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権力者と大衆


■権力者
 ナチスドイツの歴史は戦後さまざまな角度から考察されてきました。ヒトラーの精神構造についても多くの心理学者により分析がなされています。個人的な見解ですが、一言で言えば、ヒトラーは天才です。しかし飛びぬけた天才とまではいかない。
天才というのは生まれつきある(特定の)才能が他を抜きん出て優れている人間のことで、なぜ自分がこれほどまでに才能があるのか、本人にはわからない。天才の度合いが過ぎると、世間から変人に見られます。もっと度合いが増すと、それは狂人です。狂人は普通に社会生活を営むことが困難です。ヒトラーは普通の常識人です。で、なければ政治家にはなれません。
ナチ党で頭角を現すまでは誰もその才能を認めてくれなかったわけです。いわばただの凡人でした。その後政治家としてメキメキ才覚を現していったのです。ただし、善良な政治家ではない。(「わが闘争」を読めばわかります)
ただ彼を狂気に走らせたのは、大衆という大きな力と戦争という状況です。ヒトラーが大衆をたくみに支配したのではない。大衆(および側近)によって作られたのです。周りが彼を救世主扱いしなければこんなことにはならなかった。ヒトラーが何を言っても、「おまえはバカか!」といっておけば、ユダヤ人の虐殺もなかったのです。
バカな人間が一人いても被害は少ない。その周りに限定的に害をもたらすだけです。ただそのバカが権力を握っていたら、大きい権限を与えられていたら、国家の指導者だったら、その被害は甚大になる可能性があるのです。

■歪んだ思想
 ヒトラーの手足になって働いた武装集団がナチス親衛隊です。
実態はよくわからないのですが、彼らはエリート集団と呼ばれ、戦闘に優れているだけではなく、いついかなる状況下でも冷静な判断を下し、どんなに激しい苦痛にも耐え、死の恐怖を克服し、任務遂行に努める。鋼鉄のような精神の持ち主。まるで超人です。本当にそんなことができたのか疑問ですが、このように何よりも使命を優先する統一された組織をヒトラーは理想としたのでしょう。
同時に国民に対しても勤勉で身体強健、品行方正を求めたのです。しかし誰もがそんな理想的な(理想的というよりヒトラーの趣味に合っているというだけのこと)人間になれるわけがありません。ヒトラーと親衛隊の考え方は、国家の役に立たない落ちこぼれは滅ぼす。これを優性思想と呼びます。
神話によると容姿端麗で健康的な女性と、頭脳明晰、身体強健で優秀な親衛隊員の遺伝子から、理想的な人間を作る計画があったとかなかったとか?
こういう優秀な遺伝を持つ者ばかりを育てて、国を強くすることが、民族を存続させるために必要だという考え方です。彼らの思考は、「自分たちの民族は、永遠に生き残らなければならない」というもの。(補足1)
歪んだ思想だと思いませんか?このナチスの思想には重大な誤りがあります。第4章の「6.生物と進化」をお読みになった方はお分かりだと思いますが、これはみな生物の(種の)生き残りのための本能に基づいた行動、つまり自然淘汰によって培われてきた動物しての性質に他ならないのです。
しかも自然淘汰自体は無意味です(生き残るか生き残らないかは偶然が決定し、統計的傾向しか結果として表せない。さらに生き残ること自体意味がない)。
そう考えてみれば親衛隊の思想はただのけだものの欲求にしか過ぎない。人間的な思考から出てきたものではないということです。
一人の狂気が、一人の精神異常者が、数え切れないほどの悲劇を生むのではありません。その狂人を助ける大勢の(無知な)大衆が存在するのです。狂人と大衆がともに共有しているのが歪んだ思想です。強い者は生き残る。弱い者は滅びる。優秀なものは生かす。劣悪なものは絶滅させる。人間には優劣が存在する。世界にはその優劣を判定する絶対的な基準が存在する。世界には意味がある。人類が進むべき目的がある。その目的のためなら、どんなことでも許される。劣悪な民族をこの地球上から消滅させる。そのために何万人もの人間を殺すことも許される。いやそれこそが、神から我々に下された使命なのだ。世界には人間が進むべき方向がある。そして優秀な者だけが永遠に生き残る。それは神が定めた運命なのである。
もはやこれは宗教ですね。ナチスも一種の宗教だったのです。そしてその宗教は完全に狂っている。人間の頭が狂っているのではない。悲劇の背後には必ず誤った思想があると言えます。
思想が歪んでいる。誤った思想を信奉している。それに固執している。根拠がないのに、実際にはそうでないにもかかわらず、そうあるべき、そうでなければならない。それが正しいのだと勝手に思い込んで、その自分固有の信念がこの世界における善だと解釈してしまう。その結果、単なる本能、動物的欲望にも関わらず 何をしてもいい。何をしても許される と自分自身に思い込ませて、大量虐殺などを実行してしまうのです。
もしこの(誤った)思想がなければ、その人間に動物的欲望が表れたとしても、それを抑圧する、結果を恐れる感情が働くことによって、被害は最小限に押さえ込まれることでしょう。つまり歪んだ思想を持つこと(これは人間だけの特徴であるが)が如何に危険かを示しているのです。
神の意志が働いている。この世界には意志や目的がある。本当はそんなものはないにもかかわらず。(宗教にも同じような傾向があります)
では、正しい思想とは何か?それこそが現実に基づく考え方。すなわちこの科学概論のテーマである「科学」です。(それはまた最終章に続く)

