この「科学概論」の一貫したテーマである「人間は何のために生きているのか?」。それは人類が誕生以来今日まで、絶えず問い続けられてきた問題です。ここで最後の結論を出す前に、人生や世界について考察した近代哲学者の系譜を見てみましょう。なぜならこのテーマは、哲学の問題ですから。 特に知っておいてもいいと思う哲学者を(青山の独断で)10人選んでみました。 ・ジャン=ポール・サルトル1905〜1980フランス 実存主義 著書に「嘔吐」 ・ジル・ドゥールズ1925〜1995フランス ポスト構造主義 ・フリードリッヒ・ニーチェ1844〜1900ドイツ 著書に「善悪の彼岸」 ・ミッシェル・フーコー1926〜1986フランス 構造主義 著書に「言葉と物」 ・フリードリヒ・ヘーゲル1770〜1861ドイツ 弁証法を大成 著書に「精神現象学」 ・エドムント・フッサール1859〜1938ドイツ 「現象学」を創始。 ・マルティン・ハイデッガー1889〜1976ドイツ 20世紀最大の哲学者と言われる 著書に「存在と時間」 ・ルートヴィヒ・ウッドゲンシュタンイ1889〜1951 オーストリア 独我論 ・ジャック・デリダ1930〜2004フランス ポスト構造主義 脱構築 ・エマニエル・レヴィナス1906〜1995フランス 著書に「存在の彼方に」 サルトルは一時期はやりましたが、入門としてはいいでしょう。個人的にはウッドゲンシュタンイは天才中の天才だと思います。レヴィナスの「存在の彼方に」はとても難解ですが、最高の哲学書です。20世紀に入って、「実存主義」が流行りました。それに対抗して「構造主義」や「ポスト構造主義」が出て、フランスを中心に多くの哲学者が現れました。「構造主義」は一時的なブームと見るべきでしょう。もはや「○○主義」などというものは現れないかもしれません。 現代の「構造主義」や「ポスト構造主義」も世界を変えるまでには至りません。(ウッドゲンシュタンイの)独我論や(ハイデッガーの)存在論を超えてはいません。カント(注)以来哲学の流れはありますが、仏教の「空」を超えるものは現れていないと思われます。(以上、青山の個人的見解) 注:イマヌエル・カント1724〜1804ドイツ 近代における最高の哲学者 哲学の終焉 もはや、哲学なんて役に立つんですかね?本当に人間を幸福にするんですかね? 世界と自分の関係について目から鱗が落ちるものはあるかもしれないが、結局この「科学概論」で述べてきた以下の二つのことを理解できれば終わりです。 ●自分と何か?それは世界と相対する存在、世界を認識する視点。および世界に働きかける作用点。自分は自分を決して認識できない。認識できたら、それは自分ではなく世界である。 ●世界は「空」であり、意味も目的も方向性もない。世界はただなるようになっているに過ぎない。 青山筑紫の名の由来 最後に、余計な話を一つ。この「青山筑紫」という名についてお話しします。青山は、この”青山”という名を、「人間到る処青山(せいざん)あり」ということわざから採りました。意味は、人間にとって死に場所はどこでもよい。「青山」と言うのは墓の意味です。つまり、青山のポリシーとしては、どこで死んでもいい。またいつ死んでもいい。人間にとって、結果よりも生きる姿勢が重要。結果などは偶然に過ぎない。生きる方向性が問題なんだと。結果が得られなくても、途中で死んだとしても構わない。すなわち、やれるところまでやる。行けるところまで行く。いつ死がやってきても悔いはない。次の瞬間死ぬことを前提に生きる。死の寸前まで姿勢を崩さない。その姿勢はもちろん自分自身が選択する。周りの指図は受けない。 これがこの青山の生き方です。それは忍者に通じる。忍者は何者にも束縛されずに自由。名を知られることなく、ただ己のためだけに生きる。その自由を得た者こそが忍者である。この「青山筑紫」の”筑紫”は九州北部の旧国名です。九州と青山はまったく関係ありません。ただ、昔の忍者の名として、例えば(伝説の忍者である)百地丹波や藤林長門など。この丹波(現京都府の一部)や長門(現山口県の一部)も旧国名です。それに倣って付けました。また、登山好きの青山の山登りに対する姿勢「行けるところまで行く」も、生き方の一つです。 この「行けるところまで行く」とは、例が悪いですがこういうことです。人間を一億人倒す。あるいは一億人を殺す。それも一人づつ、かつ自分一人で。そんなことは到底不可能です。せいぜい二三人殺したところで自分が殺されます。一億人を殺すところまで行くはすがありません。しかしこれが「行くところまで行く」という生き方。結果はどうでもいい。姿勢が大事だという、あまりよくない譬えでした。
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