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確率とは


 確率とは

 量子力学では、どうして状態が特定できないのでしょうか、なぜ確率でしか表せないのでしょうか?
その前に確率って何でしょうか?「だいたいそうなる」とか「そうなることもあればならないこともある」。
それじゃ何も言ってないのと同じです。もっと厳密に定義しないとダメですね。

 この自然界には確率が存在する。これを確率の法則といいます。法則だから、万有引力の法則のように正しいか正しくないか実験により確かめなければなりません。
続いて確率を定義します。確率とは、0から1までの間のある数値です。それを"P"としましょう。Pの値を求めるにはどうすればいいでしょうか?さいころを投げるという例で説明します。
さいころを投げるという行為を「試行」といいます。試行は何回も行わなければなりません。またすべての試行は同じ条件で行わなければなりません。この「同じ条件」というのが難しいのです。
たとえば、1回目に投げるときは正方体(正6面体)のさいころを使い、2回目にはさいころのある面が他の面より面積が大きいいびつな形の立方体を使うなんてことはNGです。条件が異なります。ただし、1回目はAさんが投げる。2回目はBさんが投げるのはOK。さいころを投げる人によって目の出方が変わるという理由がないからです。
このように同じ条件とは、確率値Pに影響を与えるような違いは不可であり、影響を与えるかどうか不明な場合は同じ条件としてみなされるということです。ここで影響を与えるか与えないかの見極めは、あくまで経験(何度も試行してみることに)より判断するということになります。
ここで一つの基準に適合した結果が現れた回数(たとえば、さいころでいえば"1"の目が出た回数)をn、それまでの試行の回数をNとすると、確率Pは、

 P=n/N となります。(補足1)

さて、さいころの場合、投げた結果は、1から6までの6つの数になります。6回投げて、1回だけ"1"の目が出れば、確率は1/6となります。
でも、それだと試行の回数などによって結果がいつも違ってくるのでは?あるいは試行の回数を6と定めても、6回投げて必ず1回だけ"1"の目が出るとは限らないでしょう。2回出る場合もあれば、1回も出ない場合もあります。だったら確率の値なんか決まらないじゃないかと。
よくさいころで"1"の目が出る確率は1/6、という言い方をしますね。この1/6はどうやって求めたのでしょうか?
確率の法則というものは、条件さえ変えなければこのPの値が一つに決定されるというもの。そのためには試行を無限回繰り返さなければならないのです。そんな無限回なんて現実問題不可能ですから、結局この確率の法則は証明不可能、ということになります。
それじゃ確率なんかを論じることは無意味じゃないかということになりますね。そこでもう少し話を進めて「大数の法則」について説明します。
「大数の法則」とは試行の回数を増やせば増やすほど、Pがとりえる値は限定されてくるというものです。
図21「確率とは」を参照ください。これはコインを投げるという試行の結果、確率値n/Nがどのように変動するかを図示したものです。
たとえばコインを投げ始めて、101回目から110回目目までの10回分をサンプルしてみましょう。そのときのn/Nの最大値をa(max)、最小値をa(min)とし、その幅(最大値と最小値の差) c を c = a(max) - a(min) としました。
次に101回目の試行より前に行ったもの、たとえば21回目から30回目までの同じ10回分をサンプルします。同じようにn/Nの最大値をa'(max)、最小値をa'(min)とし、その幅 c' を c' = a'(max) - a'(min) とします。
このときサンプルの幅(今回は10回としましたが任意です。いくつでもいいのです。ただし一つじゃ最大値と最小値が決まらないから、最低2回。最大値が決まると最小値はその値が何であろうと決まることから、最低3回という考えもあります)、は前と後では同じにすること(今回は二つとも10回)、さらにサンプルとサンプルの幅は重ならないこと。たとえば、101回目から110回の幅10回と、96回から105回の幅10回では重なるからNG。
以上を踏まえて、もしこの世に確率が存在するなら、c < c'になるはず。これが大数の法則です。
一つの事象(たとえばコインを投げる)において、試行回数のどの位置でも、どこをサンプルにとっても(サンプルの幅は任意)、c < c'を満たせばその事象は全体的に「確率的」だといえます。(補足2)
もし一部でも上記 c < c' を満たさない箇所があれば、その事象は確率的とは言えない。何か条件を逸脱する作用が働き、確率値を変更させたものとみなすのです。
ばらつき(ランダム具合)が一定で変動しないならば、”c < c'”は必然的に成り立ちます。すなわち大数の法則が正しいことが示されるわけです。量子力学の基本原理は、この「ばらつき」を表すプランク定数が不変であること。”h”即ちプランク定数(=6.6 × 10の-34乗 ジュール秒)が一定であるからこそ、我々は自然を理解できるわけであり、もし”h”が変動するのであれば、我々は自然、宇宙について何も分からない。ということになります。

