1、科学と宗教との違い 以前にも述べましたが、科学と宗教は全く正反対のものです。 以下に科学と宗教の根本的な違いについてまとめました。 (1) 科学の目的はこの現実世界において、何が真実(本当のこと)なのかを見極めること。科学によって人間は、この現実世界に幸福な状態を実現することができるのです。 それに対して宗教の目的は、あくまで個々人の心の中に幸福を築くこと。全く違うと思いませんか? 人の心の中は解らないし、自分の心の中の幸福を相手に感じさせることもできません。従って他人に自分の宗教を語る(説明する)ことはできないのです。 (2) 科学は、世界の普遍性について論じるものです。従って、この現実世界に存在している全ての人間は、宇宙共通の自然法則を知ることにより、誰もがこの世界を理解し、さらにこの現実を変えることができるのです。この現実世界には、誰にとっても唯一の真理が存在する。それを科学の手法によって見極めることが可能です。すなわち科学は誰にとっても理解でき、誰にとっても有効なのです。科学とは、人によらない共通の真理を知ること、だからこそ誰もが理解できるのです。というよりも理解できないといけないのです。 それに対して宗教は、個人の心の問題であり、それは人それぞれ異なります。従って自分の宗教を他人に説明することはできません。 「いや、私も子供たちも一つの神を信じている」 あなたが信じている神と、子供たちが信じている神が同一だという保証はありませんよ。あなたの家のペットである猫のペルシャが白毛であることは、あなたにとっても子供たちにとっても真実です。ペットの猫をみんなの前に連れてくれば解ります。それに対して神をみんなが見える形でこの場に連れてくることはできませんよね。見えないもの、形がないのに、どうして同じ神だと言えますか? 他人の宗教を理解することはできません。理解できるとしたらそれは宗教ではなく科学です。 (3) 科学は、実際にこの現実世界に幸福な状態を実現できる唯一の方法です。 それに対して宗教は、あくまで自分一人が幸せになったような「気分」だけを味わえるものです。目の前の現実は何も変わりません。もちろん「気分」だけでも無いよりはましかもしれません。ただし、「気分」さえよければそれで人は満足でしょうか?いいえ、気分や感情は一時的なものでありやがて必ず消えうせます。そして目の前の現実は何も変わりません。その現実を無いものとして片付けられるなら結構ですが、人間は生きている間はどうしても目の前の現実から眼を背けることはできないのです。 気分さえよければいいというのなら、宗教じゃなくてもLSD(薬物)でも幸せになれますよ。LSDによって幻覚を見ていれば幸せになったような気分を味わえます。しかしLSDをいくら服用しても、現実の問題は何一つ解決していない。幻覚はいつかは消えます。そして悲惨な現実を見るのが辛いからまたLSDを服用する。そうしないといられない。そして薬物依存症になり身も心もボロボロになる。現実を見ない宗教はこれと同じです。あなたはその宗教によって破滅します。(補足1) どれほど熱心な宗教の信者でも、実際に目に見えて手に触れられる現実を無いことにはできないのです。それがどれだけ不快な現実であっても、関わらないでは済まされないのが現実です。何人であっても人間として生まれた以上、科学を実践しない限り現実を変えるとこはできないのです。つまり実際の幸福は得られないのです。所詮宗教なんてものは現実逃避の誤魔化しに過ぎない。と言えます。 (4) 宗教はbelieve、科学はdo。 「この宗教を信じて、毎日手を合わせれば幸せになれる」といわれて、あなたは毎日手を合わせたとしましょう。それは信じたから手を合わせたのでしょうか?それとも疑ったから手を合わせたのでしょうか?恐らく両方でしょう。このように信じることの反対が疑うことではないのです。あるいは言葉の問題にしても、何々を信じているということは、何々でないこと疑うことであり、また何々を疑うことは、何々でないことを信じることであります。信じることは同時に疑うことなのです。 