地悪な行為を働いた者、人を何人も殺した者。人間はそれぞれの行いに応じて報いを受けます。ただし、どういう行為がどういう報いをもたらすのかは一概には言えません。努力した人間が恨みを買って殺される目に遭うかもしれない。努力などせず成功もしなければ、恨みを買うこともなかったかも?全ては己の行為の結果と言うべきでしょう。
イエス(キリスト)も死刑にされたのは自らの行為の結果。自ら蒔いた種によって彼は殺されたのです。自業自得と言うべきでしょう。しかし彼を死刑にした行為は善でも正義でも何でもない。彼を殺したユダヤ人も当然報いを受ける。しかしイエスとしてはこれらの結果すべてを見通した上での行為だったのかもしれません。

(補足3) 動物としての食欲や性欲の他に、人間としての、愛したい愛されたいという欲、金銭や名誉を求める欲、競争に勝ちたいという欲、社会的に認められたい(自分の存在価値を認識したい)という欲。それらはみな動物としての本能的な欲です。つまり自然淘汰により身に着けたものです。

(補足4) 欲の中で何を解放するのか、何を抑制するのか、また何のためにそう(解放、抑制)するのか、明確な目的を持つことです。

(補足5) 「無明」とは苦の根本要因であるとともに、人間の本質、宇宙の本質であるとも言えます。即ちこの世は苦しみしかないのです。

(補足6) 仏教では、渇愛(喉が渇いてどうしようもない状態で、水を求めるがごとく愛する)、貪愛(あくなき求め欲する愛)とか言いますが、全て悪い意味です。よく「奪う愛は悪だが、与える愛は善い」と言われますが、仏教ではともに”悪”です。いかなる愛も、それは対象(隣人)に対する執着であり、執着するからこそ、そこに苦が生れるわけです。たとえば相手に命を差し出すことも、そこに何かの期待(相手に幸福になってもらいたいという願望)があるわけであり、それこそが執着なのです。もし何も期待しない(相手が幸せになってくれなくてもいい)のであれば、そもそも人など愛しません。釈迦は、「苦」の原因は「愛」にあるのだから、人を愛するな。愛する者(即ちは家族)を持つな。異性に近づくな(異性を見ると誰もが執着を抱く)。と教えています。愛を至高のものとみなす「キリスト教」などとは正反対の教えです。苦を克服することを目的としている仏教にあっては当然のことだと思われます。
上記「十二因縁」によれば、愛の本源は「無明」であり、従って「愛」こそがこの宇宙の本質であるとも言えます。だからこそこの世は苦しみ(一切快苦)なのです。ただし、この苦しみの世界にあって、この苦しみの中で生きるしかないとすれば、たとえ苦しみを被ったとしても、敢て人を愛する道を選択するという生き方もある。これが即ち仏教最高の徳である「慈悲」につながるのです。それはキリスト教の「隣人愛」とも関係します。その話は後程。

(補足7) 縁起でよく言われる話として、縁起とはそれぞれの存在同士が互いに支え合っている。みんなが協力し合っているというもの。だから人間同士仲良くしなければならない。縁起にそんな意味はありません。ただ無意味に互いの存在が作用し合っているということだけです。それを言うなら、人間同士は互いに排除し合っている(敵対し合っている)。とも言えます。

(補足8) 【誰が罪人か?】
 もしあなたが今日たまたまテレビを見て、そこで地球の反対側の国で起きた殺人件事件のことと、その犯人が逮捕されたというニュースを聞いたとしましょう。さて、この事件の罪人(責任を負わなければならない人間)は誰でしょう?
もちろんあなたです。
「否、私には何の関係もない。第一その国に行ったこともなければ、犯人も被害者も知らない。事件のことは全く知らなかった」。
そんな言い訳が通用しますか?あなたの罪とはその事件を未然に防げなかったことにあります。
「どうして私がそんなことをしなければならないのか!」。
あなたは事件とは関係ないと主張していますが、まったく無関係ではないはず。なぜなら、同じ地球に存在しているのだから。(だからニュースで事件のことを知りえた)。もちろんあなただけが罪を償わなければならない訳ではありませんが、あたなにも何らかの責任はあるでしょう。つまり、あなたにもその原因の一端があるのです。あなたが注意を払って世界中を見渡し事前に対策を講じていれば、こんな悲しい事件は起こらなかったのです。罪はあなたにあります。あなたはその報いを受けなければならない。
「確かに無関係ではないかもしれないが、それにしても私の罪は限りなく小さい。それに対して犯人の罪は遥かに大きい」。
その考え方は誤りです。罪を量で計ることはできません。罪の大きさによって、それを複数の人間に割り当てることなんてできるでしょうか?その罪がある特定の人物と結びついている。という考え方は、次に述べる「無我」にも反します。人間が罪の意識を持つのはその罪を知った時です。罪を知ったからにはそれを償うために何らかの行動を起こさなければならないのです。もちろんどのように行動して、どう罪を償えばよいか、それを決めるのはあなたです。

(補足9) この「諸法無我」で誤解されるのが、この「我」とはそもそも自分自身ではないということです。もし自分なら「無我」とは自分が存在しないことになります。自分自身が存在しないとしたら、もはや何も始まりません。この「科学概論」を書く意味もありません。釈迦が言った「自灯明」の意味も解らなくなります。(「釈迦の生涯 死と涅槃」参照)
「我」とはもともとインドの思想にある「アートマン」のことを指し、個々の存在にある主体性を意味します。要するに「諸法無我」とは、自分自身が見ている世界における個々の存在(諸法)に、我(主体的存在)はない。ということです。決して自分自身が無いと言っているわけではありません。自己と世界の本質(認識するものと認識されるもの)が分かれはこのような誤解はありません。この「諸法無我」の戒めは、自己自身は決して観察できない。目の前の世界は自分ではない。その世界を自分自身(自分が所有するものの一部)として執着してはならない。と言うことです。
ただし、自分自身(あなたにとってはあなた自身、青山にとっては青山自身)が確実に存在している保証はありません。「我思う。ゆえに我あり」(注)と言われますが、自分が存在するためには、”我思う”が確実であることが前提です。無論絶対にそれが確実とは言いきれません。後でも述べますが、自分とはずばり”意識”のことなのです。その意識が確実に存在しているとは言えない。自分が存在しているというのは、あくまでも仮定であり、自分が存在していなければならない理由はどこにもないのです。(自分の存在を保障する者は”神”しかいない。しかし神は存在しない)
(注)フランスの有名な哲学者デカルトの「方法序説」による。

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