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結論 何のために生きるのか その3


最後のまとめ

 この「科学概論」のテーマであった人間は何のために生きるのか?その答えは、最初に述べたとおり、「幸福になるため」でした。
幸福とは何か?具体的には人それぞれ違いました。しかし幸福(の状態)をこの現実世界で実現するためには、この世界の仕組みを知る必要がありました。その具体的な手段が、”科学”です。科学を実践することこそが幸せを実現するためには有効なのです。その科学の具体的な中身について、自然とは、あるいは社会とはこういうものだという事を、「自然と科学」、「社会と科学」の各章で示しました。

科学で重要な点
 科学の目的とは、個人的な思い込みではなく、実験と観察による客観的な事実に基づき、それが真実か真実ではないかを判定し、この現実世界を正しく認識することです。
科学は宗教とは違います。特に注意する必要があるのが、「超常現象」を証拠も無しに、あるいは安易に信じてしまうことです。
科学で大切なことは、実証を無視した非科学的な手法を信じない。どこまでも疑う姿勢が必要。そうでなければ擬似科学(いかにも科学的に見せているが実は非科学的なもの。事実でないものをベースに作られた偽の科学)に騙されるでしょう。

科学で答えが出ないもの
 ただし、科学では答えの出ないものもあります。科学は幸せになるためにはどうすればいいのかには答えられるが、何が自分とって幸せなのかについては答えられない。それはあくまで自分自身が答えを出すべきものです。その答えは、幸せになりたい人間(つまりあなた)のまったくの自由です。ただし、何も拠り所がない白紙の上に、答えを出せと言われても難しいですね。何らかの指針はないか?さらに考察してみました。

本能的欲望
 人間も含めて動物には、食べたい飲みたいあるいはセックスしたいという本能的欲望があります。
それを満たすことが幸せなのか?いいえ、それを満たしても何の意味もありません。なぜなら、それらの欲望は、生存したいという目的のために起こるのです。しかし人間他すべての生物はいずれ死にます。つまりどんなに欲求を満たしても生き残るという目的は失敗に帰すのです。
生物の個体(一人の人間)は死んでも、生物としての”種”(人類)は生き残る。そこに何の意味があるのでしょうか?結局これらの本能的な欲望を満たそうとする働きは、この生物の”種”を生き残らせるためのものなのです。結果的に人類はじめ、現在生き残っている生物にその働き(本能的欲望)があったからこそ生存しているのです。この地球上でこの種(たとえば人類)が生存しなければならない理由はありません。そこには「人類が滅びるなんて嫌だ」という、”意味のない”欲求があるのみです。つまりその本能の源は、進化論でいう自然淘汰による盲目的な意志(煩悩)の働きです。

世界は無意味
 別に人類が滅んだっていいのです。この世界には目的も方向性もありません。こうならなければならない理由はないし、こうであってはいけない理由もない。世界はただ成るように成るだけです。この世で起きていることはすべて偶然です。意味なんかありません。それを示したのが仏教の「空」です。
従って単なる自然淘汰の産物である本能的欲望、食べたい飲みたい、その延長として金が欲しい有名になりたい。子孫をたくさん残したい。あるいは国家や人類を繁栄させたいなどという欲望を求めず、人間として本当の幸福を追求する生き方を選択することが賢明かと思います。

清貧的生き方
 この世は苦しみに満ちています。この世は地獄です。それは仏教でも述べています。「一切は苦」であると。
この苦しみは対象(世界)に執着(愛)することにあります。本来意味のない世界(=空)に意味を見出そうとすることから苦が生じるのです。即ち愛を捨てて、人と争わず、世間と関わらず生きることが苦を減ずることになるのです。
 
救いはあるのか?
 それでも生きている限り(人間としての本能的)欲望はなくなりません。(苦から逃れたいというのも一つの欲望) 欲望はただちに満たされないから、苦しみは死ぬまで消えません。
この苦しみから我々は救われるでしょうか?
救われます。そう信じるのです。信じた時点で救われています。