■エリートの心理
 今世界中で事業を展開して、全世界の莫大な富をかき集めている巨大企業の経営者(その事業を人から受け継いだのではなく、自分が立ち上げた。つまり起業家)たちは、一体どういう心理なのか?(補足2)
もちろん彼らは天才ですよ。金儲けのね。しかし天才というものはたいてい一つの分野に関して天才なだけです。他は凡人並み、あるいは平均以下。つまり会社経営に関しては、飛びぬけた才能を持っているのです。我々凡人は、ある程度お金が儲かれば、もう稼がなくてもいいか、と思う。ところが彼らは、どれだけ金があってもそれで満足しない。億万長者になっても、あるいは老いさらばえた老人になっても、死ぬまで金を儲けることしか頭にない。一生お金を稼ぎ続けないといられない。まさに本能によって生きている動物と同じです。これも自然淘汰から出てきたのでしょう。(補足3)

■人格障害
 天才といわれている人間は一種の精神病質(精神病というと失礼なんで)かもしれません。生物学的には、平均から一程度ずれているものは異常と判定されます。その偏りが良い方向か悪い方向かに関わらずです。
サイコパスという言葉をご存知ですか?国の指導者、あるいは独裁者、大企業の経営者などに多いそうです。
人格障碍者という意味です。生まれつき脳の一部の機能が働かず、あるいは抑制されているため、人間的な感情が持てず、可哀想だなどの同情心、罪を犯した際の罪悪感、犯罪に対する恐れ、抑制機能が正常に機能しないことにより、結果として凶悪犯罪の常習者になる可能性があるというもの。ただし、すべてが犯罪者ではない。IQが高く、感情に左右されにくい、不安等を感じないことから、組織のトップ、政治的指導者、企業における最高経営責任者など、人の上に立つ地位の人間にその傾向が多いそうです。そういう立場の人間には、冷静沈着かつ状況を加味して適切に判断を下す能力が要求されるからです。
なぜ感情が働かないのか?それは人間特有の障害であり、他の動物には決して起らない。つまり論理的思考が可能な人間において、もしその思考能力が強すぎると、感情を司る脳の機能を押さえ込む。(補足4) すると判断には感情が伴わない思考一辺倒となる。思考の妨げがないから、IQも高い。思考が論理に基づいたもののために誤りも少ないことから、大抵の場合その判断は最も適切となります。
ああでもないこうでもないと思い悩んだり、失敗に対する不安に襲われたり、人間的な感情を抱くことが、迅速に判断しなければならない状況では邪魔になるからです。
ただし、必ずしも思考が適切であるとはいえない。たとえばこれはあくまで青山の仮説ですが、サイコパス的人間ほど、「神の存在」や「死後の世界」を確信的に信じ込んでいるのではないかと、想像します。だったら怖ろしいですよね。(補足5)

