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究極の救い


最初に
 誤解されないように説明すると、ここで語る「浄土」、「神の存在」はあくまで想定されたもの(方便)であり、それが真実かどうかを問うことが不可能なため、科学とはまったく別の次元の話であることをまず初めにお断りしておきます。

死後の救い
 前コラムでお話したとおり、すべての人間は死後必ず救済される?ということです。仮に死後の世界がなくても、一切が無になるゆえに、苦しみはない。苦しみがなければ、そこで絶対の幸福を味わうということです。なぜなら「一切皆苦」ですから、”楽”というものがあるわけではないのです。苦の消滅がすなわち究極の救済なのです。
ここで救われるか救われないかは、本人の行為とは関係ありません。誰もが救われるのです。この思想を仏教の浄土信仰においては「絶対他力」と呼びます。(「仏教の限界と浄土信仰」参照)
ここで肝心なことは、この世界で生きている今、「自分は間違いなく救われる」と確信することです。確信すれば、今まさに絶対の安心感が得られるのです。何も心配する必要はない。すべてを任せればいい。自分は間違いなく浄土に行けるのだと。そう信じることによって、現在たちこめている一切の不安が消滅するのです。つまり今まさに救われたのです。(補足1)

現世での救い
 では、今この世で救われることはないのでしょうか?という疑問が生じます。ただし、救われない理由はありません。なぜなら、周りの人間は、誰もが慈悲の心を持っています。人々が慈悲の心を持っている証拠は、人間は皆争いを好まず平和を求めていることです。どんなに好戦的な人間でも、常に争い合おうとしているわけではありません。もしも人間がみな平和を求めず争うことだけに熱心なら、人は互いに殺し合い、生き残ることが出来なかったでしょう。
もちろん中には平和より(人を愛することより)も、人と相争うことを好む者もいるでしょう。あるいは人と決して争わず、誰に対しても慈悲を発揮する人もいるでしょう。けれどもいずれも同じ人間に違いありません。
人間はみな多かれ少なかれ、人を愛し平和を求める気持ち(すなわち良心)を持っているのです。人類が今この地球上に存在していることがその証拠です。
しかも争い全てが悪であるとは言えません。あなたに攻撃を仕掛けてくるのも、あなたを力によって救おうとしているのかも知れない。すなわち、あなたの周りのすべての人間があなたに対して慈悲を施す可能性があるのです。(この可能性を別の言い方で「仏性」と呼びます。仏性とは仏の性質。仏教ではすべての衆生にこの「仏性」があると説いています)
結局こういうことです。あなたはこの地獄のような世界に生まれました(生まれさせられました)。あなたは今苦しみのどん底にいます。この世界で最大の苦しみに責めさいなまれ絶体絶命のピンチです。ところがここで救いの手が差し伸べられるのです。この世のすべての人間があなたを救おうとするでしょう。あなたは必ず救われます。なぜなら全宇宙の存在者があなた一人を救うおうとするのですから。
つまりこの世の一切の存在は、たった一人の人間、即ちあなたを救うために存在しているのです。ただ、あなたがそれを信じるか信じないかは別です。しかし信じないとしても、すべての人間があなたを救おうとするでしょう。
あなたはただそれを信じればいい。信じることによってあなたは絶対の幸福感を今ここで得るでしょう。救われるために何かをしなければならないという話は一切ありません。少しでも早く救われるために、善行をする。あるいは念仏を唱える。そんなことをする必要は全くありません。ただ信じること。もちろん信じなくてもいいのです。
 ただし、この世はどうしたって苦しみに満ちていることに変わりはありません。苦しみのどん底にあったあなたをいつの日か誰かが救ってくれるでしょう。しかし一度救われたとしても、また苦しみは訪れる。再び苦しみに落ちたあなたも、以前一度救われたことを思えば、またいずれ救われることを信じることはできます。そこにまた安らぎが生まれるのですが、再び救われてもさらにまた苦しみが襲う。それがこの現世なのです。本当の安らぎ、真の救いはやはり死後なのかもしれません。我々はいつかは死にます。死後は必ず救われるのです。
ただし、今はこの地獄のような世界で生きています。救いを待つ間何をすべきか?今この世に存在していないのなら話は別ですが、正にこの世で生きているのなら、何をするかはあなたの課題です。それはこの世で現に生きている限りあなたにつきつけられた問です。

