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仏教の誤解


 最後にまとめます。
仏教とはそもそも釈迦が2500年前に始めた宗教であり、釈迦はこの世が苦しみに満ちていることを見抜き、その克服として出家して修行を重ね、世界の真理を体得する。それによって世界に対する執着を離れ、心を安定させた状態にする。それが目的です。
このことは今日特に日本の仏教とは大分かけ離れています。仏教は葬式の時にだけ役に立つものと思われていますから。釈迦の仏教には、葬式の話、特に先祖を供養する話などどこにも出てきません。なぜこんなにも乖離が出たのでしょうか?釈迦の後の出家者(僧侶)たちが、仏教の真意を理解しないまま独自の宗教を始めてしまった感じです。日本でもお坊さんは葬式の時以外は呼ばれません。もちろん僧侶の仕事は葬式を司ることではない。自ら修行することです。
ということで、釈迦の仏教の捻じ曲げてしまった悪しき僧侶として、日本の三悪僧を挙げてみたいと思います。ずばり、空海、親鸞、日蓮です。
もちろん彼らが皆悪人かと言われればそうではありません。皆優れた仏教者です。しかし誤解していること、釈迦の仏教に相反することもあるでしょう。(その要因は釈迦とは時代が隔たっているため) 言ってみれば釈迦の顔を土足で踏みつけるようなものです。もちろん彼らは悪人ではないので、そんなつもりはまったくない。しかし完璧ではない。間違えていることも多々ある。当たり前です。人間ですから、青山もあなたも間違いを犯すように、釈迦だって人間ですから、間違いを犯します。すると周りから指摘されます。その間違いに気付いたら修正すればいいのです。ただそれだけのことです。この三人の僧侶はとても人気が高く、崇拝している方もたくさんいるでしょう。ただし神ではないのだから、批判されるべきところは批判され、正すべきところは正す。それは当然であると言えるでしょう。しかも彼らは皆昔の人物、もはや現在まで生きてはいませんから、間違いを正すと言っても無理ですが、現在の人々のために、あるいは後世の人のために、青山として疑問に思うことをずはり述べます。
この世には絶対に正しいなどといものはありません。それは神秘主義です。科学の観点ではそんなことはあり得ないのです。
注:以下はあくまで青山の独断。