■リーダー不要論
 リーダーとはさまざまな局面において全体としての判断を下せる人間を指す。頭脳が飛びぬけて優れているわけではありません。手足となって働く側近から必要な情報を得て、過去の事例などから総合的な判定を行い、配下の部署に命令を下す。
リーダーは大勢の人間から頼られるが、冷徹に(感情移入せず)判断を下す。その際一部に犠牲者が出る。犠牲者は当然不満ですが、多数の者には満足を与えます。
さて、果たして社会にリーダーなんか必要でしょうか?もちろん組織にリーダーは必須です。リーダーがいなければ組織は何もできません。
ただし、組織におけるリーダーは一担当者と同じです。全体を統制するという一つの役目を負った担当者の一人に過ぎないのです。誤解してはならないことは、リーダーとは絶対的な権限を持った唯一の統制者ではなく(ただし権限は一番高い)、周りからの批判を受けいれて、その批判を総合的に判断し最終決定を下す存在。まして雲上の人とか、または超人的才能を持ったスーパーマン。なんかでは決してありません。仮にそんな人間がリーダーになったら組織は終わりです。なぜなら周りは批判すらできないからです。
ところで、国家や社会は組織ではありません。国のリーダーというと大統領とか首相とかを連想しますが、果たして国家や社会にリーダーなんか必要でしょうか?そんなものがあると庶民はそれに頼る。(補足6) 
世間では求められるリーダー像なんかが語られていますが、はっきり言って国家にリーダーなんか必要ない。単なるお飾りならなくてもいい。(あっても悪いとは思いませんが)
「しかし、国にリーダーがいなければ、一人の指導者がいなければ、国民はまとまらない、国を束ねることはできない。」とおっしゃるかもしれませんが、ではなぜ国を束ねることが必要なのですか?なぜ国民をまとめなければならないのですか?国民一人ひとりは(たとえ兄弟でも)顔が違う以上、生き方も考え方も違うのは当然。それをどうして一つに合わせる必要があるのですか?
「国民が協力して一つのことを成し遂げるために。」その一つのことって何ですか?それは戦争して敵を倒すことですか?
以前にも話したとおり、国民すべてが協力し合って実現させるべきものは平和です。つまり”国内”において争いをなくすことです。他国間においても、つまり世界平和を成し遂げるためには、自分たちの国だけではなく、世界中の人々すべてに協力してもらう必要があります。
人は本来個性を持っています。その個性、自分らしさを捨てることは、人間をやめることと同じです。ただし、同じ考えを持つ者、一つの目的に同調する者同士が互いに協力し合うことは大いに意味があります。そのときにはリーダーが必要かもしれません。ただ人間は本来自分の意志で生きるもの。リーダーなどに頼らずとも、自分の人生なんだから。
時にはリーダーに頼ることもあるかもしれませんが、場合によってはリーダーなど不在かもしれません。そのときはどうするんですか?そういう状況でも人間は生きていくしかないのです。
とにかく善人か悪人かを見極め、我々にとってより良いリーダーを選ぶことではなく、誰であってもリーダーなど必要ないということです。
何かに頼りたい。そこに「甘え」がある。はっきり言ってリーダーなんか必要ない。そんなものに頼ってはいけない。人間はあらゆる人の意見や考え方を参考にして、総合的に判断を下せばいい。つまり自分にとってのリーダーは自分です。あなたにとっては、大統領や首相の言葉よりも、友人の話の方が役に立つ?かもしれませんよ。大統領や首相が、国家のためとか、国民の幸せのためとか言っていろいろな政策を行いますが、結局は自分が”儲けたい”のです。そんなことは当たり前です。大統領も首相も所詮人間ですから。自分の利益をど返しして、国民のために尽くした政治家が今までにいましたかね?(補足7) どこの国の大統領も首相もただの凡人です。優秀な人間ではありません。もし飛びぬけて優秀、あるいは聖人の域に達しているなら、国民は誰もそんな人間に付いてはいけませんから。(補足8)
支持したリーダーが実は独裁者かもしれない。そうなったら我々国民はもう逆らえない。反対したら弾圧されますよ。悲劇のもとは、誰であれ一人のリーダーを支持してしまったこと。肝心なことは、そのリーダーが善人か悪人かを見分けることではない。あるいはリーダーの人格、思想、そんなものはどうでもいいのです。人格がどうであれ、思想がどうであれ、リーダーを求めてはいけないのです。極端な言い方をすれば、この社会の構造は、一人の狂人(カリスマ的政治家、あるいは宗教の教祖など)が多数のバカ(無知な大衆、信者)を支配するかたちです。そして上でも述べている通り、この大衆が熱狂的、あるいは盲目的に指導者を支持することによって、世の中のあらゆる悲劇を起こしているのだと言えましょう。

