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何のために生まれてきたのか


 人間は果たして何のためにこの世に生まれてきたのでしょうか?
この世は正に地獄です。この世以上の地獄はありません。我々は既に最低最悪の地獄を味わっているのです。
この世で善いことをすれば死後天国へ行く。悪いことをすれば地獄へ赴く。そんな話はすべて嘘です。この世が既に地獄なのです。阿弥陀仏の本願を信じない者は地獄へ落ちる。逆に念仏を唱える者は無限地獄へ行く。そんな話もすべてデタラメです。この世界の他に地獄などありません。この世界よりももっと恐ろしいところに連れていかれる。あなたが恐ろしいと感じたら、それはこの世界のことです。なぜなら、あなたは今この世界で生きているから。この世界こそが恐ろしいのです。(しかしこの世界の真理を悟れば、その恐れは幻影であることを知るでしょう。従って地獄など恐れる必要はないのです。そんなところにあなたは連れていかれません。こんなことをしたら死後地獄に落ちる。恐ろしい祟りがある。そんなインチキ宗教を恐れるなんて愚かです。そんな宗教を信じて、地獄を恐れるから人は不幸なのです。)

 なぜ、この世は地獄なのか?その理由はこの世は自分一人の世界ではない。自分の他にもう一人隣人という存在がある。それがこの世が地獄である決定的な理由です。もしこの世界に自分一人しか存在しなければ、何の苦しみもないのです。隣人はあなたを愛してくれることもあれば、憎くむこともある。あなたはそれが恐ろしいのです。愛してくれていると思っていた隣人があなたを裏切るかもしれない。隣人はあなたを救うこともあれば、苦しみを与えることもある。だからあなたにとって隣人は敵なのです。

 一体全体人間はなぜこの世界に生まれてきたのでしょうか?この世界が地獄であることを知らないままに生まれてきたのか?それともこの世界が地獄であることを知りながら生まれてきたのか?
あなたは怒りを込めてこう言うかもしれません。好きで生まれてきた訳じゃない。親が産んだから(子供を作ったから)生まれた。産まなければ、こんな苦しみを味わうこともなかったと。親に文句を言うわけです。徹底的に罵るわけです。「おれがいつ、産んでくれ(おまえらが浅ましい欲望に耽り、交尾して受精してくれ)と頼んだ!」。そうです。子供たちはみな産んでくれなんて一言も言っていませんよ。親に産んでくれなんて頼んだという話は一切ありません。あるわけがありません。なぜなら生まれてくる以前には存在していないのだから。もしそんなこと「おまえが産んでほしいと言ったから産んだんだ」という親がいたら、それは何月何日のこと?(日本語で言ったのか?)とことん尋問してやりましょう。それは皆親の身勝手な言い訳です。世の中には自分が子供を産んだくせに、「お前なんか産まなければよかった」と子供に文句を言うふざけたバカ親がいます。そんな糞親はj間違いなく子供に暴力を振るっているのです。子供が立場的に弱いから攻撃する。プロレスラーには攻撃しない。こんな最低の屑の屑は、はっき言って死んだ方が増しだ。否、殺してやった方が慈悲かもしれない?無論死ぬまでとことん苦しめてやりましょう。それも慈悲です。

 世の中にはよくこんなことを言う人がいます。「俺は何も好きでこんな仕事をしているわけじゃない」。つまり今の仕事が不満なんです。自分は嫌々不本意ながらもこの仕事をさせられていると言いたいのです。しかしこれは甘えた言い訳です。嫌ならやめればいいのです。それを止めないのは、あなたがこの仕事を”したい”からしているに他ならないのです。”好き”でそうしているのです。そうじゃないですか?「いや、他に仕事なんかないから、仕方がないのだ」、「強制的にこれをやれ!と命令されている」、「こんなろくでもない仕事でもしないと食べていけない」。否、それは嘘です。他にも仕事はいくらでもあります。「いや、命令に逆らったら罰せられる」。現在ならいざ知らず昔は「職業選択の自由」なんかありませんでした。お上(かみ)からの命令に従わない者は罰せられるかもしれない。それでも命令に逆らうことは自由です。お上だろうが何だろうが、それに従うのも従わないのもあなた次第です。それに黙って従っているあなたは、やはりその仕事が”したい”のです。「仕事をしないと生きていけない。死んでしまう」。いいえ、仕事をしても人間は(いずれ)死にます。
あなたは自由です。何をするのもあなた次第です。だから、「嫌々、これをやっている」という言い訳は通用しません。「私は男に生まれたかった」、「俺は女に生まれたかった」。そう言うなら、男に(女に)なればいい。あなたは生物学上のオスやメスになりたいのではありませんよね。世間の男性のようにあるいは女性のように振る舞いたいだけですよね。衣装も男のように、肉体も改造して男のような体つきになって、男のように振る舞えばいいだけです。誰もそれを咎めません。もしあなたが王の息子として生まれたとしましょう。いずれあなたは国王です。しかしそれが不満なら、王位継承権なんか捨てればいいのです。(例え国が亡びようとも)
要するにこの世でこれがしたいこれがしたくない。でもできないから「不満」と言うのは甘えです。自分が好きなようにそうすればいいだけのことです。ただし、一つだけ、不満を主張できることがあります。それは「俺は好きでこの世界に(この宇宙に)生まれてきた訳じゃない」。この世に生まれてきたのはあなたの意志ではありません。生まれる前には存在していません。親の意志によって、こうなってしまった(この苦しみの世界に生まれてきてしまった)のです。これはどうにもなりません。釈迦が苦の筆頭に”生”をあげている理由がここにあります。もしもこんな国に生まれたくなかったと言うなら、他の国に行けばいいだけのこと。しかしこの宇宙に生まれたくなかったと言っても、だから他の宇宙に行けるわけもない。これ(生まれてきたこと)だけはどうにもならないことなのです。

