TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

すべての怒りを慈悲に変えて


 この世界で生きることはなぜ苦しみなのか?それは前にも話したとおり、この世界にはあなたとは異なる隣人(他人)が存在するからです。あなたにとっては他人の存在が許せない。他人とは自分から生命、財産を奪うもの。あなたは隣人が憎くて憎くてたまらないでしょう。できることなら殺してやりたい。
どれだけ親しい相手でも、あなたの言いなりには決してならないでしょう。なぜならあなたとは他人だから。だからこそ隣人が憎い。隣人とはそういうものです。
そこであなたと隣人はお互いの憎しみのために争うことになります。殺すか殺されるか。あなたが争い事を好まないなら、できるだけ一人になる生き方を選択することです。

愛が憎しみを生む。
 争いを避けたいなら、人と関わらないこと。憎しみを避けたいなら、人を愛さないこと。
時に隣人はあなたの思い通りになってくれるかもしれない。そのときあなたは隣人が愛おしいものに思えるでしょう。しかしあなたのその思いは必ず裏切られる。愛は一瞬にして憎しみに変わる。
なぜ隣人はあなたを裏切るのか?言ってみれば隣人は世界そのものです。世界はあなたと相対するものだからです。世界はあなたの思いと通りにはなりません。あなたがどれだけ寛容でも、隣人の存在が許せない。いつかあなたはその怒りのために隣人を殺すかもしれない。隣人はあなたの命令を拒むでしょう。つまりあなたとは別の存在だからです。
隣人との争いを避けたいと思うなら、あなたは孤独になるしかないのです。まったく隣人と関わらなければ、憎しみ合うことも争うとこともない。しかしこの世で生きている限り、隣人と関係を一切切って生きることはできない。