 確率というものは所詮、そうなるかもしれない、あるいはならないかもしれない。そのときの「なり具合」を数値で表したものです。そんなものが実体なはずはないのです。(補足3)
以上のように確率は検証して初めて意味を持ちます。従って量子力学において波動関数を電子が見出される確率とするなら、一々電子の位置を確かめて証拠を集めなければならないのです。確率は決して自明(すでに明らかであり確かめる必要がない)のものではありません。
ただし、この世の中は確率の法則が支配していることは確かです。すなわちこの世における結果はすべて偶然の産物なのです。確かにそうなるとは限らないが、そうなるなりやすさを数値で表しておくことは便利です。実際確率は世の中で大いに役立っていますから。結局量子力学がなぜ役に立つのか?それはこの世の中は(あるいは人生での成功は)”賭け”だからです。とりあえず最も高い「期待値」に賭けておけば、悪い結果にはならないというわけです。

(補足1) これを統計的確率といいます。本当は試行は無限回実施しなければならないのですが、そんなことは実質不可能。従ってある回数まで施行を行った結果から P=n/N を割り出します。

(補足2) 無限に試行を続けることはできないため、ある回数までで「確率的」かどうかを調べる。その回数でまず、aの最大値と最小値の差cを求める、次にその回数より少ないところでサンプリングする。そのとき、c < c' になれば、その時点で確率的と言える。

(補足3) もしかしたらコインは投げ方によって裏か表かは、あらかじめ予測可能かもしれません。投げるときの力、方向、回転の具合、コインの材質などすべての力学的要素から計算可能かもしれません。ただし、量子力学的には予測は不可能です。それはどうにもならない。

(ついでに) 確率論が数学として発展した背景には、賭け事が流行った当時(中世のヨーロッパ)の世相が一因しているらしい。なぜ人間は「宝くじ」などの賭けに熱中するのであろうか。そんな幼稚なことになぜ大の大人がうつつを抜かすのであろうか。賭け事にのめり込んでいる大人たちは実は精神的にまだ子供ではないだろうか?とさえ思う。理由はこうであろう。毎日毎日変化のない味気ない日々を送りながら、せめて作り物だと知りつつも夢に浸りたい。日常の憂さを晴らしたい。現実から逃避したい。そういう心理が働いているのではないだろうか?まさに自ら詰まらない人生を選択しているようなものである。真の人間ならば、成熟した大人であるなら、そんな下らないことに時間を浪費すことなく、為すべきことを為せばいいではないか。為すべきこととは何か?それは世界を変えることである。それは無論フィクションではない。あくまで現実である。
人生は賭けではない。必要なことは、己の力で世界を変えてみせること。運を「天」ごときに任せてはならない。
科学を実践する者は賭け事に熱中しない。あくまで現実を見据える姿勢があること。「神はギャンブルなどしない」と言ったアインシュタインの言葉は一つの戒めのように思われる。

