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釈迦の生涯 出家と修行


 釈迦が実際出家したのは29歳になったときです。既に結婚して子供もいました。子供の名は「ラーフラ」で、後に出家し釈迦の弟子になっています。
この「ラーフラ」の意味は月食つまり、月を食べる悪魔、あるいは障害と言う意味です。なぜ釈迦は我が子に愛着を持てず、このような忌み嫌う名を付けたのでしょうか?はっきり言って釈迦は親失格、というより人間失格です。自分の行いの結果生まれた何の罪もない子供にこのような名を付けるとは。釈迦こそが悪魔だ。もし我が子に、「俺は産んでくれなんて頼んだ覚えはない」と問い詰められたら、釈迦は何も弁解できずに死ぬしかないでしょう。すべては釈迦の責任ですから。(補足1)
ただし、こういう解釈もできます。この「ラーフラ」という言葉は、自分に投げかけられたものだと。自分自身が欲望に負け浅ましい行為を行ったことが原因で、取り返しのつかない結果、つまり子供が生まれてしまった。生まれた子供もいずれ自分の子供を作る。この不幸の連鎖がこれからも永遠に続くこと。このどうしようもない過ち、悲劇に打ちひしがれた釈迦が絶望の中から、この子を「ラーフラ」と呼ばずにいられなかった。そこに彼の苦悩を(青山として)感じます。
さて、釈迦はなぜ29歳まで出家できなかったのでしょうか?普通に考えれば遅いですよ。日本の有名な僧侶でも十代で出家する(出家というものは勉強を始めるという意味もある)のが一般的です。この年まで出家をためらうとは。(補足2)
恐らく、自分が出家してしまったら、残されたこの国はどうなるのか?心配だったのではないかというもの。ちなみに釈迦は皇太子です。出家すれば後継ぎがいなくなり、国は亡びるかもしれない。それを憂いて後継ぎの子供が生まれるまで待っていたという考え方もあります。それは一種の保身主義でしょう。しかし釈迦も人間ですから悩んでいたのでしょう。悩んでいるうちに時が経ってしまった。ということです。しかし最終的に出家を決意するのです。
彼にとって家族よりも、国家よりも、大事なことがあるとようやく気づき出家を決意するのです。そのようなもの(国や家族)に執着していては出家などできない。出家は命懸け。ある意味命を捨てることと同じ。中途半端な気持ちはかなぐり捨てて、捨てるべきものはすべて捨てる。その覚悟がなければ駄目だという厳しい決断をしたわけです。地位や名誉、財産、そして家族や国家、それよりも大事なことがあることに気づいたのです。それは、人間(とくに自分)の苦の問題です。

出家とは
 仏道、仏教の目的は、出家して修行し悟りに達することです。なぜ出家しなければならないのか、仏道修行において肝心なことは、正しく世界を見る(真理を見極める)こと、そのために心の状態を正しく保つことが不可欠です。その精神状態に達する上で、社会的身分や財産、家族などは修行の妨げになる。そのようなものに執着していては、正しい修行が実践できないことは明らかです。
現代、特に日本では、家族を持ちながら、寺にあって僧侶を続けている者たちがいる。寺に入り修行している僧侶に入山の動機を尋ねると、「寺で生まれた」と平然と答えるのには驚きです。「寺で生まれた」??なぜ寺で人間が生まれるのか。寺に家族があるとでも言うのか?家族を捨てきれないのなら出家などできるはずがありません。(出家に際して、もっとも捨てなければならないのは、家族です。家族が一番執着から逃れられないからです。)

苦行
 釈迦はなぜ出家したのでしょうか?悩んでいたからです。何に?この世の苦しみに。つまり釈迦のような王子として生まれて贅沢な生活を楽しむことができたとしても、それは所詮飾り物の快楽であり、生まれてきた以上逃れることができない「生老病死」などの苦しみは死ぬまで付きまとう。その苦しみを克服するために、出家して修行すること。彼にとっての修行はまず苦行から始まりました。
苦行とは主に断食です。食べたいという欲を制するのです。
苦を克服するためにわざわざ苦を課すのは変だと思いませんか?なぜ苦から脱するために敢て苦行したのでしょうか?
それは苦から如何に脱するかという答えを得るためには、実際に自ら苦を体験しなければ、苦の根本原因を見極められない。さらにそこから脱する方法も思いつかない。そういう意味で、彼がまず苦行をしたことは理にかなっているのです。つまり釈迦は王子として生まれ、毎日が苦しくて苦しくて仕方がない。気が狂うほど苦しんだ果てに出家をし、その苦を克服するために壮絶な苦行を行ったということです。(この釈迦の苦行の動機が解らないと、仏教全体が解らないと思います)
しかし、苦行からは解脱(苦の解決方法)は得られませんでした。なぜでしょう。苦を滅することは欲望を制すること。つまり禁欲によって苦を克服しようとしたのです。しかし、禁欲だって欲の一つですよね。なぜ禁欲するの?と問われたら、苦を克服したいという欲が背景にあるのです。
欲というのは、食べたいの、飲みたい、セックスしたい。金が欲しい。社長になりたい。総理大臣になりたい。今度の試合で優勝したい。有名になりたい。人から尊敬されたい。これらはすべて生物の本能としての欲です。
欲があるのは仕方がない。愛する人のために命を捧げたい。というのも欲ですから、欲にはいい欲もあれば、浅ましい欲(立身出世したい、人に勝ちたいなどという欲)もあるのです。最低限の食べたい飲みたいという欲まで否定してしまうと、それはある種の自殺行為です。ようするに欲を否定するのではなく、制止しなければならない欲と、働かせる欲を見極める。すなわち欲を自分でコントロールすること。欲があること自体は事実ですから、それをも否定することは現実を否定することです。つまり科学を用いて、(欲が存在するという)現実を直視し、その欲を制御することが人間にとっては必要なのです。さらになぜそのような欲が存在するのかも探求すること。それは世界の真実に近づくこと。それによって欲を制御する。これが人間である。他の動物はあくまで本能(欲と恐れ)でしか生きられない。人間はそうではないということです。
釈迦はそのことに気づき、禁欲を放棄したのです。そして世界の真理を見極めるために、瞑想に耽りました。すなわち自分自身、および世界の真のあり方について考えたのです。そして答えを得ました。それが悟りです。釈迦35歳の時です。(補足3)