平和の実現
 以前にも話しましたが、平和とは何でしょうか?平和は人類の悲願です。平和の反対は戦争です。戦争のもとは、人間同士の喧嘩です。隣同士で生きていれば、お互い他人ですから、意見の相違、限られた利益をめぐって、必ず争いが生じます。それはごく親しい者同士、例えば親子や兄弟でも起こる。時には、家族同士で殺し合うことも起こりえる。なぜか?親しい間柄ほど、関わり合いが頻繁だからです。そうであれば当然、争いや憎しみも激しいものに。
だからこの争いを避けたいなら、できる限り人との関わり合いを持たないことです。できるだけ一人で暮らす。家庭を持たない。それが理想です。だから家を出て、家族を離れて生きる仏教の出家者たちは理想的な生き方をしていると言えるでしょう。仮に相手が戦いを挑んできても、絶対に戦わない。相手にしない。無視する。それが裁判の訴訟であっても、スポーツの試合であっても、絶対に挑発なんかに乗ってはならない。こんな下らない争いに勝っても負けても人生を無駄にするだけです。眼中から外す。歯牙にもかけない。存在を認めない。それが相手に対する態度です。
無論時に家族は協力し合います。例えば他の家族から自分たちが攻撃を受けた場合など、一致協力して相手に当たるのです。家族を侵害されるということは、家族共有の財産が奪われること、つまり自分自身の利益が損なわれることを意味します。つまり家族にとって相手は共通の”敵”なのです。その敵を倒すために家族みなで、相手を徹底的に殲滅するまで攻撃を加える。やられたらやり返す。恨みを晴らすために。時に過剰なまでに復讐する。その復讐が今度は相手からの恨みを買うのです。争いはどこまでも続きます。もし相手が完全に復讐をあきらめたとしても、平和は決して訪れません。今度は同じ家族同士で互いに利益の奪い合い、血で血を洗う争いが始まるのです。
この争いを鎮めるために、宗教というものが生まれました。この宗教によって確かに同じ信仰を持つ者同士での争いは減りました。宗教の示す神の与えた律法によって、相手に攻撃を仕掛けることは神に背くことに等しいと教えるからです。相手が同じ信者なら、たとえ争いが生じてもどちらが悪いか、神の示した教典に従って判断することができます。教典の中には「人を愛しなさい」、「貧しいものを救え」と謳っているものもあります。ところが愛や慈悲を説く宗教も、自分たちとは異なる神を崇める他の宗教グループとは、相手を根絶やしにするまで戦うのです。その争いが、やがて民族同士、国同士、世界を二分した世界大戦にまで進展した。これが人類の争いの歴史です。そこに膨大な数の犠牲者が生まれています。その犠牲者の中には、武器を持たない一般市民、子供や女性、そして病人も年寄りも含まれる。何の抵抗もできない弱い者たちが、戦争で真っ先に犠牲になっている。戦争で一番の悲劇はこのことです。それを思えば誰もが戦争に怒りを覚えるはずです。しかし戦争はなくならない。人間が自分の利益(幸福)を追い求めるうちは。すなわち人類悲願の恒久平和の実現など不可能と言わざるを得ない。人類が地上から滅亡するまで争いはなくならないでしょう。一つの宗教に統一される。いったいどの宗教が統一するんだ?あるいは地球上で唯一の政府が人間を支配する。いわゆるNewWorldOderの実現。それは間違いなく不可能でしょう。
では我々は永遠に争いから解放されないのか?
もしあなたが争いを避けたいのなら、できるだけ他人との関わりを絶つことです。相手が近づいて来たら逃げるのです。人と離れたった一人で静かに生きるのです。誰もがこのような生き方を選択したなら、少なくとも人類は、沢山の犠牲者を出す悲惨な戦争だけは避けられるでしょう。
しかし全く人との関わり合いを避けることはできません。人との関わりを捨てることは、人間として、愛も喜捨も実現できないことを意味します。人間は誰でも、生まれてから死ぬまでの間、全く一人で生きていくことはできません。少なくても乳飲み子にはそれができない。あるいは病人や働けなくなった老人。人の手助けを必要としている者はたくさんいます。それらを見捨てられるでしょうか?哀れな者に慈悲を掛ける。隣人に愛や喜捨を施してこそ人間です。我々はその為に生まれてきたのです。
すると人間は嫌でも、一生の間に一度や二度は隣人と関わりを持つことになります。その際相手と相違があるはず。なぜなら相手も人間だからです。あなたの支配を決して受け入れないでしょう。それでいいのです。相手を自分の言いなりにしたい。完全に支配したい。それは相手の人格を否定することです。それは神の存在を認めないことに他ならないのです。従って相手の意志を確認して、そこに妥協の余地かあるなら、相手と分かり合えるかもしれない。争いを避けることができます。そこでもし相手の生き方に誤りがあるなら、正してあげることです。それが慈悲です。相手の誤りとは、その隣人の考え方が、この現実世界の真理にそぐわないこと。それを相手が気付いていない場合は、こちらが諭すのです。それを知らないままでは、相手は間違いなく不幸になる。それを救うのが自分です。自分はその使命を帯びているわけです。相手に覚らせる際は、あくまで相手が尊厳を持った自分にとって唯一の隣人であると認め、優しく丁寧に、慈しみを持って諭すのです。その際相手の話を長い時間費やして十分に聞くこと。その言葉を全面的に受け取ることです。隣人はきっと分かってくれるでしょう。あなたに誠意があるなら。
最終的には無条件に相手を受け入れるのです。そのためには自分は命を落としても構わない。どんな不利益を被ってもいい。その覚悟を持って初めて、人を愛せるのです。
しかしどうしても相手が自分の考えを受けいれない場合、このままでは相手を不幸に陥れることが分かったときには、仕方がない。戦うのです。(これは最終手段です。) 相手を倒すまで戦う。例え相手に殺されても戦う。死ぬ覚悟で戦う。それが人間です。ただし、思いは常に相手のため。相手の幸福のため。その為に自分は命を捨てる。命を捨てても相手を救う。それが本当の慈悲です。