本当の幸せ
 しかしただ救いを待つだけでは、どう生きたらいいのか分かりません。我々は今何をしなければならないのか?
その答えは幸せになることです。また最初に戻りました。では幸せとは何か?
それは今幸せになることです。我々は今この世界で生きています。この世界に生まれてきたからには嫌でも隣人と関わらなければならないのです。 つまり生きるということは即ち隣人と関わるということなのです。
では、隣人とどう関わるのか?どう隣人と接すれば自分が幸福になれるのか?
その答え、隣人とは慈悲を持って関わる。慈悲とは隣人を幸福にすることである。つまりこの世において、人間にとっての幸福とは、隣人を幸せにすることに他ならないのです。我々はそのために生まれてきた。そのためにわざわざ自ら望んで、この地獄の世界に生まれてきた。ということです。
多くの人が誤解していると思いますが、我々人間は自身の進歩、向上、成長を目的として生きているのではありません。それらはすべて方便なのです。自身を成長させるのも、すべては隣人に対する慈悲のためなのです。

隣人への愛のために
 愛のために、あえて苦しむ。その苦しみは隣人のため。隣人の幸福のために命を捨て、世界を敵に回す。世界を変える。 隣人のために、あるいは自分の幸福ために、愛があればそれも可能です。

科学の重要性
 隣人を幸福に導くために必要なこと。それはこの現実世界においては、何よりも科学が頼りになる。というよりも相手を幸福にする(即ち自分が幸せになる)ために科学は必須です。
とにかく科学(現実を正しく認識する)だけは手放してはいけません。この現実世界に必要なことは、あくまであなたが科学的であることです。

今できることは何か?
 今自分は生きているのか?死んでいるのか?もし生きているなら、今何をやるべきか?その答えがここにあります。できることをすればいいのです。できることが必ずあるはずです。
もしあなたが、大変な不幸な目に遭い、生きていくこともできないほど打ちひしがれ、最低最悪の絶望的な状態にあるなら、慈悲を持って人々に優しくしてあげてください。それが今あなたにできることです。それがあなたにとっての幸福です。
もしあなたが、過去に取り返しのつかないような犯罪を犯してしまい、罪無き隣人を傷つけてしまったなら、チャンスと見て人々に隣人を傷つけることがどれだけ大罪なのかを伝えてください。それが今あなたにできることです。それがあなたにとっての幸福です。
もしあなたが、今話も出来ず手も動かせず病院のベッドで寝たまま、ただ死を待つのみの状態なら、隣人のために少しでも長く生きることです。その他のことはしなくてもいい。あなたは生きているだけで隣人に希望を与えるのです。それが今あなたにできることです。それがあなたにとっての幸福です。
 とにかく、いくら苦しみの世といっても、この世界に自分が存在しているなら、今ここで頑張って生きるしかないのです。何のために頑張るのですか?無論隣人のため。そして自分の幸福のためです。いずれこの苦しみの世界から去るその日まで。
 人間、人によっては権威、権力、社会的地位を手にしたい。個人よりも組織を重んじる。あるいは生き残るために強い者に媚びへつらう。そんな人生を歩むことを望んでいる(あるいはそう生きざるを得ない)かもしれない。しかしそれはすべて動物としての習性です。種が生き残るために身に着けた本能です。種が生き残ることに意味などありません。いずれにしても人間誰しもいつかは死ぬのです。それまでにどんな実績を積んだか、歴史に残る事業を成しえたか?そんなこともまったく関係ありません。人間生きている間にやらなければならないことなど一切ありません。たまたま自分はある期間生きて何かを成しえてもそれはただの偶然に過ぎないのです。次の瞬間死ぬかもしれない。つまり今現在しかないのです。今この瞬間何をなすべきか?人間としての課題は、ただそれだけしかないのです。なぜなら、それが唯一の必然だから。