信じるっていったい何でしょうか? 人間は相手から手を合わせなさいと言われれば、(手を合わせたくなくても) 手を合わすことはできます。しかし相手からいくら信じなさいと言われても信じられないものは信じられないのです。イエスが弟子のトマスに「信じる人になりなさい」と言われても無理なものは無理なんです。それをイエスは解っていない。(補足2) 実験をしてその理論が正しいか正しくないかを検証しようとした場合、それは信じているからやるとも疑っているからやるとも言えますね。 宗教は実にあいまいな表現で信じなさいという。信じるとは、他に考えが及ぶ余地がないことを意味しているのでは?それにて対して科学の本質は、信じる信じないという次元を超えています。人間は本来信じる生き物でもなく疑う生き物でもなく、現実を変えるために行動する(科学する)生き物です。科学の動機は真実を知りたいという願望だけです。疑ってもいれば信じてもいるのです。だから検証するのです。真実を知りたくないという思いを抱いたときが科学をやめるときです。でも人間は常に幸福になりたいと思っていますよね。なぜ本当のことを知りたくないのでしょうか。それは事実が不快なものだから、悲しいものだから、その現実を認めるのが辛いから、辛いことを避けたいからに他なりません。できれば目を背けたい。しかし目を背けたからと言って、現実は変わりません。それではいつまでたっても幸福にはなれませんよ。幸福を実現するためには真実を見極めなければならないと知れば、人は必然的に科学を実践するしかないのです。 宗教でよくある話として、最初は疑っていた。ただし何度も自分で試してみたところ、教に示す通りの結果が得られた。だからもはや疑わない。自分はこの信仰に確証を得た。というもの。本質的に科学的態度とは天と地ほど違います。10回20回程試した結果がすべて教の通りになったから信じるようになったというものが宗教。科学はたった10回20回程度試したからと言って、以後疑わないなんてことはありえません。「万有引力の法則」は、少なくても1兆回以上試しています。(その法則をニュートンが発見した以降も世界中の人が地面を歩くことによって検証しているから) それでも科学は足りないのです。これからも永遠に無限回試すつもりでこの営み続けられることでしょう。(補足3) もちろん、信じる信じないは個人の完全な自由です。どんな荒唐無稽なことでも自分が信じる分には誰からも文句は言われません。猿を神と崇めるのも。人類を創造したのはパンダ。そう信じてはいけない理由はありません。 (5) 科学は人間を幸福にするもの、宗教は人類を不幸にするもの。 戦争、犯罪、環境問題、飢餓、その根本的悪しき原因はどこにあると思いますか?全ては宗教にあります。もしこの世に宗教がなかったら、こられの悲劇は起こらなかったでしょう。 「いや、科学の方が人間を不幸にする」それは科学に対する認識が間違っているために起こる誤解です。科学を正しく理解しているならそういった誤解は起こりません。 まずあなたは自ら科学を実践しましたか?その上で(科学を実践して)不幸になったとおっしゃるんですか?科学の誤解の一つ、科学は頭のいい科学者、大学の教授や政府機関がするものだと思い込んでいませんか?科学はあなた自身が自ら実践するものです。そうしない限りあなたは永遠に幸福にはなれないでしょう。科学とは大学で量子力学を学ぶことではありません。 (6) 科学の研究対象はこの現実世界の全てです。非常に広範囲なため、知識体形は膨大です。そのためその知識を根源から追って理解しようとしてもなかなか難しい。専門家でないかぎり不可能と言うのが現状でしょう。それに対して宗教は、知識の浅い一般の人でも分からないと広まりませんから、できるだけ平易な言葉で説明しているのです。誰にでも分かるようにね。しかしここが落とし穴です。特に新興宗教に多いのですが、その話を聞く(あるいは宗教団体発行の書籍を読む)ととても分かりやすいと納得してしまうことがある。しかしその話よくよく筋立てて考えてみるとどうもおかしい。現実的にはあり得ない。しかし聞いたときには解ったような気分になってしまう。