すべての怒りを慈悲に変えて
 もしあなたがこんな立場だったらと想定してみてください。そしてあなたがその当事者になったつもりで考えてください。
ある日あなたの愛する家族(愛する妻または夫。あるいは可愛い子供たち)を、けだもののような凶悪犯罪者によって、自分の快苦のために弄ばれた上、息を引き取るまで激しい暴行を繰り返し加えられて、無残に殺され死体までも捨てられたとしよう。その後犯人が捕まり、あなたは愛する家族の変わり果てた姿を目にする。もはや決して開くことがないその口もと。苦痛に満ちた表情。永遠に開かれることがないその瞼。あなたはそれを目にして何を思うか?大切な大切な命を奪われた。自分とそして殺された家族が抱いていた夢、希望、未来、そして幸せ、それをすべて奪われた自分。あなたがごく正常な人間であれば、その怒りは頂点に達するだろう。例え犯人がその後反省して謝罪の言葉を述べたとしても、その後加害者が更生して真人間に戻ったとしても、否、犯人を死刑にしたところで、あなたの憎しみは決して収まらないだろう。死んでも犯人を許せないだろう。できることならこの手で犯人を殺してやりたい。愛する者を殺した同じ方法で、否、この世で考えたられる最も残酷な方法で、何度でも何度でも殺してやりたい。それが普通の人間の心理だ。あなたにとって犯人に関わるものすべてが憎い。あなたの家族に対する愛が強ければ強いほど、あなたの犯人に対する恨みは大きい。例え法律的に裁かれたとしても、あなたはその殺害した相手を絶対に許さないだろう。命に代えても復讐を果たす。そう誓うはずだ。法律に則った和解も、いかなる償いもあなたは決して承知しないだろう。例え世間が許してもあなたは絶対に許さない。もはや世界を敵に回しても戦う。世間体など関係ない。気持ちの整理、周りの人々の説得に折れること。それは自分に対するごまかしに過ぎない。死んで行った者に対する裏切りに他ならない。あなたはそんなことを納得できるだろうか?もし犯人が今もこの世界のどこかで生きているなら、草の根分けても見つけ出し、徹底的に責め続ける。相手が死ぬまで苦しみを与える。どんなに謝罪しても決して許さない。地獄の底まで追い詰め、あらゆる苦しみを与える。これでもかこれでもかという具合に。そのために自分の残りの人生をすべて懸ける。そのために一切を捨てても構わない。そんなあなたの行動を世間は非難するかもしれない。そんなことのためにその後の人生を費やすなんて空しいと。死んだ者はもう生き返らない。過ぎたことは忘れなさい。たった一度の人生を棒に振るな。と。そんな周りの言葉、あなたは人事のように聞こえるはず。あなたは決してそんな甘い説教に耳を傾けることはないだろう。この世は空しい。空しくないことなどない。犯人を許したところで、そこにある幸せなど所詮は見せかけのものだ。自分の感情を押し殺したところに幸せなどない。
青山は思います。あなたのその怒りが決して収まらないなら、その怒りの感情に身を任せて生きるべきだと。世間がどうあれ、あるいは法がどうであれ、あなたが納得できないなら、己自身に従って、何恐れることなく為したいことを為せ。どうしても相手(自分の愛する者を奪った奴)が許せないなら、相手を殺しても構わないじゃないか。無論あなたは法によって裁かれるかもしれない。しかしそんなことを恐れてはいけない。その為に自分の人生を投げ出してもいいじゃないか。人間はいずれ死ぬのである。あなたは決して自分を偽ってはいけない。自分の感情のみに忠実に生きる。それがあなたの人生です。それが人間です。あなたは誰からも非難は受けません。
青山はあなたに言いたい。その犯人を絶対に許すな!死ぬまで苦しめてやりなさい!もしそれを止めたら、あなたの人生は終わりだと。否、もしもあなたにそれができないというなら、場合によっては、この青山が代わって加害者を苦しめてもいい。
ただし、一言言っておきますが、あなたはもはや殺された家族に何もしてあげられない。なぜなら既にこの世に存在していないからです。いくら冥福を祈っても、いくら慰霊を捧げても、すべては無駄です。そんなことで死んだ人間が喜ぶとでも思っているのですか?死んだ人間に対しては、残念ながら一切の慈悲を掛けることはできません。あなたが慈悲を掛けられる人間はただ一人。それはこの世にまだ生きている犯人です。憎き加害者です。殺してやりたい相手です。(加害者が刑務所であってもまだこの世に生きているなら)
死んだ人間に慈悲はかけられない。なぜなら存在していないからです。死んだ人間を愛せない。それは自己愛に他ならない。自己愛は自分を苦しめるでしょう。もはやあなたにとっての隣人は、その加害者しかいないのです。自分とそして相手がこの世界に生きている限り、自分はもはやその犯人と接する以外に生きる道はない。では、どう相手と接すればいいのか。それは、「慈悲とは 最高の真理」でも述べた通り、いかなる隣人(この場合は加害者)に対しても、自分は慈悲を掛ける以外に生きるすべはないのです。こんな殺してやりたい奴に対しても、慈悲を施す。それがこの世界での唯一の生き方です。
するとあなたは怒りを込めてこの青山を非難するかもしれない。なぜこんな憎い相手に慈悲を施さなければならないのか!と。どうせ慈悲を掛けるなら、自分を慰めてくれる人々にのみ掛けたい。それが正しい生き方ではないか?
あなたは間違っています。慈悲とはそういうものではありません。人によって慈悲を掛ける掛けない。そういうわけ隔ては無意味です。なぜなら世界は一つです。今現在あなたと対している隣人が、その加害者なら、その一人の隣人と今正に接しているなら、もはやあなたはその相手に慈悲を施す以外何もできない。ただ、相手のよって当然慈悲の内容は異なる。時に相手を救うために、その加害者に極限の死を味わせることもあるかもしれない。その際相手が本当に死ぬ可能性もある。むろん自分も死ぬだろう。命を捧げても相手に尽くす。これが慈悲だ。(「愛と慈悲」参照)
世界はただ一つ。愛する者憎む者。そんな区分けは無意味です。全体を見れば怒りは無意味です。人間はそれがいかなる相手でも、他者に対して慈悲の姿勢を持つ。それしかないのです。
ならばその怒りを慈悲に変えて、隣人(加害者)に働きかけましょう。その怒りが強ければ強いほど、あなたは強くなれるのです。怒りをばねにして、人々が味わえない、この怒りと苦しみを正に自分は味わえた。その逆境を力に変えて、何者をも恐れない強大な力を得て、たとえ全世界を敵に回しても、世界を崩壊させるつもりで、世界に立ち向かう。それだけの力を、慈悲に変えるのです。そして隣人(加害者の場合もある)の幸福のために、尽くす。命を捧げる。それができるのはあなただけかもしれません。
ある意味、あなたは得をしたのです。これだけの力を得て、慈悲を発揮できるのも、あなたにしか味わえなかった苦しみを、現にあなたは味わったのだから。

