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慈悲とは 最高の真理


 以前話した通り、智慧とはこの世界が「空」であることを認識せよ。というものでした。「空」であるから、世界には意味も方向性も目的もない。世界はただあるがままにあり、なるようになるだけ。こうであってはならない理由もなければ、こうでなければいけない理由もない。ということは何事も自由、世界に対して自分がどう働きかけを行ってもそれは自由であるということです。そうすると自分は完全に自由(何者にも束縛されない)であると言えます。(補足1)
もし神が存在するなら、神には逆らえません。しかし神は存在しないのです。これが仏教でいう「空」の意味です。

 この世界の実態が「空」であること、つまりこの智慧の意味についてはある程度(世界を観察すれば自ずと)理解できると思います。ところで前回「大日経」で真の仏の智慧は「慈悲」(大悲)であると述べました。それはどういう意味でしょうか?
我々が生きるということは、すなわち世界に対して何らかの働きかけを行うことを意味します。自分が生きることは即ち、自分が他者に対して何かをすることそのものなのです。我々は(完全に)自由に世界に働きかけることができますが、その目的(何のため)とは何でしょうか?世界へ働きかける目的は二つしかありません。
一つは世界を自分の思い通りに支配すること。いま一つは世界に対して慈悲を施すこと。基本的にはこの二つしかありません。
ただし、我々は世界(すなわち他者)を支配できるでしょうか?世界とは自分の思い通りにならない物を総称しています。もし思い通りにしたかったら、我々は世界がそのような状態になる仕組み、つまり自然法則を学ばなければなりません。自分が世界を思い通りに動かすためには、世界の存在原理である自然法則に従う必要があります。なぜなら自然法則自身は自分が勝手に作れないからです。自然を支配するつもりが自然に対する従順な奴隷になるしかないというジレンマに陥るのです。さらに隣人と自然法則は不可分です。隣人は世界(自然法則)そのものです。つまり隣人を支配しようとするとどうしても(隣人と一体である)自然法則に従わざるを得ない。ということになります。(図86「隣人と自然法則の関係」参照)(補足2)
それにいくら自然原理を用いて他者にある決まった動作をさせても、それが自分の望みでしょうか?たとえば、相手(隣人)に「あなたが好きです」と言わせたいとします。そんなことは簡単です。そう言ってくれれば100万円あげると言えばいいのです。一言そういうだけだったら大抵の人はやってくれますよ。ただしそれがあなたの望みでしょうか?ただ心にもないことを言わせることが、あなたの目的ですか?
結局世界を思い通りにさせることなんかできないのです。あるいはそのために自分が世界の奴隷になるしかない。
自分が奴隷にならず、即ち主体性を失わず、世界に対して自由に働きかけることが唯一存在します。それが慈悲なのです。お解りですか?
自分が世界、特に隣人に対して行うこと、しかも自分の主体性を失わず。それはもはや慈悲しかないのです。ある人がある人に対して行えることは慈悲以外にない。ただし自分が奴隷になってもいい(存在しなくてもいい)という前提なら話は別ですが。他者に対する慈悲と支配の違いについては、図87「隣人に対する支配と慈悲の違い」を参照下さい。

