さて菩薩が修する6つのパーラミターで、最も重要なものは、言うまでもなく「智慧」(補足1)です。 この智慧とは何か?有名な「般若心経」で説明しましょう。そもそも「般若」とは智慧を意味しています。 「般若心経」は短いお経(漢文では全部で262文字しかない)なので、覚えるのも容易いが、意味を理解するのも容易です。(補足2) 般若心経で有名な言葉は「色即是空」ですが、これは物質には実体がないと訳されます。この「色」は五蘊(存在するものの五つの構成要素)の一つです。すると冒頭に「五蘊皆空」とうたっています。「五蘊皆空」ということは、その中に「色即是空」も含まれます。つまり冒頭で既に結論を述べているのです。 その冒頭の文を訳すと、「観音菩薩(観自在菩薩)は、智慧行を実践中、この世に存在するものは五つの構成要素から出来ており、それらは実体がないもの(空)と見抜いた。」 これがこのお経の主旨です。お経のパターンは似ています。最初に結論があるのです。後は長ったらしく同じ言葉を繰り返すのです。 ここで五蘊とは何か? 五蘊とは、色、受、想、行、識の五つです。その意味は、 色とは・・・物質としての性質。すなわち物質ではないものは存在しない。これには人間も植物も、石ころも含まれます。 受とは・・・外界からの作用を受けるという性質。周りから何も作用を受けないものはこの世界には存在しません。人間も周りの人から影響を受けます。 想とは・・・受によって内的に変化する性質。 この想は誤解が多い。解説書の中には、頭の中に思い浮かべること、つまり想像する性質とありますが、脳みそがない石ころが何かを想像するでしょうか? この五蘊が人間だけ、あるいは脳を持つ動物に限ったことなら分かりますが、すべての存在するものと最初にうたっています。 行とは・・・受と反対に、外界に対して作用する性質。 識とは・・・行によってその存在に刻まれる記録。 注:この五蘊については、図84「般若心経の主題」参照 五蘊の中でこの「識」が一番複雑です。この識の説明だけで一つの学派(注)ができたくらいですから。識については改めて説明します。 この五蘊はすべての存在にあります。 人間も五蘊であり、足下の石ころも五蘊だし、あるいは原子や電子であっても五蘊があります。六蘊目はありません。つまり生物も無生物も差がない。本質的に同じということです。いやいや六蘊もあると言う人がいたら教えてください。六蘊目って何ですか? そして般若心経の主題は、観音曰く、これらすべての五蘊は、みな空であるということです。 ここで留意が必要なこと、般若心経の有名な言葉は「色即是空」です。これは「物質は空である」という意味で、即ち物質的な存在には”実体がない”と解されます。つまり物(財産やお金)は所詮”空”であるから、それらに執着してはならないという教えと言えます。五蘊の内残りの”受想行識”は物質的なものではなく、心的な存在です。即ち物質主義(物にこだわること。あるいは唯物論)も否定するし、かつ”精神主義”(唯心論)も否定するのです。精神的な存在、心や情(英語でいえば、”マインド”や”スピリッツ”)などにも実体はない。つまり不滅の霊魂なども存在しないと言っているのです。お解りですか? 注:4世紀ごろインド(パキスタン)で起こった瑜伽行唯識学派を指します。 空とは何か よく誤解されます。空とは存在しないと言っているわけではありません。実体がないと言われていますが、それはどういう意味でしょう。 科学を知っている人の方がわかるかもしれません。空とは、その存在が空間的にも時間的にも固定されたものではないことです。 空間的に見ると、何物も絶えず周りと関わっており、切り離すこと、境界を設けることが出来ません。どこを境界にとってもあいまいになります。そのものずばりというもの(空間上の領域)がない。逆にどこをどう括っても、どこに境界線を設けても、あるいは何かと何かを結びつけても存在とみなせるのです。例えば月とスッポンを合わせて一つの存在とみなすことも可能です。関係のない物まで結び付けてはいけないなんて理由はありません。