余談ですが、最近思うこと。
 青山も何だかんだと言いながら年齢的な体力の衰えはあります。記憶や知力も若い頃に比べれば劣っているでしょう。まだ早いかもしれませんが、老いたなとつくづく感じています。老いの次に来るのは病いです。青山もいずれ病気に掛かり、手足も自由に動かせない。歩けない。立ち上がれない。そんな時が来る。その覚悟をしておかないとと思います。そして最後には死ぬのです。青山としては”死”自体はまったく恐れてはいません。死については、自分は「無」になると信じていますから。無になれば苦もないでしょう。だからいつ死んでもいい。神に運命を委ねようと思います。死ねば生を全うしたと、安らかになると思いいます。
しかし、死についていくら考えても、青山自身実際の死を体験したことはない。だから不安はあります。死の不安ではなく、死ぬまでの間の不安です。死は怖くはないが、実際にまだ生きているなら、これほど辛いことはない。死は近いかもしれない。しかし最後までこの苦しみに耐えられるか?とても不安です。次の瞬間死ぬ覚悟はあります。ただし、”死ぬ”とは限りません。まだまだ生きる可能性(この可能性の方が遥かに高い)も大いにあります。そこでもし生きているなら、何をすべきか。生きていることを前提に明日、来週、来月、そして来年のことも当然考えなければならない。それはある意味辛い、ある意味希望が持てることでもあります。
生きている限り、どう生きるのかは全ての人間に与えられた課題です。もし今の仕事を終えたなら、それ以降もし生が続いていたなら、これからの残りの人生は、人々の役に立つこと。自分の評価を気にせず、ただひたすら人のために尽くしたい。人が喜ぶことをしたい。「ささやかに生きる」でも述べましたが、身体が動くうちはできる限り人々のために働きたい。いや、例え病で身体が動かなくなっても、最後まで人のために生きたい。そう思っています。

無理に何かをしなければならないことはない
 何かをしたいと思ってもできないことはあります。人生において無理に何かをしなければならないことなどないのかもしれません。そうして何もせず人生が過ぎていく。それであってもいいでしょう。一生の間にしなければならないこと、これだけはやり遂げなければならないこと、そんなものはありません。そうして死が訪れるまで何もせずに生きる。そういう人生でも、本人が満足ならそれでもいいと思いますよ。世の中には、「やりたいことがあり過ぎて、寝ているのがもったいない」とおっしゃる方もいるそうですが、青山的にはむしろ、起きている時間がもったいない。人生一番楽しいのは、寝ているときです。
「何もできなくてもいいんだよ。何もしなくてもいいんだよ。」 何かをするから返って得られないのかもしれませんね。何もかも任せていれば、願おうとは思わないものまで与えられるかもしれません。(堀辰雄「風立ちぬ」より)

結論 何のために生きるのか
 何のために生きるのか?生きる目的がなければ、それはただ動物としての本能的な欲望(生存欲)を満たそうとするだけです。この本能的欲望の働きを「煩悩」といいます。すなわち煩悩に使役され、欲を満たそうとするところから(満たされないという)「苦」が生じるのです。それは生き残ろうとしても所詮死から逃れられない現実があるからです。
つまり、何のために生きるのか?その回答して、ただ己の幸福のためというと結局本能的欲望を満たそうとするだけに留まり、それは即ち「苦」なのです。そういう生存欲を捨てる。生き残ろうとは思わない。(生き残らなければならない理由はないから) それがまず苦を克服する一つの生き方です。
もう一つは、その煩悩を脱し、生き残りたいという生存欲を超えた人間としての本当の「生きる目的」(今何をなすべきか)を定めることによって、苦を克服する。その目的こそが「慈悲」なのです。
 ここに人間の幸福に関する二つの生き方を示しました。
己の清貧に生きるのか?隣人への慈悲に生きるのか?
救いを信じるのか?自ら幸福を実現するのか?
いずれにしてもあなたは幸福を得るでしょう。

