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神の存在


神は100パーセント存在しない

 科学的な立場から、「神の存在」と「死後の世界」について考察してみたいと思います。
結論から言えば神は存在しないということです。もし存在するなら、この場に神様を連れてきてほしいと思います。その際見えない、あるいは触れられない神様じゃ困ります。科学的に言って、何らかの計測器(体重計、赤外線温度計、その他)が反応しなければ存在しているとはみなせませんから。(補足1)
そう言うと、「神をここに連れてこいなんてナンセンス。神はそういうお方ではない。あなたは神を知らなすぎる」と笑うかもしれません。それに対して青山は、「所詮神などあなたの目にしか見えない、あなた一人の妄想である」と答えましょう。見える見えない、いるいないの不毛な論争をするのが宗教です。見える人には見える。見えない人には見えないんですから。
それに対して科学は、誰にでも見える、誰にでも存在を確認できるものだけを扱います。一部の人しか理解できないのが宗教、全ての人が理解できるのが科学。科学的な立場から言えば、”観測不可能”なものは、”存在しない”に等しいと。
ただし、この場で確認できないからと言ってこの宇宙には存在しないとは言い切れません。白いカラスだってまだ発見されていないだけで、実際はいるかもしれません。
ただ神のような超自然的な存在がいるかどうかは、白いカラスとは次元を異にするものです。では、なぜ神は存在しないと言い切れるのか。その前に前提となる条件、そして神を厳密に定義した上で、神が論理的に存在可能かどうかを考察してみることにしましょう。

前提条件(1) 人間は自己の存在を意識できる。

前提条件(2) 人間は世界を理解できる。すなわち世界のいかなる存在(神も当然含まれる)も矛盾のない自然科学の法則に従う。

神の定義

(1) 絶対的な神
 定義:もはや我々に自由意志はなく、神は我々のすべてを支配している。我々は神の操り人形でしかない
 結論:例えるなら、神は物語の作者であり、我々はその登場人物。この世界、すなわち神が創る物語のシナリオはすべて作者である神に委ねられています。そのシナリオを覆すことは我々には絶対的に不可能です。本当にこの世界は神のシナリオなのか?我々にはそれを確かめる術はありません。仮にもしこの絶対的な神が存在していたとしても、我々はそれを認識すらできない。すなわち我々にとって神は存在しないに等しいのです。物語の登場人物が、その作者の存在を認識できないのと同じです。(補足2)
神学的には、神は人間に自由意志を与えたとありますが、そもそも無から造られた存在に、自由意志など与えられるはずがありません。(被造物に自由を与えること自体矛盾。なぜならそれを造った者(即ち神)がすべてを決めているから) 神が人間に与えられるものは、不自由な意志のみです。(補足3)

(2) 有神論的な神
 定義:神は超自然的な存在であり、自然法則を超えて世界および人間に介入にできる
 結論:自然法則を超越している時点で、人間はその存在を認識することは不可能。あるいはその事象を正しく観察できない。つまり、例え神が存在していたとしても、人間はそれを把握できないのです。ということは人間にとって神は存在していないのに等しい。
もし2秒前に神が世界に介入したら、その結果世界に発生する事象には原因が確認できない。神は人間が理解できる自然法則を超えているので、その原因を把握することができない。それが2秒前でなくて2000年前でも事情は同じです。2000年前に起こった出来事の影響は現在にも残るでしょう。現在も現れているその事象は人間にとって理解不能です。

(3) 理神論的な神
 定義:神は最初に世界を創造したが、その後は一切世界に介入していない
 結論:もしも有限の過去に世界が創造されたとしたら、その時点で何が世界を創造させたか人間には把握不能となります。すなわち世界を正しく理解することができないのです。永遠の過去から現在に至るまで世界は神の創造の業に寄与されなかった。もし神が世界を創造したとするならば、それは無限に遡らなければならない。それはすなわち神が世界を創造せず、神など存在せず、世界はもともと存在していたという考え方と同じです。(補足4)
もし未来に神の介入があったなら、それ以降この世界は人間の理解を超えてしまう。それまで人間にとって理解されてきた世界は、その時点で、過去の世界も含めて人間とっては全く理解不能なものになってしまうでしょう。