空海:774〜835 平安初期の僧侶。中国当時の唐に渡り、当時先端の仏教である「密教」を学ぶ。
密教とは、秘密の教えです。つまり特定の人間にしか伝えられない高度な教えを指します。こんな密教なんか釈迦の教えにはありません。なぜなら一部の知者にしか理解できないなら、そんなものは不要だからです。(自分一人が理解したいのならそれでも良い) 密教は文字にできない高度な教えという意味もありますが、文字にできなければ万人には解りません。それだと単なるオカルトです。(補足1)
・即身成仏 仏陀とは釈迦のことですが、人間です。一見したところどこにでもいるおじさんです。ただ世界の真理を体得しているだけです。それがいつの間にか超人化され、我々普通の人間とは根本的に異なるものにされてしまいました。そして一生修行しても仏陀に到達できないことにされてしまったのです。修行しても仏陀になれないなら、修行する意味もありません。そこで考え出されたのが、何か特別なことをするだけで、そのまま即仏になること。それに伴った、「頓悟」という考え方です。つまり段階を経ずしていきなり悟りに達すること。全く間違っています。仏教とは、一つ一つ修行を積み重ねて、一段一段階段を登るがごとく悟りに近づく。(これを頓悟に対して、「漸悟」と言う) それがこれじゃ手抜きじゃないですか?ただの甘えですよ。釈迦が聞いたら茶ぶ台をひっくり返して怒りますよ。だって釈迦があれだけ苦労して修行を重ねたことを無駄だとされたのだからね。
仏教の教えが(釈迦以外の教えも加わって)肥大化して、覚えることが膨大になり、とても仏陀にはなれないと思ったのか?だったら釈迦以外の教えは後回しにすればいい。仏陀なんか特別なものではないんですよ。言ってみれば釈迦ですら仏陀になれたのだから、我々だってなれる可能性はある。ただし一つ一つ努力を積み重ねること。
・政治権力に近づく 釈迦は政治に一切か関わりませんでした。時の国王と親交があったと伝えられていますが、「こういう政治をしないさい」とか、「あの者を大臣につけなさい」とか、政治に口出しは一切しなかった。あくまで人間としての生き方を忠告するだけです。国王と釈迦は身分が違います。もちろん釈迦の方が上です。彼は出家者ですが、国王は在家です。いわば庶民と同じです。それに対して空海は時の皇室と親交を結び(身分の順序が釈迦とは逆)、「鎮護国家」のために祈祷するなど、僧侶としてあるまじき行為をするのです。
・身口意 空海の真言密教の基本は、手に印を結び(手の形を決まった格好にする)、口に真言(呪文)を唱え、意識を集中されることを”行”としています。それは精神医学上の心理効果、および身体効果をもたらします(現代のメンタルヘルスでいえば、リラクゼーション等にあたる)が、それ以上のパワー、たとえば超人的な能力を発揮する。具体的に言えば、頭脳明晰、記憶力増進(多少はあるかもしれないが)、未来予知、あるいはスーパーマンのように運動能力がアップすることなどあり得ません。すべては単なる心理効果だけです。(それでも多少役には立ちますが)
・曼荼羅 曼荼羅は宇宙を現す文様です。確かに当時としては最先端の科学ですが、現代科学から見れば非科学的です。
間違いなく空海は日本仏教界の天才です。しかしもはや1000年以上前の人間です。彼が言っていることで現代では通用しない(非科学的な)こともあるでしょう。彼を超人と見るのは誤りです。
いかに優れた教義でも科学的(実験と観察による)ではないことは一切切り捨てる。それが道を誤らない唯一の方法です。

親鸞:1173〜1263 鎌倉時代の僧侶。念仏「南無阿弥陀仏」と唱えて極楽へ行く浄土信仰を広めた。
・妻帯 現代ではお坊さんは結婚しているのが当り前ですが、当時の戒律はもちろん結婚は駄目。「不邪淫戒」とある通り家庭を持って僧になるなど間違ってもあってはならないことです。その慣例を破った悪しき僧侶が親鸞です。はっきり言って僧侶失格です。聖人(しょうにん)などとはとても呼べません。だから彼は自分自身を正式な僧侶とは思わず”悲僧非俗”といい、また別に何か犯罪を犯した訳ではありませんが、自分のことを悪人とみなしていました。当時僧の中には隠れて愛人を持つ者もいたそうです。確かにそれよりはましですが、自分は泥棒だと宣言した上で泥棒するのと同じ。だからと言って泥棒が許されるわけではないのです。彼の行いが今日の坊主の堕落の要因を作ったのです。
・9歳で出家 恐らく親の言いつけでしょうが、親鸞は9歳で出家しています。子供の内から仏法の何たるかもわからないまま出家させることは危険です。釈迦のように成人してある程度の歳月を経た後出家するのが最も健全です。(補足2)
・末法思想 親鸞だけが唱えたものではありません。当時の日本で唱えられた説です。釈迦が死んで1500年後に末法の時代が来る。釈迦の教えは廃れ、世は混乱状態になる。時代が経るに従って世の中が悪くなることは普通ありえません。普通は時代が経るに従って世の中は良くなるのです。なぜならそれだけ文明も進歩しますし、1000年前と今を比べてみれば明らかです。(補足3)
確かに釈迦自身の教えは時間と共に廃れるでしょう。その代り後継者が釈迦の教えの不備を修正して、より良いものに変えていくことでしょう。それが人間の進歩です。世界は確実に良い方向に進んでいるのです。
・他力宗教 仏教はそもそも釈迦の教えです。釈迦は悟りを得たいなら、自ら出家して修行することを勧めています。すなわち仏教は自力の教えなのです。それが阿弥陀仏の救いを信じれば助かるなんて。そうすると釈迦の称えた自力での修業は無駄になります。果たして阿弥陀仏などどこにいるのでしょうか?親鸞は、自分は満足に修行ができない身であるから、地獄へ行くのも仕方がない。(歎異抄) とあきらめています。自分には力がないと決めつけているのです。悟ってもいないのに悟ってしまっている。これを仏教では増長慢というのです。人間には誰にでも未知の可能性がある。それを否定したら人生は終わりです。
浄土の教えについては、また別途話します。