そもそも縁起によってすべては関係しているのですから。また、すべての存在は常に他から、あるいは周りから影響を受け、それによって自身の変化を余儀なくされる。何物も”単独”では存在できない。そのものずばりという存在などない。 あるいはまた、どんな存在でも内部に別の存在を含んでいます。例えば人間の身体でも、内部に沢山の細胞があります。細胞一つ一つを存在みなしてもいいし、その一人の人間を存在と見てもいい。さらに細胞も原子や分子の集まりです。また人間を集めて一つのグループとみなしてもいい。グループ自体も一つの存在です。複数の人間と一定の土地を合わせたものとして町も一つの存在。国家も一つの存在。地球も一つの存在、宇宙も一つの存在です。つまり定義次第で何でも存在とみなせるのです。こう定義しなければならない決まりなどありません。何を存在としてみなすのもあなたが好き勝手に決められるのです。 時間的に見ても、存在は絶えず変化しています。そのものが存在するのはその瞬間だけです。次の瞬間別のものに変わるのです。世界で時間を無視することはできない(すべての存在は時間と不可分、時間があって初めて存在可能)ためです。つまり固定的なそのもの(実体)などないということです。ただ人間の思考能力として、仮にそういう(ある程度固定的な)存在を想定しないと、人間は物を認識することができないのです。 なお、「空」そのものは、釈迦の考え方ではありません。2世紀のインドの仏教思想家であるナーガルジュナ(漢字で書くと「龍樹」)に起因します。ただし、釈迦の悟った宇宙の真理である「諸行無常」、「諸法無我」、そして「縁起」から必然的に導かれるものです。これらを端的に表した言葉が「空」。(「空」の中に、無常も無我も縁起も含まれる) そういう意味で、この言葉を編みだしたナーガルジュナこそは天才の中の天才かもしれません。 識について 瑜伽行唯識学派による識の説明として、単なる物体ではなく、人間のような生物は識が世界を認識する活動として現れます。認識するためには感覚器官(目や耳)を通して行われるため、それぞれの感覚器官、すなわち五感に対応して、 第1識 眼識(視覚) 第2識 耳識(聴覚) 第3識 鼻識(嗅覚) 第4識 舌識(味覚) 第5識 身識(触覚) の五つがあります。 ここを通して得られた情報が脳へ行き意識として存在します。 第6識 意識(脳の働きによる) この意識は人間にしかありません。(もしかしたら猿にもあるかもしれません) さらに眠っている間も脳は活動していますから、それは意識ではなく、無意識。あるいは潜在意識。仏教では末那識(マナシキ)と呼ばれます。 これは生きている、人間以外の生物にもあります。 第7識 末那識(生物としての活動) さらに死亡しても存在し続ける識、あるいは無生物でも持つ識があります。これはもはや情報を記録するだけの役目しかありませんが、仏教では阿頼耶識(アラヤシキ)と呼ばれます。(補足4) この阿頼耶識が上位の末那識や意識を作り出すのです。これは無生物から生物が生まれる過程です。この阿頼耶識が一切の存在に(生物、無生物に関わりなく)あるのですから、識の大もとが阿頼耶識であると言われています。 第8識 阿頼耶識(すべての物質に存在、情報の記録に対応) さらに、ここからは仏教の考え方ではありません。阿頼耶識に覆われた存在の根本中の根本を阿摩羅識(アマラシキ)と呼びます。 これは自己そのものと言っていいでしょう。別の言い方では、如来蔵、あるいはアートマン。アートマン(我)は仏教では否定しています。(だから仏教の考え方ではない) ここには一切の穢れはない。存在の本質です。 第9識 阿摩羅識 さらにヒンズーの思想では、アートマンはブラフマン(宇宙そのもの)と同一視されています(これを「梵我一如」と言う)から、ブラフマン(注)。 第10識 ブラフマン(宇宙そのもの) さらに宇宙にはそれを創造して破壊させる、すなわち変化をもたらす作用があり、同時に宇宙を維持する作用もあり、それぞれ神々になぞらえて、前者をシバ、後者をビシュヌと呼んでいます。(ともに第11識) ここまでくるともはや趣味の世界です。