TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

科学の基本原則


以下の通り科学の基本原則についてまとめました。

1、真実を見極める
  科学の目的は夢を実現することではなく、真実を見極めること。真実は一つ。
  科学の基本原理は、「観測できないものは存在しないに等しい」(補足1)
  科学はあくまで”現実のみ”を対象とする。夢や空想は対象としません。

2、普遍性の肯定
  現実世界には規則性、法則性が存在するという前提があるからこそ、科学を実践する意味があるのです。
  普遍性を認めると言うことはこの宇宙に真実は一つしかないということ。もし二つあったら(人によって違っていたら)それは真実と言えますか?
  ニュートンは万有引力の法則を発見しました。当たり前だけど、リンゴが木から落ちるのを発見したわけではありません。そうではなく、リンゴと地球の間には重力と言う力が働いている。同じ(性質の)力が、月と地球との間にも働いている。いやそれだけではありません。遥か彼方の銀河も含めて、この宇宙に存在するすべての物体にも、同じ法則が適用される。万有引力の法則は、ニュートン家の庭のリンゴの木だけに限った話ではありません。
  この世界のすべてに適用される。それを普遍性と言います。

3、絶対性の否定
  科学では絶対に正しいということはありません。この現実世界には絶対に正しいことなどないからこそ、科学を実践する意味があるのです。
  絶対正しいとは言えない。だからこれからも永遠に検証が続けられることでしょう。ニュートンの万有引力の法則だって絶対に正しいとは言えない。我々が毎日道を歩くのも、法則に逆らって浮き上がらないかどうかを確認しているのです。

4、世界に意志はない オカルトの否定
  この世界には故意に隠された真理などない。見えるものだけが真実であり、科学の対象である。科学では何が起ころうと奇跡とは言いません。

5、権威主義の否定
  科学では誰が言ったから正しいなんてことはありません。ノーベル賞を取った科学者だから絶対に間違えるはずはない。(ご冗談を。アインシュタインだって間違えました)
  科学で重要なことは、誰がそれを発見したかではなく、何を発見したかです。
  ノーベル賞の受賞が決まったら、話題は専ら誰が取った、それも日本人かどうかがポイントになります。そんなことはどうでもいい。科学はそもそも国同士の競争ではありません。
  現代科学では、たった一人で研究するなんて不可能です。仲間が必要。その中には当然外国人も含まれます。ノーベル賞を取れたのは、外国の研究者のおかげかもしれません。
  科学の成果は個人の偉業ではない。大多数の研究者(なかには研究者以外も含まれる)の努力の積み重ねです。アインシュタインだって突然現れたわけではありません。先駆者はいました。
 
6、実験と観察
  実験と理論は科学の両輪ではありません。実験に比べたら理論など二の次、三の次。科学の基本は実験と観察です。実験によって現実に働きかけ、その状態の変化を観察する。
  確かに理論も大事ですが、昨今の実験を軽視する風潮はゆゆしき事態。実験にはお金がかかる。だから敬遠される。金を惜しんで真理に辿り着こうなんてとんでもないこと。
  今実験よりも理論がやたらともてはやされていますが、どんなに素晴らしい、あるいはどんなに美しい理論であっても、実験で証明されなければ意味はありません。現実は、人間が好むような美しく、かつシンプルな理論によって成り立っていなければならない理由はないのです。
  科学では現象を観察する上でエネルギーを測定したり情報を取り出したりしますが、その際必ず物質を介していることに注意が必要です。この現実世界では、我々が観測できる唯一の存在は「物質」であるということが基本原理となっています。
 
7、科学万能
  科学者の中に科学万能なんて言っている人はいません。何馬鹿なことを言ってるんだという感じ。宇宙には未解明なことが充満しています。万能どころか解っていることは限りなくゼロに近い。
  何も解らないなら、科学なんか研究するだけ無駄?いいえ、確かに解らないことだらけです。全く頼りない存在ですが、それでもアインシュタインの言うように、一番大切なものなのです。

8、科学は道徳にあらず
  テレビの科学番組、特に生命科学を扱う場合によく、地球に生命が生まれたのは奇跡に近い。だから「尊い命を大切にしましよう」という話で完結になりますが、その話は科学とは何の関係もありません。