神とは何か
 果たして神は存在するのでしょうか?実体としての神は存在しません。(「神の存在」参照)
ただし、我々の人知を超えたこの世界の絶対者としての神は、”存在しない”と言えるでしょうか?あなたを含めてすべてを創造した唯一絶対、全知全能の神は、存在するでしょうか?
存在するとしてもそれを証明することは出来ません。なぜなら神は絶対者です。人間の理屈を超えています。人間の頭脳で存在するかしないかを判定することはそもそも不可能なのです。神とはそういう存在です。(補足2)
理屈で考えれば、神は矛盾そのものです。全知全能という言葉にも矛盾があります。
有名な話、「神は誰にも持ち上げられないほど重いものを作れるか?」作れる=全能、それを自分は持てない=無能。
「神は未来に起こること全てを知っている?」知っている=全知。神は自分が知り得た未来を思い通りに変えられない=無能。
しかし神は自分が作った重いものを決して持ち上げないでしょう。神は自分が知りえた未来を決して変えようとは思わないでしょう。
なぜか?神には(明確な)目的があるからです。その目的に関係ないことは行いません。
では、神の目的とは何でしょうか?「分からない」としか答えようがない。なぜなら神は人知を超えているからです。しかし分からないなら、我々が(自由に)決めてもいいことになる。
では、神の目的とは何か?それは「人間(あなた)の救済」です。(人類の救済ではないことに注意)
神はたった一人あなたを救済するために存在しているのです。 嘘でしょう?もちろん信じる信じないはあなたの自由ですが。信じさせたいならその存在を証明する必要があります。しかし証明は不可能です。しかし証明することは出来ませんが、(あなたにその気があるなら)信じることは出来ます。もちろん信じる信じないは自由です。信じない人がいてもまったく問題はありません。
ただし、信じることがこの世で生きていく上で有用なら、信じてもいいでしょう。存在しないとしても信じるのは自由です。我々にとって神が必要なら、神を作ればいい。必要ではない。即ち有用ではないなら、その存在を考えること自体無意味です。つまり我々人間にとって有用な、そして信じるに値する素晴らしい神を我々の自由意志によって創造すればいいのです。

神による救い(ここからは全く青山の創作です)
 では、神がいるとして、神はなぜ世界を創造したのでしょうか?
答え:神はこの世界を造ってはいません。こんな汚れた最低最悪の地獄のような世界を神が造るわけがありません。神が造ったものは天国です。この世界は仮の世です。こんな世界が存在していると思い込んでいるのは我々人間です。我々は不完全な存在だから、この世が地獄に見えるのです。
では、神はなぜ天国を造ったのでしょうか?
あなたのためです。あなたを愛するがゆえに天国を造ったのです。
では、神はなぜ人間(あなた)を造ったのでしょうか?
神は愛する対象として人間を創造したのです。神が求めていたのは愛する対象即ち隣人です。隣人を愛したいがゆえにあなたに命を与えたのです。つまり神は”愛”そのものです。(補足3)
なぜこんな不完全な人間を創造したのですか?
もしも完全なら愛する対象にはならないでしょう。不完全だからこそ神はあなたを愛するのです。もしあなたが完全なら、神が存在する必要もないのです。
神は常にあなた一人を愛しています。あなたが神の愛に応えるか応えないかに関わらず。神の意思に忠実か否かに関わらず。悪人か善人かによらず。あなたが神を信じないのは自由です。ただし、あなたにとって神が必要なら、そして究極的に救われたいなら、神の存在を無条件で信じることです。神が自分を救うという確信を持つのです。神にすべてを捧げるのです。そして絶対的な帰依を誓うのです。神の命に服従し、神の前にどこまでも清く従順であるとき、あなたは神の愛に包まれるのです。
そう信じないさい。あなたは隣人である神を愛しなさい。あなたは間違いなく救われるでしょう。