仏法ではそれらの識がすべて空だと教えています。 要するに、そんなこと(「識」の階層など)はどうでもいいのです。こんな識の話で宇宙の真理を得たと思わないで下さい。宇宙においてこれらの識がどう関わっているかが重要なのではありません。重要なことはただ一つ。すべては空ということです。世界はただあるようにあるだけ。理由も目的もない。理由がないから、世界はなぜ存在するのか?あるいは世界はなぜこうなのか?については答えがない。といえます。(補足5) (注)ブラフマンとは宇宙神のこと。インドでは宇宙そのものを神となぞらえています。因みにブラフマンは日本では「梵天」です。 「梵我一如」はヒンズー教の前身バラモン教の中心思想ですが、アートマン即ち”我”を仏教の無我の”我”と同じとみれば、「自分自身と宇宙が同一」であると言っているのではなく、目の前に見える個々の存在(他人あるいは生物および無生物のすべて)は、宇宙そのものというごく当たり前のことを言っていると解釈されます。 一切は空、世界は空 この世界に存在するものは皆空であるから、世界そのもの(世界という存在はない、世界は個々の空的存在が集まったものに過ぎない)が空であること。即ち、この空である個々の存在はみなバラバラであるから、世界そのものにも主体がない。従って世界には一つに向かう決まった方向などない。世界全体としての目的がない。世界が存在する理由も意味もない。(補足6) これがこの世界の実態、即ち世界の真理です。お解かりですか? それを教えてくれるのが仏教です。つまり仏教の教えに従えば、世界に目的がないことが解る。世界を観察すれば、仏法の「空」が正しいことが解る。それがそうなることは必然ではない。この宇宙で起こっていることはすべて偶然なのです。 他の宗教では、神が全世界を支配している。すべては神の計画のもと起こっている。だからすべてのことは神の仕業であり、必然的に起こっている。とするのに対して、仏教はその反対。絶対的な神の存在など認めない。だから世界に主体などない。起こっていることは皆偶然とする。これが仏法(仏教の真理)です。(補足7) いやいや世界には目的や方向性はある。という考え方もあります。もしかしたら神がいてすべては必然的に決定されているのかもしれません。ただし、それは我々には解らない。この解らないということは、即ち我々にとって世界の出来事は偶然に過ぎない。という考え方で間違いはないということです。 もし世界は必然だと言うなら、明日の天気を正確に予言してみてください。どんな天才がどれだけ頑張っても不可能です。つまり、(神は別にして)我々人間にとっては、明日の天気さえ予言できないのです。即ち、何が起こるかわからない。わからない以上、それが起こったということは、偶然だということです。これが、世界を観察した結果得られた仏法の真理です。 この世界には向かうべき方向がない。あるとすればそれはあなた個人がこうしたいという個人的願望だけです。即ち世界はなるようになる。こうあってはいけない理由もなければ、こうでなければならない理由もない。世界に方向性がないから、人類が目指す方向もない。人類にとって進歩などもない。これはこれまでに何度も話してきたことです。 否、世界には方向がある。意味がある。目的がある。人類が進むべき、発展の道、進歩の道がある。と言う方。世界が向かうべき方向ってどっち?世界の目的、意味って何?人類の発展って何ですか?進歩って何?何をもって進歩と言うのですか?世界に意味などないのに、そんな進歩の基準など存在しません。(補足8) すべてはあなたの個人的思いですよ。あなたがそうしたいのならそうしてください。ただしあなたが願う方向に世界が変わるとは限らない。確かにこの世界は無秩序ではありません。まったくの混沌としたものではありません。”自然法則”という秩序があります。世界は完全にこの法則によって支配されているのです。しかし「自然法則」そのものにはまったく意味がありません。自然法則もあるようにあるだけです。なぜ自然法則なるものがなければならないのか?理由などありません。