青山は既成宗教あるいは新興宗教ともども、いかなる宗教も信心しておりません。完全に無宗教です。神の存在と死後の世界を完全に否定しています。 ただし、人生の指針を得るために、人類の長い歴史の上で、宗教の教えは無益だから知る必要はない。などとは決して思っていません。宗教の教えの中には、人類の英知あるいは世界の宝とも言えるものがあると考えています。そこで、ここではいくつかの宗教(新興宗教は除く)を取り上げてみたいと思います。ますば仏教から。 ただ一言。青山は特定の宗教を読者の皆様に勧めることは決して致しません。そのことを、最初に誓わさせていただきます。 ■仏教哲学の広大さ、深遠さ 仏教の開祖は釈迦です。彼は2500年前にインドに実在したと言われている人物です。仏教徒にとって、釈迦は聖人として拝める対象になっているようですが、神ではなくただの人間です。その釈迦が始めた仏教が、他の宗教たとえばキリスト教やイスラム教よりも、思想・哲学という点で遥かに凌いでいる(個人的にはそう思っています)のはなぜでしょうか?それはこの広大な教えが釈迦一人で考えたものではないからです。キリスト教もイスラム教もイエス、あるいはムハンマドの教えが主です。仏教は後に出現した大乗仏教(それを記した大乗経典は、釈迦が説いたものということにされています)は、釈迦が説いたものではありません。ただし、彼が説いたものではないから価値がない。そんなことはまったくありません。いや、むしろ釈迦オリジナルの教えよりも、はるかに深遠なものもある。と青山は見ています。その理由は、最初に釈迦の教えがあって、それを学んだ者が、さらに思索を重ねて独自の思想を付け加えたことが原因です。さらにその思想を生み出した者は一人ではない。大変多くの人間がそれに関わった。それらを集めてかつ長い時間を掛けて、その思想体系を広げていったのですから、そこには想像を絶するほど広大な教えが含まれているのです。(補足1) これだけ広大な教えが人間一人の手によって作られたなど到底あり得ないことです。だから釈迦が本当に語った、語っていないにかかわらず、そこに大きな価値が認められるのです。 ■釈迦の教えと現代仏教との乖離 ただし調べてみると、釈迦オリジナルな教えと現代の(特に日本の)仏教はあまりにも内容が乖離していることがわかります。とても同じ宗教とは思えない。はっきり言えば今日の(日本の)仏教は葬式のためにのみあるみたい。僧侶の仕事はただ葬式を取り仕切るだけ。それでお金をもらっている。ただの商売。その僧侶に仏教思想(釈迦の教え)を聞いて、果たして答えられるのか?まあ2500年もの永い歳月を経ているため、中身が大分違ってしまうのは仕方がないことなのですが、基本は変わらないと思いきや、その基本も既に消滅して、まるで違う宗教とまで言われかねない状況にあります。釈迦の教えとたとえば今日の日本の仏教とは似ても似つかないものになってしまいました。中にはオカルト的なもの(霊や死後の世界を肯定するもの)もあります。あのオウム真理教も仏教に似せたものだったのです。今日の仏教の状況を見るに、あまりにも情けなく感じております。 青山が仏教、特に釈迦の教えに価値を見出しているのは、他の宗教に比べると、仏教は最も科学的であると言えます。(補足2) 本来仏教は、生まれ変わりや不滅の霊魂などは認めず、呪術的、呪文的なものでは決してなかったのです。今日の仏教はそれに反してオカルト的。あまりにも浅ましい状況になり下がっています。科学こそは人間が幸福になるために必要な世界の宝です。その科学に反する教えはどんなものでも捨てきらないといけません。そんなオカルトに縛られていたら間違いなく不幸になると言えましょう。だから青山は非科学的な宗教は最初から切り捨てるのです。世の中に多いオカルト宗教と一線を画す仏教(現代の葬式仏教ではない)に、興味を持つのです。あなたがもし何らかの形で今日の仏教に関わっている(単なる葬式だけかもしれないが)としたら、本来の仏教、釈迦のオリジナルな教えとは何か?それ知っても罰は当たらないと思います。 ■大乗仏教について 釈迦オリジナルの教えを小乗仏教と蔑む輩がいます。自分たちの「大乗仏教」の方が優れている。なぜなら小乗仏教は自分一人の悟りを求める。対して大乗仏教は、自分だけでなく、他の者一切の衆生の幸福を求める。「小乗仏教」は劣った教えであると、生意気に説くわけです。しかも在家の分際で。 もともと「小乗仏教」なんて言葉はありません。大乗仏教なるものを信仰している者たちが付けた蔑称です。釈迦の教えはむしろ小乗仏教に近い。