本当の喜びは何か?
 「一切は苦」で示した通り、人間にとって苦と楽が対称的にあるのではなく、実体があるものはあくまで「苦」であり、「楽」とは苦が消滅したこと(欲求が満たされたこと)を指します。(図70「苦と楽」参照) この苦の消滅は、外界からの作用です。例えば旅の最中空腹に襲われた(=苦)。突然目の前にレストランが現れた(=苦の消滅=楽)。ここでもし予めレストランの場所を調べておき、そのおかげで容易にレストランを見つけられたら、その時の喜びはあまり大きくはない。なぜでしょう?
人間は努力によって得た幸福にはあまり喜びを感じないのです。なぜなら、それは得られて(レストランが見つかって)当然だからです。ここで(レストランを)見つけられなければ不快が生じるでしょう。人は思いかげない幸運を得たときに喜びを感じるのです。例えばレストランを前もって調べておくことを忘れた。困っていた時に、突然レストランが目の前に現れた。「ラッキー!」と言うわけです。レストランが見つかったのは、自分の努力ではありません。単なる運です。つまり自分以外の働きです。それを得たとき人は心から喜びに満たされる。その外界の働きとは「神の働き」かもしれません。つまり人間は本質的に”神の救い”を有り難がっているのです。

神についての誤った見解
・神は(宇宙の)最初の創造だけに預かっているのではありません。神は常に今現在もあなたを救うため(愛するため)に存在しているのです。
神は絶対です。救いの神です。愛の神です。神の前に我々は無力です。神はあなたが信じる信じないに関わらず存在するのです。従ってあなたも神を愛すべきです。神を愛したとき初めてあなたは平安を得るのです。
・神は人間に試練を与えているのでは決してありません。あなたは勘違いされています。神はこの世界に人間を放り込んで、その人間がこの世の苦しみに耐えられるかどうか観察している。耐えられればその人間を天国に迎え、耐えられなければ地獄に落とす。しかし神は既にその人間が耐えられるか耐えられないかをご存知のはずです。
神はそんなに暇なのか?もしそうなら、神は何のために人間に試練を与えるのですか?人間を成長させたいから?なぜ人間を成長させなければならないの?その人間を愛しているから。もし本当に愛しているならこんな遠まわしなことをせず、わざわざこの世という地獄を設けずに、ただ我々に優れた能力だけを与えてくれればいいではないですか。そうすれば我々は労せずして成長するでしょう。なぜなら神は我々を愛していますから。(補足6)
この試練の話は人間が勝手に創作した嘘です。神は我々に試練なんかを与えてはいません。神はあなたをわざわざこの地獄のような地上世界に遣わして、さらにあなたに困難な課題を与えて、それを乗り越えられるかどうかを試しているなんて、そんな悪趣味の持ち主じゃありませんよ。
神はただあなたを愛するのみです。そうでなければ神が存在する意味がない。神は我々人間にとって意味があるから存在するのです。
・実体としての神は存在しません。神が存在しないのなら、人は生身の人間に帰依してしまうという過ちを犯すかもしれません。我々は間違っても生身の人間なんかに絶対的な帰依などしてはなりません。
あなたは賢くなって相手が神なのか悪魔なのかを見極めなさい。神に帰依しているつもりが誤って悪魔に帰依しないように注意するのです。悪魔はあなたをだまし甘い言葉で誘惑するでしょう。いかなる人間(予言者あるいは宗教的権威)も所詮被造物です。それが神の振りをしているかどうか、心を清くして見定めなさい。
ただし、神を名乗る人間が悪魔なのではありません。悪魔はあくまであなたの心の中に住んでいるのです。(悪魔などという実体はない)
※後ほどあらためて説明しますが、宗教の悲劇は、生身の人間(教祖など)を絶対視して、それを神のように崇めてしまうことにあります。教祖のカリスマ性(インチキ性)に心酔してしまった無知な信者たちは、善悪の判断もつかないまま盲目的に犯罪行為に走る。宗教の長い歴史の中で、この弊害がもたらす悪がいかに大きいか。
誤解しないで欲しいことは、実体としての神はあくまで存在しない。神は心の内だけに存在する。例えあなたが神を信じたとしても、科学的な見識を常に捨てずに持つことです。特に他者に接する場合は、理性を持って、現実を見据える。それが隣人(他者)に対する愛です。

究極の救い
どんな無神論者でも、あるいはどんなに自信過剰な者でも、いつか必ず絶体絶命の危機に陥る。あるいは自分ではどうにもならないような困難が襲う。地獄の底に落とされたような絶望感を味わう。どんな人生を歩もうと、誰にとってもいつの日か将来必ずそれは訪れます。その時は誰であっても神に跪いて助けを乞う。あるいは自分をさらけ出して祈るのです。そして悔い改めるでしょう。自分がこれまで信心深い振りをして、実は偽善を働いてきたことを。自分がこれまで犯してきた数え切れない罪を後悔するのです。人間は皆罪人です。そんな最低最悪の罪人であるあなたを神はお許しになるでしょう。あなたは神に抱かれて天に上って行く。これが究極の救いです。