結局その論には矛盾があるのです。(分かりやすくするために、その論理を捻じ曲げている) 人々の分かりやすいという思い込みが、こんな稚拙な宗教に騙される。気を付けましょう。 宗教の悪しき点として、宗教は個人の心の問題であることを逸脱し、社会や地域や国家(国教と言われるもの)や人類全体のレベルまで浸出していることです。人類の悲劇はここにあります。 2.科学と宗教との歴史的関わり (1) 科学を取り込む宗教 かつては宗教の力があまりにも強くいずれの宗教でもその教えは絶対であり、科学の発見が教義と矛盾する場合は無視するかまたは権力を持って弾圧してきた歴史があります。有名なガリレオに対する教会からの弾圧(これは天動説を教義としているキリスト教の考えに反して地動説を唱えたガリレオを弾圧しないと、宗教上の権威が失墜するから、それを恐れたもの) しかし近代の科学技術の発展は目覚しい。そして近代合理主義によって清貧と言われた宗教者であっても、金に目がくらみ教義さえも変えて、科学も認める。ただし宗教の方が上、とみなす。(宗教と科学に上下関係などない) 無視できなくなった科学を排除せずに取り込んだのはいいが科学の進歩に伴って教義をころころ変えては宗教そのものの権威は落ちる一方です。 (2) 宗教の復権 昨今合理的な科学に反して非合理的な宗教が台頭してきた感があります。科学というよりも文明の無秩序な発展に伴って、大量破壊兵器、原爆、原発、環境破壊、公害など。科学は人類を幸福にするどころか不幸にするという考えが出てきました。科学技術の進歩は必ずしも人間を幸福にはしないというものです。そこまで行かなくても宗教の価値を見直そうという動きが、科学では駄目だという考え方に並行して出現しました。本来科学と宗教は別物であり、一方が悪いから他方が良いなどということはありません。 この風潮は明らかに間違っています。科学そのものが悪なのではなく、 科学を正しく理解してないがゆえに起こる誤解です。 最近、精神世界(スピリッチュアル界)などでよく語られることとして、現代の最先端科学が、今までオカルトとして語られてきた「宇宙人の存在」や「多次元世界」の証明に迫りつつある。精神と科学の融合。「量子力学」や「先端宇宙論」あるいは「超ひも理論」などが「神の存在」や「死後の世界」(あるいは「永遠の魂」、「悪魔の存在」)を肯定的に示している。科学がようやく古代から語られてきた精神のレベルに追いついてきた感じである。 この考え方はまったく間違っています。科学の基本姿勢は、観測されないもの即ち目に見えないものは扱わない。従って神や死後の世界の話とは何の関係もありません。(あるとしたら、心理学的あるいは精神医学的な考察) そこにあるのは単なる無知か、あるいは認知機能の異常です。(注) 科学は事実のみ扱います。正しく科学を理解していないために起こるこのような誤解は、人を決して幸福にはしないでしょう。青山にとってそれは最大の危惧です。 (注)ある人間の目には神が見える。または死者の声が聞こえるなど。通常それらは異常心理学の分野で語られること。ただ絶対にありえないとは言えませんが。 3.科学と宗教の混同 今宗教でありながら科学を装う偽の科学が蔓延しているようです。科学を名乗る宗教こそは人類最大の悪といっても過言ではありません。なぜなら宗教と混同された科学(偽科学)は、人類を幸福にするどころか不幸にするものだからです。正しい科学ではなく誤った科学だからです。人間から幸福を奪うもの。それか科学に似せた宗教です。 ただし、宗教に対しても誤解があるようです。その原因の一つはやはり科学を正しく理解していないことにあります。本来の宗教は決して悪ではない。もしかしたら人間にとって必要なものかもしれません。 青山の考えでは、人間が生み出した最大の宝が二つ、その一つは科学、もう一つが宗教です。後々述べますが、本当は宗教だって人間を幸福に導くすばらしいものなのです。しかし、そのためには科学と宗教を完全に分離して、本当の科学とは何か、本当の宗教とは何か、それを正しく認識することが必要です。