慈悲とは何か
 それは前回紹介した「法華経」に述べられています。
世界には、愛や慈悲をうたっている宗教は実に多く存在します。キリスト教の愛、イスラム教の喜捨、儒教の仁、そして仏教の慈悲です。すべては「抜苦与楽」(苦しみを除き楽しみを与える)。つまり、人々を苦しみから救い、慈しみを与えるということを勧めているのです。人間誰しも良心があります。可哀想な人を見たら救いたいと思うでしょう。しかし人を救うとは具体的に相手をどういう状態にさせたいのか?どうすれば救ったことになるのか?食べ物がなく飢えている人に食べ物を施すことが慈悲なのか?ではアルコール依存症の人が「酒を飲ませてくれ!」と叫んでいたら、酒を与えることが慈悲なのですか?違うと思いますよ。それは相手を幸せにすることですが、幸せって何でしょうか?
お金持ちにすること?違うと思いますよ。そんな物質的な物を与えることが幸せではありません。もしお金が幸せなら、全宇宙の人を幸せにはできませんよ。だって宇宙の富は有限なのに対して、今よりもっと幸せになりたいと思っている満足していない衆生はいくらでもいますから。お金を与えることが幸せなら、いくら金があっても足りません。だっていくら施しても(衆生は)これで満足、もう不要という所に達しないからです。そうではありませんよね。慈悲や愛は相手を幸せにすることに他なりません。では幸せな状態とは、苦しんでいる人を救うとは、相手をどういう状態にさせてあげることなのか?
もしあなたが貧しい国のスラム街で、物乞いをする子供たちを見て、可哀想だと、何とかしてあげたいと、思ったら、この子供たちに対してどうしたらいいと思いますか?そうです。食べ物を与えるのです。でもそれだけではすぐにまた子供たちは飢えます。最終的にこの子供たちをどうしたいのですか?一生食べ物に困らないように、億万長者にしてあげることですか?いいえ違います。飢えた子供に食べ物を与えても(億万長者にさせても)いずれ死ぬことに変わりありません。最終的に子供たちに施すものは、一時的なものではなく決して崩れない幸福な状態にしてあげることでしょう。それって何ですか?
どの宗教にも答えがありません。世界中の多くの宗教が、救いや幸福を与えることまでは述べていますが、肝心な幸福とは何か?救いとは何なのかを述べていません。唯一述べているのがこの「法華経」です。幸福な状態とは、スラム街で飢えている子供を最終的にこうしてあげたいという状態とは、すなわち仏陀にすることなのです。(恐らく法華経の作者(釈迦ではない)ですら、この重要性に気づいていないと思われますが)
もちろん直ちに仏陀にさせることはできないでしょう。まずは食べ物を与えて、とりあえずは命を保つことが必要です。そして教えを諭したり、勉強をさせたり、自ら考えさせたりする行為がつまり仏陀になるように働きかけること。これが我々にできることであり、我々がその子になすべき事なのです。もちろん最終的に仏陀になるかはわかりませんが。
世界には利他(人のため、人々の幸せのため)をうたう教えは沢山あります。「世のため人のため」とよく言われます。しかし「人のため」って何でしょう?その人を幸福にすること。では、その人を幸福にするって何でしょうか?その人間の求めに応じてお金を与えることですか?あるいは、会社で上司に胡麻をすることですか?社長を立てることですか?家来として主君に忠誠を誓うことですか?(これらは皆表面的な利他行為に過ぎない。結局は自分の利益または保身。こんなことをするくらいならまだ利己主義の方がまし) そうじゃありませんよね。本当に相手を幸せにしたいのなら、まず「本当の幸せ」とは何かを追及することです。単なる物質的なものではないことは明らかです。それはここでいう、相手に世界の真理を悟った仏陀になってもらうこと。ただし、真に相手にとっての幸福とは、同時に自分にとっての幸福とは何かを決めるのは、自分自身だということです。
ここで一つ言っておきたいことがあります。言うまでもありませんが、相手に何かを与えたら、逆に相手から何かを得られると期待してはいけません。相手はあなたの好意に気付かないかもしれない。あるいは既に忘れているかもしれない。「ギブアンドテイク」と言われますが、「慈悲」はビジネスではないのです。相手から何も見返りがない。お礼の一つもない。忘れている。それを不快に思うくらいなら、最初から慈悲など掛けない方が増しです。例え命を与えるくらいの慈悲でも、それはあくまであなたの身勝手、わがまま、自己満足なのです。慈悲を与えているという優越感を持つなら、それは所詮あなたの傲慢と知るべきです。

仏陀とは何か
 仏陀とは世界の真理を悟った人を指します。釈迦がそうだとは断言できませんが、彼がそうであるかないかに関わらず、即ち仏陀とは、我々が目指すべき理想的な人間を指して言う言葉なのです。そして仏陀の仕事は、人々を(自分のような)仏陀にさせること。それが法華経「方便品」に明記されています。法華経最大の価値は、仏陀の仕事は人々を仏陀にすることを述べているところ。一念三千や久遠実成の仏などは大した意味ではありません。
他の宗教でははっきりとは明示されなかった慈悲とは何か、愛とは何かについて、この法華経だけが述べているのです。そして世界の真理を悟った覚者である仏陀こそは、世界最高の幸福を手にした存在であり、我々が目指す生きる目的がそこにあるのです。そうです。人間は最高の幸福になることを目標に生きる。それは即ちこの世で仏陀になることなのです。(釈迦が最高の幸福な人間とは言えないかもしれないが)
もしここに一人の仏陀がいて、彼が生きている間に100人の人間を仏陀にしたとしましょう。彼はいずれ死ぬでしょうが、仏陀は残るのです。そして残された仏陀一人一人がまた100人を仏陀にしたとしたら、仏陀は1万人に増えます。このようにして仏陀は加速度的に増えていく。いずれ宇宙のすべての衆生を仏陀にすることができるかもしれない。仏陀の仕事は人々を仏陀にすることだからこそそれが可能なのです。もし仏陀が人々を仏陀にしなかったら、宇宙中の衆生を仏陀にすることなど不可能です。すなわちこの世界は永遠に救われないのです。
この「法華経」は仏教最高の教え(青山の独断)です。ただし、決して絶対的なものではありません。法華経も完璧ではない。(特に譬喩品の「三界火宅」や「如来寿量品」の医者と薬の譬えや話としては不出来) 不足していることは当然あるでしょう。法華経に足りないところは、仏陀とはこういうものであるとは記されているが、ではどうすれば仏陀になれるかという肝心なところが抜けているのです。法華経を信じるだけでは駄目です。仏陀になる方法とは法華経も含めてすべての経典を学び、それに従って実践することです。仏教は手を抜いたらおしまいです。仏陀になるための近道なんかありません。すべての経典にはそれなりの価値があるのです。焦らず一つ一つ熟していく。それが仏道と言うものです。

