TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

釈迦の生涯 誕生


 仏教の創始者は釈迦です。仏教を学ぶためにはまず、釈迦がどうやって悟りを得たのかを知ることが肝心です。そのためには釈迦の人生を辿ることが近道です。
以下は完全に確証が取れている釈迦の経歴ではありません。何しろ2500年前のことですから、中には事実とは異なるものもあるでしょう。今になっては確かめようもない。ただし、経典に伝えられているものから、多くの学者によって長年研究されてきた成果をもとに、大まかな彼の生涯を辿ってみることにしましょう。

1.釈迦の生涯 誕生 (天上天下唯我独尊、輪転聖王)

 釈迦は今から2500年ほど前に現在のネパールの、カピラバストゥという小国を治めていたシャーキャ族(釈迦と言うのは一族の名前。本名は、ゴータマ=シッダールタと伝えられています)の王子として生まれました。(父はスッドーダナ、母はマーヤー)
釈迦は生まれたとき七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」なんて言ったと伝えられていますが、そんなことは嘘です。赤ん坊が歩ける?か。赤ん坊が喋れる?か。
それはさておき、「天上天下唯我独尊」とはどういう意味でしょうか?これにはいろいろな説があります。
普通に解釈すれば、「俺はこの世でただ一人尊い」という意味。裏を返せば、他の人間は皆バカだと言っているのです。何と生意気な子供だ。
釈迦はそんなことは言っていない。という説もあります。「お釈迦様がこんな傲慢な言い方をするわけがない!」とあくまで釈迦を庇う人もいますが、そんなことは保障できませんよ。前回言った通り釈迦だって決して聖人君主じゃない。むしろいろいろな問題を起こしている不出来者。釈迦を権威付けするために事実を捻じ曲げるのは良くない。それこそカルト宗教です。
常識で考えて子供がこんなことをいきなり言うわけがない。ただし青年になったとき、そう思った可能性もあります。どうして自分だけが賢いのかってね。本人も不思議に思ったのでしょう。なぜ周りの人間はこの世の真理に気付かないのか?この世が苦しみに満ちていることがどうしてわからないのか?楽しみに浮かれ、快楽ばかりを追い求め、やがて苦しみ死んでいく。まるで犬猫のようだ。とね。(一切皆苦については後程)
ただし逆にこう考えてみてはどうでしょう。
もしも、「天上天下唯我独愚」と言ったらどうか。自分一人がバカでも、他のみんなは優秀だから、きっと周りは自分を助けてくれるだろう。と安心するでしょう。しかし周りにバカしかいないのなら、自分を救ってくれる者はいない。逆に自分が周りを救わなければならない。そこには苦悩が生じるのです。(補足1)
ところで釈迦は生まれたときから聡明だったので、父である王は、子供の将来を仙人(超人的な能力を備えた人間)に占わせたそうです。その仙人曰く、「この子は、輪転聖王(世界を統治する王の中の王)になるか、もしくは仏陀(宇宙の真理を覚った者)になるでしよう」。
今思えば輪転聖王なんて下らないものにならなくてよかったですね。(補足2)

2.苦悩の認識 (死を知る、生老病死)

 父は息子の釈迦に対して、できる限り贅をつくし享楽を与えました。(父は国王であり財があったためそれができた) なぜかというと、成長するにつれて釈迦が物思いに耽ることが多くなったからです。その悩み故にもしかしたら息子は仏陀になるため出家をするかもしれない。大事な跡継ぎに出家されれば国は亡びる。それを恐れたのです。(補足3)
しかしいくら享楽を与えても釈迦がうつ状態から解放されることはありませんでした。返って悩みはますます深まっていったのです。王宮での贅沢な暮らし、享楽など所詮現実から目を背けるごまかしであり、精神を蝕む毒に他ならない。その毒に侵されていく自分に気づくと同時に苦悩も増す。
彼の悩みとは何でしょうか?それはこの世が苦しみに満ちているということ。いくら王の家に生まれて贅沢な暮らしをしても、生まれてきた以上避けることのできない根本の苦(これを仏教では四苦八苦という)がある。王であっても死や老いを免れることはできない。人間はたとえ王であっても、死ぬまで苦しむ。ということにおいて、地を這う虫たちと何一つ変わらない。「王とは地を走る獣のごとき」
釈迦にとって人生のすべてが苦しみ。どうしてこんなに苦しいのか?自分は苦しくて苦しくてしょうがない。まさに生きていること自体苦しい。(青山もそう思います。まさに息をすること、心臓を動かすことが耐えがたいほど苦しい。それが人生です)
この世は誰にとっても苦しみと悲しみの連続である。それは死を迎えるときまで続く。
こんな話をすると、人は釈迦を非難するでしょう。こんな金持ちの家に生まれて贅沢な暮らしをしていて、何がまだ不満なのかと。(補足4)
釈迦が克服したいのは個人的な苦しみ(自分一人が苦しい)ではありません。それはこの世に生を受けた者が誰しも持つ苦、死や老いのことです。(だからといって釈迦は人々を救おうと思ったわけではありません)
この本質的な「苦」は釈迦のような身分に生まれたからこそ気付いたのです。もし釈迦が貧しい身分に生まれていたなら、そんな(哲学的な)ことを思い悩むことすらしないであろう。(生きて行くためにやっとだから) この世に生きている者は必ず苦しみを受ける。愚か者は「苦しい!苦しい!」と泣き叫ぶでしょう。しかし世界が(例外なく)苦しみに満ちているという真理に気づくことは永遠にないのです。愚か者は、少し楽になるともうすっかり自分が苦しんでいたことを忘れてしまうのです。

