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釈迦の生涯 悟り


 釈迦は修行の末ついに悟りに達しました。悟りを得た者を仏陀と呼びます。仏陀とは宇宙の真理を覚った者、覚者と訳されます。
仏陀と言うものは別に人間離れしたスーパーマンではありません。ましてや神かなんかでは決してない。ごく普通の人間です。普通の人間だから、親があり、兄弟もいる。食べる。飲む。歳をとる。そして死ぬ。仏陀は釈迦だけではないかもしれませんよ。釈迦以前にもたくさん仏陀がいた可能性もあります。
 それはさておき、釈迦が仏陀になってまず考えたことは何でしょうか?
まず彼はこのまま入滅する(自然に死ぬ)ことを望んだようです。なぜなら自分の悟った法の内容は微妙であり難解であるがゆえに、他の人間にはとても理解できないであろう。説法しても無駄だと考えたのです。
自分はこのよう悟ったので目的は達した。人々に説法(悟りの内容を説明すること)できないのならこれ以上生きている意味は無い。だから死のうと。
この話は過去に釈迦以外にも仏陀がいたという根拠になっています。釈迦以外の仏陀はみな、ここで一人入滅の道を選んだのです。
入滅とは首を吊ることでも崖から飛び降りることでもありません。そのまま何もせず(何も食べない、呼吸もしないというのではない)自然に死んでいくこと。(人間は皆最後には死んで行くだけ)
つまり多くの仏陀は人々に説法しなかったのだから一切記録に残っていないのです。釈迦は例外なのです。当時のインドでは釈迦以前にも仏陀がいたという伝説があり、それを信じてきたと思われます。記録がないからいたとは言えないけれど、いなかったともいえないでしょう。
さてその時です。釈迦の前に梵天が出現したのです。梵天はインドの神で、宇宙最高神です。もちろん、これはすべて釈迦の心の中の出来事です。梵天など存在しません。
梵天は釈迦に言った。
「釈迦よ。死ぬな!あなたが法を説かなければ、教えは消滅してしまうであろう。次の仏陀の出現まで永い永い教えのない世が続く。多くの衆生がどれだけ長い間仏陀の出現と教の流布を待ち望んでいたことか、この世にはあなたのように賢く、法を理解できる者もいる。さあ、その者たちのために法を説け!」と。
そこで釈迦は法を説く決心をするのです。確かに梵天の言うとおり、在家の者に法を説いても無駄ですが、少数ではあるが道を求める出家者たちはいる。彼らなら自分の法を理解できるであろうと。
日本においても、今日まで経典が残り多数の寺院が建てられ、沢山の僧侶たちがいる。身近にいる坊さんに尋ねてみてください。あなたが寺を得て僧侶として生きていけるのは誰のおかげですか?と。釈迦のおかげではないよ。彼は死のうとしたのだよ。すべては梵天のおかげさ。梵天がいなかったら仏教は無かった。
さて梵天が去った後、次にマーラ(悪魔の一人)が現れた。(これも釈迦の内面の心象です)
マーラは釈迦を死に誘惑した。
「釈迦よ。あなたは目的を果たした。これ以上この世に生を保つ意味はない。死を選んだ方が賢明ではないか?」
釈迦はマーラに言った。
「マーラよ。私は法を説く。そして法を説き切ったとき、潔く入滅することをおまえと約束しよう。」
釈迦と約束したマーラは去った。その45年後にマーラは再びやって来るのです。
先ほども言いましたが、この梵天とマーラの出現は釈迦の内面の葛藤を表していると言えます。すなわち「生きるべきか、死ぬべきか、これが問題だ。」(「ハムレット」のセリフ)とでも言いましょうか。
梵天の忠告の受け入れたのは、釈迦が「自分が最高の悟りに達したことを誇りたい」という慢心から出たものと思います。つまりこの当時の釈迦にはまだ慈悲に対する理解は薄かったのです。何しろ35歳の青二才ですから。(補足1)
その後人々に法を説くことを続けて行くうちに、単に自慢したいという心根を超えて、人々(衆生)に対する慈悲のためという自覚が生まれるのです。この慈悲が今日では仏教において最も大切なことになっているのです。(補足2)
また、マーラの話は、自ら死を覚悟の上で生きる決意の現れでしょう。つまり人間は目的を持って生きるべきであると教えているのです。目的を達成するためには命を捨てる覚悟が必要だということ。もしその目的が達成されたなら死んでも構わないという自覚を持つことが肝心です。そして自分の死を自ら設定すること。「私は60歳までには死ぬぞ」と。もちろんそれ以上長生きするかもしれませんが(あるいはそれよりも短い人生かもしれないが)、これは、その目的はいついつまでに達成させる。そのつもりで生きていくという自覚の表れです。
言うまでもありませんが、梵天とかマーラなんてものは実在しません。すべて釈迦の心の表象です。
もしもこれらが実在したなどと言い張るなら、梵天の具体的特徴(身長、体重)について、また我々人間とは生物学的にどう異なるのか?について言及しなければなりませんよ。