、量子力学で答えが出るのは確率(そうなる割合)のみ。ただし、その精度は驚くほど正確です。理論から計算される値はみごとに実測値と一致しています。従って、現代社会において、量子力学は不可欠。特にエレクトロニクス分野において滅茶苦茶役に立っています。テレビや携帯電話、パソコンなどは量子力学を無視して設計はできません。研究者、技術者は何も疑問を抱くことなく当たり前のように量子力学を使っています。何も神秘的なことはありません。
要するに、ミクロな自然現象をどう理解するか以前に、理論に基づく式によって計算された値と実際に測られた値いが(ほぼ)一致すれば、理論がどんなに常識離れで、人間の感性に合わなくても(例えば観測されていない状態では、量子はいたるところに同時に存在するという考え方から導かれた「経路積分法」など)、その理論は人類社会にとって有用。であれば、まずはそれでいいのです。理論の解釈や自然についての概念は、後々考えていけばよいでしょう。

 現代物理学に革命をもたらした相対性理論と量子力学。この二つを較べてみると、科学者ではない一般の人たちに受けがいいのはどういうわけか量子力学の方で、相対性理論については今一。あまり好意的ではありません。なぜか?特に精神世界(または宗教)に興味のある人が、量子力学に関心を持つようです。ただ本当に人々は量子力学を理解しているのかはなはだ疑問です。例えば「意識が世界を作る」など一つ間違えればオカルトです。量子力学とスピリチュアルは何の関係もありません。
一つ言わせてもらえれば、もしも「量子力学が正しい」とするならば”神は(ほぼ)存在しません”。なぜなら、量子力学の確率論によれば現象はランダムであり、そこに恣意性や意図などはないからです。つまり神の意志が認められない。確率論に従えば、まさに奇跡は稀にしか起こらないのです。
誤解を恐れずに言うと、量子力学は目の前の現実をすべて正確に説明できます。例えば空はなぜ青いのか?人間の目では可視光線しか捉えられない。その理由など。逆に量子力学を知らないと目の前の現実を理解できない。従って人間にとってそれは必要不可欠なものと言える。ただし、量子力学は未来については確率的にしか分からない。大体こうなるとしか言えない。当たることもあれば外れることもある。(余談ですが、そう言う点で量子力学は「進化論」に似ている?)
決定論的に「これはこうなる」と断定的に言えることは何もない。それが言えるのは神様しかいません。神を認識することができない(量子力学を超越できない)以上、現実世界に神は存在しえないのです。科学の大原則「観測できないものは存在しないのと同じ」ということです。(神は認識しうる対象ではなく信仰するもの)
神は存在しない。はからずも量子力学がそれを証明しているのです。(補足4) しかし、奇跡は稀にしか起こらない。だからこそ人々は神を求めるのです。その話は最終章で。

(補足4) 量子力学の理論に従って、そこに電子が見出される確率を計算したところ1パーセントであったとしよう。ある人物が先祖への儀礼を滞りなく行ってからというもの、商売が上向きに転じたとする。この行為(先祖への儀礼)と、商売が上向いた(確率が1パーセントから99パーセントに変化した(今まで100回中1回しか成功しなかったのに対して、行為後は100回中99回の成功率となった))こととの間に物理的因果関係は何もないはず。即ち当該電子に対して外部から(電磁波等の)作用を与えることがない。ならば、シュレディンガー方程式は形を変えず、その確率は変化しないはずである。にも拘わらず明らかに異なる結果が得られたのなら、それは量子力学の理論自体が誤っていたことになるだろう。
日常生活の中で何らかの行為(先祖への儀礼、あるいは神への祭祀)により物理的作用が確認されないのであれば、何をしても、あるいは何をしなくても、良いことが起こる確率、または悪いことが起こる確率に、変化はない。それが量子力学を含めたすべての自然法則の帰結である。
我々が日常的に経験することは、良いこともあれば悪いこともある。良いことが起こる割合と悪いことが起こる割合はほとんど変化しないということ。たまたま先祖への儀礼を為した際、良いことが起こった。それは単なる偶然と言えるだろう。

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