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国家の体制


■国家の体制
 現在世界に存在する国家(ニ百ほどあります)の体制は、大雑把ですが、たったの2種類しかありません。一つは自由国家、もうひとつは統制国家です。国はこのいずれかに属すると。
自由国家では、国民には最大限の自由が与えられている。法律は必要最小限の規制しかない。税金も少ない。ただし国は国民一人ひとりの面倒をあまり見てはくれません。福祉が手薄。法律が甘いから犯罪も多い?のが懸念されます。治安が悪く国民は安心して生活ができない。経済システムは自由主義。つまり経済に政治は一切介入しない。代表的な国としてはアメリカ?です。(必ずしもアメリカが自由な国とは言えませんが)
統制国家では、法律が厳しくて国民の自由は極力制限されている。税金が高い。公務員(警察や軍人も含む)が多い。やたら愛国心を高めるように国から強制される。国そのものが一つの家族のように位置づける。ただし、(建前は)国民の面倒をよく見る?治安が厳重で犯罪も少ない。ただし刑罰が重い。とりあえず安心して生活できる。経済システムは共産主義。これが発展すると独裁国家、恐怖政治、国民のロボット化、思想統制。自由に政府批判ができない。目指すのは力によって国家を一つに統制すること。例として、戦前の日本(もしかしたら戦後も?)とか、ナチスドイツとか、そして現在の北朝鮮ですね。(補足1)
(ただしいずれの国も極端に一方の性質だけをもっているわけではありません。両方兼ね備えている。ただどちらの傾向がより強いかは言えると思います 二つの体制を比較したものを図72「自由国家と統制国家の比較」にまとめてみました。ただし、あくまで例です)
 さて、この二つの体制の内どっちがいいという話になりますが、いずれにせよ経済が行き詰れば国は終わりです。
覚えておいてほしいことは、自由と平和は相反する概念だということ。共にそれら(自由と平和)が成立することはありえません。片方を立てれば、一方が成り立たなくなる。自由を重んじれば平和が失われる。平和を実現したいなら自由を制限するしかない。
役人とっては統制国家の方がいいと思う?でしょう。なぜなら、政府が何をやっても国民から批判されないのですから。役人とっては(北朝鮮のような国は)天国?かもしれません。普通国民の不満の矛先は政府です。失態を犯すと徹底的に政府が叩かれるのが常識。
では庶民にとってはどっちがいいか?一般の庶民にとっても統制国家の方がましだと思うでしょう。自由はありませんが生活できなければ元も子もない。生きていけないのが一番まずい。自由はないが生活できる方がまし。というのが本音でしょう。(補足2)
北朝鮮なんて国が崩壊しないでこの地球上に存在し続けている理由はここにあるのです。少なくとも国民の半分は現政権を支持していると思います。(ただし、残り半分は、政府に対してものすごく批判的かもしれません。ただ少数派なので表立って批判ができないだけです)(補足3)
もし半数以上の人間が政府に反対すれば、どんな独裁政府も倒されるでしょう。政府が倒されれば当然国内は大混乱します。それは生活の糧を失うことに等しい。それよりは自由が無くても、政府に不満があったとしても、生きていられる方がましというわけです。
つまりどんな独裁国家も、一部の独裁者が政府に反対している大多数の国民全体を、力によって押さえつけることなんかできません。(なぜなら数が多いから) そんな国家はとうの昔に消え去っています。独裁者の背後には国民の支持があるのです。