何が大切なのか
 世界が空である限り、社会や国家、あるいは人類なんかどうでもいいのです。自分即ち一人の人間にとっては、社会の安定よりも、国家の発展よりも、世界の平和よりも、人類の存続よりも大切な事があります。それは隣人に対する慈悲です。そのために人間(自分)は生きているのであり、この世に生まれてきたのです。一人一人の人間にとって、あるいは自分自身にとって、あるいはあなた自身にとって、この世に生まれてきた以上、やるべきことはただ一つ。それは隣人に慈悲を施すこと。それ以外にはあり得ません。(隣人とは何か?それはまた別途)
問題はただそのことを知っているか知らないかの違いです。仏教の最終的結論として、この世で最も重要なこと。それは慈悲です。(慈悲と愛の関係はまた別途)

人間としての生き方
 人間は慈悲に生き、慈悲に死ぬ。隣人に対して慈悲を施す。これが人間にとって唯一やるべきことであり、何のために生きるのかと言う問いの答えです。ここで隣人とは、”人間”という生物学上の種(ホモ=サピエンス)だけとは限りません。すべての衆生を指します。つまり形体としての犬や猫、ハエやゴキブリ。更に植物や細菌も含まれる。地球外生命体も、そして無生物であっても、そこに一つの他と交換できない、そのものずばり、主体として自分が認める存在なら、すべてが”隣人”と言えるでしょう。(図58「主体的存在」参照) (ただし、実体としてもともと存在しているものではない。その存在は自分が認めて初めて隣人となる。つまり”空”である)
人間は誰でも幸福になりたいと思って生きています。人間にとって幸福とは何か?具体的には人それぞれ違います。人それぞれ立場が異なるからです。ただし、人類共通、人類普遍の幸福があります。それがずばり隣人に対する慈悲です。慈悲以外に幸福などありません。人間は、何のために生きるのか?その答えがここにあるのです。(自分が慈悲を施されることではない点に注意。自分はあくまで慈悲を施す側。慈悲を他人に施して初めて自分自身が幸福になれる)
人間にとって幸せかそうではないか、この差は能力があるかないかにあるのではなく、「幸福とは慈悲」であることを”知っているか知らないか”。たったそれだけの違いなのです。誰もがこのことを知れば世界一幸福になれるのでしょう。
これはある意味「福音」です。人間は誰もが(隣人に対する)慈悲のために生きているのです。ただし多くの人がそのことに気づいていない。幸せを自分の経済的な満足(お金)、あるいは社会的地位や名誉だと思っています。それは動物的な本能、いわば自然淘汰の産物に過ぎないこと。そして自然淘汰(種の生き残り)には意味がないこと。なぜなら世界は空だからです。結局それ(金儲けや地位名誉など)は動物的本能という自分(自己の主体性から発したもの)ではないものに使役されているだけの本当の幸福とは似ても似つかないものなのです。皆そのことに気付いていない。誰もがこの真の幸福である慈悲に気づいていないのです。だから人々は不幸なのです。この青山から見れば、どんな金持ちもどんな有名人も幸福には見えない。それはこの最高の真理、すなわち人間は慈悲のために生きる。それこそが最高の幸福である。我々が目指すべき、何のために生きるのかの答えを知らないからです。

(補足1) もし自由でないならば、自分など存在しないことに等しい。ただし、世界にどう働きかけるかは自由であるが、それに対して世界がどう反応するかは世界の側の性質による。それは自分の自由にはできない。もしできるとするならば、世界など存在しないに等しいことになる。

