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仏教の限界と浄土思想


 今まで話してきた通り、仏教は自分で悟る宗教です。悟るためには出家して修行しなければなりません。つまり出家できない者は悟れないのです。

仏教の限界
 釈迦の教えは、出家して修行して真理を体得すること。ただ、誰にでも出家は可能でしょうか?
上杉鷹山の言葉「為せば成る。為さねば成らぬ何事も。」は有名ですが、本当にやればできる?鷹山に「地球を持ち上げてみろ」と言ったら逆立ちをしたとか。(嘘です) これは経済界の連中(会社の経営者など)が社員を働かせるためによく使う言葉ですが、やればできるなんて嘘です。人によってできることとできないことがあるのは当然。(補足1)
ただし、誰でもその気があればできることが一つあります。それは出家です。出家だけは本人にその意志さえあれば可能です。だったら全人類が一斉に出家すればいいじゃないかということになりますが。しかしそれは不可能。なぜなら出家者は誰に養ってもらえばいいのでしょう?それは在家です。在家がいなければ(在家から施しを受けなければ)、出家者は生きてはいけません。生きていけないということは、修行も完成しない。悟りを得られないということになります。
在家はいずれ(来世かもしれない)出家を志すのです。そして解脱すればもはや輪廻から解放されてもう生まれてこなくて済む。ただ出家者が修行を完成させるためには在家者の布施が必要。ある特定の個人はいずれ輪廻を脱しますが、悟れない在家者は永遠に(出家者のために)いなくてはならないのです。つまり在家者が残っている限り、すべての人間が一斉に救われることはない。これが仏教の限界です。つまり仏教が他の宗教よりも劣っている点です。出家できない者も当然いるわけで、その者は出家者を養うために在家のまま存在している必要があります。誰もが一片に出家を志しても、それは不可能と言うわけです。なぜならそれでは出家者が生きていけない(修行が出来ない)からです。すると常に救われない在家者が存在することになります。
キリスト教やイスラム教では在家や出家の区別がない。皆神の前に平等であり、信仰心さえあれば全員が一片に救われる。それに対して仏教は全人類が救われることがない。
このような不完全な教えである仏教を捨てるべきか?
青山個人としては学ぶべきは学び、不備があればそのもの(仏教)にこだわる必要はないというもの。仏教に不備があるなら潔く捨てるべきである。(何事にも執着してはならないというのは、そもそも仏教の教えです)
では、仏教を捨てて一体何に学ぶのか?他の宗教です。
その前に仏教にもすべての人間が救われる教えがあります。もちろん釈迦の教えではありませんが。(彼の教えは自分自身が修行して解脱すること)
これを浄土の教え(あるいは他力の教え)と言います。

(補足1) もちろん何事も手間と時間を掛ければいつかは出来るかもしれない。ただし、ある人は1時間でできることを、ある人は1年掛かることもあるかもしれない。(例えば生まれたばかりの赤ん坊が一人で電車に乗れるまでには何年もかかる。大人にとってそんなことはいともたやすい) やればできるといわれてもこれじゃね?その前にそんなことをやる意味があるのか考えたい。

浄土の教え
 自力で解脱出来ない人間は救われないのか?
救われる道があります。それが他力の教え。では、救われるためにはどうしたらいいのでしょうか?
大乗経典に「無量寿経」というものがあります。10回念仏を唱えれば、極楽へ往生できると阿弥陀仏は宣言しているのです。
10回ではなく11回ではどうか?11回でも1億回でもかまいません。回数が多ければそれだけ上位の極楽へ行ける?いいえ、回数には関係ありません。
逆に9回じゃ駄目です。なぜなら、阿弥陀仏にしてみれば、本当に極楽へ行きたいのか疑わしいからです。その気がないのに冗談で言っているのかもしれませ
んから。
ただし、誰もが10回の念仏で極楽へ行けるわけではありません。五逆罪(父母を殺した、僧侶を殺したなど)を犯した者と、正法を誹謗した者は駄目。はっきりそう書いてあります。