9、研究の自由
  誰がどんな研究をしようと自由。その結果全くの素人が大発見することもありえる。
  現実の問題なら、どんな領域を研究しようと自由。それが宗教的な領域で侵すべからずものであっても、恐れず科学のメスを入れるべきは入れる。科学に「恐れ多い」なんて言葉はありません。現実のすべての領域に素手を突っ込んで調べる。遠慮する必要はなし。
  誰がどんな仮説を提出しようと自由。それがどれほど荒唐無稽であろうとも。ただし仮説を提出するだけが科学ではない。何事も検証が必要です。

 上記「権威主義の否定」とも関係しますが、科学の研究対象は現実の全てです。「これこれは研究してはいけない」なんてタブーは一切存在しません。すべての権威を認めない。生物としての人間も対象です。いかなる人間も特別扱いはしません。”釈迦”や”イエス”であっても生物学的あるいは心理学的研究対象なのです。

10、実こそすべて 
  結果がすべて。都合よくデータを改ざんして何の得になりますか?世間では嘘も方便と言いますが、科学ではいかなる嘘にも価値は認められません。(補足2)
  科学以外のことでは、よく「嘘も方便」として何らかの理由から嘘をつくことも肯定される場合が多々あります。しかし科学では嘘は全く無意味です。微塵の価値も存在しません。相手の心を傷付けないための嘘であっても、駄目なものは駄目なんです。なぜなら、いつかは本当のことが相手に分かってしまう。永遠に嘘をつき通すことなどできません。
  世間ではよくありがちな隠ぺいなど、事を荒立てない、表沙汰にしない、不問に付す、波風や混乱を避ける目的で実際行われているこの行為、科学を実践する者にとってこれほど許しがたいことはありません。全てを暴き、一切を白日の下にさらしてこそ意味があります。そのためにどれだけの混乱を招こうとも。

【補足説明】情報を相手に伝えるときは、責任をもって
 情報とは何でしょうか?一言でいうと、「真偽が判定できるもの」。つまり正しいか間違っているか確かめることができるものと言えます。正しい情報には価値があります。間違った情報は損失を与えるかもしれません。従って相手に情報を伝えるときは責任を持ちましょう。間違った情報を伝えれば相手がそれを信じ、損害を被る可能性があります。従って相手から根拠を問われた(証拠を求められた)場合は責任を持って提示できるように。それができなければ、それは情報とは言えません。単なる独り言と同じです。

11、トライアンドエラー
  科学の知識体系は未来永劫変わらない?いいえ、絶えず検証を繰り返してその都度修正を加えています。

12、目的と経済性
  現代科学のプロジェクトは、宇宙科学(ロケットや宇宙ステーション)、高エネルギー科学(シンクロトロンなどの大規模実験装置)など莫大な費用(公費、税金)がかかります。
  自分で費用を賄っているなら構わないが、スポンサー(国民)に対して 目的をしっかりと説明し、十分納得させた上で取りかかるべき。
  科学の研究では失敗がつきものです。もし全てが無駄になったとしても、科学者はスポンサーたちに弁明する義務がある。
  ただし、失敗を恐れていては何もできません。失敗は必ず生かす。そのためには失敗を失敗として潔く認めることが肝心。

13、誰もが科学者
  幸福を得ようとする者は、自ら科学を実践して科学者(職業科学者とは限りません)にならなければならない。

14、迷信、非科学に騙されるな
  この科学時代において、未だに世の中にはたくさんの迷信があります。例えば「日頃の行いが良いから、今日は晴れた」。人の行いと気象の間に因果関係など一切ありません。あるいはスポーツ選手がゲンを担いで髪を切らない。髪の毛と運動力学は無関係。さらに「今日は13日の金曜日だから日が悪い」など。みんな迷信です。人はむやみに何かと何かを結びつけたがる。本当は何の関係もないのに。貧弱な思考がそのような発想を生むのです。
  また、一見科学的なように見せて、実はまったく根拠がないもの。疑似科学、あるいはインチキ科学と呼ばれます。科学者たるもの、いいや人間たるもの、こんな下らない話を相手にしてはいけません。人生を無駄に過ごすだけです。