四門出遊
 釈迦は生まれたころより父王によってこの薄汚れた苦しみの多い外の世界から目を閉ざされ、城の中の享楽に囲まれた世界しか見せない状態にさせられていたのです。
釈迦が青年になったとき、彼は初めて城の門から出て外の世界は見たのです。東の門から出たときにそこで老人を見た。そして人は誰もが(たとえ国王であっても)年を取り老人になることを知る。
次に南の門から出たとき、そこで病人が苦しむ姿を見て、人は誰でも(医学が発達した現代でも)病から逃れられないことを知る。
そして西の門から出たとき、そこで死者の葬列に出会う。釈迦は従者に尋ねた。「あれは何か?」と。すると従者は答えた。「あれは死者の棺を運んでいるのです。人は誰でも最後はああなるのです。」
それは知った釈迦は愕然となった。人は誰でも最後には死ぬ。自分も含めて死ぬことから逃れられない。その驚愕の事実をはじめて知ったのです。
ここで注意してほしいことは、釈迦は生まれつき聡明であったけれども、人は誰でも死ぬというこんな当り前のことすらこの年、青年になるまで知らなかったということです。知りながら従者たちに、人は誰でも死ぬ、という事実を悟らせるためにわざと聞いたというのは嘘です。釈迦は明らかに世間知らずだったのです。それとは反対に従者たちは子供の頃から死者の葬列というものを何度も見ていました。従者たちはこう思ったに違いない。「人が死ぬのは当り前じゃないか。それすら知らないとは、こいつ(釈迦)は救いようもないバカ王子だ。」
しかし釈迦が何よりも驚いたのは、人は誰でも死ぬということを平然と言い放つこの従者たちの態度です。果たして彼らは本当に死というものを分かっているのだろうか?ってね。
自分の最愛の者もいずれ死ぬ。そして自分自身も死ぬ。そのときになって彼らは皆嘆き悲しむであろう。なぜなら彼らは、それまで「死とは何か」について(深い意味において)一切考えなかった。それに対して釈迦はこの歳まで「死というもの」を知らなかった。だから逆に深く考えたのです。
釈迦にとって毎日が苦しみの連続でした。贅沢な身分に生まれた釈迦にとって、いったい何が苦しかったのか?それは、「この世は苦である」という当り前のことすら理解できない無知な衆生を見て、哀れむと同時に耐えがたい悲しみを覚えたのです。この釈迦の心情が分からない人は、幸せ不幸せを勘違いしています。自分にとっての幸不幸とは、自分が見た現実の状態により判定されるのです。自分で自分の状態を(幸福なのかあるいは不幸か)判定することはできません。以前お話した「幸福の定義」および図1「自分にとっての幸福・不幸とは」を今一度参照願います。
最後に釈迦は北の門から出た。そこに自信に満ち平然と歩く一人の出家僧の姿を見たのです。その姿に感動した釈迦は自分も出家することを決意するのです。(つづく)

(補足1) ある説によると、「天上天下唯我独尊」の「我」は自分をさす言葉ではなく、存在一般を指す。つまり、存在とはあらゆる人、すべての生物、無生物にいたるまで。つまりこの世に唯一の存在としてみな一つ一つが尊いという意味だそうですが、「無我」(我、つまり自分という主体は存在しない)の考え方に反するようです。それらを考慮すると、これは釈迦の言葉ではなく、後世の者が作った物語というのが一番妥当なようです。

(補足2) ここで既に仏陀と言う言葉が登場します。仏陀とは、覚者(真理を覚った人)の意味です。誤解している人もいますが、仏陀には人々を救う人(キリスト教の救世主)、という意味、あるいは世界の指導者という意味はまったくありません。仏教がそもそも利他主義(人を救うもの)じゃないことを示しています。
仙人が仏陀と言う言葉を知っていた理由は、釈迦以前にも仏陀がいたことを示唆しているように思われます。ただし記録には残っていない。なぜでしょう。理由は後ほど。

(補足3) 享楽を与えるということは現実を忘れさせることです。現実から目を逸らすこと。現実を直視しない者は幸福を得られない。いくら出家されたくないからといって、この父王のとった行動は犯罪に当たるでしょう。親は子供を愛するがゆえに楽しみを与えようとしますが、実は子供に真実(この世の苦)を覚られるのが怖いのです。

(補足4) 釈迦にとって自分は苦しい、自分は不幸だ。ということは釈迦という一人の人間について、裕福であるがまだ満足していない(もっと裕福になりたい)と言っている訳ではありません。そこを人々は勘違いしているのです。幸福、あるいは不幸とは、自分が世界(周りを)を観察した結果、その世界の状態を指して、あくまで自分が、幸福あるいは不幸だと判定しているわけです。自分で自分自身を観察することはできません。最初に説明した通りです。再度、「幸福の定義」および「図1「自分にとっての幸福・不幸とは」を参照ください。

ご意見・ご質問