 ただ生まれてきたあなたが親にどれほど文句を言ったとしても、あるいは全知全能の神を怒りを込めて罵倒したとしても、もはや生まれる以前には戻れないのです。悲しいことに。だから嫌でも、どれほど不本意でも、もはやこの世界で生きていくしかないのです。
この世界で生きていくことがなぜ苦しいのか?この世界はなぜ地獄なのか?その答えは、先にも述べた通り、この世界には自分の他にもう一人の存在、即ち隣人がいるからです。もし自分一人しかいなければ、何一つ苦しみなどないでしょう。隣人が存在しているばっかりに、この世は正に地獄なのです。その地獄のような世界に我々は不本意ながらも生まれてきてしまったのです。
もはや戻れない。この世で生きていくしかない。ならばどうやって生きていけばいいのか?何のために生きていけばいいのでしょうか?もはやテーマはそれだけです。なぜなら我々はもはやこの世で生きていくこと以外できないのだから。

 世の中には大変な誤解をしている人たちがいます。否、もしかしたら世の中の大部分の人(特に仏教徒に多い。釈迦の悟った真理を解さず、後の僧の仏教を真理と見誤る愚かな在家信者等)は、この間違った考え方を信じて疑わない。そんな悲しい状況かもしれません。だから世の中の大部分の人間は不幸なのだと思います。事実その通り?です。
その誤った考え方とはこうです。
”この世界は、自分がその行為を為したなら、必ずその報いを(自分が)受けなければならない。行為に対する報いは厳密に決定されており、それを逃れることはできない。自業自得と言われるように、良いことも悪いことも、その本人の為した行為がすべての原因である。何事も自己責任。つまりこの世界は良いも悪いも自分の精、万人は平等である。”と。
これは全くの嘘です。そう思い込んでいる人はこの世界の真理を理解していない。仏教徒と自認しながら、仏法の根本も解さない馬鹿者。もしあなたが悲惨な人生を経験した人に出会ったとして、救いの手を差し伸べることもなく、これは過去(前世)においてこの人間が犯した数々の罪(不信等)による当然の報いだ。それに対して自分はこの通り善良である(信心している)ため悲惨な目に遭わずに済んでいる。それが世の中の道理だ。と解釈しているなら、あなたは救いがたき愚か者だ。この世界の本質をまるで解っていない。
よいですか?仏教は釈迦が始めたのです。お釈迦様の悟った(気付いた)宇宙の真理を悟って初めて仏教徒と言えるのです。では、釈迦の悟りとは何でしょうか?一言でいえば、「世界は”空”」であること。(厳密にいえば「空」は釈迦の言葉にはない。後のナーガルジュナ(インドの高僧、二世紀から三世紀ごろ)の思想に基づく。ただ釈迦の諸行無常、無我、縁起などの思想から、「空」は必然的に導かれる。釈迦の思想を解りやすく述べた言葉が、この「空」である。)
空とは、この世界に実体を持つものは一つとしてなく、即ち世界は、無意味、無目的、方向性なし(この部分は青山の解釈です)、世界はただなるようになる。あるようにあるだけである。と言うことです。これが釈迦の悟った世界の真理です。真理を悟った故に、釈迦こそは仏陀なのです。その後継者の数々高僧たちは、この釈迦の真理を悟った上で、安心解脱(あんじんげだつ)を得るため(最終的には涅槃に達するため)の、実践方法を示したに過ぎない。つまり釈迦は真理を示し、高僧たちは方便を示した。だからいかなる高僧(例えば、天台、空海、法然、日蓮)であっても菩薩ではあるが仏陀ではないのです。お分かりですか?
要するに、天台の「一念三千」も、空海の「即身成仏」も、法然の「南無阿弥陀仏」も、日蓮の「南無妙法蓮華経」も、方便であり真理ではない。ましてや絶対的なものではない。相対的なものです。むろん方便だから価値がないとは言えません。頭の中で真理を知っただけでは仏教とは言えない。方便、すなわち実践が大事なのです。ある意味真理よりも価値があるかもしれません。つまり彼らは皆優れた高僧です。釈迦の真理を悟ったからこそ、それに基づき衆生を救済すべく、方便を示した。愚かなのは、後の仏教徒。特に在家の者たちが、真理を解さないことによって方便を絶対視してしまったことが、誤りの原因であろうかと。即身成仏、あるいは南無妙法蓮華経が真理だなんて言えば、空海や日蓮に叱責されるかも?しれませんね。
これらはみな真理を悟って解脱に至る修行方法を凡夫に示しているのです。
そしてここで大いなる誤解が生じます。
まず仏教徒のあなたにお尋ねします。なぜ仏教徒(菩薩)は修行するのでしょう?仏陀になるため。では、なぜ仏陀になるのですか?世界の真理を悟るため。ではなぜ世界の真理を悟るのですか?精神的な安心を得るため。では、なぜ精神的な安心を得なければならないのですか?精神的な安定、即ち涅槃はすべての人間が修行をするしないに関わらず、最後には必ず到達するものです。(「死と真の世界 涅槃と仮の世」参照)。そしてこの世で生きているうちは、「完全なる涅槃」は仏陀になったとしても得られません。この世で得る安心解脱は、仮の涅槃です。その仮の涅槃(所詮偽物の涅槃)をなぜこの世で得なければならないのですか?なぜその涅槃を得たいと考えるのですか?なぜそれを求めるのですか?
次に仏教徒以外のあなたにお尋ねします。なぜあなたは勉強して、知識を得る。あるいは日常人々に親切にして、あるいは人々のために社会貢献をするのですか?自身が幸せになるため。ではあなたの幸せとは何ですか?ああしたい、こうしたいという欲望をかなえるためですか?そんな世俗の欲望を満たすためではない。自身の成長のため、自身の人格を今の段階から上昇させるため、人間性を鍛えるため、試練に打ち勝って人間としての価値を高めるため。では、なぜあなたは成長しなければならないのですか?なぜ成長して自身を高めたいのですか?成長の基準とは何ですか?今あなたはその基準でいうところの、どの段階にあるのですか?世の中にあなた以上に高い段階に到達した人は存在していますか?その人はあなたとどのような点で異なるのですか?それはすべてあなのた主観的な基準に過ぎない。普遍的な基準など存在しない。なぜなら世界は空だからです。それのみが真理です。つまり例えば空海の「十住心論」には、人間性の段階の基準が示されていますが、それらはすべて方便なんです。時と場合によって(あるいは人によって)活用できるものなのです。絶対的真理ではありません。確かに、数々の賢者が示した方便によって人間性を高めることはできるでしょう。だったらまた質問をします。なぜ人間性を高めるのですか?なぜ成長したいのですか?
もしそれに答えが出ないのなら、所詮それはああしたいこうしたいという動物としての欲望を満たす類のもの。犬や猫の食べたい飲みたいというのと同じ。即ち生き残りたいという本能から来たもの(つまり煩悩)。食べたい飲みたいというのも、答えが出ません。強いていうなら生き残りたいから。しかし生き残れません。必ず最後は死にます。(だから生き残りたいという願望も所詮無意味です)
何々したいという願望、何々しなければならないという目的があるとき、では、なぜそうしたいのか?あるいはそうしなければならないのか?と問われて答えが出ない場合は、結局本能、つまり自然淘汰の産物に過ぎないのです。成長したいから、人間性を高めたいから、ではなぜ人間性を高めたいのか?と問われたとき、そうしたいからそうするでは答えになっていません。つまり食べたいから食べるのと意味は同じ。犬猫のレベルです。人間はそれではいけないのです。
もしここで、このために、この目的のために成長したいというものがあれば良しです。答えは一つです。人間として、成長する目的は、即ち”慈悲”のためです。それ以外はありません。ただ成長するためでは、何のために成長するんだと問われるでしょう。人間であるなら、それに答えられなければなりません。即ち慈悲のためです。