(4) 汎神論的な神
 定義:神は我々が認識できる世界あるいは自然法則そのものである
 結論:神の存在を仮定しなくても、ただ世界が存在しているとみなしても同じことです。(自然に意志などありません。自然法則に意図などありません。ただあるようにあるだけです)

(5) 独我論的な神
 定義:この世界には自分一人にとっての唯一の神が存在する その神は世界を通じて自分一人に作用する
 結論:神が存在する上で矛盾を回避する考え方が一つだけ存在します。それはあくまで自分一人にとっての神です。世界には自分と神の二つしか存在していないという考え方です。一人の人間にとっては世界の全てを理解することは不可能です。従ってもし今神があなたに関わったとしても、あなたはそれを受け入れることしかできないでしょう。あなたがもし敬虔であれば、あなたは神の力に圧倒されるでしょう。そして心から救いを乞うはずです。神はあなたの前で信じられない奇跡を現すでしょう。
それはイエスにとっての父が客観的存在ではなく呼びかけの対象としてあるのと同じ、「できることならこの悲しみの盃を過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いからではなく、御心のままに」(ゲッセマネの祈り)。あるいは親鸞が阿弥陀仏の請願に対して、「五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」(歎異抄)と言う具合に、それはこの世界であなたと神は一対一の関係であるかの如く、神は存在するのです。

さて、以上で神が存在しないということは論理的に確実と言えます。ただし、それでもあなたが神の存在を信じるのは自由です。青山はただ科学的考察のもと、客観的な(誰もが認める)存在として神はこの現実世界には存在しえないと言っているに他なりません。科学においては、”神”が登場した時点で終わりですから。神が存在するなら何でも”あり”です。すると科学を研究する意味もない。(補足5)
青山はあくまで個人的に神の存在を信じるあなたに向かって「神など信じるなと!!」と命令することもないし、神を信じているあなたを軽蔑したりはしません。
ただしあなたが青山に向かって「自分は神を信じている。だからお前も信じろ」と言えば、では「その根拠を示してほしい」と言うだけです。その根拠が青山にとって納得できるものであれば、当然青山は今日から神の存在を信じます。
要するにあなた一人が自分の心の中で信じている分には、青山それを非難することは決してしません。ただあなたが他人にも信じてもいたかったら、相手が納得するだけの根拠を提示する必要があります。根拠も示さず、やたら高圧的な口調で、あるいは権力をかさに着て、神を信じろなんて人に命令する権利はありませんよ。自分がこうだから他人にも同じようにさせるというのは、自分が巨人ファンだから、お前も巨人ファンになれと言っているのと同じです。たとえそれがあなたの善意から来たことであっても。(補足6)
信じるのはあくまで自由です。もし「あなたは神を信じていますか?」と問われたら正直に「信じています」と答えてもいいと思いますよ。
ただし、聞かれてもいないのに「私は神を信じている」と人に言うことは「わたしは神を信じている。だからあなたも信じなさい」と言っているように聞こえてしまう。
宗教も同じです。「わたしはこの宗教を信じて幸せになれました。あなたも幸せになれるとは限りませんが、幸せになれないとも限りませんので、この宗教をやってみるのもいいかもしれません」程度に言っておけば問題はないと思いますよ。それが「絶対に幸せになれる。だからお前もやれ」と強引に言われて、もし幸せになれなかったらどうしてくれるんだ!!謝るだけでは済まさない。即刻教祖から全信者宛てに解散宣言を出してもらわないと。
根拠がないゆえに青山としてはどうしても信じられないことが二つ、「イエスは神の子である」というのと「コーランは神の言葉」というもの、です。
イエスは人間ですよ。コーランは人間が語ったものですよ。神の子って何?それは我々人間とはどこが違うんですか?現代にももし神の子がいたなら、2000年前にいてもおかしくはないでしょう。それを見て信じる人がいるかもしれません。しかし現代にそんなものはいない。だから信じられない。あなたがいくらそれを信じていても、青山は信じられません。あなたのような誠実な人の言うことを本当は信じたいのです。でもどうしても信じられないのです。たとえ世界中の全ての人が信じてもね。
そういうことからすればこの青山こそは、無神論の極めつけ。青山は神を信じないのではありません。神が存在しないことを”知っている”のです。
  