そもそも釈迦の教えに利他主義などありません。大乗仏教と釈迦は関係ない。大乗仏教の経典である「法華経」、「大日経」、「無量寿経」(注)は釈迦が説いたものではないのです。それはもはや学問上の常識であり、基礎を学んだ者なら誰でも知っていることです。この大乗経典が釈迦とは無関係な証拠はいくらでもあります。自分たちの信じている宗教の権威付けがしたいがために、大乗経典は釈迦の教えだと主張したいだけです。その釈迦の教えを見下す者は、釈迦の顔を土足で踏みつけているようなもの。 ただし、たとえ釈迦が説いたものではなくても、大乗仏教の教えに価値がないなどとは決して言えません。その哲学は、小乗仏教をはるか凌ぐほど広大であり、かつ深淵です。釈迦の教えを引き継いだ多数の天才たちが知恵を絞ったその結晶だからです。もし大乗仏教がなかったら仏教はつまらないものになっていたかもしれません。 大乗仏教の話は後ほどご紹介するとして、まずは釈迦の思想について述べます。 (注) 個々の経典の教えについてはまた別途。 仏教(釈迦の教え)の基本的思想 (1) 出家宗教 仏教は釈迦というブッダ(真理を悟った者)が説いた教えです。釈迦はどうして悟りを得た、すなわち宇宙の真理に到達できたのでしょうか?それは出家して修行をしたからです。ただ出家して修行をすれば誰でも悟りに達するわけではありません。釈迦が解脱したのは偶然です。出家したのも、修行をしたのも偶然です。ただし、修行をしなければ悟りに達するとこは不可能です。それだけは確かです。 もし悟りたいなら、もし釈迦のようなブッダ(仏陀)になりたいなら、まず出家をすることです。なぜ出家しなければならないのでしょうか?出家とは家を捨てること。財産、地位や名誉、そして一番捨てなければならないのは家族です。それらは修行の妨げになるからです。何かに固執する。たとえば家族に執着していてはまともに修行などできません。財産や地位、家族を抱えた在家(僧にならない者)が悟ることなんか、天地逆転してもあり得ない。在家が解脱できるくらいなら、猿が仏陀になれる。ただ出家とは僧侶になることではありません。大体日本の坊主はとても出家しているとは言い難い。何で家族を持ちながら修行ができるんだ? 出家はもちろん命懸けです。半端な気持ちでは決してできない。家族との関係を一切絶って、たった一人になる覚悟が必要です。出家者に必要なのは、何が何でも解脱を果たす。仏陀になる覚悟です。この仏の悟りを求める心を、仏教では「菩提心」と言います。それは金剛石に、つまりダイヤモンドにたとえられます。例え命が尽きようと、あるいは殺されようとも、意志を貫く。その意志の硬さをダイヤモンドにたとえているのです。 ただし、釈迦の時代ならいざしらず、現代において家族も友人もすべての人間関係を切って、金銭に限らず一切の財産をすべて捨てて生きることは難しい。完全な出家はできなくても、人間としてせめて、毎日の生活に追われることなく、欲望に身を任せることなく、まして財産や名誉、地位や権力を追い求めることなく、世俗のことを思わず、精神的に穏やかな身になって、清貧者として静かな毎日を送る。それこそ(むしろ日本の坊主たちよりも)心の出家とでも言いましょうか? 出家と言うと例のオウム事件を思い出しますが、あれは悟りとはほど遠い狂気です。出家ではなくあれは社会からの逃避です。一番の危険は集団生活をしていること。それは集団が家族に変わっただけで、家族を捨てきれないのと同様、いやそれ以上に不健全です。(補足3) 本当の出家とはたった一人で生きること。少なくても非科学的な(オカルト、マインドコントロール)宗教に人間を幸福にする力などあるわけがありません。 (2) 人生は苦である 釈迦は「一切皆苦」、すなわち人生は苦しみであると称えています。これが仏教の根本の教えです。「苦」とは自分の思い通りにならないという意味です。人間には苦しみの人生を送る者と楽しみの人生を送る者とがいるわけではなく、一人の例外もなく、すべての人間が苦しみの人生を送る。だから一切が苦なのです。この世が苦だからこそ、それをどうしたらいいのかという教を説く宗教が生まれたのです。その最初のところを受け入れないと、仏教については何も分かりません。 ただ今日の(特に日本の)仏教は、この「一切皆苦」をあまの強調しません。苦もあれば楽もあるという考え方で、苦だけを強調するのはおかしいというわけです。これは釈迦の考えすなわち仏教をまったく理解していない証拠です。これについては後で詳しく述べますが、もし人生が喜びに満ちたものなら、宗教、特に仏教など必要なし。