 世の中には、大地震の発生を予言したとか、あるいは大統領選挙の結果を当てたとか、そしてその人物を(手放しで)称賛する風潮があります。しかししこんなものに騙されてはいけません。当たったのはただの偶然です。これは賭けが当たったのと同じ。科学はギャンブルではありません。大地震を予測したとしても、まず地震はいかにして起こるのか、その原因は何か、そのメカニズムを明らかにして、今回前もって、いつの時点でどこの場所でこうこうこういう事象(例えば前兆微震や地温の上昇)が観測され、それらが起きた場合、こういうプロセスで地震が起こるという因果関係を、自然法則および現在確立されている理論によって説明できること。さらに同様の事象が起こった際再び地震が発生したという事実を持って、初めてその価値が認められるのです。ただ当たっただけでは意味がない。プロセスを完全に解明する。再現性を持つ確実な理論の確立。それに至るまでの地道な努力こそが、科学の価値に他なりません。

15、自分で確かめる 自分で考える
 科学で重要なことは、自分で確かめること、あるいは自分で考えること。
誰であっても間違える。アインシュタインでも間違える。何が正しいかは自分で確かめる。もしかしたら世の中の人間は皆大嘘つき?かもしれません。人の言っていることを鵜のみにしない。誰々が言ったから正しい。総理大臣が言ったから正しい。なんて話はありません。
他人の言葉をただ信じるだけでは駄目。合わせて自分自身も過信しない。自分も人間である限り当然間違いを犯します。
 科学は”覚える”ものではありません。「風は高気圧から低気圧に向かって吹く」。否、「風は低気圧から高気圧に向かって吹く」。さてどっちが正しいのでしょうか?頭を使って考えれば分かります。「風は高気圧から低気圧に向かって吹く」と覚えるだけでは、大変な間違いを犯してしまう可能性あり。だから自分で考えるのです。考えない限り永遠に正しいことは解りません。
 ただの思い込みに惑わされないよう。「神は存在する」、「死後の世界はある」、「今の総理大臣は善人だ」 これらは皆何一つ根拠がないことです。

16、何が幸福かを決めることはできない
  科学は幸福な状態に至るための手段を示してはくれるが、残念ながら何が幸福な状態なのかを決めることはできない。それを決められるのはあなたです。ただしそれを決めるに当たって科学は大いに役に立つことでしょう。

 上記、絶対的なものはない(絶対性の否定)。普遍的なものがある(普遍性の肯定)。この二つがこの現実世界の基本原理です。もしこの現実が(我々人間にとって)絶対的な存在なら、我々は現実の全てが既に認識されていることになります。つまりあらためて何かを知りえるということがない。また、もしこの現実が(我々人間にとって)普遍的ではないなら、我々は現実について何も知りえない。「絶対性の否定」および「普遍性の肯定」があるからこそ、我々は世界を知りえる。従って、そこで初めて科学をする意味が生まれるのです。絶対性が否定されるのであれば、我々にとって客観的な神など存在しない。(これについては、また別途) 我々人間にとって絶対的な存在は何一つありません。ただし、神にとっては全てが絶対的なのです。

(補足1) ただし、今この場で観測されないからと言って”存在しない”とは言いきれません。将来観測されることも十分考えられます。つまり今現在観測されないものでも存在する”可能性”はある。

(補足2) 余計な話を一つ。みんなさんは勘違いしていませんか?この世界は嘘だらけ?いいえ、違います。世界に嘘は一つもありません。すべて真実です。
例えば、ここに一人の人間がいて、「私は、イエスキリストの生まれ変わりだ。」と、周りに向かって言ったとしましょう。それを聞いたAさんは、「こんな奴が、イエスキリストな訳はない。こいつは嘘つきだ。」。Bさんは「もしかしたら、この人の言っていることは真実かもしれない。」。さて、AさんとBさんのどちらの解釈が正しいのでしょうか?
答え:どちらも誤りです。人々の前に立って話している人物の言葉に嘘はありません。彼は真実を伝えようとしているのです。問題はそれを勝手に解釈している周りの人々です。これらはすべて嘘です。少々話が哲学的になったので、この辺で終わりにしましょう。

【補足説明】 科学と独我論
 科学は世界を客観的に見る姿勢、独我論は世界をあくまで主観的に見る姿勢。相矛盾するように思われますが、もし自分が世界を眺めるときは、あくまで自分の主観によって、世界に存在する自分以外の人間にとって普遍的な共通の真理(自然法則)が存在するように世界が眺められる。それによって科学の価値を自分自身が認識できるという点において、独我論とは矛盾しません。科学の価値を認識しているのはあくまで自分一人です。

ご意見・ご質問