オカルト現象について
オカルトとは隠されたという意味です。すなわち何者かが意図的に我々人間の目から真実を隠している。そして我々がそれに気付くかどうかを興味深く観察している。果たして、そのような(我々を試している)者が存在するでしょうか?
もしいるとするなら、その者こそが神です。このように我々に試練を与えてくださる神など存在するでしょうか?もし我々がその神の存在を明らかに確認できるとするなら、同時にその神の意図をも知ることになります。神の意図を知ったら、我々はその神の意図に逆らうことができる。もちろんそのようなことはできません。なぜなら神は絶対だからです。
すなわち例え神が存在していたとしても、我々人間は神の意図を永遠に知ることができない。それは神など存在しないと言っているのと同じです。もし我々が世界を矛盾なく知ることができるなら、そして自分が自分であることを意識できるなら、この世界に神は存在しない。という結論です。

(補足1) 「神は存在する」と主張している方に。その科学的根拠は何ですか?確かに存在する痕跡はあるのでしょうか?ここでは抽象的な議論はしませんから。あなたの頭の中にだけ存在する神など相手にしません。青山が欲しいのは、神がいたという物的証拠(化石や足跡、またはアコール漬けの標本)です。それが示されるまでは神は存在しないとみなされます。これが科学的な態度です。神は存在しませんが、”パンダ”は存在します。物的証拠もあります。疑うのなら、動物園にどうぞ来てください。

(補足2) 神がすべての第一原因なら、この世のすべての責任は神一人に帰す。この世で現実に起こっているすべて犯罪、テロ、殺戮、不条理なまでの悲劇、それを引き起こしている大もとは神である。神こそ一切の悪の源。ということになりますよ。神こそ憎め!神こそ恨め!とね。あなたを苦しめて喜んでいる大悪党は神そのものなのです。しかし神など最初から存在しないとなれば、あなたの怒り憎しみは、ただ風を切るがのごとく。

(補足3) ただし、神は絶対であるが、人間の側から見れば非実在。とすればそれは矛盾しない。あるいは人間はもともと完全な無ではなかった。(意志のみ存在) 人間と神は相対的な関係であれば、自由意志も存在するといえるかもしれない。

(補足4) もしなぜこの世界が(どういう理由で)存在しているのかが理解できないのなら、そこに神を想定して神が世界を創造したとすれば世界を理解できます。しかし次に、ではどうして神が存在しているのか、すなわち神が生まれた原因を問われることになるでしょう。そこで神はもともと存在していたと答えれば、世界ももともと存在していたと答えるのと同じになってしまいます。つまり神など想定しなくてもいい。世界を産んだのが神なら、その神を産んだのは誰か?大神か?そしてその大神を産んだのは大大神か、と言う具合に永遠に最終的な答えにたどり着けません。

(補足5) 最近は神に代わって宇宙人が流行りのようです。何でも宇宙人の仕業にしてしまえば万事解決。エジプトのピラミッドはどうやって作られたのか?答え:宇宙人が作った。ナスカの地上絵は誰が描いたのか?答え:宇宙人が空からの目印として描いた。ピラミッドにも地上絵にも作られた背景には科学的理由があるのです。それを考えずに、ただ宇宙人の仕業で片づけてしまう。これでは結論ありきの単なる思考停止です。まるで宇宙人教という新興宗教の信者になったかのよう。神を宇宙人に言いかえたに過ぎない。科学的に見えて実は非科学的。
人間は解らないことをそのままにしておくのが精神的苦痛なのです。しかし解るためには、時間と手間を掛けて調べないといけない。それがまた面倒なのです。手っ取り早い方法はそれが非科学的であるにもかかわらず、何かの仕業にこじつけようとすること。もちろんそんなことは科学ではない。手間を惜しむ、汗をかくことなしに真実を知ることはできません。

(補足6) 神がいるという根拠とは何でしょうか?母親が幼い子供に言い聞かせたとします。「イエス様は神の御子です」とね。それを聞いた子供は母の言葉を信じるでしょう。その根拠は自分を愛情をもって育ててくれた母の言葉に嘘はないというものです。ただ、もしその子供が大人になって、自分が信じてきたこの「イエスは神の子」という話を他人に語ったとき、相手はどう反応するでしょうか?母親はそのことも考えるべきです。