■愚かなる大衆
 ここまで話してきた通り、たった一つの誤った思想を、狂った指導者と無知な大衆が共有することが如何に危険か、ということです。どこの国でもだいたいそうですが、大衆は大抵無知。それにつけこんで指導者連中は我々をだますのですが、我々庶民の方にも当然問題はあります。大衆は政治面でも経済面でもことごとく無知。普段日常においてそのような知識は必要ないからです。無知なら無知のまま何も考えなければいい。関わらなければいい。選挙なんか行かなければいい。ただ政財官の悪党たちはその無知に付け込むんです。単純で幼稚な政策(それでいて金持ちだけが儲かる)を吹聴し、マスコミを使って大衆を洗脳するんです。無知な大衆は簡単に騙され狂気と化してその単純な政策に飛びつくんです。これはご存じナチスドイツのやり方なんです。その愚をいつまでたっても繰り返す。それが、自分だけでも、あるいは少しでも楽しみたいという愚かな大衆なのです。(補足9)
庶民は大概保守的で、世の中を変えようという気はなし。「私は今までにこんなに苦労をした」という自慢話と、「なんで俺がこんな苦労をしなければならないんだ」という愚痴ばかり。自分を被害者に仕立てるのが好き。そりゃあ世の中が少しでもいい方に変わってほしいという願望はありますが、願望だけで実際は何も行動しません。人から命令されない限り庶民は自ら動くのが嫌なんです。なぜなら自分から率先して動いたら、周りから責任を問われるからです。
それならそんな出来もしない願望など最初から抱かなければいいと思いますが、そんな庶民もいつか自分にも幸せが巡ってくる。あるいは誰かが、特に国の指導者が自分たちに幸せを与えてくれるという甘い期待を捨てきれないのです。甘い。甘い。大衆はみな甘い。アメリカ人も中国人も北朝鮮人もそして日本人も。どこの国に生まれようとも、どんな身分に生まれようとも、生きていくのが苦しいのは当たり前。この世のどこに喜びや楽しみがある?それなのに何を甘えたことを言ってるんだ。苦しみの中には必ず甘え(甘い期待)ある。もちろん苦悩の真っ最中に甘えなどない。ただ苦しみしかない。ただし、苦が去った時に甘えが生じる。苦しみの後には必ず甘えがある。その甘えとは、人よりも得を得たい。自分一人が抜きん出たい。という欲である。苦しい時には決して持たなかった欲である。その一瞬の甘えが死を招く。
その庶民の甘えに政治家は付け入る。政治家に言わせれば、付け入っているのではない。従っているのだと。「これが国民の希望ですから。我々政治家は、国民の意志に従うまでです。」と言って、景気回復、自分たちが豊かになるためなら、戦争もやむを得ない。「というのは国民の願いです。」と政治家は言い訳をする。そう言い訳をさせているのがまさに国民である。国民が政治に対して寛容あるいは無関心のまま過ごしている内に、いつの間にか独裁政治が進行している。つまり恐怖政治や独裁者出現の背景にあるのは、国民の”甘え”なのです。
さらに大衆は金持ちに媚びる。そうしてオコボレをもらいたいか?権力者の犬になって楽しいか?見返りなど何もないのに。(補足10) 自分が社会の中でちっぽけな存在だと知ると、彼ら愚か者たちは開き直って権力者に媚びる。自分よりも弱い者を虐げ、常に強い者の味方。いったいこの愚か者たちは、人間して何のために生きているのであろうか?
「少しでも利益を得るために、そうしないと我々貧乏人は生きていけない。そのために金持ちに胡麻を擦る。好きでそうしているわけじゃない」。
いいえ、好きでそうしてるんです。金持ちに胡麻を擦らなくても生きていけます。青山がその証拠。逆に胡麻を擦ってもいずれ死にます。もちろん地位ある者に気を使わない青山は周りから邪険にされます。でも社会ですからね。いくら気を使っても嫌われるときは嫌われる。そんなことは気にしない。それが世の中楽しく生きるコツでは?ただし権力に尻尾を振るのが幸せならどうぞご勝手に。金持ちドモにヘイコラへつらうことに快楽を感じるならどうぞご遠慮なく。(補足11)
青山には地位も金も能力もありません。それでも権力者に媚びることだけは死んでもご免です。
大衆は自分たちが社会を動かしているという自覚がない。ただ言われるまま。結局この不特定多数の大衆こそが世の中を駄目にしている元凶なのです。なぜ世界にはこれほどまでに不条理が存在するのか?なぜ世界には希望もなく、優しさもなく、苦しみと悲しみしかないのか?その原因は庶民にある。すべては庶民が悪い。一番悪いのは庶民だ!憎っくき庶民!(補足13)
青山は権力者にも、あるいはその背後にいる大衆にも媚びへつらうことはしない。青山は大衆の敵でありたい。何のために生きているのかさえ考えない一億人のバカを喜ばせるよりも、弱者、少数者、虐げられたものの味方でありたい。
ただし、庶民の中にも考えている人はいます。自分は何のために生きているのか、目的をはっきり理解してね。人間はあくまで自分の意志に従って生きる動物です。「ああしたい。こうしたい。あれが欲しい。これが欲しい。」ただ本能に従うだけでは犬や猫と同じです。本能とは自分ではない何か(生き残りたいという欲望)の作用、それに引きづられているだけです。つまり自然淘汰によって培われた性質。しかも自然淘汰自体に意味はない。生き残らなければならない理由など存在しない。生き残るための性質があったからこそ結果的に生き残っているだけですから。
もしあなたが、人間は進歩しなければならない。人類は発展すべきである。という思想を当たり前のごとく抱いていたとしたら、それは野生動物と変わらない、自然淘汰の奴隷に過ぎないのです。進歩って何ですか?どの方向へ進むべきなのでしょうか?人類の発展って何ですか?宇宙にそんな方向なんてありません。人類の大部分は、いかなるエリートでも、ノーベル賞を取るほどの優秀な科学者であっても、所詮自然淘汰の原理を一歩たりとも踏み出してはいない。人間は他の動物とは一線を画す。飛躍的に進化を遂げた存在である。なんて言うのは、無知な人間の単なる思い込みに過ぎない。もし動物を超えたいのなら、自然淘汰の原理から抜け出したいのなら、動物としての本能の使役から逃れて、進歩や発展という言葉に騙されず、世界は無意味であることを知ることです。
では、我々人間は何のために生きたらいいのか?生きる目的とは何か?それは最終章でお話しします。

■不平不満だらけの大衆
 たとえば朝通勤時間帯の電車に乗っている乗客たちの顔を見よ。皆口に出しては言わないが、何か文句を言いた気で、不満が顔に出ており、その不満を馬鹿笑いで誤魔化している。まるで嫌々仕事に出かけて行くみたい。まるで嫌々生きているみたい。この乗客の中に、本当に幸せな人間が一人でもいるだろうか?生き生きとした人間が果たしているだろうか?この広い社会において心から喜びに溢れている人間など一人も見つけられないだろう。いったいどこに幸せな人間がいるというのか?
何が不満だと言うのか?誰も口にはしない。はっきり言えばこの世は不満だらけである。それは当り前のこと。そんな夢も希望もない世界に望んでもいないのに自分は生まれさせられた。誰に文句を言えるわけではないが。あるいは自分は騙された。楽しい世界だと聞かされていたこの世が、実のところ不平不満のるつぼだったとは。それとも夢に浮かれた自分が愚かだったのか。
特に若者たちの不満は顕著である。彼らは今にも怒りを爆発させるか、下らない享楽に身を任せるか。来る日も来る日も彼らはこうやって生きている。一体彼らは何のために生きているのか?目的などない。ただ欲望の赴くまま生きているだけである。彼らは開き直って言うだろう。理由なく生きてはいけないのかって。それは正に犬や猫と同じである。
先進国で豊かな社会の人間ですらこうである。本当に真の幸福とは何なのか?