 逆に加害者に言いたい。よく犯罪を犯した人間が、後になって反省の態度を取ったり、殺した相手に対して、ご冥福を祈ります。一生償います。とか謝罪の言葉を述べたりする。償うって何をするつもりだ?死んだ被害者に対する慰霊か?はっきりいってそんなことはすべて無駄である。止めてしまえ!!それで、殺された者がおまえを許すと思ったら大間違いだ!!被害者は二度と生き返らない!おまえは少しでも自分の気持ちを癒したいのだろうが、甘い!甘い!甘すぎる!!それは単なる逃げた!自己への甘えに過ぎない!そんなことをやって一体何になるんだ!死んだ者が喜ぶとでも思っているのか!この世で最も愚かな者よ!!おまえは生きている限り(死刑になる前に)、今やるべきことがあるはずだ!それを為してから死ね!!
もしあなたが罪のない人間を殺した加害者なら、被害者家族や世間は絶対にあなたを許さないだろう。永久にあなたを憎み続けるだろう。周りから恨まれ、誰一人としてあなたに手を差し伸べる者などいない。あなたの家族さえもあなたを憎む。世間はあなたを死ぬまで受け入れることはない。あなたは未来永劫一人で、孤独に生きていかなければならない。万が一一人の味方が現れたとしよう。その人物は逆に世間から恨まれる。その家族や友人さえ疎んじられる。それでも味方は、周りからどんなに憎まれても、例え殺されてもあなたを庇う。そんな勇気ある者がいたら話は別だが。
あなたが味わうのは、ギリギリの生活。そして希望のない未来。周りから攻撃されて味方はない。いつ自分は恨みから来る残酷な復讐に遭うかもしれない。果てしない不安と恐怖。そのような耐えがたい苦しみの中でも、まだ自分は生かされている。死ぬことは決して許されない。いったい自分は何をすればいいのか?何をしたところで罪は微塵も償えない。償うことすら許されない。あなたは架空の神にすがるだろう?もしそうするならば、あなたの神をこの青山が殺してみせる。神にも見捨てられたあなたは虚空に向かって叫ぶだろう。自分はどう生きればいいのかと?その答えは誰も教えてくれない。神はあなたに向かって言うだろう。自分で考えろと。
人々がごく普通に味わえる幸福さえも得ることが許されず、あなたは残りの人生を、耐えて耐えて耐え抜いて生きるしかない。そんな極限の中にあって、自分は隣人のために何ができるのか、絶えず問い続けながらも生きていくしかない。それが人間の生き方である。

最後に。もう一度言います。「すべては慈悲のためにある」

ご意見・ご質問