多くの人間はここを誤解している。ここを間違えているということは、人生全てを間違えているに等しい。一部の仏教徒はこう答えるかもしれない。慈悲を施すことも、人に親切にすることも、人々のために尽くすのも、社会のために貢献することも、あるいは個人主義を否定して世のため人のために生きるのも(利己主義は自分の成長の妨げになる)、結局自身を成長させるためであると。そんな成長の普遍的基準なんかないと何回言わせるのですか?再度あなたに問います。では何のために自身を成長させなければならないのか?なぜ自分を高めたいのか?もはや答えられません。お解りですか?あなたは犬猫です。
もしも、自分を高めること、自身を成長させることの目的が、自分自身の幸福のためと言うなら、幸福は自らの努力によって得るものとなります。それは間違いです。幸福は獲得するものではありません。与えられるものです。自分の成長は自分が幸福になるため。というのは”幸福”の本質に反します。つまり、努力しようがしまいが、一生懸命生きようが生きまいが、世の中や人々に貢献しようがしまいが、人間は必ず救われるのです。「究極の救い」参照)
つまり逆なんです。自分を成長させるために慈悲を実践するのではなく、慈悲を実践するために自分を成長させる。すべては慈悲のためです。慈悲さえ実行できればいい。もし慈悲が実現できるのなら、成長なんか不要です。そんなものは二の次、三の次。自分を成長させるための方便は沢山ある。もし、自分を成長させるために、慈悲を実践するなら、良いことをするのもすべて自分の成績のため?これでは内申点を上げるために、本当はやりたくもないボランティア活動に精を出し、自分は優良な生徒だと周りに認められたいがために点数稼ぎをする愚かな高校生と同じです。あるいは功徳(金儲け)欲しさに、信仰に精を出す(教団に貢ぐ)、浅ましい在家と同じです。もし慈悲よりも成長の方が主だとするなら、こういうことも考えられる。この世の理りとして、もし”他人を不幸にすることが自身の成長”であるなら、人間はためらいもなく人から奪う。殺すでしょう。例え相手が肉親でも。つまり自身の成長を求める者は、冷酷な人間になるのです。
自分を成長させるために、慈悲を実践するなんて本末転倒も甚だしい。もし自分の成長が目的なら、人生そこで終わりということはない。自分の成長のために、死後も生を繰り返し、たくさんの試練を経ながら一歩一歩自分を高めていく。いわゆる輪廻転生が正しいなどという誤った考え方が蔓延するのです。もし釈迦以降の僧で、自分の成長のために慈悲があるなどと、逆のことをいう者がいたら、それは釈迦の真理が解っていない単なる馬鹿者だ。空という真理が分かれば、永遠の魂などありえない。死後の世界もない。死後の世界を謳う宗教は所詮三流のもの。A(氏名ではない。Aは一人の人格を表す)という人物が永遠に存在し続ける。それは仏法の原則に相反する教えです。無我によって、霊魂の存在は認められない。それが真の仏教です。
輪廻転生の考え方。人間は決められた人生の期間で、つまり生まれてから死ぬまでの間で、どれだけ人間性を高められるのか。(そのどれだけ高めたかの普遍的な基準もないのに) それが人生の目的であると。そのような考え方は仏法に反します。なぜなら、自分は今この瞬間のみ存在しているからです。人の一生など幻です。従って一生の間の成長もありません。
もし人生の間に何も成長しないとするならば、一部の凡夫はこう反論するかもしれません。自分がどれだけ努力しても、それが報われないのなら、努力しても無駄である。ならば自分は何のために生きているのか!と。
世の中では、努力すること、頑張ること自体が尊いという思い込みがあります。しかしそれは間違いです。努力しても報われない。否、何らかの”報い”はあるでしょう。例えばどうすれば泥棒しても捕まらない。その方法を努力して見つける。あるいは工夫を凝らす。何もしない泥棒よりも努力した泥棒の方が、捕まらない。大きな利益を得る可能性がある。これは努力の結果です。詐欺師だって泥棒だって、いかに儲けるか、どうすれば捕まらないか、常に創意工夫、努力精進しているのです。(犯罪者は必ず捕まるとは限らない。現に犯人が逮捕されていない犯罪は多数存在する) また蚊だってダニだって毎日一生懸命働いています。ハエやゴキブリだって生きるために必死です。手を抜いたら生き残れません。あるいは大腸菌やコレラ菌もいかに増殖するかという点で日々必死に生きているのです。逆に努力しない。頑張らないという生き方を選択したものもあります。
つまり努力すること自体が偉いのではない。常に問われるのは何のために努力するのか?つまり何のために生きるのかです。
あなたが何のために生きているのか?その答えを他人に求めることは愚かです。生きているのはあなたですから。あなたが何のために生きているのか?そんなことは青山は知らない。青山はあなたではありませんから。しかしこの何のために生きているのか、その答えとして、生きているから生きている。生まれてきたから生きている。すなわち答えがないならば、答えがなくても生きているならば、生きているという事実しかないならば、それは人間として失格です。あなたは犬や猫ではないはず。努力しても無駄だというあなたに質問します。では何のために生きているのですか?その答えを、ぜひ自分自身で出してください。人間であるなら。
青山には明確な答えがあります。それは慈悲のためです。あなたには分かりませんか?人間は全て慈悲のために生きているのです。それはもちろん隣人に対する慈悲です。自分を愛すること(高めること)ではありません。あなたはそれを知らないだけです。では、なぜこの「何のために生きるのか?」の答えが、「自分の成長のため」では適切ではなく、「隣人に対する慈悲のため」が正しいのでしょうか?この二つはどこが違うのでしょうか?
「自分の成長ため」には、ではなぜ成長したいのか?と問われたとき、「成長したいから」という回答しか得られない。それに対して「隣人に対する慈悲のため」には明確な理由がある。その理由とは、この世界には自分と隣人の二人しか存在しないというもの。自分は隣人に対して慈悲を掛ける以外、生きることができないからです。慈悲がなければ、この世界に生きていない。存在していないに等しいのです。慈悲を掛けなければ、存在している意味がないからです。もちろん、何のために成長したいのか?と問われて、隣人に対する慈悲のためと答えるのなら、それは正しいのです。つまり成長は手段であり、慈悲こそが目的なのです。(補足1) しかも慈悲は自然淘汰を超えている。宇宙の創成以来無限の過去から存在している。それが何かを正確に記すことはできませんが、慈悲ということは、生物として、種が生き残るか生き残らないか。生きるか死ぬか。そんなことはどうでもいい。慈悲のためなら、自分は死んでも構わない。否、人類が滅んでもいい。宇宙の存在すらどうでもいい。(これは正に空から導かれる思想です。下記参照) 慈悲は存在の本質ともいうべきものです。
この世界の本質が分かっていれば答えは明確です。そして何のために生きているのかが分かれば、自分は何のために生まれてきたのか?その答えも明らかです。この最低最悪の地獄であるこの世界にあえて生まれてきた、親の行いに関係なく、自分の意志で生まれてきた。その答えは明らかです。即ち隣人に対する慈悲です。そこではじめて人間は主体を持って、かつ生きる目的を自覚して、この世界で生きることが可能になるのです。
本当の生きる目的を知らずにただ意味もなく毎日を(遊びに現を抜かしながら)生きているだけなら、人間として生きている価値はなし。否、生きている者は皆価値がある。そうです。いずれこの生きる目的に気付くことでしょう。犬でも猫でも、鳥でも魚でも、そして虫でも。