仏陀とは
 先にも言いましたが、仏陀などというものは特別な存在でもなんでもありません。釈迦も実際はどこにでもいるような普通のおじさんかもしれないのです。もしかしたら、当時のインドでは、近所に仏陀などたくさんいたかもしれない。
町の人の話、「うちの裏にも仏陀のおじさんが住んでるよ」、「昨日○○さんの家から仏陀が誕生したらしい」。もし釈迦が現代に生まれたら、平凡なサラリーマンになっていたかも?(もしかしたら真実は、釈迦はたくさんの布施を欲しがる金の亡者だったかもしれない?)
今日特に日本で釈迦は、「お釈迦様」といって万能の神のような存在に祭り上げられています。そして経典(特に大乗経典)にはさまざまな奇跡話(補足3)がつづられていますが、科学的に言ってそんなことはありえません。
古代ならいざ知らず、現代においては、釈迦超人説などのように非現実的なことを主張しても他人から相手にされないでしょう。(釈迦は超人というよりも、あるいは”聖者”というよりも、当時の”賢者”と言うべきでしょう) 科学的(日常観察されることを根拠とした事象)でないものは退けられるのが定石です。
はっきり言って、2500年前に生きた釈迦よりも我々の方がはるかに優れているのは当り前です。我々は文明のお蔭で(というよりも時代が下った精で)、釈迦が知らなかった多くの知識を知っています。果たして釈迦は地球や宇宙の大きさについて知っていたでしょうか?また我々は車(電車、バス、飛行機を含む)を使えます。釈迦よりも遥かに早く遠い距離を移動できます。そしてテレビやインターネットを使うことにより、釈迦よりもたくさんの人間に自分の考えを伝えることが可能です。いい加減釈迦に対する超人崇拝(彼を人間離れした神だと見る)から卒業したらと思います。(当然ですが、釈迦やあるいはイエスキリストも人間である以上、良いところもあれば至らぬところもあるでしょう)
だからと言って、釈迦の事績について調べることは無駄とは言えません。そこに大いなる価値があるかもしれない。つまり彼の行ったことを正しく評価することは我々現代人の務めです。すなわち科学的考察が求められているのです。要は事実か事実でないか、ありえることなのかありえないことなのか?科学的に見定めることです。そこに空想ではなく真の幸福に至る道が開けるのです。
ただ、経典に描かれていることが荒唐無稽だからといって、すべて捨ててしまうのは誤りです。それは単純に記録としての事実とは異なる。異なるけれどもその描写の中には深い意味があるかもしれない。それをこれからお話しします。

(補足1) 釈迦じゃなくても悟りの体験はあるかもしれません。あなたはこういう経験をしたことはありませんか?何か新しいことに気付いた。その瞬間今までの自分が一変したような感覚を覚えた。あるいは長年考えてきたこと、ある日突然その答えが見つかった。自分の人格が高い段階に上昇したような感覚を得た。今までにない精神の状態に達し、その瞬間全身が震えるほどの衝撃を感じた。など。これを悟りと言います。このような大悟は度々起こります。特に若いとき。釈迦はわずか35歳で悟りに達しましたが、いわばこれは「若気の至り」です。宇宙のすべてを悟り、次の瞬間人間から超人に飛躍したわけではありません。”悟り”なんてものは所詮は”妄想”かもしれません。
若いころ(20代、30代)度々経験する悟りの感動も、次第に色あせたものとなり、次には迷いが起こるものです。(40代)。そして50代を過ぎると、悟ってもあまり感動は伴わない境地に達します。この悟りと迷いを繰り返しながら、感動が収まるとともに悟りの内容を深めていくわけです。釈迦が35歳の時得た悟りの内容と、中枢は変わりませんが、80歳で亡くなる際の悟りの内容とでは、かなり異なるものと個人的には思っています。やはり人間は孔子のように(注)、年齢を重ね、長い時をかけて自分自身を成長させていく。そのためには死ぬまで勉学を続けることが肝心かと思います。
「悟り」とはこういうことかもしれません。「どこまでも、自分はまだ悟っていないこと」を悟る。まさに「無知の知」ですね。
(注) 論語から、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲するところに従えども矩をこえず」

(補足2) 釈迦が王子という身分に生まれてもなお、人生が苦痛に感じられたのは、自分はともかく周りを見渡せば、不幸な人間があまりにも多い。人間だけとは限らない。動物も植物も一切の衆生(生ける者)はみな不幸。さらにその不幸に気づいていないからなおさら哀れに見えたのでしょう。その要因は彼が何不自由のない恵まれた家に生まれたことにあります。もし彼が貧しい家に生まれたなら、周りがいくら貧しくても自分と同じ貧しい人間に対して同情心さえ起らなかったでしょう。
彼にとって、自分がどれほど贅沢な暮らしができても、世界が不幸であれば自分は間違っても幸せとは言えない。この世にたった一人でも哀れな人間がいたなら、それだけでも自分は死ぬほど苦しい。この宇宙のすべての存在が幸福にならない限り、自分にどれだけ財があろうと手放しに幸せを感じることはできない。
この釈迦の気持ちはよくわかります。すでに彼には幼い頃からこの慈悲心が芽生えていた証拠と言えましょう。それが彼を出家に向かわせたのです。「一切皆苦」、「天上天下唯我独尊」も、慈悲の心があったからこそ生まれた言葉ではないかと考えます。ただ勘違いしてはならないこと。それは彼にとって、苦しんでいる者はあくまで自分自身です。哀れな衆生を見ることに耐えられなかったのです。
財を誇り贅沢三昧の暮らしに耽るバカ息子、バカ殿とはえらい違いですね。

(補足3) 仏陀が空中に浮かんだとか、世界が振動したとか?もし空中に浮かんだのなら、どのような力学の原理で地球の重力に打ち勝ったのか?あいるは世界が振動した(地震が起きた)のなら、その痕跡が地層に見つかるはず。

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