■大衆の甘え
この世の中は苦しみと悲しみに満ちている。楽しみや喜びなど一切ない。(こういった考え方を”ペシミズム”といいます。代表的なのは仏教の「一切皆苦」(後述)) 悲しいかなそんな世の中に我々は生まれてきてしまった。もはや生まれる前には戻れません。それで誰もが不平不満。しかしそんなことは当り前。いまさら何を言っているんだ。これこそ庶民の甘え。庶民は、「自分は被害者だ」という意識が強く、何事も他人の精にしたがる。「自分が貧乏なのはあいつの精」 保身のために周りに気を使うが、自分が損をすると烈火のごとく怒る。弱い者を攻撃し、権力者には媚びる。見た目や社会的地位を何よりも重んじる。それでも自分は必死に生きていると自負している。「俺はこんなに苦労しているんだ」とね。
必死に生きているのは何も君だけじゃないよ。ハエやゴキブリだって必死だよ。だって必死じゃなければ生き残れない(子孫を残せない)。人間の中で、ダニよりも必死な者が果たしているだろうか。
愚か大衆は、いつも自分がいかに苦労してきたかを自慢したがる。そして周りから同情を求める。そんな昔話をいつまでも自慢したがる者は、実は大して苦労していないのではないか。単に甘えているに過ぎないのだと思う。(青山なんか何も苦労してないもんね。それが自慢です)本当に苦労した人間は、口さえきけないだろう。
結局政治や社会が悪い根本的な原因は、(例え中世の封建社会においても)庶民にあるのです。我々庶民が賢くなれば政治家も賢くなります。(生態学的に政治家は嫌でも賢くならざるを得ない) 庶民が愚かなら政治家も必然的に愚かになります。

■社会淘汰
 社会に不満を持つ者、社会の大勢に逆行する者は、社会の中で疎外され生き残れない。このような現象を「社会淘汰」と呼びます。ただし、社会の傾向は常に、絶えず変化するため、奇異な行動も一時的にもてはやされることはあるでしょう。この社会淘汰も生物学的な意味での「自然淘汰」と同じです。(厳密には異なりますが) しかし一人の個人にとってもてはやされる。あるいは生き残るなんてどうでもいい。人間はいずれ死ぬのですから。この世に生まれてきたからには、社会に受け入れられる受け入れられないに関係なく、自由に生きる。それこそが自立した人間といえます。
常に社会に同調して自分の個性を捨てて生きる。そこになんの価値があるのでしょうか?社会もこの世界も目的や方向性などないのです。(後述)

■民主主義の危機
 政治の世界において、権力掌握に野心を抱く輩の存在は民主主義を危険にさらすということです。政治は大衆が握るもの。国の行く末を決めるのは政治家ではありません。国民です。政治家はその民意に忠実に従うのみです。政治家は己の信念に基づき、国のかじ取りをするのではない。あくまで国民の代弁者です。だから議会議員を代議士と言うのです。その原理原則に反して、多くの国では、政治家たちがライバル(自分とは考えを異にする政治家たち。つまり与党に対して野党)をいかなる手段を用いても倒し、権力をわがものとすることに日々を費やしている。時には弱い立場の国民を犠牲にすることも。そんな奴らを野放しにしていたら、民主主義は崩壊します。
国内の権力争いは当たり前のことと思ってはいけない。それは国民に犠牲を強いる結果をもたらす。その権力争いに勝った者が国および国民を掌握する権利を得る。本末転倒。完全におかしい。権力争いは悪です。権力者たちは、口では「国民の幸福のため」に権力を握ったとほざくが、余計なお世話です。いったい奴らは何様なのか!権力者が求めるのは己の利権です。私利私欲の権化である奴らは一人一人の国民なんかどうでもいいのです。
民主主義とは国民一人一人が、例え己が社会的に未熟であり、政治的に無能であっても、自国の在り方は自分が決める。という責任を持つこと。それを怠れば、国政は権力者たちに握られてしまう。即ち国民は奴ら(指導者、権力者)の奴隷になるしかない。国を発展させるのも、国を亡ぼすのも、国民次第ということです。つまり何があっても国民が悪いのです。政治家は雇い主である国民の命令に従うだけです。
もしそれ(国のかじ取り)ができないというなら、国民として政治を司るという権利を自ら放棄し、己の生活を権力者たちに委ね、自分は臣民という身分に甘んじることを望むに等しいのです。それは即ち独裁国家の誕生です。(「国家の体制」、「比較 国家の体制」参照)
リーダーなど不要です。自分の生き方は自分が決めるのです。