■国民の甘え
 なんだかんだといったって、国民が主権者だし、政府が悪いといったところで、その政府や政治家を選んだのは国民ですからね。一番を悪いのは国民なんです。
国民の甘えとは、自分たちの生活は国が何とかしてくれる。我々の幸福を国家が与えてくれるという幻想を抱いていることです。そんなことはしてくれないでしょう。
国民の本音は自立心をもちたくないのです。不安だからです。他人と違うことをして、周りから批判されることを恐れる。だからやたらと人に合わせる。社会に対して、あるいは政府に対して不満を抱いても、できるだけ我慢する。強い力には逆らわない。大勢に従う。権力にしがみつく。そうすることによって安心感を得ているのです。(補足4)
ただし、世界はそんなに甘くはない。統制国家の行く末は必ず行き詰る。第二次大戦で、ドイツ軍の攻撃により被害を受けた国々は、終戦後ドイツを徹底的に非難しました。「どうしてくれるんだ!弁償しろ!責任取れ!」非難されたのは国民そのものです。なぜなら、どういう国家体制下でも国家は国民が運営するものだからです。国民は弁解するでしょう。「権力に逆らえなかった」、「我々も被害者だ」、「ヒトラーは自殺した」という言い訳は、国内はともかく諸外国には一切通用しません。それは当然。すべての責任を国の一人の指導者に帰すなんてこはありえず、「その指導部を支持したのはおまえたちではないか!」と言われます。ドイツ国民は敗戦で疲弊している上に、さらに身包みまで剥がされたのです。
国家あるいは国防軍が自分たちを守ってくれるなんていうのは幻想です。例えば武装集団が国境を越えて攻めてきたとしましょう。機関銃で国境の町を攻撃。すぐさま国防軍は反撃の態勢をとり、武装集団を駆逐。そして敵は退散、町は守られた。しかしそのときは既に町には多少の被害が出ていました。たまたまその町にいたあなたは最初の攻撃の流れ弾に当たって死んだとします。つまり町は守られた(被害を最小限に食い止めた)が、あなた個人は守ってくれなかった。あなたは死んでしまったのですから、その後いくら町は守られた、国は守られたといっても、もう遅い。死んでしまったあなたにとって、もうそんなことはどうでもいいはずです。
つまり国家がどういう体制であろうと、あなたの幸せはあなたが実現することに変わりはありません。もしかしたら国は本当に困っときには何もしてくれないかもしれない。国家に過度の期待をかけてはならない。あとでいくら後悔しても、そのとき国に期待した、あるいは(実は独裁者だった、または超アホだった)指導者を支持したあなたの責任なんです。あくまで国家の主権者は自分だという自覚を持って。確かに国や政府は自分たちを支援してくれるが(あくまで予算の範囲内で)、結局幸せをつかむのは自分自身。国はあなたの手に幸福をそっと握らせてくれたりはしない。なぜなら国家はあなた一人のためにあるのではないから。