(補足1) 釈迦は我が子に愛着を持てなかったどころか、憎んでいたと思われます。自分の子供を憎むなんて、はっきり言えば釈迦は父親として最低最悪です。否、人間失格です。釈迦が善人なんて話は全くの嘘です。ただし、この憎しみは結局自分自身に向けられたものと思われます。彼が我が子を虐待したなんて話は伝わっていません。(後にラーフラを弟子にしています) この最大の罪を犯してしまった釈迦は、もはや死ぬしかないでしょう。だから出家したと思われます。出家とは俗世での死を意味します。

(補足2) 昔は10歳前後で出家するのが一般的でしたが、いろいろと問題がありました。子供の頃のいろいろ遊びたい時期に(まだ世の中のことを余り知らない年齢で)有無を言わさず(親や周りの意向で)出家させられることは理不尽な話です。(親鸞や道元など) 本来釈迦のように、成人して久しく、その間世の中の有様についていろいろ考えた上で、自らの意志をもって出家を選択できる。くらい精神的に成熟した時点において初めて出家を許される。その方が健全な気がします。未熟な子供の精神状態のままで出家を認めてはならない。そういう意味で日本の出家制度の方が異端です。
しかも出家と言うと、例のオウム事件があります。あのような世間から隔絶した上で集団生活を営む。教義がどれほど的を得ていても、あれは正常ではありません。他の宗教にもよくあることですが、世の中から認められないから、認め合う者同士で集まり、結果孤立する。閉鎖的な環境の中で善悪の感覚すらなくなる異常な雰囲気が生まれる。しかも誰もその異常性に気づかない。まさに狂気です。オウムの出家は所詮”疑似家族”です。社会からの逃避です。こんな不健全な出家ならしない方が遥かにましでしょう。
本来の出家は本当に一人になることです。ただし現代においては、人との関係を一切絶って一人山奥に籠ることなど簡単にはできません。しかし世間と必要以上の関係を持たず(関係を持つと争いが生じる)、精神面で独り(孤独)になることはできるかもしれません。勘違いしてはいけないこと、出家とは世の中や人々の救済をすることではありません。あくまで自分の心を平静に保つことを目的としています。世間との関わりは人に対する執着を生みますから。(利他とか慈悲の話は別途)
ただし、全く他人と関わらないことなど不可能です。少なくても特定の宗教あるいは教団とは関係を持たず、世間一般の人と、穏やかに心を通わせて付き合う姿勢。それが正常な精神を保つためには必要です。くれぐれもエセ出家やインチキ、非科学的な宗教に騙されないようにしてください。青山からのお願いです。

(補足3) 瞑想中、釈迦の心の中ではさまざまな雑念が起こりました。それは悪魔という形になって彼を惑わしたのです。仏典によると悪魔は美女を遣わして彼を誘惑したり、あるいは軍団を送り込んで攻め立てたり。もちろんこれはすべて彼の精神的な心の葛藤を表したものです。それに打ち勝ち釈迦は解脱したわけです。ところでイエス(イエス=キリスト)も悟りを得る前に、サタンが誘惑します。「ここから飛び降りてみよ」とか「神の子なら石をパンに変えてみよ」とか、イエスをさまざまに試すのです。言うまでもありませんが、これらはすべてイエスの精神の中の出来事で、サタンなどは存在しません。このような精神的な試練を経て、釈迦もイエスもあらたな精神の段階に上がるのです。
それにしても釈迦とイエス、生まれも育ちも異なるのに同じ精神的な境地を味わうとは、とても偶然とは思えません。このほかにも二人には共通するところ、似たような話が登場します。

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