日蓮:1222〜1282 鎌倉時代の僧侶。題目「南無妙法蓮華経」と唱えて幸福を得ることを教える。
・前にも(「菩薩の智慧」で)話しましたが「南無妙法蓮華経」と唱えても単なる心理効果か、法華経が大切な教えであることを理解するために題名だけを忘れずに覚えておくことの効果あるいは意味しかありません。法華経は(青山個人としては)最も重大な経典の一つですが、意味も解らず唱えてもご利益は(ほとんど)ありません。はっきり言えば、「南無妙法蓮華経」を何万回、何億回、何兆回唱えても超人的パワーが得られるはずはありません。日蓮がもしそこに特別な意味があると解釈していたなら、彼はよっぽど無知なのでしょう。経典は意味を理解して初めて役に立つのです。役に立つと言ってもそれは思想だから、その内容を生かすのは我々です。
・他宗批判 日蓮は他宗を批判しています。(有名な話) 法華経を最初にないがしろにした法然を批判するのは解ります。(補足4) ただし、「念仏を唱えれば地獄へ落ちる」など、確かめた(あの世に行って見てきた)わけでもないくせに、勝手なことを言うな!どういう科学的な根拠があるの?単なる自己宣伝か?他を批判するのは自由です。ただし根拠が必要ですね。そうでないと逆批判される。(念仏を唱えたら地獄へ落ちるなんて、証拠もないのに、隣の店の饅頭は毒入りだと言っているのと同じ。現代なら営業妨害で訴えられますよ。幕府に逮捕されたのも自業自得。)
日蓮は当時の国家権力や他宗派から大きな迫害を受けます。しかも迫害されればされるほど自身が信奉する法華経に強く帰依していきました。しかしこれは他を批判すれば自分が批判されるだけのこと。迫害の要因を自分自身が作っていることに気付かないのです。その点は愚かです。法華経(勧持品)に「この経典を広める者は、迫害を被るだろう」と予言されています。するとますます他宗を批判する。魔に陥っていることは明らかです。(補足5)
さらに自分が迫害される要因を、過去世(前世)で自分が法華経行者を迫害したためと勝手に解釈してしまっている。そんな前世などないのに。日蓮は勝手に解釈してしまう例が多いのが問題です。(補足6) 解釈するなら科学的でなければ駄目。当時はまだよかったかもしれないが、科学時代である現代は根拠がないものは、全て却下されます。(もちろん自分一人が信じる上では問題ないが、公に他宗派を批判したりすると反論されるのは当然です)