(補足5) 現在はまだそんな段階には至っていません。科学と宗教が混同されている状態では人類はますます不幸になるでしょう。宗教が科学を乗っ取ろうとするならば、青山は容赦のない態度を取らざるを得ません。 この地上に宗教が存在する限り、叩く、つぶす、ひねりつぶす。人々から幸福を奪う全ての宗教がこの地上から完全に消滅するまで。それがこの青山が神から与えられた使命なのかもしれません。(補足6) 何だか訳の解らないことを書きましたが、最低限あなたにお話ししたいことは、科学と宗教は違うんだという認識を持って欲しいということです。重要なことは、科学と宗教の違いを正しく認識して、明確に二つを分離し、決して混同しないことです。それが唯一人類が幸福を実現する道だと思っています。(補足7) 今までの人類の歴史は宗教の時代。すなわち暗黒の時代でした。これからは科学の時代です。早く人々がそのことに気付いてくれることを、青山は願っております。 (補足1) 宗教の中には、非科学的なもの、カルト系、反社会的(犯罪、テロ)宗教などたくさんあります。オカルト的な教義で信者を騙し、マインドコントロールによって洗脳し、最終的には金を巻き上げる(信者自身に貢がせる)か、教団の言う通りに働くロボットに仕立てるのです。信者は皆洗脳されていますから、非科学的なことを信じ、この「幸せになったような気分」に浸っているのです。まさに薬物障害と同じです。 宗教(特に新興宗教)に熱心な人たちを見ると、幸せそうに見える人なんか”一人”もいません(いるのかもしれないが?)。あくまで無宗教の青山から見た感想ですが、信心をしている人たちは、自分たちだけで幸せだと思い込んでいる(だから続けている。幸せじゃないと気づいたらとっくに止めている)だけで(あるいは洗脳されているのか?)、無宗教の外部の人よりも”不幸”に見えます。まあ本人にとってそれが幸せだと言い張るのなら、それを止めさせることはできませんが。だから宗教は幸せになったような”気分”だけなんです。 例えば、瞑想やヨガ、あるいは一心不乱に呪文を唱えることによって、心理的にそう思い込ませる。今食べたいと思っている美味な料理を、実際は食べていないのに、食べたような気分にさせる。それで満足したような気になる。ただし、あくまで物理的には食べていないから、あくまでも心理効果だけ。本当に食べるのと、食べた気分では、心理作用も異なるはずです。人間は気分だけでは決して満足しないのです。 (補足2) 本当は神を信じていなくても、その人物に「私は神を信じます」と言わせることはできる。そう一言言えば100万円あげると言われれば、大抵の人はやるでしょう?もちろん心からそう信じているわけじゃない。他人に対して本当に信じさせることはある意味不可能かもしれません。なぜなら相手の”本心”は知りようがない。 (補足3) 例えば、「聖書やコーランは神が書いたものである」という説があるとします。もちろん自分一人が信じる分は問題なし。ただし人に信じてもらいたかったら、その根拠を提示する必要があります。それに対して「聖書やコーランは神ではなく人間が書いたものである」という説について、「神が書いたものではない」という証拠を提示しろと逆に言われたとします。もちろんその根拠は提示できます。実際に人間はものを書くからです。現に青山は今書いています。それに対して神が書いているところを目撃された例はありません。それ以前に神が存在していたという証拠は何一つないのです。すなわち「神が書いた」という説と「人間が書いた」という二つのものは対称ではない。片や根拠なし、片や根拠あり。それでも「人間が書いた」ということを証明していないと主張するなら、二つの説を同じ土俵に上げて検証しましょう。その前にまず神とは何かを厳密に定義してください。そうすれば形而上学ではなく科学的検証(同時に反証可能)が可能になります。その時点で初めて、二つの説は対等になります。後は検証結果に待ってどちらに軍配が上がるかを判定するのです。(補足4) (補足4) 宗教の中には、教祖絶対主義や教典至上主義などというものがあります。