(自身の)成長と(隣人に対する)慈悲の違い
 この人は成長した。この人は成長していない。あなたよりも私の方が成長して(高い段階に達して)いる。そう判断できる基準なんかあるでしょうか?少なくとも人類普遍の基準なんか存在しません。ただ方便としての基準はあります。例えば空海の「十住心論」。しかし絶対的な基準ではない。世界は”空”ですら、それは当然ですね。
対する「慈悲」についても、これが慈悲だ。という判断基準はどこにもない。だから自分が決めるしかない。慈悲とは相手を幸福に導くこと。即ち相手に仏陀になるように勧めることです。(「慈悲とは 最高の真理」参照) 仏陀とは世界の真理を悟った者。世界の真理とは、この世界が「空」であることを理解することです。しかし具体的に何をもってその人物を「仏陀」だと言えるのか?明確な基準があるわけではありません。あるのは「空」を悟っているということだけです。さらに相手にどう接すれば(働きかければ)、それが「慈悲」だと言えるのか?具体的な定めは何もありません。だから自分が(あなたが)勝手に決めればいいのです。ある意味慈悲の解釈、判断基準は、自分が完全に自由に決められるのです。何の制約もなしに自分一人が主体的に「これこそが慈悲だ」と決定する権利を我々は有している(その権利を神から与えられている)のです。完全に自由だからこそ我々人間は存在している価値があるのです。自分がそれを決めるからこそ、そこに意味が存在するのです。
では、同じように「成長」の基準も自分が自由に決めればいいでしょうか?いいえ、それはできません。なぜなら、我々は自身を成長させることができないからです。自分で自分を観察することはできません。人間は自分が世界に何らかの働きかけを行い、その反作用を受けて、自身が成長したと思い込んでいるだけです。しかし果たして世界の状況から自分は成長したと言いきれるでしょうか?我々が見ているのは、あくまでも世界の様なのです。
慈悲と成長の決定的な違いは何でしょうか?慈悲はあくまで隣人を幸福にすることです。その見返りは何一つありません。だいたい見返りを期待するようなものは、慈悲では全くありません。それに対して成長は明らからに(その名が示す通り)見返りを期待しているのです。
我々は原点に立ち返り、今一度根本から問い直し、自分は果たして何のために生きているのか、考えてみる必要があるかと思います。