■民主主義とは何か
 民主主義の対局は独裁です。国民が一人のあるいは少数のリーダーに政治的権限を委任した時点で民主主義は終わりです。結局突き詰めれば、共産主義、共和制、大統領制すら民主主義とは言えません。民主主義とは、常に国民一人一人が最高権力者であり、国民は己の意思のみに従いたとえ大勢に逆らっても自ら行動して、国家のすべてを決定する。そうした権限を持つことを指します。(ただし、いかなる人間でも他人のことまでは決定できない) そして国家のすべてに対して責任を負う。政治家の精にはできない。というもの。
ただ、現実的に全国民が自分で行動して国家のすべてを決め、その全責任を負うことなどできるでしょうか?一人一人の国民は弱い。無力です。民主主義など放棄して政治権力のすべてを政府あるいは権力者に委ねる。責任は政府にとってもらう。自分が責任を負うのは嫌だ。自らは国の家畜に甘んじてもいい。民主主義よりも独裁政治の方がまし。生きていく上でその方が楽だからです。独裁者が神のごとく完ぺきな人間ならそれもありです。しかしそんなことはありえない。いかなる政府も腐敗する。最高指導者も間違いを犯す。人間だからです。(補足14)
国民一人一人が政治に関心と責任を持ち、自らの国家は自らが仕切らなければならない。という自覚を持つにはどうしたらよいか。現実の生活や自分の暮らしが政治と密接に関わり、自分の行い次第によって政治がそして暮らしがどうにでも変わるということを知れば、人々は嫌でも今の政治に関心を持ち、自ら行動するでしょう。そのために政治と生活がもっと直接的に関わるような社会に移行すべきと思います。

■一人一人が賢く生きる
 とにかく自分が大衆の一人であっても、ただ世の中の流れに追随するだけなら、生きている価値はない。あなたは人間なのです。何が正しいのかあるいは間違っているのか?それを決めるのは、法律でも裁判官でもありません。大企業でもマスコミでもない。ましてや官僚や総理大臣でもない。そして大衆でもありません。それを決めるのは宇宙でただ一人、あなたです。よくよく考えてみましょう。社会はおかしな方向に向かっていませんか?その流れにあなたは盲目的に従っていませんか?いつの時代も強者が弱者を助けるのです。(補足15) 人よりも自動車が優先される社会であってはいけないのです。子供と年寄りを守るのが大人の務めです。そんな当たり前のことが壊されようとしている。疑問を持たなければ気付かないでしょう。もしあなたが本当の人間なら、その澄んだ目で社会を見渡し、理性を持って考え、おかしいことに対してはおかしいとはっきり声を上げるべきです。あなたがただの馬鹿ではないなら。

(補足1) これはただネズミやハエが自分たちの種を生き残らせるために(無意識に、全くの本能によって)子供をたくさん産むのと根は同じです。ドイツ民族が生き残ろうが、あるいは滅びようが、宇宙にとってはどちらでもいい。

(補足2) 社会を支配している政財官のエリート、特に経済をコントロールする力を持った知的エリートたちの精神構造を分析すると、彼らは景気が低迷することを病的なほど恐れているのが分かります。彼らは景気が後退して大衆が反乱を起こし、そして真実を知ることを何よりも恐れているのです。なぜならエリートよりも大衆の方が数は多いから。従って彼らは常に儲けていないと(無限に富を得ていないと)いけない。つまり彼らの弱点は景気を後退させることです。
これは青山の推測ですが、エリートたちは神や地獄が存在すると信じているかもしれません。彼らにとっての神とは本当は悪魔のことです。悪魔の命令に従ってどこまでも金を儲けて、大衆を支配しなければならない。その神の命に背いて金を儲けることを止めてしまえば、自分は神の罰を受けて地獄に落とされる。彼らにとってそれがいかに恐ろしいことか。しかし神も悪魔もそして地獄も存在しません。悪魔の正体は自分自身の心の中に巣くう(自然淘汰から生まれた)動物としての本能であることが見抜けないのです。皮肉なことに彼らの恐れの要因は、彼らが軽蔑する「進化論」なのです。

(補足3) 例外も多々あるかと思いますが、庶民よりもエリートの方が比較的社会に貢献している人、あるいは人道主義者や篤志家が多いのはなぜでしょうか?人間としての人格面でも高い人が多いのです。庶民は時間的にも金銭面でも余裕がありません。その日一日生きていくことで精いっぱいだから、社会や他人のことに関心をもたないのです。そんな庶民を見て、金持ちやエリートと言われる連中は、なんでこう愚かなのかと思っていることでしょう。金持ちやエリートたちは、経済的にも能力の面でも余裕があります。だから社会の問題についても関心を示し、金銭面でも余裕があるから社会に働きかけることができるのです。
※どこの社会でもだいたいそうですが、親切で教養があり人格が比較的高い人間は、裕福な人に多い。経済的にゆとりがあるから、人に優しく接する余裕があるのでしょう。(ということは、人格の高い低いも偶然のもの?) では、われわれ庶民が人に優しく接することはできないのでしょうか?経済的に裕福ではなくても、こころに余裕があれば、それは可能だと思います。(ただし、人に優しく接することだけが人間的な生き方とは言えないと思います)

(補足4) 押さえ込まれていても、感情の機能が完全に死んでいるわけではない。死んでいるなら脳は成り立たない。その人間は生きてはいけないでしょう。もし、繰り返し残虐な犯罪を犯す、しかも罪の意識をまったく持つことができない凶悪犯罪者がいたとしても、感情が死んでいなければ、その抑圧された感情を(逆に論理的な思考を抑圧することにより)解放することによって、罪の意識を持たせることも不可能ではないと思います。つまり人間は更生可能。ただそのためには多大なコストと長い期間が必要ですが。