結論 幸せとは何か
 我々人間は誰もが幸せになりたいと思って生きています。しかし大部分の人は誤解しています。幸せ(喜び)とは、自らの努力によって得るものではない。幸せ、あるいは喜びは、他から与えられるものです。他とは隣人、あるいは神です。では、自分はその喜びを与えてもらうために何をすべきか?何もできません。なぜなら与えるか与えないかは隣人の意志です。与えられなくても、どうすることもできないのです。もし自分が幸福になりたければ神(隣人)に対してこういう行いをすれば良い。というのであれば、それは「自分の力で幸福になれる」ことを意味し、明らかに間違いです。心から沸き起こる喜びの状態が自分にとっての幸福というなら、幸福を得ようとして行う努力はすべて無駄と言えます。では、自分は何もできないのか?
我々がこの世界でできることはただ一つ、隣人への慈悲です。我々は自分の幸福を獲得することはできないけれど、他者に幸福を与えることはできるのです。それは正にこの世界だからです。
この世界は自分一人の世界ではない。もう一人隣人が存在するのです。隣人がいるからこの世界で生きるのが苦しいのです。自分の思い通りにならない存在だからです。我々は(この世界では)身体を持っています。身体を持てば、そこに欲望が生じます。その欲望が叶えられないことが、即ち苦なのです。では、なぜ身体があるのでしょうか?それは隣人に慈悲を施すために必要だからです。正に我々は隣人に慈悲を施すために、わざわざこの苦しみの世界に生まれてきたのです。科学は慈悲を行う際の方便と言えるでしょう。
ただし、隣人にどれだけ尽くしても、相手が喜んでくれるとは限りません。人に慈悲を施したならばその代償として自分は幸福を得る。この世界はそんな単純なものではありません。しかしこちらは喜んでくれるかくれないかに関わらず、ただひたすら隣人を愛することしかできないのです。そこでもし自分の慈悲が伝わって、相手が喜んでくれれば、こちらも嬉しい。幸福です。その幸福を自分に与えてくれたのは、あなたが愛する隣人です。

最後にあらためて
 人間は何のために生まれてきたのか?自ら望んで生まれてきたのではない。ある意味生まれてこなくてもよかった。この世界に生まれてこなければならない理由などない。しかしもう元には戻れない。
では、もう一度。人間は何のために生きているのか?生きる目的などない。ただ欲望を追求するだけでは駄目です。目的を持って主体的に生きてこそ人間です。そうでなければただの動物です。
では、再度尋ねます。あなたは何を目的にして生きているのですか?世界は「空」です。世界に意味などありません。これはあなた個人の問題です。他人に聞くわけにはいきません。あなた自身が決めることです。
人間はある意味自由に生きる目的を決めることができます。人間は完全に自由な存在です。
では、あらためて尋ねます。あなたは何のために生きているのですか?
最後に、この「科学概論」の主旨を、たった12行にまとめました。「科学概論の結論」を参照

あとがき
 以上で、第6章は終わりです。そしてこの「科学概論」は完結です。
全般的にこの「科学概論」は解りにくい。文章の不備はところどころにあります。校正はこれからもあるいは死ぬまで続けていく所存です。特にこの第6章は読者の皆様にとって解りにくかったと思います。まったく理解できないという方もいるでしょう。そのときは例のごとくどんな質問でも構いませんので、頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いします。
それはともかく、この「科学概論」の目的は、ズバリ”世界を変えること”です。そんな簡単に変えることはできないかもしれませんが、できなければできなくてもいいと思っています。ただしやる以上は、命を懸けてやる。命を懸ける以上、青山は殺されても別にいいと思っています。殺されなくても、人間ははいずれ死にます。どうせ死ぬなら、世間からどれほど非難を浴びようとも、人からどれだけ憎しみを買おうが、自分に素直になって、言いたいことを言う。書きたいことを書く。やりたいことをやる。それが人生だと思っています。たった一度の人生ですから。
最後に、ここまでお読みいただきまして、誠にありがとうございました。心から感謝申し上げます。

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