なぜ、空から慈悲が導かれるのか
 この世が空。すなわち世界には意味も目的も方向性もない。ならば自己も存在しないかもしれない。しかしここで自己の存在をも否定すると、「われ思う。故に我あり」からも、もはや何も論じること(認識することも、行動することも、存在することすら)ができません。論じる主体。世界を認識する主体、そして世界に働きかける主体である自分さえもいなければ何も始まりません。そこで自分だけは存在すると仮定します。そして自分とは何か?それは世界とは独立した、認識主体、行動主体。その自分が世界を認識して、それを基に世界に働きかける。そのような主体的存在でなければ、確実に存在している自己とは言えない。
さて自己は世界に対して何をなすか?自分の課題は専らそれしかありません。そして世界に働きかけるということは、(自分とは別の存在である)隣人とどう対するかということに他ならないのです。「慈悲とは 最高の真理」で示した通り、隣人への働きかけは、支配か慈悲しかない。しかし完全なる隣人への支配は不可能です。(なぜなら。隣人は自分とは独立している) 残りは慈悲しかない。すなわち、自分が主体性を持って、世界に働きかけるということは、自分が隣人に対して慈悲を施す。それ以外にないのです。すべての人間は隣の他人に慈悲を施すこと、それ以外に何一つできないのです。多くの人は、その当たり前のことすら知らない。
あなたは虫一匹を殺すことに罪悪感を持ちますか?その虫は何一つあなたに害をなさない。たまたまあなたの歩いている道端にいたところをあなたに見つかってしまったのです。あなたの足もとをはい回るその虫。邪魔だと感じたあなたはその虫を踏みつけて殺しました。「虫一匹ぐらい殺してもいいのだ。俺の足もとにいて邪魔をしたのが悪い。虫は殺されて当然だ。」あなたはそう納得します。つまり罪の意識などありません。しかしそれはあなのた勝手な論理です。虫はあなたに殺されるためにそこにいたのではないはず。あなたのこの勝手な解釈がやがて、「黒人の一人くらい殺してもいい。なぜなら人間として劣っているから」、「ユダヤ人はこの世界から絶滅させなければならない。なぜなら奴らは、我々の生存を脅かすから」という具合にまで進む。この勝手な理屈に支えられて、あなたは躊躇なく、あるいは罪悪感の欠片もなく、平気で人を殺せるようになるのです。虫一匹に対する誤った解釈が、民族絶滅計画−ジェノサイドにまで発展するのです。虫を殺すことに罪悪感を持てない人間は、恐らく人を何人殺しても罪の意識など持たないと思いますよ。でも実際そうしないのは警察に捕まって死刑になるのが(あるいは復讐が)怖いからです。つまり罪悪感がそれを止めるのではなく、恐怖心が止める。もしその恐怖心が、勝手な屁理屈、あるいはカルト宗教的な教義によって抑えられたなら、あなたはきっと人を殺すでしょう。
この勝手な解釈がなぜ生まれたのか?それこそがこの世界が”空”であることを理解していない証拠です。「〜でなければならない」、「〜にしてもいいのだ」というのは皆自分勝手な理屈です。世界はこうでなければならない理由はない。こうであってはいけない理由もない。屁理屈(勝手な解釈)ではなく、あるいは動物的本能(生存欲から起こる煩悩)ではなく、隣人を(一匹の虫を)愛するがゆえに、慈悲を掛ける。これが人間です。
青山だったらもちろん無益な殺生はしません。邪魔であっても殺さずに逃がす。虫一匹にも慈悲を掛ける。そうありたい。
もし世界に方向性があり、それを人間が覆せないとしたら、もはや我々はそれに従うしかない。世界の進歩、発展、生産性の向上、そのための効率的な生き方が求められ、合わない者、失格者、非効率的な者は排除される。もしもそのような功利主義的な生き方が正しいとしたら、社会的弱者、年寄り、病人、障碍者、落伍者は生きる権利を失う。この世界の(唯一の)目的にそぐわないからです。世の中には、未だにこのような功利主義、生産主義、成果第一主義的な生き方のみが善であると信じている人間たちがいますが、もしも世界が”空”なら、こんな功利主義など吹っ飛んでしまうでしょう。一人の落伍者を救うため、即ち慈悲のためなら、人類の進歩など問題ではないのです。
最後に、この”空”を理解すれば、人間として正しい生き方が解ります。全ての基礎は”空”です。この”空”からあらゆる解答が得られるのです。是非この”空”を正しく理解してください。