以上三人の悪僧について説明しました。この三名はカリスマ性が高く、多くの信徒がその偉業を称えたり、その人物像に酔心したりしています。上記(上で青山が述べている)彼らの記録が、事実と異なるもの(本人が既にこの世にいないため、確認するのが難しい)なら速やかに改めますが、もし事実であるなら青山(個人)としては、見解を捻じ曲げる気はありません。なぜなら人間である限り誤りを犯すことは必然だからです。生身の人間を指して、無謬(間違えることがありえない)だの、「あのお方は特別な存在」、「神として生まれた」、「釈迦の生まれ変わり、この世に蘇った仏陀だ」などの主張ははっきり言って正気の沙汰ではない。もちろんあなた一人がそう信じるのは自由です。ただし他人に向かって語った時、(あくまで客観的な)根拠を示した上での説明責任があるのです。もし客観性を主張したいのなら、一度でいいから彼ら三名の功罪ある中、「罪」の部分について徹底的に調査してみてはいかがでしょうか?(人間である限り「功罪」いずれも存在する。功がいかに大きくても、それによって罪が帳消しになることにはならない) 他人と語る上で、科学は必須です。超能力や神の存在、輪廻転生など科学的根拠がないものは容赦なく却下されるでしょう。もしそうでなければ、この社会全体がカルト宗教の教団となり善悪の判断もままならないままいずれ狂気と化すのです。
要するに、釈迦が元祖だから釈迦の教えが”絶対に正しい”のではありません。正しいか正しくないかは、観察可能な現実に合っているか合っていないか?即ち科学的かオカルトかということです。そして最終的にそれが正しいかを判定するのは、自分自身。つまり”あなた”ということです。大統領でも裁判官でも、あるいは新興宗教の教祖でもありません。こういう意味でも釈迦が言った「自灯明、法燈明」(「釈迦の生涯 死と涅槃」参照)は理にかなっています。
そもそも仏教の開祖は釈迦です。従って仏教の基本的な考え方は釈迦の教えなのです。釈迦の教えは、「苦」や「無常」や「縁起」、あるいは「空」です。それは今目の前の現実を観察すれば誰でも納得できます。即ちこれらは皆普遍的な真理なのです。釈迦の教えは我々が確認できるのです。もし現実が釈迦の言う通り、「苦」や「無常」や「縁起」、あるいは「空」ではないなら、釈迦は間違っていると我々が判定できるわけです。それに対して例えば浄土信仰、阿弥陀仏の存在は確かめようがありません。要は信じるか信じないかの問題なのです。それに対して本来の仏教(釈迦の教え)は、正しいか間違っているか?それは個人の心情を越えているのです。

ただし、
「罪」の部分に触れたとしても彼ら三名は皆悪人だったわけではありません。(親鸞は自分で自分を悪人としていますが) まして「功」の部分について語れば、それは語り尽くせないほど多大。彼らは皆優れた思想家でもあり、ある意味稀に見る天才でした。現代の非科学的なオカルト宗教とは異なり、精緻で深化した論理性を有し、真摯で一途な求道の実践者でもある。かつ人々(特に庶民)への救済に奔走した。その偉業は尊敬に値すると思います。彼らがいなかったら仏教はここまで広まらず、思想は深まらなかったでしょう。今日我々が解りやすく仏法を学べるのも彼らのお蔭です。(この三人については、青山も個人的には大好きです。興味はあるし個性的(日蓮の「法華一乗」、他宗攻撃も個性と言えば個性)。間違いなく日本仏教史における逸材だと思います)

(補足1) ただし、青山としては、思想的に最も後に成立した「密教」は、仏教の最高峰だと思います。その高い精神性ある意味教えの極限です。そのスーパースターが空海です。空海の思想は実に難解ですが、仏教の中の密教の位置づけを説明しているものとして、彼の著作である「十住心論」(人間の精神の段階を十段階に分けて、低い状態から高い状態に上がるための基準を示した教)について、図88に説明します。ただし、この説明は青山独自のものです。内容的には空海の説明を大いに逸脱するものですが、自身が分かるように解釈を変えていますので、ご了承ください。
ただし、十住心論も絶対的な真理ではない。図88を見て、普通上から下に下るに連れて人間性が上がるように思えるが、下から上に上がることが望ましいと言えない根拠は何か?

(補足2) キリスト教の修道院でも問題になっているのが、子供に対する”性的虐待”です。当時の少年僧にもそのような浅ましいことがあったかもしれない。これはこの世で一番醜いことです。だから出家というものは、それだけの覚悟と人間としての自立心が要求されるのです。

(補足3) 社会生活が便利になっただけではなく、人間の意識自体も進歩します。たとえば人権意識、女性や障碍者に対する保護など昔はありませんでした。昔に比べて世界の人々の平和への意識も高まっています。

(補足4) 法然(1133〜1212)は、鎌倉時代の僧ですが、「選択本願念仏集」で念仏以外の行(その中には当然法華経を読むことも含まれる)を捨てよと言っています。しかし逆に日蓮の方も法華経以外に帰依してはならないと言っています。ともに誤りを犯しています。