(補足5) 彼らはすべて理屈に基づく思考を行動の指針にしています。従って「何々であるべきだ」とか「何々でなければならない」という思考しか取れない。そこには世界は全て理屈に因っているという前提があります。しかし実際はそうではありません。世界は何から何まで理屈で片付くわけがない。理屈は必ず破城します。そうすると彼らの思考はブレーキが逝かれた車のように暴走します。それがもし政府や大企業のトップだったとしたら・・・

(補足6) 企業や宗教団体、あるいは国家においても、カリスマ的リーダーと呼ばれている人たちがいます。たとえば国家的指導者など、国民誰からも慕われている。リーダーが右と言えば右。左と言えば左。誰もがそれに従う。権力によって強制的に従わせているのではありません。リーダーに間違いはないと国民は信じ込んでいるのです。ある意味盲目的に頼っているとも言えます。従ってもしこのリーダーが倒れると国は大混乱します。たった一人の人間の精で国がおかしくなる。それはこの国が三流であることを証明しているのです。会社でも宗教教団でも同じです。「この人がいなくなったら大変だ」。それはまさに三流の証し。普通なら、その人が辞めようが、あるいは突然死んでしまおうが関係ない。なぜなら代替えがいるからです。いくらでもピンチヒッターはいます。リーダーが「おれは辞める」と言っても何も困りません。
リーダーの中には表向きは善人で、実は凶悪な独裁者という場合も歴史上多々ありますが、そうじゃない善良な指導者の場合においても盲目的に頼ってはいけない。なぜならそのリーダーには必ず下心をもつ、あるいは利権を求める取り巻きが群がるからです。要はリーダーが善人か悪人かが問題なのではなく、カリスマ性を持ったリーダーは全てにおいて駄目だと言うことです。

(補足7) 人間は誰であっても(どれほどの聖人君主であっても)自分の幸せを第一に考える。いかなる政治家も自分の利益、保身に生きる。そういうものです。こんな政治家の言葉に騙されてはいけません。国のため、国民のため、全人類のため、未来の子供たちのため、と言いつつ、そんな抽象的な者のために人は命を捨てられない。ただし、人間は一人の隣人のためなら死ねるのです。

(補足8) 世の中では、体制側のエリートを押しのけ、突然無名の人間が社会に現れて、常識破りで破天荒な行動が世間の注目を浴びることがたまにあります。彼らはスーパースター(あるいは寵児)と呼ばれ、既得権をぶっ壊すと豪語して、それが信者と言われる支持者たちから狂信的な喝采を浴びることになる。まるで一種の新興宗教のよう。このスターがいわゆる教祖であり、そこに妄信的な信者が群がるわけです。
しかし名が売れて、ある程度の利益を上げれば、後は”保身”。常識破りもただの売名だったのです。熱狂は長くは続きません。(相変わらず隠れ信者は残っているかもしれないが) 結局は信者をバックに好き勝手なことをしているただのわがまま人間なのです。だから信者が去ればもはや何もできません。ここにあるのは、社会に不満を抱き、自分を取るに足らない存在だと嫌々ながらも認めざるを得ない無名の庶民たちが、この常識破り人間を応援することによって、自分たちの夢(社会に影響を与えたいという願望)をかなえてくれるという淡い幻想だけです。
スターと呼ばれる教祖も、教祖に群がる信者も、心が弱い人間です。その弱さを権威に依存することによって補おうとしているだけです。

ここで一言。
 人間はもともと孤独な存在です。結局一人しかいないのです。いかに努力したところで、自分は取るに足らない存在なのです。ただし、自分は宇宙で唯一の存在です。もしあなたが独立した、且つ主体性を持った存在者であるなら、たとえ背後に味方も何もなくとも(支持者など一人もいなくても)、一人世界(あるいは神)と相対する姿勢。そして外部のいかなる権威(宗教、組織、リーダー、スター)にも依存しない勇気が必要です。その孤独な勇気はどこから生まれるのか?それこそが隣人に対する慈悲です。

(補足9) 大衆の中には開き直って、「無知のままじゃいけないのか。政治について考えなければならない義務なんかあるのか」と言う人もいるかもしれない。もちろん無知のままでいたいというならそれも自由です。ただし、無知に付け込まれて詐欺にあい大損してもそれは自分の責任ですよ。

(補足10) 大衆は権力者を恐れる。しかし実体は反対です。権力者、当局、政府の方がむしろ大衆を恐れているのです。支配者側にとって大衆一人一人などは塵です。ただしそれが多数、何万、あるいは何億と集まったら、これほど恐ろしいものはない。だから権力者は大衆を集団化(団結)させないように手を尽くすのです。太平洋戦争中、日本の政府当局が、国民に負けているという事実を隠すために、ニュース報道を統制したのも、大衆の反発を恐れた結果です。もし真実が大衆に知れたら・・・と考えると、為政者たちは身体を震わせて怯えることでしょう。