結論。この世界は、良いにつけ悪いにつけ、自分が為したことの結果がすべて自分に現れる。(補足2) そうではないのです。自分が行った行為の結果が返ってこないこともある。(補足3) すべての結果は偶然です。なぜなら、この世界は「空」だからです。この世界は理不尽です。善人が損をして、悪人が得をする。そんなこともありえるのです。(この世界に神など存在しない決定的な根拠は、この世が正に理不尽であり、不条理であるが故) そんな不公平な世界に我々は生まれてきてしまったのです。従ってこの世界は地獄です。地獄である理由は、隣人がいるからです。しかしこの邪魔な隣人をすべて消し去ることはできません。それはあなたが死ぬときです。そして隣人に対しては、ただひたすら(自分が生きている限り)、慈悲を施す。人間はそれ以外に生きる選択肢はありません。
確かにこの世界に生まれてきたあなたは何事も自由です。どのように生きても、何をしてもいいのです。あなたは神から絶対の自由を与えられたのです。プロゴルファーになって賞金を稼ぐのもよし。野球で三冠王を狙うのもよし。エベレスト登頂を目指すのもよし。ノーベル文学賞を取るのもよし。ただし、それが一体、全宇宙の衆生を救済する上で、何の役に立つんですか?
つまり勉強して知識や技能を身に着ける。あるいは鍛錬により自分を高めるのも、即ち自身の成長も進歩も、隣人に慈悲を施すための方便なんです。他人を利する。人に親切にするとこも自身の成長のため?違います。逆なんです。全ての愚はここから始まります。自身の成長のために慈悲があるのではなく、慈悲のために自身を成長させるのです。ここを間違えないで下さい。人を幸せにする。人に喜びを与える。それによって相手から感謝される。人から感謝されれば自分は嬉しいい。その喜びを求めるのも、他者に対する慈悲のための”方便”なんです。

(補足1) 人生という生まれてから死ぬまでの間に、自身をどれだけ成長させることができるかが、人間にとっての生きる目的だとすると、死とともに成長が終わりになることができないために、わざわざ有り得もしない「輪廻転生」という考え方が必要になってくるのです。
果たして、人間にとって何をしたら成長し、何をしたら後退するというのでしょうか?確かに勉強したら知識が増えます。ただしその知識が有益かどうかは分からない。無駄な知識かもしれないのです。つまり何をやってもやらないことと同じです。
あるいはまた輪廻転生が正しいとして、いったい何が何に生まれ変わるのですか?田中一郎さんが生まれ変わって山田太郎君になったことがどうして分かるのですか?分からないなら生まれ変わりなど意味がない。いずれに生まれ変わっても、この世に生まれた者は苦しみを受けるのです。前世で成長した者は受ける苦しみが少ない。何て根拠はどこにもありません。結局何をしても人生は苦しみの連続なのです。一時的に成長しても、逆に後退しても、また元に戻ってしまうのです。何も変わりません。進歩も向上もありません。常に苦しみを味わうだけです。(確かに人間社会は進歩するが、それは当人の行為とは無関係) この輪廻や生まれ変わりなんて考え方は、ただ空しいだけです。何をしてもしなくても、幸と不幸、良いことも悪いことも、それを永遠に切り返すのみ。そこにあるのはただ「無常」と「縁起」の真実だけです。
そうではなく、自分は今この瞬間だけしか存在しない。生まれ変わりも(誕生から死までの)人生すらない。従って成長もない。あるのは今この瞬間隣人に対して慈悲を施すことだけです。もしも輪廻転生という考え方が(真実ではなく)方便だとするならば、人間にとって有益ではないものは不要です。