(補足2) 人間を現実世界に存在する動物即ち物体とみなせば、それは完全に自然法則に従う。ある作用によって、決まった反応を示すのです。つまり科学の手法を用いれば、特定の作用によって起こりえる現象を完全にコントロールすることができます。
ただし、それで相手(隣人)を完全に支配したといえるでしょうか?それは単に足で石ころをければ物理法則に従って転がるという現象を引き起こしているだけで、その石ころ自体を隣人と解釈しているに過ぎません。隣人は存在であって現象ではない。自己が物体ではないのと同様、隣人も物体ではないのです。
従って自然法則によって特定の作用を施すことが隣人を支配していることではない。その作用とは隣人に花を手向ける行為と同じで、それで相手が喜ぶか喜ばないかは、相手に委ねられているのです。(単に相手の顔のしわを緩ませることは、物理現象なので可能ですが、それで相手が本当に喜んでいるのかは分かりません。「顔を緩ませることイコール相手が喜んでいる」というのは自分の勝手な解釈です)

”支配”とは、相手(隣人)の主体を否定すること。それは自己の主体も否定することに等しい。”慈悲”とは、相手の主体を(相手が善人だろうが悪人だろうが)あくまで尊重することです。そこで初めて自己も主体を持てるのです。

【重要】まだ誤解している方がいますから、改めて説明します。
自分とは認識主体であり、認識される側は自分ではなく世界です。多くの人はこのことを誤解しています。だから自分で自分を変えることができるなどという矛盾を犯すのです。
仮に自分をAとしましょう。AがA自身をBに変えることができますか?それは明らかに矛盾です。Aが他者であるBをCに変えることはできるかもしれません。あるいはBによってAがCに変わることはあるでしょう。ただしAが直接A自身をBに変えることは不可能です。
「自分を変える」ことができると誤解している人は、きっと世界を(同じ認識可能な世界の一部であるにもかかわらず)自分のテリトリー(変更可能領域)と、他者のテリトリー(変更不可領域)の二つの存在があると思い込んでいるのです。なぜそのような二つのテリトリーに分けられるのですか?その境界線ってどこですか?自分のテリトリーって自分の所有物のことですか?それだって世界の一部ですよ。だって自分が認識可能ですから。そのような認識で世界および自分を正しくとらえきれないのは明らかです。
この自分が自分を認識できるという誤りが、大きな弊害を産んでいるのです。それは自分と他人比較すること。本来自分は認識できないのですから、比較なんてはっきり言って不可能です。社会的地位や持てる資産、給与、会社での立場、外見、異性にもてるもてない。比較要素はいくらでもあります。そして相手に負けると、悔しい。嫉妬する。憎たらしいと思う。そんなことで不愉快になる毎日を送るしかないのです。自分と他人を比較してこんな毎日を送っている人に、幸せな人間はいません。自分は認識できないもの、自分だと思っていたものは実は世界なんだ。だから自分と他人は絶対に比較できない。相手と比較して優位に立ち、周りから褒められて、密かに(褒められていると勝手に解釈しているだけの)自己満足を得ている。このような相対的幸福なんかすべて嘘です。それに気付いた人は本当の幸福を知るはずです。(「幸福の性質」、「自己とは、世界とは」参照)
ここであなたが突然の不幸に見舞われたとしましょう。その時あなたは「なぜ自分だけがこんな辛い目に遭うのだろうか!」と悲嘆の声を上げるでしょう。しかしあなたの目の前にある(悲しい)現実は、あなたに原因があるのではなく、世界に原因があるのです。あなたは世界の一部を見ているに過ぎないのです。それはあなたの友人が赤い服を着ているのを目にしているようなものです。友人が何色の服を着るかはあなたの意志ではなく、友人の意志です。そこであなたが友人に向かって「赤い服ではなく、青い服を着た方がいいですよ。」と教えてあげること(友人に働きかけること)ができます。それこそが他者に対する慈悲なのです。慈悲とはあなたが(あなた自身にではなく)他人に対して為せることなのです。
そしてもう一つ重要なこと。あなたが今目にしている現実がこのようにあるのは、あなたではなく世界に原因があります。あなたが辛い目に遭うのは、あなたに問題があるのではありません。ただし、その現実をどう捉えるかはすべてあなた次第なのです。現実は一つしかありません。今見ている現実がすべてなのです。その現実を判定しているのはあなたです。それ(世界をどう捉えるか、あるいはどう判定するか)はすべてあなたの責任です。この世界の評価者、判定者はあなた一人です。他人があなたに代わって判定してくれるわけではありません。そしてあなたがこの世界を判定した結果改善が必要であるなら、それを実行するのはあなたです。誰もあなたに代わって実行してくれません。つまりあなたが辛い境遇にあって、それを何とか克服して現状(あなた自身ではなく世界)を変えていくのは、あなたがやる以外にないのです。

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