(強いて言えば、我々が世界(の秩序)を認識するため)。ここがよく勘違いされるところです。法則、世界の秩序は確かに存在しても、そこに何の意味もない。ということです。 この世は偶然。試験に合格するかいなかは運次第。勉強しても合格しない場合もあり、勉強しなくても合格することもある。ただし、勉強した方がしないよりもまし。(確率を高める) もし合格したいのであれば、勉強した方がしないのに比べて有利だということは言えます。 つまり重要なことは合格したかしなかったかの結果ではなく、その目的、方向、姿勢です。即ちなぜ合格しなければならないのか。その目的を明確にさせて、それが明らかになった時点で、では合格するために勉強しよう。となるのです。要するに結果ではなく、何のために合格するのかという目的が大事というわけです。なぜなら世界に目的や方向がないから、それはあなたが(自由に)決めればいいことです。世界をどの方向に導くかは、あなたがどう行動するかは、100パーセントあなた次第。それはこの宇宙においてただ一つの必然です。 世界に目的がないから、この世界におけるいかなる犠牲も正当化されない。全体が個に優先する理由もない。国家の繁栄や人類の存続が、何よりも優先されなければならない理由はない。(「全体と個人」参照)(補足9) 仏法とは、この世界が「空」であることを知ることです。「空」ではなく、世界には意味があるんだという考えを持つこと。即ちこの世界に執着すること、この世界に不変な存在を見出そうとすることから、苦しみが生じるのです。世界に対する一切の執着を離れて、世界は無意味だと覚ることによって苦から逃れ得るのです。 なぜなら「苦」も実体がない。すなわち「空」だからです。むろん「楽」などまったく実体はありません。あわせて、「苦」もそう思えるだけで、「苦」そのものが実体としてあるわけではない。ただ我々は「苦」に囚われているに過ぎないのです。この「苦」も「空」と見ならば、「苦」から完全に開放されるというわけです。 最後にもう一つ。般若心経の重要なポイントとして「不生不滅」があります。何物も生まれず、何物も滅しない。この世界では何も生まれないと言っても、子供が母親から生まれるなど、生まれるという現象は確かにあります。しかしよく考えてみましょう。子供は生まれる以前から、もともと母親の身体の一部であって、何かが改めて生じてくるわけではないのです。もし生じたならばそれはこの宇宙の自然法則(質量保存の法則)に反します。「ものはそれ自体から生じない。他からも生じない。ゆえに生じることはない」(ナーガルジュナ「中論」より)あるのはただ絶え間のない変化(無常)のみ。 ここで誤解が生じるかもしれません。生じることも滅することもなければ人間の魂は不滅であると。これは空や無我を解さないために起こる誤りです。その影響(因縁)は残り、存在はあくまでその場限りのものなのです。 (補足1)「ちえ」は一般的には、「知恵」と書きますが、仏教では「智慧」と書きます。 「知恵」は、「生活の知恵」などと言うように、日常得た知識を活用することです。例えば何かの商売で、ここをこうすればもっと儲かるよ(効率的になるよ)とか。ただしそこに足りないものがあります。なぜ儲ける必要があるのかという問いがない。それはなぜ食べるのか、という問いと同じで答えがない。考えない。食べたいから食べる以上のものはない。いわば動物と同じです。 それに対して「智慧」は、宇宙の真理を体得することです。それはすなわち仏陀になるためのものです。 知恵は動物として生きる上で必要なもの、智慧は人間として生きる上で必要なもの。その違いです。 (補足2)よくお寺に参ると、「般若心経」に限らず経典を声を出して唱えている人がいますが、お経を唱える効果ってなんでしょう。そんな日本語になっていない(漢字のまま、つまり中国語、あるいはインドの言葉サンスクリット語の音訳)ものを読んでも、そんな内容も解らずに唱える意味なんかあるんですかね? あります。声を出して読む方が覚えるのです。 経典を読む目的は、その内容を理解することです。