阿弥陀仏と薬師仏のモデル。
 ここで一息。阿弥陀仏はまったくの架空の人物です。ただもしかしたらモデルがいたかもしれない。釈迦の生まれたところ(即ちインド)から西、つまりペルシャかエジプトに実在した聖者かも?伝説によればもともと一国の王だったそうです。そういえば釈迦も王子です。どうやら貧乏人から仏陀にはなれないようです。この阿弥陀仏が極楽世界を作りここに往生を願う(娯楽へ行きたいと思う)者を救うとされています。もう一人薬師仏についても、日本のお寺にこの薬師如来像を本尊にしているところが多いのです。それだけご利益があると信じられたからでしょう。阿弥陀仏と違って死後救うのではなく、今生きている現世で救済してくれる仏です。阿弥陀仏と反対に東の国の仏だから、東南アジアの聖人かも知れません。ともに経典には釈迦よりも遥か過去の人のようですが、釈迦の時代は10年20年前でも恐ろしく過去とみなされるのも時代の精でしょうか。実は釈迦よりたかだか50年ほど前の人かもしれません。仏陀という者は実は普通の人間と変わらないのです。

 話を阿弥陀仏に戻しましょう。経典ではそう書かれています。ただし・・・
阿弥陀を見た者は(一人も)いない。極楽へ行った者は(未だかつて)いない。結局阿弥陀なんかいるかどうかなんて信じられない。
阿弥陀仏は方便です。そういう名前の人間がいるわけではありません。これはみんな方便なのです。念仏の回数も方便。五逆罪や正法誹謗も敢て悪いことを戒めるための方便。結局は皆救われるのです。(補足2)
誰が救う?
誰かが。
いつ救う?
いつか。
そんな誰が救ってくれるのか?あるいはいつ救ってくれるのか?まったく分からないとしたら、本当に救われるか?
はい!必ず救われます!!本当に救われます。絶対に救われます。青山が保障します。
そんな救われる前に死んじゃったらどうしてくれるんだ!
もちろん、あなたがこの「救い」を信じられないなら、無理に信じろとは言いません。信じるか信じないかはあなたの自由です。

絶対他力とは
 救われない理由はありません。阿弥陀仏なんかいないかもしれないが、誰かが救ってくれるでしょう。神が救ってくれるのではありません。救うのはあくまで人間です。神はいないかもしれない。神など信じられないかもしれない。しかし、人間はこの通りたくさんいるではありませんか。その中の誰か一人が救ってくれればいいでしょう。さらに人間が救ってくれる根拠は、人間には誰にも良心があり、他人に対して救ってあげたいという気持ち、即ち慈悲の心があるのです。しかもすべての人間に。だからあなたは信じればいいのです。いつか必ず救われると。信じるだけであなたは救われます。なぜかと言うと 救ってくれると思ったとき既に救われているからです。
例えば、あなたは果てしない砂漠を歩く旅人だとしましょう。あなたは喉が渇き水を求めてさまよっていました。
そとき目の前に満々と水をたたえたオアシス(またはコンビに)を見つけたら、あなたは水を飲む前に救われたと思うでしょう。
いやいや目の前のオアシスは蜃気楼かもしれない。実際水を飲むまで信じない。と言う方は救われていないのです。
人は信じたときに救われるのです。信じなければ実際に水を喉に入れても救われていないのです。
一生を通じて不幸だった人間も、死ぬ直前に救われたかもしれない。死ぬ直前に救われればいいでしょう。誰であっても(死ぬまで)救われなかったとは言えませんよ。
あるいは生前救われなくても、死後の救いは無いとは言えない。それは誰も確かめられない。ただいつか(それは死後かもしれない)必ず救われると信じること。信じた時点で(未だこの世に生きていたとしても)救われるのです。それが本当の救いです。それは一方的な救いです。念仏を唱えたら救わる。唱えなければ救われない。と言うわけではありません。もしそうなら、念仏を唱えられない人(赤ん坊や犬や猫なら)は救われないのですか?浄土の教えを知らない(一生のうちに聞かされない)人は救われないのですか?
念仏を唱えても唱えてなくても救われる。悪人でも善人でも救われる。自力で悟る人も自力で悟れない人も救われる。(念仏を10唱えるのも自力です)
一方的に救われるので、こちら何もしなくてもいい。あるいはしてもいい。諸々の雑業を捨ててもいいし、捨てなくてもいい。修行してもいい。しなくてもいい。絶対に救われると信じてもいいし、信じなくてもいい。阿弥陀仏を称えてもいいし、けなしてもいい。阿弥陀仏の本願を疑ってもいい。疑わなくてもいい。これが絶対他力です。
ただし、今現在、信じている、あるいは信じていないかによって自分の心の状態が違う。もちろん人間ですから信じられないこともあります。無理に信じなくてもいいのです。信じなくても救われるからです。問題は今自分自身が必ず救われると確信を持つか持たないかによって、(それは救われるか救われないかに関係なく)今の自分の心持ち、生き方が変わってくるのです。つまり絶対に救われると信じれば何も恐れることはない。何も苦しむことはない。絶対的な安堵感を得たうえで、この世界を生きていくことができるのです。
この教えはキリスト教やイスラム教よりもすごい。なぜなら救いを信じることが出来ない者まで救うから。

