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仏陀の智慧


菩薩と仏陀の違い
 菩薩から仏陀(仏教の最終目標)の段階に上がるためには何が必要でしょうか?そのために、ここで菩薩と仏陀の違いについて考えてみたいと思います。
菩薩は、知識、智慧、修行の段階が仏陀のレベルを満たしていないということです。駆け出しの菩薩は仏教の基本もわかっていないと思われますから、これから長い年月をかけて、師匠や先輩の教えを聞いて勉強し、日々修行に努めなければなりません。
当然菩薩については駆け出しとベテランでは、レベルに差が出ます。仏陀は修行が完成していますから(決してもう修行をしなくてもいいというわけじゃない)、昨日仏陀になった者も、仏陀になって何十年も経つ古参の者も立場としては対等です。もしも仏陀に差があれば、それは修行がまだ足りていないことを意味していますから。
ところで寺院に行くと様々な仏像があり、そこで仏陀(如来ともいう)と菩薩の姿を比較できます。仏陀は一般的には裸に近い状態(薄い衣を着ている場合がある)であるのに対して、菩薩は、派手な衣装や冠をかぶった姿です。(一部地蔵等例外もある) もちろん実際こんな姿の菩薩がいたのかわかりませんが、自分を飾り立てるなんて、菩薩は修行が足らないように思えます。それにしても趣味が悪い。よく新興宗教の教祖にありがちな金満体質では?
ところがこのように着飾るのには訳があります。菩薩の仕事はこの世の苦しみにさいなまれている衆生を救済すること。つまり慈悲を発揮することです。凡夫である衆生はとても哀れです。この地獄のような現世での苦しみにあえぎながら、藁をも掴む思いでひたすら救済者を懇求しています。その時きらびやかな衣装を着けた姿で現れれば、人々は地獄で仏に会ったような、その姿を見ただけで救われた気分になるのです。そのため、つまり衆生を済度する方便としてこんなキンキラな衣装を身にまとっている訳です。それくらい衆生は愚かなのです。
つまり菩薩の仕事は慈悲に特化しているのです。つまり救いがたい衆生を救済するという任務に邁進しているのです。お寺で仏陀の像(本尊)よりも、観音などの菩薩の方がより信仰を集めているのはそのためです。それに対して仏陀は、慈悲に対してすら執着を離れています。お寺などでは菩薩よりも人気が低いですが、仏陀のとる道は中道です。(補足1) それに対して菩薩は慈悲に専念しているというわけです。(まだ慈悲が足りていない)
因みに仏陀は、三十二相、八十種好として特別な身体的特徴を持つと言われていますが、そんなものは嘘です。例えば手足の指の間に水かきがあるとか、歯が40本あるとか、口から出した舌が頭まで届くとか、額から光を放つなど凡そありえない話です。
仏陀といえども人間です。哺乳類です。仏陀だって、(見た目は)ごく普通の人間であり、どこにでもいるおじさんかもしれません。

菩薩から仏陀へ
 今日菩薩の修行を始めたばかりの者まで含めると、菩薩は世の中にたくさんいるかもしれません。それに対して、仏陀は特別な人間であり滅多にお目にかかれないかもしれませんね。確かに菩薩は、出家して仏陀を目指して修行していれば、一応菩薩ですから。しかし菩薩に留まっていては駄目です。仏陀にならなければ。そのために修行しているのですから。
では、仏陀になるために何をしなければならないか?複数の経典でこう書かれています。「誓いを立てる」 たとえば釈迦も阿弥陀も誓いを立てたと。それもただの誓いではありません。阿弥陀仏の48の請願(注)にあるように、とてつもなく大きな誓いを立てて、全力でそれを達成すること。当然ですが、仏の誓いには命がけの覚悟が必要です。
もしあなたが今菩薩で、仏陀になりたいと思ったら、こういう誓いを立ててみたらいかがですか?「この宇宙の全衆生(生きとし生けるもの、犬や猫、ハエやゴキブリに至るまで。あるいは五逆罪を含む極悪非道の犯罪を犯した者であっても)を仏陀にさせない内は、私は仏陀にはなりません。私がこの宇宙で最後に仏陀になるのです」って。この願いが叶えられたとききっとあなたは仏陀になれるでしょう。
因みに、仏の願とは、誓いのことであって、何かに頼むことではありません。つまり自分が努力して成し遂げることなのです。
注:阿弥陀仏は菩薩時代の仏陀になる前に誓いを立てました。それが48あって、有名なのが第18願です。
「十方にいるすべての衆生が、我が仏国土に生まれたいと思って念じた際、たとえそれが十回であっても生まれないようなことがあれば、私は仏陀にはなりません。ただし、五逆罪を犯した者、正法を誹謗する者は除く。」