(補足5) もし青山が、インチキで経典を作り、そこに、「これは最高の教えであるが、これを広める者は、迫害されるであろう」と記して洞窟にでも隠して置いたとしましょう。後々この経典を見つけた者が教を広めたとしたら、迫害されればされるほど経典の予言通りと思うでしょう。すなわち日蓮はこの法華経の罠にはまってしまったのです。

(補足6) この解釈に関連していわゆるカルト系宗教がよく用いる教義として、不運は神や仏が与えた試練。幸運は信仰のお蔭。というインチキ因果津を持ちだすこと。そうなったのはただの偶然です。

 前のコラム(「宗教の実態」)でも話しましたが、仏教では教義の正しさを証明するその根拠として、「現証」(現実としてそうなっているか)、「理証」(理論的に正しいか)の他に、文書に確かにそう書かれているか、として「文証」(もんしょう)というものがあります。その「文証」を他の宗派に示して、自分たちの教義の優位性を主張するわけです。例えば、「法華経にはこう書かれている」とか「伝教大師はこう言っていたと記されている」とか「親鸞聖人や蓮如上人の書かれた「お聖教」にこうある」とか「日蓮大聖人の「御書」○○にはこう記されている」など。そしてその文献を相手の前に出すことにより、鬼の首でも取ったかのように、「どうだ。参ったか」と勝ち誇る。でもその文書が絶対に正しいと言えますか?いくらそこにそう書かれていたとしても、昔の話だから本当に本人が書いたものか不明な点が多々あるし、たとえこれらの高僧、あるいは善知識が実際に書いたということが証明されたとしても、それが絶対に正しいとは限りません。彼らが思い違いをしている可能性だってないとは言えないでしょう。なぜならどれも人間が書いたものですから。この「文証」を掲げる人は、彼ら歴史上の偉大な導師たちが誤謬を犯すことはない。という前提に立っており、絶対に正しいという思い込みをしている。に他ならないのです。(まあ、何を信じるのも自由ですが) 何事も疑うことが肝心。では、本当にそれが正しいかを確かめるには何を基準(拠りどころ)にすればよいのでしょうか?それは目の前の現実です。現実を軸にして正しいか正しくないかの判定を”自分自身”が行うのです。重要なことは自ら体験すること。他人の話や文献等を盲目的に信じることなかれ。すべては現実(それは自身の感覚と実際の経験から得られた情報を基に思考する。それを通じて、ありのままの現実を正しく認識すること)に照らされ評価されるべき。評価者はあくまで自分。他者(師匠や導師)ではありません。(もちろん自分の認識にも誤りがある。それは現実をどこまでも正しく観察し続けることにより自分が得た認識に絶えず修正を加える=この営みは即ち科学) その意味で釈迦の教えである、「自灯明」、「法灯明」は有益です。