後悔しない人生
 人生は何のためにあるのでしょうか?生まれてから死ぬまで一生懸命働いて財産を築く。その儲けたお金で優雅に暮らす?優雅に暮らすためにはお金がいります。お金を貯めるにはいつまでも必死に働かなければならない。一生優雅な生活など訪れない。そして満足を得ることもなく死んでいくのです。努力して成功して名前を残す?しかし成功なんて単なる運です。世の中の成功者と言われる人間たちを見ればそれは一目瞭然です。残した名前などいずれ忘れ去られるのです。
後悔しない人生などない。こんなことでは何をしても最後(臨終間際)には、死ぬほど後悔するでしょう。「俺は何のために生きてきたのか?俺の今までの人生は一体何だったのか!」。とてつもない虚しさとともにもはや引き返せない死に向かうのです。今成功を手に入れて人生の絶頂にいる人間もいずれこうなるのです。そして嫌と言うほどの虚無感を味わうのです。
あるいは何かしらの宗教を信仰してきた人間。いずれ極楽に行けると信じてひたすら念仏を唱えてきた者、それがすべて嘘だと知った時の思い。毎日勤行、膨大な数の題目を唱えてきた自分。しかし最後になって分かった。いくら題目を唱えても一回も唱えないのと何一つ変わらない。それは無駄でしかなかった。
何をしても無意味。こんなことでは結局、どれだけ努力しても虚しさしか残らないでしょう。この虚しさの背景にあるものは分かっています。それはこの世界が空であることを悟らず、どこまでも己の進歩,向上、成長を期待して、自分の地位を高いレベルに引き上げたいという驕り腐った欲望から抜け出せないことがすべての要因です。一体何のために自身の成長を欲するのか?その答えとして、「自分を向上させるのは当たり前」、「成長したいから」、「世の中の進歩のため」というものなら、それは単なる獣の欲望と何も変わりません。即ち煩悩に使役されているだけなのです。これを脱する方法はただ一つ。まず、この世は空。何をしても自分を向上させることなどできないと悟るのです。(念仏や題目が無駄であったと悟ることがようやく出来た。と人生の最後に満足を得る。) そうすればそもそも後悔などしません。
では、自身を向上させることは無意味なのか?いいえ、要は何のために自分を向上、成長させるのか、ということです。その答えは隣人に対する慈悲のために他ならない。つまり自分を成長させるために慈悲を施すのではない。逆です。慈悲のためにこそ自分を成長させるのです。その為の努力精進であり、それは一時的なものです。すなわち、慈悲を施し終われば、努力を重ねる以前、慈悲を思い立つ前の状態にまで戻るのです。結局自分は何も進歩などしていない。前と同じ。まして慈悲を為した結果として自身の地位が上がることなどあり得ない。空しい。ただし、それで自分は満足です。なぜなら世界は空だから、そこに自己の向上などそもそもない。ただし、もし日々終わりなき慈悲の発起に一瞬一瞬を投じて、ひたすらそれに邁進するならば、常に自分は向上していくことでしょう。そして最後には(死に際しては)、全てが元に戻り(生まれた時点て帰り)、今まで得たあらゆる成果は消えて無くなるのです。ただ、その空の世界で慈悲を為しえた。そこに何物にも代えがたい喜びがある。その喜びと共に死が訪れるのです。”向上”と言うことを全く意識する必要もなく、そこにあるのは永遠の安ぎです。即ち、これがこの世で生きるということなのです。

  我々にとって生きる目的とは、自分自身の成長、人間としての進歩、向上、己の魂を磨くこと、すべて間違いです。もしこの世界で生きる目的が自身の成長であるなら、世界が偶然(空)であることは確かに不都合です。だから成長や進歩を人間の目的とする思想・宗教は、絶対に世界が偶然、空、無意味であることを認めない。認めたくないのです。(悪あがきでしかないと思いますが) さらに、成長には終わりがあってはまずい。永遠に成長し続けることを目的とするなら、人生に終りがあると不都合なんです。そのためありもしない”前世や来世”を作り出す。これらはすべて仏法(空)を正しく理解してないことが原因なのです。
しかし逆に世界が空であるからこそ、生きる目的(人生の目的ではない)、何のために今これ(歩く、話す、聞く、見るなどの動作)を行うのか?その目的を自分自身が自由に決められるのです。神や国家があなたの生き方を決めるのではありません。あくまであなたが決めるのです。
だったら人生何もしないくてもいいじゃないか。それも自分が決めた生き方だ。と言うかもしれない。しかし人間はこの世界に存在している以上、何もしないわけにはいかない。必ず何か(食べる。寝る。など)をしているはずです。もちろん食べる。寝る。排泄するのは動物としての本能てあり、犬や猫でも行っています。しかし犬や猫は意識して行っているのではない。犬に何のためにそれ(餌)を食べるのか?と問われたら「食べたいから」としか答えようがありません。すべての生き物(衆生)は生きている限り、必ず何かをするはずです。しかし欲望に身を任せれば、それは煩悩に使役されているだけの犬や猫と同じレベルになります。自分が本能の奴隷になりたいなら、犬や猫並み、ハエやゴキブリのようになりたいなら、それでも結構でしょう。
人間は自分の在り方を、そして生き方を意識的に決めることができる唯一の動物です。人間は何のために生きるのか?自分は何のために生まれてきたのか?それを決めるのは世界ではない。神でもない。あなたです。

