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幸福の定義


定義 幸福とは、ある時点での世界の状態(状況)を指す。

ある特定の存在(一人の人間、仮にAさんとする)が、世界を観察(五感等を通して知覚)した結果、(Aさんにとって)世界が好ましい状態である場合を(Aさんにとっての)幸福といい、反対に、好ましくない状態である場合を(Aさんにとっての)不幸という。
人間にとって幸福あるいは不幸とは、自分自身が観察したものの状態の良し悪しを自分が判定した結果を言います。
ここで注意してほしいのは、幸福や不幸と言ったものが自分自身の状態ではないということです。ここではあくまで、自分の周りの世界の状態(状況)を指します。
後出しますが、人間が観察可能なのはあくまで世界であり、自分は観察する側であって、従って観察主体である自分自身は決して観察されることはありません。よって、自分で自身を変えることは不可能です。なぜなら自分自身が変化したことを確認できないからです。つまり自分自身を幸福な状態に変えることはできません。
自分が幸福だと言えばあくまでそれは幸福だし、不幸だと思えば不幸。他人から幸福だと言われも、自分がそうだとは思えないなら思えない。自分にとって幸福か不幸かを判断するのはあくまで自分一人。
多くの人は自分自身を観察した結果良い状態なら幸せ、悪い状態なら不幸だと思っています。それは間違いです。なぜなら自分自身を観察できないからです。
もし観察されるものが、自分と他者(自分以外)の両方だとしたら、その境界線はどこにあるのですか?境界線をどこに取ろうとその両者は分離できないため、自分と他人を分けることは不可能です。
従って、矛盾なく説明できる考え方は、自分が見えるものは決して自分ではなく、それは自分以外のもの。それを世界と言います。
世界が観察可能なら、世界を変えることができるかもしれません。すなわち人間は幸福を実現することができるのです。

幸福とは何かを定義できたので、善と悪についても定義可能です。
善とは、(あくまで自分が)幸福になる行い
悪とは、(あくまで自分が)不幸になる行い

この善悪の問題で誤解されるのが、世界には普遍的な(誰もが認める)”善悪の基準”があるということです。そんなものはありません。人それぞれ善悪の定義が異なるのです。当然です。もしも1億人の人間がいたら、一億通りの善悪の基準があることになります。しかしあなたにとって他人の基準などどうでもいいことです。あなたがあくまで、これが”善”。これが”悪”。と決めたら、それがあなたにとっての基準です。世界共通の基準など気にする必要はありません。
この世の善悪の判定基準は、法律で定めるのではなく、裁判官が決めることでもない。基準を決めることができるのはあくまであなた一人です。
それがあなたにとっての善悪の基準です。どうぞ自由に設定してください。あなたは他人が定めた基準なんかに従えますか?それ以前に他人の善悪の基準が何かを知ることができるでしょうか?無理です。他人の心を知ることは永遠に不可能です。なぜならあなたはその人物ではないからです。彼はこれを善だと思っている。彼女はこれを悪だと考えている。そう理解しているのはあなたです。つまりあなたが全てを決めているのです、あなたにとっての善悪とは、あくまであなた個人の基準なんです。あなたはあなたの基準でこの世を生きていけばいい。それ以外にあなたは生きられません。(後述「独我論について」を参照)
すなわち基準は人間の数ほどあるのです。この世に普遍的な、すなわち万人に共通な善悪の基準なんて存在しません。

幸福か不幸かという問題は、あくまで自分とっての幸不幸であって、他人にとってそれが幸福なのかあるいは不幸なのかは自分では決して解らない。あなたはその人間ではないから、その人の心は解らない。
いくら相手があなたに向かって「幸せだ」と言っても、それで「あの人は幸せなんだ」と思うのは、あくまであなたの勝手な解釈。
それはそれでいいのです。あなたにとっての幸福とはあくまであなたが判定すべきもの。あなたが幸福だと思えば、他人など関係なく幸福なのです。
※ここで一番誤解されるのが、自分にとっての幸福・不幸について。自分が他人の状態を見た結果、「あの人は素晴らしい」、「あの人は可哀想」と感じると、その対象の相手そのものを「幸福」あるいは「不幸」と判定してしまうことです。しかし本当は、自分自身が「幸福」あるいは「不幸」なのです。ここを間違えると、幸福・不幸を誤って認識してしまう。これは大変なことです。断言して言います。ここで誤って認識している限り、自分自身が幸福になるとこはできません。ここに多くの人々が幸福になれない最大の理由があると言えます。詳しくは図1「自分にとっての幸福・不幸とは」を参照願います。
人を見て、(その人が)幸せだと思うことと、そのことによって自分が幸せだと感じるかどうかは別です。例えば、”幸福そうな人”を見て自分が嫉妬したとすると、自分が不快であることから、”自分は不幸”なのです。あるいは、人の不幸を見て自分が愉快な気分になったとしたら、それは”自分にとっては幸せ”なのです。また、人を見て「可哀想」と思うことは、相手も不幸だし、”自分も不幸”なのです。
自分にとっての幸せは、世界の状態による。世界の状態によるということは、他人の状況を見て判定するということです。従って他人の状態が自分の幸不幸に大いに関わるのです。他人なんか自分の幸不幸に関係ないなどとは絶対に言えません。なぜなら他者と自分は同じ世界に存在しているのですから。(補足)
このように他人と自分を比較して、自分が優位なら(逆に相手が劣悪なら)、自分は幸福。逆の場合(相手か優位、自分は劣悪)は自分が不幸。これは正に相対的な幸福の悪しき例です。自分が幸福だと思えるためには、この世に不幸な人間の存在が不可欠というわけです。こんなものが真の幸福と言えるでしょうか?
人間にとっては完全な幸福などあり得ません。幸福と言えば富や健康、あるいは社会的地位、周りからの愛情などが挙げられます。例えば、新婚ほやほやの人が、「今とても幸せです。怖いくらい」と言ったとします。この「怖いくらい」というのは今の幸福(な状態)が将来失われることへの恐れの現れです。恐れを抱いていること自体不幸なのです。あるいは、いくらお金を儲けても空しさを感じる。空しさ自体は不幸です。もっと他に別な幸福があると言えます。それが得られない限り、その点については不幸なのです。あるいは単なる快楽、快感が幸福ではありません。そんなものは薬物(LSD)でも得られますから。