内容が理解できれば、声を出して唱える必要はありません。意味を理解するためには、日本語訳を読む方がはるかに有効的です。意味も解らない漢字のお経をいくら唱えても効果などはっきり言ってありません。ただし、お経は難解です。一般の在家には意味が理解できません。しかし何度も唱えているうちに覚えます。覚えればいつの日か意味を理解できるときが来るかもしれない。そのために在家の凡夫は熱心に唱えているのです。 この「般若心経」は短いですから覚えるのは楽です。覚えて唱えると、意味は解らなくても何か賢くなったような気になるのです。 他にも念仏「南無阿弥陀仏」を唱えれば心が休まったような気分になります。あるいは題目「南無妙法蓮華経」を唱えれば元気になったような気分になります。ただし、みな”気分だけ”です。つまり心理学上の効果だけがある(人によってはない場合もある)のです。それ以上の効果は、ここで言っているお経を覚えること。いつの日か意味を理解できるかもしれない。だけです。それ以上は何もありません。あるとすれば、それはオカルトです。(補足3) 唱えたら超人になったとか、超能力を身につけたなんて話は完全に狂っています。これだけは断言して言えますね。 (補足3) この念仏や題目のように繰り返し唱えることによって得るある種の心理効果に類似するものとして、カルト宗教のマインドコントロールや自己洗脳があります。例のオウムの、教祖の同じ言葉を繰り返し聞くことにより自分を狂人化させる手法。(洗脳されているので理性の判断ができなくなり、非科学的なことに捕らわれたり、犯罪意識を持てなくさせる) あるいは会社など行うスローガンや標語の全員による連呼。(例えば「売り上げ。頑張るぞ!!」) これらは皆単なる心理効果以上のものは何一つ得られません。それに捕らわれれば、破滅の道を辿るのは火を見るよりも明らかです。 (補足4) この阿頼耶識は記録を司る要素で、すべての存在が有するものです。阿頼耶識には、その存在についての宇宙誕生以来遥か過去から現在までのすべての記録があるのです。しかし、そこで誤解が生じます。例えば、その存在(人間)が生前行った一切の記録がそこにあり、それが次の生、つまり来世を決定づけるという考え方。いわゆる「輪廻転生」です。生前善い行い(ボランティア活動など)をした者は、それが阿頼耶識に記録されて、来世は王家あるいは億万長者の家に生まれる。逆に悪い行い(ケチであるとか、あるいは神を信じない等)をすれば、その報いを受けて貧乏人に生まれるなど。 これは明らかに誤りです。もしすべての記録があれば、それはこの宇宙のすべての情報があることを意味します。だったらこの青山の阿頼耶識も、釈迦の阿頼耶識も、同じものということになる。それによってもし青山が貧乏人に生まれたら、お釈迦さまも貧しい家に生まれることになります。そんな話はありません。これは結局「阿頼耶識」なども所詮は「空」であることを理解していないためにおかす誤解です。つまり、その特定の業(ある善行あるいは悪行の記録)はその人物Aに帰属するという”所有”の考え方が誤っているのです。そんな善い行い悪い行いが来世を決めるなんて、三流の宗教が唱えそうな幼稚な教えです。 ただし、自己に一切の責任があるとする考え方がただ一つ存在します。それは独我論的世界観(この世界には自分しか存在していない)です。すなわち、世界中の(善悪)すべての原因は自分一人にあるというものです。例えば、今日地球の裏側で起きた(自分は全く知らなかった)強盗事件の責任が自分一人にあると。あるいは、自分が生まれる前(例えば今から1000年前)の事件の責任も、今から100年後に起きる事件の責任も、みな自分一人に帰すと。そういう認識を持って初めて自己責任論を語れるのです。あなたは関係ないと言うかもしれませんが、そんな言い訳は通用しなのです。すべてはあなたに関係しているからです。青山はもちろんこの宇宙のすべての要因が、この青山一人に帰す。そういう考え方を持っていますよ。 (補足5) ただし、自然法則によって世界がこうである(こういう状態である)という必然的理由は存在します。