このコラムで述べられている結論は特に重要なので、改めて最後にまとめます。
 こう考えている方はいませんか?人間はなぜこの世に生まれてきたのか?この苦しみの世界に。それはその苦しみに耐え、数々の試練を乗り越えて、自分を成長させる。つまり魂を磨いて高い段階に自分自身を押し上げるのが目的であると。そう信じるのは個人の自由ですが、この考えが誤りであることを説明しましょう。なぜか?人間はこの世で生きているうちに何をしても、あるいは何もしなくても同じだからです。最後にはみな救われます。(この世で”無”になるから) 一生努力家だった者も一生怠け者だった者も、慈善家も利己主義者も、善人でも悪人でも、もちろん外面的には異なりますが、人間としての本質は同じ。そういう意味では釈迦やイエスキリストも人間的には我々と対等ということです。ただし、この世で行った善悪はこの世で報いを受けるのです。
よく言われるように、この世で生きている間努力によって自分自身を磨き人間としてのレベルを上げるのが人生の目的であると。この考えに従えば、生後数か月で亡くなる子供と100歳まで生きた人間とでは努力の量、成長レベルに差が生じます。すると、努力によるレベルの向上は死ねばお終いというわけではなく、必然的に「輪廻転生」の考え方が出てくる。つまり人間は一度死んでもまたこの世に生まれてきて次の人生が始まり、その一生の間、自分自身を少しづつ高めていく。(あるいはレベルを下げる)。そうして何度も一生を繰り返していくうちに、その都度レベルは加算され、結果的に相当高いレベルまで自分を高めることもできる。というわけです。この生を繰り返しながらレベルを上げる(または魂を磨く)という考え方ですが、青山としては幼稚いと思います。この「空」の世界において、そんな万人に共通するような普遍的な人間レベルの価値基準などもちろんありません。釈迦やイエスであっても我々と大して変わらないのに、他にレベルを上げた人間など果たして存在するでしょうか?世界中を探しても見当たらないと思います。誰であっても人間はみな(最後には)救われるのですから。そんなレベルを上げることに何の意味があるのでしょうか?
すると一部の人が反論します。「努力しても無駄だと言うのなら、生きている意味がないじゃないか!」と。ではあなたに質問します。あなたは何のために努力しているのですか?「自分を向上させたいから?」。では、何のために自分を向上させなければいけないのでしょうか?もはや答えようもなく、「向上させたいから」としか言いようがありませんね。つまり「そうしたいからそうしている」に過ぎない。それは結局「お金が欲しいから働いている」のと同じ答えです。食べたい。飲みたい。お金持ちになりたい。有名になりたい。周りから称賛されたい。それはみな動物としての本能欲。(この”空”の世界において)何の意味もなく、ただ欲望に使役されているだけなのです。
利他主義という考え方があります。それは他人を利するという意味。世のため人のために努力する。そうすれば天にいる神様が自分を褒めてくれる。自分を天国に招いてくれる。より多くの人のために尽くせば尽くす程、天国でもよりレベルが高い所に行ける。その為に神の御心に反した(神または学校の先生から評価されない)利己主義(自分だけが幸せになればいいという考え方)を捨てて(なるべく隠して)、世のため人のために尽くしているポーズだけを見せる。そうすれば先生たちは自分を評価してくれるだろう。結果高い評価を得て最終的には経済的に豊か(お金持ち)になれる。あるいは神がお喜びになるような善いことをしてこの世での成績を上げ、天国に入る権利を神からいただこう。つまり、何のために人に尽くすのか?その答えは、自分を向上させたいから。なぜ?そうしたいからそうしている。つまり、自分を向上させたいという意味のないことを目指しているだけで、結局最後は人のためではなく、あくまで自分の欲望のため(動物としての本能的満足を得るため)なのです。「自分の魂を磨くため」なんて聞こえはいいが、単に自分が儲けたいがために神様に胡麻を擦っているに過ぎない。何とも下らないことです。
そう言われるとあなたはこの青山に問いかけるかもしれません。「では、人生って何のためにあるのか?我々は何のために生きればいいのか?」。世界は「空」です。人生に目的などない。どう生きてもいいのです。ただ、強いてそのあなたの問いに答えるとしたら、人間はただ「隣人への慈悲」のために生きているのです。、決して自分のため(自身の魂レベルの向上のため)ではありません。自分は人間性のレベルを下げたっていいのです。隣人への慈悲のためなら。ただ隣人への慈悲のために自分の能力を向上させる必要があるのなら、そうすればよい。惜しみなく努力すればよいのです。だから考え方が逆なのです。自分を向上させるために他人に尽くすのではなく、他人に尽くすために自身を向上させる。それが正解です。
では、なぜ隣人へ慈悲を施さなければならないのか?それは上で述べた「自身のレベルの向上」のように、「そうしたいからそうする」という答えにならないもの(あるいは意味のない本能欲)ではなく、「隣人への慈悲」はこの世界(自分だけではなく隣人が存在する現世)においては、それ以外ほとんど何もできないからです。
青山の私的考察ですが、この自己を向上させることと隣人への慈悲について、多くの人が誤解している(青山がそう認識している)原因は、人々が仏法特にこの世界が”空”であることを理解していないことにあるのではないかと思っています。

(補足2) 聖書やコーランに説かれているような、死後の裁き(最後の審判)などそもそもあり得ません。我々を裁く神なども存在しません。ただし、この世には自分一人しか存在しないという独我論的世界観に基づくなら、世界のすべての原因(一切の善と悪)を自分一人に帰すことも可能です。つまり隣人も実は存在しない。あなたはこの考え方を受け入れられますか?
しかしもし隣人の存在を、そして世界の存在を認めるならば、自分一人に責任を帰すことそのものが矛盾です。
ただ隣人の行いも含めて、すべてを自己の一人の責任に帰すことも可能です。即ち救う対象としての隣人に、その罪を帰着させることはできない。隣人が何をしようと罪は自分一人が負う。自分はただひたすら相手を愛するのみです。
言うまでもありませんが、この考えに従えば「これは自分の責任、これはあなたの責任」という区分けも存在しません。すべては自分一人に帰すのだから。

(補足3) ただし、世界はまったくのデタラメではありません。もしそうならば我々は世界を全く認識できません。この世界には動かせない因果律(原因と結果の関係)が存在します。この確固たる因果律(別の言い方によれば自然法則)によって、我々は隣人に対して適切な作用を施すことができるのです。
しかし宗教で取り上げられる善悪の関係まで、この因果律を適用することは必ずしも簡単ではない。

最後にもう一度
 この世が空だからこそ、慈悲があるのです。慈悲がすべてです。それでもまだ解らないあなたに、何度でも問います。「あなたは一体何のために生きているのですか?」

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