■共産主義国家
 上記でも述べた通り、国家の体制としては、統制国家と自由国家のたった二通りしかないのです。右翼も左翼もありません。こんな言い方は政治用語ですらない。政府が権力を持って国民を押さえつけるものは統制国家です。別名「共産主義国家」(そもそも共産主義とは経済の体制で、政治の体制ではありません。しかしここでは皮肉を込めて改めて”共産主義国家”としましょう)。共産主義国家としては、現在の中国や北朝鮮を思い浮かべますが、誤解してはいけませんよ。あなたは騙されています。上でも述べた通り、
”共産主義(一党独裁)”=イコール=”ファシズム”=イコール=”君主制(天皇制)”=イコール=”NewWorldOder(新世界秩序)”=イコール=”北朝鮮”=イコール=”ナチスドイツ”=イコール=”戦前の大日本帝国”。
これらはみな統制国家体制です。NewWorldOderは現在の中国よりも遥かに共産主義化することは明らかです。そもそもNewWorldOderを提唱する人間はみな共産主義者でしょう。”国民一丸”というスローガンも共産主義的なものです。戦前の日本の「進め!一億の火の玉」。現在の北朝鮮そっくり。つまり国家は、統制か自由か、一体化かバラバラか。いずれかなのです。”自由”というと聞こえはいいが、図72でも示した通り、国民は皆勝手、従って自由は国民同士の争いを生むのです。(自由主義の最たるもの無政府国家)争いが激しくなると、社会は混乱し人々は生活できません。それを力で抑え込み、国民を権力のもと支配する。それがここでいう共産主義です。上でも述べた通り、国民の大部分は自由よりも生活の安定を求めるのでしょう。だから(いかなる国の国民も)共産主義を支持する。それが大衆の本音です。北朝鮮や最近では「イスラム国」なるものがなぜ存在できるのか?政治学的に考えれば納得できます。
余談ですが、青山個人としてはもちろん統制よりも、自由を求めます。例え社会が平和にならなくても、国家の奴隷にはなりたくないですからね。もちろん共産主義にもいいところはたくさんあります。治安が良くて暮らしやすい。生活、雇用、物価が安定。国が国民の面倒を見てくれる。福祉、教育、行政サービスの充実など。実に素晴らしい。反対に悪いところは、国民に真実を知られないように目隠しをすること。国民をいい気持ちにさせる。(一種の宗教) 不満を他に逸らす。(例えば外国への敵意を煽る) 政府は国民一人一人は怖くもなんともないが、集団化することを何よりも恐れる。国民の分断化。(例えば国民同士の対立を煽る) 帝国主義からの人々の解放を謳っていた旧ソ連でも中国でも、政権を取れば今度は国民を押さえつける側に回るというわけです。つまり本質は同じ。
国民は共産主義を支持。そして世界中の支配者、独裁者、政治的リーダー、あるいは政府の中枢。高級官僚。さらには国際巨大企業の経営陣も(加えて宗教指導者たちも)、この共産主義体制になることを望んでいるのです。その方が国民を支配しやすい。完全管理できますからね。それは当然でしょう。
戦後の日本でも最近の傾向として、国を愛するというスローガンを掲げた共産主義者たちが跋扈しているようだ。連中が求めるのは無論北朝鮮のような国。
いやいや我々の国はそんな暗黒政治ではありません。国民の皆さんには最大限の自由を保障しています。と口では言うが。では、ここに国を愛する人と愛さない人の二つのグループがあるとしよう。もちろん建前は国を愛するのも愛さないのも自由。ただし、国を愛する側が愛さない側に圧力を掛けてくるはず。あるいは心理的な脅しをかけてくる。仲間外れにする。そして愛さない側は立場上不利に追い込まれていく。(補足5) 愛する側は、「愛さないのもあなたの自由ですから、どうぞご勝手に。」といかにもそれを容認しているようで、愛さない方の権利を次々に剥奪していくのです。なぜ、連中は隣りに自分と反対の意見の者がいると不快なのでしょうか?これは心理学での”コンクリフト(葛藤)”です。例えば自分が巨人ファンで、妻(または夫)がアンチ巨人だと、好き嫌いのバランスが保てなくなる。相手にも是非巨人ファンになってもらいたい。そうすれば、心理的に安定する。これが大嫌いな会社の上司が、アンチ巨人でも何ら問題はない。同様に北朝鮮の人間が日本大嫌いでも問題なし。逆に日本が好きな方がバランスが崩れてしまう。
このように正体は皆共産主義だったのです。ではなぜ同じ共産主義同士が争い憎しみ合うのか?同志として抱き合うことをしないのか?
その答えとして・・・あなたはまだ気づきませんか?実は共産主義とは宗教の一種なのです。北朝鮮という名の宗教。ナチスドイツという名の宗教。宗教同士は争い合うのが常。人類の歴史からも明らかです。傍から見れば(日本人から見れば)、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も皆同じ宗教に思えます。しかし現実は対立していますね。同じキリスト教同士も争ってきた歴史があります。カトリックとプロテスタントです。(補足6) キリスト教の精神は”愛”であるにも関わらずです。(日本の仏教内でも対立がある) 教義が近いほど互いに相手を認めない。近親憎悪。家族同士の憎しみ合いの方が激しい。どうもそのようです。西洋人から見れば、北朝鮮も日本も同じ文化(儒教を中心とした中華文明の影響を多く受けている)、顔も似ている。見分けがつかない。
だから同じ共産主義同士で相争うのです。共産主義と自由(放任)主義はあまり争いません。(以前は仲間同士でその後離反した連中に対する憎しみの方が、最初から敵対している方より激しい。「裏切り者は絶対に許さない!!」という浅ましく下劣な人間性の現れです。)
お分かりですか?共産主義とは実は宗教だったのです。宗教だからこそ憎しみ合うのです。互いに相手の宗教を認めない。こちらの宗教を相手に押し付ける。そして世界中をこの宗教で統一したい。キリスト教もイスラム教も(そして最近はやりの新興宗教も)皆目的は同じです。ただし、一つの宗教が全世界に広まり、世界を統一する。そして新世界秩序が実現して世界に平和がもたらされる。そんなことは万に一つもないでしょう。