釈迦が教えを説くこともなかったでしょう。 (3) 世界は空である 世界は捉えられない。世界に方向性がない。釈迦がこの世界を観察した際発見したことがあります。それはこの世界は「縁起」によって成り立っている。縁起とは、すべての存在は周りと作用し合い、いずれの存在も特別なものはなく、他に作用し、逆に作用される。つまり作用の大もと、第一原因などはない。というわけです。すべてはただ作用されたから作用するだけの存在、そこに主体はない。それを称して、「空」と言っています。詳しくは後ほど。(補足4) 以上は釈迦のオリジナルの教えです。釈迦の教えはきわめて単純です。 この世は苦しみに満ちていることに気付いた釈迦は、それを克服する(釈迦自身がこの苦しみを脱する)ために出家して修行した。その結果、世界の真理を覚ったというもの。 よくよく考えてみると、釈迦の教えは驚くべきことを述べているのではなく、ごく当り前のことを言っているに過ぎないことが分かります。本来の(釈迦の)仏教が危険ではない理由、それはこのように常識を外れたことを言っているわけではない。というものです。(補足5) この他にも大乗仏教があります。それらを含めて仏教の思想・哲学の中には、この世界がどういうもので、この世に生まれてきた以上もう戻れない今現在、人間は何をすべきか?この世界でどう生きればいいのか?何のために生きればいいのか?そして死んだらどうなるのか?の答えが(100パーセント正しいとは言えませんが)込められているのです。それをこれからお話ししましょう。 最後に仏教も決して絶対的な教えではありません。なぜなら人間が創ったものだから。どんな天才が創ったものでも欠陥があります。絶対に正しい、間違いはない。そんな完全なものなどこの世にはありません。また釈迦だって聖人君主では決してない。彼も生身の人間だから教えにも間違えがあるかもしれません。でもそれは当リ前のことです。その間違いを正すのは、現代に生きる我々なのです。(補足6) (補足1) 大乗仏教は決して系統的に整理されたものではないから、相互に矛盾をはらんでいます。複数の人間が自分のオリジナル思想をそれぞれ独自に述べているのですから、矛盾するのは当り前です。だからといって価値がなくなるわけではない。 (補足2) 余り知られてはいませんが、仏教には「無記」という考え方があります。それは、例えば「宇宙の始め」や「死後の魂」など、この世で観測不可能なことを論じることの無意味さを教えているのです。即ち形而上学的問いについて、ああだこうだと議論しても、この世での心の安心を得る上では何の役にも立たない。役に立つことは実践、現実に働き掛けを行い実際に効果があるかどうかということ、つまり科学だということ。 ただし、間違っても誤解してほしくないこと。それは、いくら科学的と言っても仏教が現代科学を先取りしているということ。相対性理論や量子力学、あるいは素粒子論、生命科学の基本原理は、すでに仏教を含めた古代宗教の成立期に確立していた?顕微鏡も発明されていない大昔に、素粒子についてどう論じるというのですか?オカルトによくある現代文明よりも古代文明の方がはるかに進んでいた。だだただ馬鹿らしい限りです。 (補足3) 集団の中にいると集団全体が狂気であることが判らなくなる。むしろ集団と距離を置いた方が、客観的に集団を捉えることができるため、その狂気に気づきやすい。 (補足4) 正しくは「空」という思想は、釈迦の後出てきたもので、釈迦のオリジナルは、「縁起」です。ただし、縁起を知れば空も悟れるのです。 (補足5) 現代の(特に日本の)仏教は、この釈迦オリジナルの教えを歪めているものが多いように思われます。釈迦の教えの基本は、この3つ(出家、苦、空)です。それを「仏法とは〜」とあたかも自分たちの教えこそが仏教の本流だと言わんばかり。もし釈迦がそれを聞いたらどう思うか?ちゃぶ台をひっくり返して怒るかも?もちろん釈迦の教えと無関係とは言えませんが、亜流も亜流。中には正反対のものもある。だったら仏教を名乗らず、○○教と言えばいい。 (補足6) 釈迦は既に死亡しているため何もできません。自分の間違いを正すこともできない。それに対して今生きている我々にはそれができるのです。あわせて自分のこれまでの考え方を修正することも可能です。もしかしたら思い違いをしているかもしれません。素直になって、今まで自分の考え方を振り返ってみるのもいいかもしれませんよ。この青山とともに。
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