ここで青山が述べていることは、科学的な意味で神は存在しないと言っているにすぎません。つまり客観的な実在としての神は存在しないと。しかし、哲学的な意味では存在するかもしれないのです。つまり神は人間の理解を超えた存在なのです。(人間が知覚できない(真偽か判定できない)真に絶対的な神は存在するかもしれない) 逆にそのことは「我々にとって神など存在しない」と言っているのと同じことです。残るのは、自分一人はあくまで信じるか、あるいは信じないか、それはもちろん個人の自由です。(補足7)
ここからはあくまで青山の私見ですが、もしかしたら神は全ての人間にとって必要な存在かもしれません。
その必要性の理由の一つは、人間にとって究極の救いは神だからです。神のように全能ではない人間にはいつか必ず限界状態が訪れます。絶対とは言わないまでも、そういった絶体絶命の状態が訪れないとは断言できません。その時にはどんな無神論者でも神に祈ると思いますよ。青山ももちろん祈るでしょう。
そして二つ目は神の存在が人間の驕りに対する抑制になっているということです。我々のできることには限界があります。科学文明の発展に伴って、人間たちはその限界を無視して神を恐れることを忘れてしまったようです。自分の無力ぶりを素直に認めて神の前で敬虔な態度を取ることは必要なことではないでしょうか?
もし神が人間を創造したのではなく人間が神を創作したのであれば、人間の方が根本であり神は二義的な存在と言えるでしょう。しかしだから神は不要だとは言えるでしょうか?もし神がいなければ、我々がなぜここにいて何を為すべきなのか、その答えが見つかりません。
否、自分が本当に存在しているのかどうかも解らなくなるでしょう。自己の存在に神は必要なのです。神の問題についてはまた最終章でお話ししたいと思います。

(補足7) ニュートンは「神の存在を証明する方程式」なるものを研究していたらしい。(補足8) もちろんそんなことは不可能でしょう。ニュートン程の人間も狂っていた?のかと思いますが、当時人々にとって神が存在することは空気のように当たり前だったから、神なんか存在しないという無神論の方が、むしろおかしいと思われていたのかもしれません。20世紀になっても、論理科学者のゲーデル(注)が、神の存在を証明したことが話題になりました。ゲーデルと言えば、「不完全性定理」(別紙1参照)を証明した天才科学者ですが、神の存在を自分と切り離せなかったのはニュートンと同じです。青山としては西洋人がなぜこれほどまでに神の存在にこだわるのか理解不能と言ったところでしょうか?それほど西洋はキリスト教の影響が強いのでしょう。ただ、ゲーデルの「人間は機械じゃない」(反機械論)という思想には共感できます。人間は明らかに機械じゃありません。人間どころかいかなる(単純な)生物も機械ではない。生物は機械だという人は、「機械の意味」を理解していないんではないかと思います。(補足9) ゲーデルの「不完全性定理」とは、簡単に言うとこの世界は(論理学的にいって)不完全であるということ。なぜこんな欠陥だらけの世界が存在しているのか?しかしこの世界が不完全だからこそ、この世界の外には完全な存在としての(この世界と対峙する相手としての)「神」が必要なのかもしれません。
(注)1906〜1978 ドイツの数学者、論理学者。

(補足8) 他にも神の存在証明で有名なアンセルムス(注)の論法ですが、最初から「神は存在する」ということを前提にしたおかしな論理となっています。現代でも、自分は神の存在を証明したと述べている人がいますが、その前に”神とは何ぞや”。神を明確に定義してから論法を始めてほしいものです。今青山の手に持つ”一本の鉛筆”は神(神の一部)でしょうか?もしそうなら、何でも神になりえます。もしそんなものは神じゃないと言うのなら、神とは何ですか?
神について自分が信じるだけでは飽き足らず、人々にもその存在を認めさせたいというのは、一種の驕りのような気がします。
(注)1093〜1109 キリスト教の大司教 神とはすべての肯定的要素を含んだものであるとして、「存在すること」をそれに含めてしまうという誤謬を犯す。

(補足9) 逆にゲーデルの「数学実在論」には反対です。科学はあくまで実際に観察できるものが対象です。(神や来世が存在するという)神秘主義は科学ではない。

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