(補足2)ただし誤解してはいけないこと。何をしても救われるからと言って、わざと悪事を犯すことはNGです。自分の罪は自分が償うしかない。これが宇宙の掟。因果の法則です。この法則を曲げることは阿弥陀仏でも不可能です。どんなに些細な行為でもその報いは相当のもの。たとえ蟻一匹をうっかり足で踏みつけて殺してしまったら、その罪は計り知れない。それを償うためにどれだけの歳月が必要か?ほとんど無限に近い期間償わなければならないでしょう。
まして仏陀を殺したりすれば100億劫、純粋で穢れなき天使のような優しい人を殺した場合は、1000億劫の永い間苦しみを受けなければなりません。(「劫」とはインドの時間の単位で約43億年。ほぼ地球の年齢と同じです)
ただし、阿弥陀仏の本願を(自分は必ず救われると)信じれば、100億劫も(本人にとっては)一瞬かもしれません。

 さて、上で述べた通り、仏教に欠陥があれば、それを捨てる選択もありだと思います。少なくても仏教一筋に専念するのではなく、他の宗教を見回してみるのも無駄じゃないと思います。

仏教の問題点
 読者の皆さんは、青山がここまで仏教について話しているのに、なぜ釈迦の教えに従って「出家」しないのか、青山だって所詮「在家」ではないか、とおっしゃられるかもしれませんが、それに対する青山の回答は、青山は「在家」ではありません。そもそも青山は”仏教徒”ではありません。従って出家もしませんし、在家でもありません。最初に述べた通り青山はいかなる宗教をも信仰しておりません。完全無欠な無宗教です。ここでは参考として、皆さんに仏教をご紹介しているだけで、決して皆さんに仏教徒になることを勧めているわけではありません。ただ仏教の教えを知ることは無駄ではないと言いたいのです。
仏教だけにこだわる必要はない。他の宗教、例えばキリスト教やイスラム教について学ぶことも意味がある。と考えます。ただし、特定の宗教に属するか否かは個人の問題であり、青山はもちろん何も言いません。
ただ宗教にはいろいろと問題あるので、特に科学の正当な研究を妨げる行為は断じて許さない。何度も言う通り科学と宗教は完全に別物です。この「科学概論」は科学とは何かについて述べていますから、科学を理解するために、それとは相反する宗教の話をしているわけです。宗教とは何ぞやを知らないと、科学に対して誤解を抱かれる危険性があるとみたからです。青山は科学を勧めても宗教は絶対に勧めません。
さてそれはともかく、仏教最大の問題とは何でしょうか?それはあの”オウム”にも見られた「出家制度」です。本来の出家とはあのような社会からの逃避を意味するものではありません。世俗との関わり、特に家族との関係を切ることです。家族ごと出家しては意味がありません。本来は一人になることです。一切の人間関係を断ち切る。従って師や弟子の関係も切る。人間関係に執着しない。これが出家です。しかし釈迦の時代の出家は、教団を作り、出家者がその中で集団生活を営む。はっきり言ってオウムと同じです。出家とは仏教最大の功績ですが、同時に最大の悪しき制度でもあるのです。(あのオウムを生んだ悪しき根源は”釈迦”にある)
釈迦の功績は偉大です。世界の真理を示した点でも尊敬に値するでしょう。ただし弊害もあります。釈迦最大の罪は、出家集団、すなわち教団を作ったことにあります。釈迦はある意味偉大ですが、もちろん褒めるところもあれば、厳しい批判を加えるところもある。釈迦を絶対視することが、あのようなオウム教団を生むのです。

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