自分とは何か?それは世界を観察する主体である。
世界とは何か?それは自分が観察しているすべての対象である。
従って、自分自身を観察することはできない。自分が観察可能なものはすべて自分ではなく、自分と相対する世界である。
こういった考え方を独我論と言います。

(補足) 青山としては、もしこの宇宙に一人でも不幸な人間がいたとしたならば、青山は自分自身が幸せだとは思わない。そのような不幸な衆生がいるうちは、心から「幸せだ」とは(口が裂けても)言えませんね。青山自身が苦しくて苦しくてしょうがない。青山にとっての幸福・不幸の基準はここです。

 自分が幸福になるためには、世界を変えることが必要です。つまり自分にとっての幸せとは、他人を幸せにすることなのです。ただし、相手が幸せかどうかの判定はあくまで自分が(自分の独断によって)するのです。もちろんここで言う幸せとは、単なる金銭的なものではありませんが。
世間ではよく意見表明と称して周りの人間に向かって自分の考えを訴える人たちがいますが、その意見が単に自分の要求のみを満足させるものなら、誰一人としてその主張に耳を傾けてはくれないでしょう。人は自分が幸せになることのみを望んでいるのです。「わたしを幸せにしてください」と言っても誰も相手にしてくれません。「あなたを幸せにしてあげます」と言われて、はじめて人はその話を聞くのです。(すると何だか怪しい宗教と勘違いされるので嫌ですが)
最後に繰り返します。
 自分にとっての幸福とは、自分が世界を観察した結果好まし状況なら"自分が幸福"、好ましくない状況なら"自分が不幸"というわけです。つまり判断の対象は、自分自身ではなく、世界の方です。自分はあくまで判断する側なのです。ここが一番誤解されるところです。
例えば、あなたがあなたにとっては他人であるA氏(外国人であなたにとっては赤の他人かもしれない)の様子をたまたま(テレビニュースなどで)見たとします。その時あなたが、Aさんの姿または態度を見て、「可哀想だ」とか「憎たらしい」などと思ったら、このA氏の問題は、本質的にはあなたにとっての問題です。つまり不幸(不快)なのはあなた自身なのです。A氏ではありません。その時この不幸な状況を改善するために何らかのアクションを行うのは、あなたです。A氏が行動するのではありません。あなたが何らかのアクションをしない限り、あなたは不幸(不満)なままなのです。あなたが世界の一部であるA氏に対して適切に働きかけることによって、世界の状況が変化して、あなたは幸福な状態になるのです。
まあ、あなたは赤の他人のAさんのことなんか関係ないと割り切ることもできるでしょう。しかしあなたとAは完全に無関係ではありません。なぜなら世界はすべてつながっている(関係している)からです。(これを仏教では「縁起」(後出)と言います) ここでもしあなたがAさんの可哀想な様子を見ても、「AのことはAの問題だから、余計なお節介はやめよう」とか、「Aが不幸になったのは自業自得だ。自分が手助けする必要はない。放っておけばいいんだ」などと、暖かい手を差し伸べることもなく冷たくあしらうとしたら、あなたにとってAさんは存在しないに等しいことになります。もし少しでもAさんのことが気になるなら、何かしらAさんに働きかけるべきです。そうしないとあなたが不幸になるのです。Aさんが可哀想なのはAさんの問題ではありません。あなたの問題です。なぜなら、Aさんを可哀想だと思ったのはあなたですから。「いや、Aが不幸になったのはAが悪いんだ!Aがただ人の助けを求めるだけで、自分では何もしないから、いつまでも不幸なままなんだ」。そう言って人の精にするのは愚か者です。この宇宙で起きているあらゆることは自分の問題として捉えるべきです。なぜなら、あなたにとってAさんは確実にこの現実世界に存在しているのだから。赤の他人であってもAさんとあなたは一つの宇宙を共有しているのです。あなたの目の前にいるAさんにあなた自身か働きかけることによって、あななた自身が幸福になれるのです。
 そういう意味で、あなたが全人類の幸福・不幸の判定者です。歴史上すべての人物の(幸福・不幸も)あなた一人が決めるのです。その判定において誰からも制約を受けることはない。自由に決めれば良いのです。他人の幸不幸を自分が決めるのはおかしい。その人が幸せかあるいは不幸せかはあくまでその人物が決める。しかし、あなたには他人であるその人物の本当の気持ち(相手の心の状態=自分が幸せなのか、あるいは不幸なのか、自分自身どう思っているのか)を知ることはできない。なぜならあなたはその人物ではない。あくまで相手は他人だです。即ち相手の真の状態を知ることなど無意味です。あなたは相手の言葉や表情、あるいは今の状況から、幸せ・不幸せを(あなたの主観に基づいて)判定するのみです。しかしそれが相手の真の幸福・不幸とは限らない。あくまであなたから見た判定です。相手の真の状況を知るすべがない以上、あなたがそれを決めるのです。
しかし、相手の幸不幸は実は自分にとっての幸不幸。好ましくない状態なら、それを改善するために何らかのアクションを起こさなければならないのはあなたです。

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