教典に記載されていることは、一字一句正しいというわけです。例えば聖書(新約聖書)です。それはイエスの話を集めたものです(イエスの言葉を集めたものは「福音書」といい、他にはパウロが記した手紙などがある)。それはイエスの言葉を直接あるいは人伝手に聞いた内容を後になって記録したものですが、現代のテープレコーダーのように正確に記録したわけではありません。もし人間が(イエス本人が記載したものではなく、他人が)書いたものなら、当然間違い(記憶違い、意味の誤解)もあるでしょう。それが科学的な(現実に即した)解釈なのです。科学的な立場としては、聖書であっても、”絶対的”などと言うことはありえないのです。 仮にもし、聖書がイエスの生の声だとしても、絶対に正しいとは言えません。なぜならイエスも人間だからです。神のごとく絶対に無謬ではないはず。否、イエスは神の子である。だから彼の言葉に誤りはない。イエスを神だと信じるのは自由です。しかし客観的な証拠は何もありません。聖書も絶対ではないのです。もしも聖書が絶対に正しいと言うなら、「源氏物語」も一字一句が絶対に正しい。紫式部を神とみなせば。 (補足5) 宗教の中には、「この宗教を信じれば絶対に幸せになれる」と言って人に勧めるものがあります。実証主義的立場から言えば、ここでもし100人が信心して、99人までもが幸せになったとしたら、絶対とは言えないはず。「この宗教をすれば幸せになる可能性がある」とだけしか言えないのです。もし100が100とも幸せになったとしても、絶対とは言えません。101人目はそうじゃないかもしれない。 (補足6) こういうことを書くと、宗教の側からは「宗教弾圧」と批判されるかもしれません。確かに人類の歴史の中には宗教弾圧の悲惨な過去があります。(例えば江戸時代のキリシタン弾圧) しかし、宗教弾圧は敵対する相手宗教側からの攻撃なのです。(例えばキリスト教とイスラム教の十字軍戦争) 青山は完全無宗教です。青山は個人の信仰を批判はする気は全くありません。どのような(何を崇拝する)宗教であるにせよ。信教は自由です。ただし歴史的に見て宗教の問題は、その個人を出たところから、社会性を持ったところから発生するのです。いかなる巨大宗教も青山は決して容赦しません。たとえ殺されても、宗教に屈することはない。それは悪魔に魂を売るのと同じ行為だからです。なぜなら宗教は科学を害します。それは幸福を捨てることに等しいのです。 (補足7) 世の中には間違った考えを持っている人もいて、「科学も一種の宗教。つまり”科学教”だ」というわけです。冗談じゃない。科学を宗教ごときと一緒にしないでほしい。つまりこれは科学を理解していないための誤解です。 科学に”神聖な教義”なんてものはありません。どんな知識も周りから徹底的に叩かれる。素手で掴まれ好きなだけ汚される。それが科学です。神聖なんて言葉は返って汚らわしい。もし科学も宗教と言うなら、宗教の定義ってなんだ?説明してほしいものです。 人間は果たして幸福を得るために科学を選択するか?あるいは宗教を選択するのでしょうか?青山の私見ですが、大多数の人間はまず宗教を選択すると思います。宗教で幸せになれればそれで良し。ただし、人間は宗教だけでは決して満足しません。いかなる人間でも最終的には科学を選択すると思います。なぜならこの世界で生きている限り、目の前の現実は無視できませんから。 最後に、一言言わせてください。青山は、科学に神秘主義、精神主義を持ち込むこと。すなわち科学を名乗る宗教、疑似科学、理論至上主義、オカルト主義、道徳主義に対して、強い憤りを感じます。青山の信条として、それはどうしても許されないことなのです。もちろん幸福とは心の問題です。しかしそれは科学とは別の話です。現実はあくまで現実。事実は偽れない。科学は科学。精神性は精神性。それらを決して混同してはならない。現実を直視して、真実を明らかにすることが科学です。それを歪めることは、人間から幸福を奪うことに他ならないと思います。
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