 権力者たちが国民を支配する動機。政府当局が国民一人一人の行動を常時監視しその生活を完全管理する目的。全ては奴らが大衆を恐れているからに他なりません。
どんなに強大な力を持った権力者であっても、大衆が束になれば逃げ出す他ない。結局いかなる独裁者、権力者でも一人では何もできない。弱いのです。むしろ(人よりも)臆病者かもしれません。全く恐れるに足らない。というわけです。
 例えば戦前の日本。政府や軍部がアメリカとの戦争を強引に推し進めた?違います。大衆がそれを望んだのです。もちろん国民の中にも戦争反対派はいたでしょう。しかし反対派は少数です。そんな少数派は大勢に押しつぶされる。そして政府の中にも主戦論者もいた。しかしもし国民の大多数が戦争反対なら、政府も軍部も逆らえません。逆らったら殺されます。国民の方が多数だからです。当時の政府はむしろ和平を進めたかったのです。なぜなら理性的に考えれば、大国アメリカと戦っても負ける。政府はそれが分かっていた。しかし世論には勝てなかった。国民に逆らうことは政府の崩壊を意味します。
もちろん無知な大衆を戦争へと煽る魑魅魍魎が跋扈していたのは事実です。国民はそれに踊らされただけかもしれない。魑魅魍魎たちはやたら精神論を持ちだして国民を巧みに誘導するのです。その背後にはさらにおぞましい奴らが控えている。奴らの狙いはただの金儲けです。我々は理性を持ち、騙されないように心がけるべきです。

(補足11) 一部の労働者が労働条件を良くするように政府(あるいは世論)に働きかけたとすると、他の労働者はその行為を苦々しく思う。なぜなら、労働条件の改善は雇用する企業側を委縮させる。それが雇用の低減につながりかねない。労働者は低賃金でも奴隷労働であっても、仕事がもらえないことの方がより深刻なのである。そのためにはあくまで企業側に媚びへつらう道を選ぶ。(補足12) それが労働者も企業もともに甘やかさせる結果を産む。

(補足12) 企業側の狙いは、自分たちに逆らう労働者と従う労働者に分断させることにある。数の上では労働者の力の方が大きい。その力の分散を図ったものである。甘えた労働者ははした金をちらつかせれば、すぐに企業側に寝返るであろう。

(補足13) 先進国でも、愚かな政治家(大統領や首相を含む)が国民から支持されることがあります。彼らはある程度の知識人(学者、評論家等)からテレビや著作で散々は批判されています。「あいつは歴代大統領の中で一番馬鹿だ」とね。こんな人間がなぜ政治家を続けられているのか?それは知識人が全体から言えば少数派だからです。大多数の大衆は無知だから。庶民が政治家を「馬鹿だ」と批判したら、逆に相手(その政治家のシンパ)に、「ではおまえは利口なのか?」と責められる。そうしたらもともと無知な庶民は言い返せません。(よっぽどのスキャンダルを起こしたら話は別ですが) それが嫌で庶民は、その政治家に個人的には(大いに?)不満があっても、支持せざるを得ないのです。
しかし、庶民の無知ぶりを責めるわけにはいきません。彼らは彼らなりに忙しい?のです。(中には下らない遊びにうつつを抜かしている愚か者もいるが) 自分の生活のことで精一杯の一庶民に、政治についてもっと勉強しろと言われても無理です。要は他にまともな政治家がいなのが原因。とにかく知識人を中心に、誠実で優秀な政治家を育てること。まあそれしかないでしょう。そして大衆のレベルを少しでも上げること。

(補足14) 日本でも特に若者を中心に政治的無関心層が増えているようです。スポーツ選手や芸能人のことは関心を持つけれど、政治についてはまったく無知。選挙にも行きません。まあ毎日が忙しくて、専門家でもあるまいし、国家原理、政治思想、歴史などを勉強している暇なんかないのでしょう。難しいことに関わるのは嫌。希望に乏しい将来のことを考えるよりも、今を楽しく生きたい。しかしそれは、知らず知らずの内に専制政治に移行する恐ろしい予兆かもしれない。
国の権力者と言えばかつては国王でした。しか今や王室や皇室はもっぱら世間の話題の対象。有名スターやアイドルと同じ。一般庶民の憧れです。人々は王室や皇室の人間と箔も取り柄もない自分とを同一視し、実はまったく無関係であるにも関わらず、常に話題の対象として追いかける。しかしそれは言ってみれば一種の”現実逃避”とも思えます。

(補足15) 子供の頃、誰でも人間としての生き方として「正義の味方」や「弱い者を助ける」ということを理想としてきたはずです。それは建前ではなく、実践しなければならない。ところが多くの大人がそれを実践できていません。「弱きを助け、強きを挫く」が「弱きを虐げ、強きに媚びる」、人間として最低の生き方です。巨大なもの(組織、国家)にしがみ付き、社会的地位のある者に取り入ろうとする。情けない限りです。
最近インターネット上で、顔も名前も隠して匿名で弱者を攻撃する者が増えている。逆に権力は賛美する。そういう輩は、自分自身に何もない、この社会において何の価値もない、ことを知っているが故、自分の存在を少しでも肯定するためにこのような行動に出るのでは?
でも、そうしないと生き残れない?生き残ることに意味などないのです。(「自然淘汰とは何か」参照)

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