次に科学と弊害と科学者の姿勢について述べます。 1、科学は人間を不幸にする? ・環境破壊 科学は人間を不幸にする。たとえば環境破壊。別に環境破壊を科学が推進したわけではありませんが、間接的に(科学の進歩が原因で)弊害を生み出していたとしても科学の進歩を妨げてはならない。 環境破壊を食い止めるのは、科学の進歩とは別の人類の問題です。科学はそのためにこそ役立てるのです。 ・戦争兵器 環境破壊と同様、戦争を科学が推進したわけではありません。 原子力の性質を知ってしまったから原爆が造られた。だから原子力の研究などしない方がいい。というのは誤り。たとえ科学が戦争などに悪用される可能性があったとしても、研究を放棄するわけにはいかない。平和の実現は人類の問題。科学はそのために役立てるべきです。 2、科学者の姿勢 科学者のイメージは知的?恰好いい?とんでもない。キタナイ、キツイ、カネニナラナイ。 研究・調査のために現場に出向き、手を汚して泥まみれになる。 科学の研究に休息はない。科学者を突き動かすのは未知への探求心。時には命の危険さえ顧みず、自ら実験台になる。 科学は金が儲かるどころか、借金だらけ。研究には当然大変なお金がかかります。 科学は金にもならず、世間から注目も浴びず、けれども、未知への探求のために命を懸ける。それが科学者。 3、解らないことは解らない 科学者は神様ではありません。科学者であっても解らないことは解らない。解らないのに解った振りをしないこと。どんな些細な疑問もごまかさない。真実は一つ。 とにかく科学者たる者はどこまでも誠実であれ。馬鹿が付くほど正直であれ。 4、金儲けと売名 自然への探究 個々の科学者が、金儲けと売名を追い求めてはいけない理由はありません。ただし、それが成果の秘匿につながるなど科学の発展にマイナスを生む場合は、政府機関、自治体、非営利団体が対応すべきでしょう。 未知への探求心は金も名誉も関係ない。個人の偉業など関係ない。科学の成果は全人類の財産です。 5、研究内容の開示 科学の内容、研究成果は、決して秘密主義にせずオープンにすること。オープン化あるいは大衆化により、それ自体が持つ誤謬性が修正される。その成果をより確かなものにするために、全世界からの批判も喜んで受ける姿勢。自分一人が知っていることが実は誤りであれば価値はない。例え誤りがなくても、開示しないものの価値はゼロ。いかなる成果も開示されて初めて価値を持つ。そのために科学にプライバシーなど存在しない。 6、科学の重要性と大衆の理解 「科学なんか人々の役に立たない。税金の無駄だからやめてしまえ」と言われたらやめざるを得ない。その時どう国民(納税者)を説得する? 世間の大部分の人間にとって、「最先端科学の動向」、「宇宙はどうして生まれたのか?」、「素粒子の統一理論とは?」、そんなことはどうでもいい。関心などない。科学なんて科学者たちの趣味の話では?そんな趣味に莫大な金をつぎ込むなんて愚か。 職業科学者(国家または公団体から報酬を得ている者)は、それをありとあらゆる人々(その中には当然科学など全く知らない人々も含まれる)にきちっと誠意をもって説明できるだけ、自分自身が科学の重要性を認識している必要がある。科学に無知な大衆を間違っても愚かだと決めつけてはならない。科学が理解されないのは人々が愚かなのではなく、科学者が甘えているからに他ならない。 7、科学の限界 最後に、前回も話しましたが、科学は幸福になるためにはどうすればよいかには答えられますが、”何が幸福なのか”には答えられません。科学は自然界(現実世界)に起こっていることのメカニズム、即ちどういう仕組みによってそうなるのかについては、正確に答えを導きだせます。ただし、なぜ、世界はあるのか?なぜ、自分は存在するのか?メカニズムではなく、哲学的な意味の”なぜ”には答えられないのです。即ちどうしてそういうメカニズムが存在するのかについては答えが出ない。なぜ答えが出ないのでしょうか?それは最後の章でも述べますが、そもそも答えが”ない”からです。 最後に 近代から現代にかけての科学技術の進歩は実に驚異的です。それは認めましょう。ただし、それをいいことに、こんな愚かな考え方を未だに持っているようなら、その人間は救いようもないほどの無知だと言えるでしょう。 人間は、自然を支配できる。自然は人間に利用されるために存在する。その権利(支配権)を我々は神から与えられていると。何と愚かな。自然は人間ごときに、一部も支配されません。人間はあくまで自然の一部です。その域から一歩も出てはいません。そして神など、人間が自分の権利(欲望)を肯定するために勝手に作った産物に過ぎないのです。 そんな当然のこと、科学者なら解る?はず。
|