結論
 最後に、これまで話してきた仏教についてまとめます。
仏教の「真理」は、この世は「苦」であることと、世界は「空」であるの二つだけです。(「苦」も「空」であるから、本当の真理は”世界は空”であるという一つだけ)
「八正道」とか「十二因縁」、あるいは「十界」などはすべて方便です。(絶対的真理ではない)方便は時と場所、あるいは人によってその効果が異なる。(補足7) それに対して真理は不変です。即ち誰もが認める普遍性を備えているのです。「一切皆苦」や「空」は、誰にとっても正しいことですから。
この世に生まれてきた者は、誰であっても苦しむのです。人間は、欲望に使役され、それを満たそうとするのですが、現実は自分の思い通りにはいかない。そこに苦の原因があるのです。この欲望を満たそうとする働きを「煩悩」といいます。この「煩悩」は”種”を生存させたいという働きとしてすべて生物に備わっているものです。(備わっていたからこそ生き延びてこれた) しかし現実は、この世界に”その種”(例えば人類)が生き残ることなどまったく意味がいない。なぜなら世界は「空」だからです。
「空」とは、世界には主体がない。目的がない。方向がない。ただあるようにある。それがこの世界の真実の姿ということです。従って「種の保存」なんてものにこだわる必要はないということです。人類が滅んだっていいじゃないですか?国家が滅亡したっていいじゃないですか?そんなことは世界にはとってはどうでもいいこと。世界に「意思」なんてそもそもありませんから。
世界が「空」なら、(実体としての)神も存在しない。永遠の霊魂なんてものもない。これが仏教の正しい認識です。真理は「空」のみ。つまり、「密教の理論」も、「浄土の教え」も、「十界」(「十界」参照)も、「五蘊」(「菩薩の智慧」参照)も、そして念仏(南無阿弥陀仏)も、題目(南無妙法蓮華経)もすべて”方便”です。ただし、方便だから価値がないとは決して言えません。方便こそは実行性を伴う有効な手段です。その手段がなければ(実際結果が得られなければ)仏法なんか実践する意味がない。仏教は単なる哲学ではありません。必要なことはあくまで”実践”です。真理を理論とすれば、方便は実践なのです。ただし、それを(科学に基づいて)適切に利用することが肝心です。(単なるオカルトでは駄目) 方便は実際に役に立つものでなければ駄目なのです。
真理と方便の違いは、真理は誰もが認めるこの現実の在り方を示しているもの。即ち真理とは現実を観測することによって誰でも確かめることができるのです。仏教の「諸行無常」や「空」が現実に反するなら、釈迦は嘘つきということが言えます。それに対して「死後の世界」や「輪廻転生」は確かめようがありません。一方方便は真理を踏まえた実用的手段の一つ。いわば真理は「純粋科学」、方便は「応用科学」。
従って、方便は人のによって効果あるなしが異なります。薬と同じです。人によってその薬が効く効かないはあると思います。効かなければ別の薬(方便)に替えるだけです。(補足8)
もちろん「仏教」とは先祖を供養することだと思う人はそれでもいいですよ。既に死んでいる先祖を供養して何の意味があるのでしょうか?
それよりもこの世で生きている我々の幸せに寄与できる教えの方が役に立ちます。

(補足7) その点から言えば、キリスト教もイスラム教も、宗教は皆方便なのです。絶対的な”真理”ではありません。それぞれの宗教には違いがあるのです。どれが正しいなんて決定できません。例えばキリスト教は聖書を基にしている。イスラム教はコーラン。それぞれ内容が異なります。人によってそれを信じることによりその効果を認めたなら(気に入ったなら)選択すればいい話です。

(補足8) 人によって効果ありなしがあるなら、宗教そのものも「方便」と言えるでしょう。世の中には様々な宗教・宗派がありますが、人それぞれ、自分に合ったものを選べばいい訳です。たくさんの宗教は実にユニーク。(補足9) いいところもいろいろあります。宗教そのものに優劣などありません。自分が気に入れば続ければよい。効果がないなら躊躇なく止めればいい。「我々の宗教だけが絶対的に正しい。他は間違っている」なんて、万人に有効な宗教など存在しません。従って他の宗教を批判するのは誤りです。もし批判するなら、それが誤りである普遍的な根拠(確実に害をもたらす等)を示す必要があります。それができずに、非科学的な根拠、例えば「この宗教を信じる者は地獄に落ちる」なんて嘘で相手を批判する排他主義的宗教は、非難されるべきでしょう。とにかく科学に反するもの、オカルト的な宗教は要注意です。

(補足9) 例えば同じキリスト教でも仏教でも、非常にたくさんの宗派があります。しかも皆それぞれ教義自体が異なる。キリスト教を例にとると、三位一体を認める。認めない。聖書のみを重んじる。聖書以外も重んじる。「三位一体を認めないものをキリスト教と呼べるか?」。それはあなたの宗派がそうだと主張しているに過ぎない。それぞれみな違う教えの中から、あくまで自分個人が納得するものを選べばよいのです。客観的に見て、これだけが正しいなんてものは存在しません。

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