(補足1) この”死後の救い”が有るのかないのかという問題を「後生の一大事」(蓮如1415〜1499(室町時代の僧)の「御文」より)といいます。つまり死んだらどうなるのか分からないから将来が不安なのです。将来が不安だから今が不安なのです。この死後が分からないというのが人間にとって最大の不安であり、かつそれが一切の(人生のありとあらゆる)不安の根源です。つまり死後が明らかになれば、すべての不安は消滅するでしょう。
結局死んだ体験をした人間は一人もいません。従って死んだらどうなるのか?誰にも分からないのです。死んだ後のことを確かめることが不可能である以上、逆に自分で好きなように死後の世界を想定することができるのです。「死んだら”無”になる」そう信じればいいのです。誰も否定できません。無になれば苦しみもありません。人間は確かめることができなくても信じることはできるのです。

(補足2) このことはすなわち神など存在しないと言っているに等しい。ただし神の存在を信じることはできる。

(補足3) 神は愛する対象が欲しいがために、わたしを造った?余計なことをしやがって!とあなたは憤るかもしれません。では、こう考えてみましょう。あなたは神によって造られたのではなく、あなたはもともと存在していた。神はあなたを愛するがゆえに、あなたに身体と隣人と世界を与えた。つまりあなたの本性(意志)以外は神の被造物です。なぜ神はあなたのために隣人を遣わしたのか?神同様あなたも愛する対象が欲しいと思ったからです。神はそれに応えたのです。もちろんあなたを愛するが故にです。隣人は神の御使いです。否、神そのものかもしれません。その隣人とは、例えばあなたが今憎いと思っている隣にいる人間です。その人物をあなたに愛して欲しいが故に、神はその隣人を遣わしたのです。
神が自分を造ったのか?それとも自分はもともと存在していたのか?どっちが正しいの?どちらも正しいのです?これは正しいか誤っているかを問う次元の話ではありません。あなたは自分の好きな方を選べばいいのです。なぜなら本当は(現実的には)神など存在しないからです。(補足4)

(補足4) 旧約聖書他神話の多くは最初に人間を創造したのは神であると記されています。しかし神が全くのゼロから人間の意志も人格も生成したのなら、我々はただ神の操り人形に過ぎない。物語の登場人物と同じように我々は作者である神を意識することすらできません。そんな神は我々にとっては何の意味もなく、不要な存在です。そうではなく我々は永遠の過去から永遠の未来に至るまで常に存在している。(無論、肉体を持った存在とは限らず) つまり神と自分は常に並行的な存在であると。(補足5) 確かに自分の意識は今現在しか存在しない。しかし我々はみな永遠の存在なのです。もし人間がある時点で無から作られ、またある時点で無に帰す存在なら、我々は自分が自分であることすら認識できない。つまり我々の本源は生成されたのではないということ。神話で記されている神による我々の創造は方便に過ぎないのです。

(補足5) 神とあなたはあくまで一対一の関係です。あなたにとっては唯一であり且つ絶対です。

(補足6) 親は時に子供に対して厳しく教育することがあります。それは子供を愛しているからです。なぜなら親はいつか死にます。親は思います。自分が死んでも子供に一人で生きていって欲しいと。そういう願いがあるからです。しかし神は死にません。死なない神が人間に何を求めるのですか?自立心ですか?神がいなくても一人で生きていけるように。最初から神なんかいないのにですか?
我々が神に何かを求めることはあっても、神が我々に何かを求めることはない。なぜなら我々は神の被造物ですから。
最後にお断りします。このコラムで示された「神の存在」および「死後の世界」はこれまで示してきた通り、科学的には証明不可能です。つまりこれらは単なる想定であり、信じない方に信じさせることは決していたしません。この「科学概論」は宗教ではないのですから。その点だけは絶対に誤解のないようにお願いします。

ただ、死後の世界も生まれる前の天国についても、この世界から観察することは不可能。即ちこの世界の人間(つまり我々)にとっては存在しないに等しいのですが、自分が生まれる前この世界においては「無」であり、別世界にいたとしてもそれを否定することはできません。同様に、自分が死ねばこの世界においては「無」になるのではあれば、別世界(死後の世界)に赴くと自分一人が信じる分には誰も否定できません。青山が言いたいことはそれだけです。

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