(補足1) よく誤解されるのが、共産主義国家には自由がなく、現在の中国や北朝鮮。旧ソビエトや東欧諸国が該当する。共産主義の正反対の国家体制が自由主義国家であり、アメリカ、西欧諸国。そして日本が入ると。しかし、戦前の日本の「富国強兵」というスローガンは明らかに共産主義のものです。そうです。戦前の日本は共産主義国家だったのです。無論経済システムではなく(共産主義の反対は資本主義)、政治体制の方が。
自由主義とは、自分は自分。人は人。と他人のことは気にしない。何事も自由。相手も自由。勝手にどうぞ。それに対して国民一丸の精神。一体感、つながりを強調する。他人に合わせる。大勢に従う。個人よりも全体が重要。それは皆現在の共産主義国家と性質がとてもよく似ています。

(補足2) 統制国家は、すべて御膳立てができているため国民としては楽。しかし政府に逆らえない。自由はない。自由がなくても生活していければいいというのが、国民の本音(甘え)でしょうね。しかし人間は生まれる国を自分で選択したわけではありません。自らの意志で生まれてきたわけではない。だったら人間は皆何ごとに対しても自由。政府に逆らうのも。国家の転覆をはかるのも。社会に反旗を翻すのも。あるいは神に反逆するのも。なぜなら、この永久無制限な自由は、神から与えられたものだから。

(補足3) 日本人は特に北朝鮮を嫌っています。でも性質はとてもよく似ています。例えば政権が何か不祥事を起こすと、一部の人間はボロクソに政府を批判しますが、あくまで一部の人間であって、大衆の大部分は沈黙するだけ。北朝鮮人もただ沈黙しているのでしょう。

(補足4) これを社会心理学では、「権威主義的パーソナリティ」と呼んでいます。1930年代のドイツにおいて、経済恐慌等の社会的混乱の中、一般国民がファシズムの台頭を容認していった過程から考察された概念です。権威者(具体的にはヒトラー)への絶対的服従と弱者、異端者への攻撃、そして「自分たち」という仲間意識が特徴。国民一人ひとりは決して悪人ではなく、弱者への愛情も持っていたはずなのに、社会情勢による精神の(極度の)不安から、自己の自立心を持てなくなった人間の傾向を表します。こういった傾向は宗教(カリスマ教祖への絶対的服従)にもあります。

(補足5) Aという人物が「俺はこの国なんか愛さない」と言った。それに対してBという人物がそのAに向かって、「お前の考えは間違っている。この国に生まれたら、国を愛するのは義務だ」と言ったとしよう。ここでの問題は、国を愛することがAにとってどういうメリットがあるのか、Bはそれを説明す必要がある。本当にメリットがあるなら、Aはそれを知らずに国を愛していないことになる。つまり損をしている。それを教えるのもAに対する慈悲である。もしそうでなければ、単にBにとって自分とは考えを異にする人物が隣にいることが不快なだけである。

(補足6) プロテスタント内でも、ルターとツヴィングリは意見が対立しました。要するに宗教は、そんな細かいことはどうでもいい。自分の好きな方を選べば?とはならない。いかなる妥協も許さない厳格主義なのです。そこが宗教の弊害であることは言うまでもない。しかし同じように科学も厳格です。しかし科学と宗教は本質的に異なります。科学はその説が正しいか間違いかを判定できます。宗教にはできません。宗教が科学のようになろうとしても無理です。宗教は、その正しさを判定できないのに、あくまで厳格にこだわるのです。そんなもので人間は幸せになれるでしょうか?

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