ただ科学はどのようにして(どのような因果関係により)それが存在するのか(存在するのかと言うよりも、そういう”現象”がどういう因果律(プロセス)によって起きるのか)には答えられるが、”なぜ”存在するのかには答えられない。例えば、ある人が自殺をしたとする。どのような脳の働きによって、自殺と言う行為が引き起こされたのか?その脳の命令によって、どう身体が動作した(例えば飛び降りた)か?つまりどのように自殺という行為が行われたのかについては答えられるが、なぜその人物は自殺しなければならなかったかについては(科学では)答えられない。(プロセスは説明できても、そのプロセスが存在する理由は分からない) 世界が空であるから、当然答え(理由)もないのです。 (補足6) 諸法無我より固定された存在などない。即ちいかなる階梯の存在(人間でも原子でも、あるい宇宙そのもの)でも絶えず変化する。そのことより「無常も無常である」と言えます。世界はランダムに変化する。つまり世界に定まった方向性などないということです。個々の存在が空なら、それらを内包した世界そのものも「空」ということです。ただし宇宙は単独で存在しているように思えます。しかしこの宇宙の内部にいる我々の認識では、宇宙全体を眺めることはできない。個々の存在あるいは個々の事象を認識するのみです。すなわちそれは「空」です。また宇宙も単独ではありません。(「宇宙誕生」参照) (補足7) 仏教は他の宗教と大きく異なります。”大きく”というよりその”本質が違う”のです。絶対的なものを認めず、すべては「空」と見るのだから。現在の宗教家がよく言っていることとして、すべての宗教の本質は同じ。従って宗教による違いを乗り越えて、人々は理解し合うべきだと。宗教みな同じなんて大嘘です。宗教は人間の数ほど存在するのです。なぜなら人それぞれ信じるものが異なるから。ただ、大乗仏教まで含めれば、そこに共通性、人類の(科学的な意味、特に生物の進化論的な意味での)普遍性はあるかもしれません。 (補足8) この世界においては、進歩の基準もないし、”善悪”の基準もありません。法律は人間が”勝手に”作ったものです。元々そんなものはありませんでした。(宇宙にあるのは自然法則のみ、刑法や民法などがビッグバン当時から存在しているはずはない) どこの誰が作ったかわからない法律、あなたたが生まれたとき既に作られていた法律、なんてものにあなたは従えますか?すべての基準はあなたにあるのです。法律や裁判の判決に納得いかなければそれに従う義務はありません。そのような義務を神があなたに科したことはない。 また世界に意味がないのだから、人間についての優劣の基準なんかもない。今テレビに出ている有名人、世界的に知名度がある人物、若くして国民栄誉賞を取った人気者。それに対してあなたは何の取りえもない。どうでもいい存在。だからと言って自分を卑下する必要はない。どれほどの有名人にとっても、見ている現実世界はあなたと同じです。現実が一つなら、見ている世界も一つ。それはすべて縁起によって繋がっています。現実のどの部分の要素もあなたと関係しているし、同時にその有名人とも関係しているのです。だから(あなたとその有名人との間に)差などないのです。 (補足9) 人間は個人よりも社会全体を優先し、国家や人類の存続を重んじてきました。しかし、結局それは自然淘汰の産物なのです。人類がこれまで生き残ってきた理由は、進化の過程で人類という種(個人ではない。個人はいずれ死ぬから)が生き残るために(個々の個体が)身に着けた性質によります。ただし、ある個体が生き残るか生き残れないかは偶然による。(つまり種の生き残りも偶然) すべての個体はいずれ死ぬ。種が存続しなければならない理由はない。即ち(種であっても)生き残ることの意味などないのです。人生の目的が無意識的に、結婚して子供を残すこと。そうすれば自分は死んでも子孫は残る。人類という種は地球上に存在し続ける。そんなことに意味などありません。
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