経典に記された仏の智慧
 仏教の経典は、釈迦が直接話したことではない大乗経典(大乗仏教の経典)も含めるととても膨大です。
さて、その中で最も高度で重要な経典は何でしょうか?そんなことは一概には言えません。人それぞれ異なります。
青山の独断ですが、「華厳教」、「大日経」、「法華経」を挙げてみました。理由はどれも仏陀そのものの性質、仏陀特有の智慧について語っているからです。
以下この3つの経典の特徴について記します。

華厳経・・・仏とはどのようなものかという問いに対して、すべての存在、どんなに小さな存在(例えば、原子や電子)にも仏の性質が宿っている。従ってすべての存在がそれ自体尊い。これは「涅槃経」のすべての衆生に仏性(仏になれる素質)があるという思想をさらに進めて、宇宙のあらゆる存在に仏が宿るとうたっているのです。
すべてが仏だということの根拠は「縁起」です。この縁起に基づき、すべては平等であるということに拠っています。
この世界における仏の位置づけについて、長い物語を通して、その哲学を語っているのが特徴です。

大日経・・・宇宙最高の仏陀として、宇宙そのものを仏としています。(補足2) そして宇宙におけるすべてのことがあるがままの姿であり、それは仏の働きによる。と言うわけです。
大日経で重要な教えは「三句の法門」と言い、仏にとっての智慧の働きとは、どのようなものか?という問いに対して、「菩提心を因とし、大悲を根として、方便を究境とする」と答えるのです。
仏陀として身に着けている智慧とは、「菩提心」即ち(何が何でも)仏になりたい、あるいは絶対的な幸福の境地を得たいという(金剛石・ダイヤモンドにたとえられる強い意志)願望を起因として、大いなる悲しみ、すなわち哀れな衆生を救うことを根本として、方便、つまり実践に努めること。つまり頭の中の理念だけではなく、衆生救済のため具体的に行動してはじめて価値を持つ。ということです。
青山の独断ですが、この「方便」を科学的手段とすれば話がわかります。即ち仏の働きとして、人を救うためには科学を用いなければならないということです。これは決して飛躍しているのではない。よくよく考えてみればわかります。特にこれまでこの「科学概論」を読んでいらっしゃった方には。
この大悲をその内に含む仏教最大のテーマである「慈悲」については後で詳しく述べます。

法華経・・・メンイテーマとして三乗方便(声聞、縁覚、菩薩の道)と一乗(仏になるための道)の考え方。
人間が行う瞬間瞬間の認識の働きの中に、宇宙のすべの要素が組み込まれているという「一念三千」の思想。(補足3)
仏の出現を法の働きとしてみると、法は宇宙と共に存在しているため、仏陀は永遠の過去から永遠の未来に至るまで存在し続けるという「久遠仏」の思想が特徴です。

これらはみな大乗経典です。こられの経典は仏陀というものを別のもの(宇宙や法そのもの)に擬えている点が特徴ですが、どうやら仏陀を誤解しているようです。さらに内容も荒唐無稽であり、事実として解釈することはできません。例えば法華経の「如来寿量品」では、釈迦が無限に近い過去から仏陀として多くの弟子たちを教化してきたと語っていますが、はっきり言って馬鹿げた話です。(他にも医者の譬え話などこの「如来寿量品」は法華経の中でも価値が低いものと思っています)
しかしその思想は人類史上極めて高いものだと思います。それだけでも(意味もわからず唱えるのではなく)意味を理解しながら読む価値は十分にあると思います。
あくまで青山の価値観ですが、この三つの経典の中でも、特に重要なのは最後の「法華経」だと思っています。それは他の宗教では答えていない最も重要な部分について述べているからです。それについては次のコラムで。

(補足1) 中道とは何事にも偏らない。執着しないという意味です。慈悲は仏教の基本ですが、それすら偏ってはいけないのです。ただし”中道”に偏るのも問題です。だから仏陀と言えども慈悲の心を持つのです。

(補足2) これが大日如来ですが、そんな者は存在しません。仏陀はあくまで人間です。大日如来は宇宙を擬人化したものです。そんな擬人化する意味などありません。

(補足3) 「一念三千」の思想は、法華経とは直接関係ありません。天台大師・智(注)の思想。図85「一念三千」参照。
この「一念三千」の思想で重要な点は、ここで示された「十界」(「十界」参照)や「十如是」などを間違っても”絶対の真理”などと思ってはならない。ということ。重要な点は、前コラムで示した通り、「五蘊」同様それらが皆「空」であることを理解することにあります。つまり「十界」や「十如是」などは方便であり、仮に設けたもの。釈迦の教えは、世界の仕組み(補足4)云々ではなく、一切は「空」であることを悟ることにあります。
(注)538〜597、中国の僧侶

(補足4) 「十界」や「十如是」を知り、「自分は宇宙の真理を知っている」などと思い込むこと。仏教では度々犯す過ちです。仏教初期の頃には、「有部」という学派が世界の仕組みを示しました。その複雑さは「五蘊」や「十如是」とは比べ物になりません。

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