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神についての考察


 宗教の話を始める前に、まず神について今一度考察してみたいと思います。一部(仏教、儒教など)を除いて宗教と神は不離不分です。「神の存在」で述べている通り、神は明らかに現実世界には存在しません。即ち人間の心の中にのみ存在するのです。ただ現実は世界中のあらゆる国で、大多数の人が神の存在を信じています。なぜでしょう。無論答えは分かっています。動物としての人間における精神にもたらす作用として、生きる(生き残る)上で神の存在が有効なのです。つまり、個人および集団として、神の存在を認めることが、多少なりとも生き残る上で有利だということです。人類始まって以来、神を信じてきたことが、人類を今日まで生き延びらせてきたのです。
神も民族によって様々です。日本のようにたくさんの神々がいる国。稲荷や八幡、天神。人間が死後そのまま神になったもの。動物の神。はては便所の神、風呂場の神、道端の石ころや山の中の大木にも精霊が宿ります。インドや中国でも神は様々です。人は自分の好きな神様を信じればいいわけです。ここでは神は絶対的ではなく、人々の訴えを聞いたり、怒りや悲しみを表したり、人間のような感情を抱く。いわば神と人間は対等な関係です。それに対して西洋では神は唯一と教えています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は絶対的な神です。
一神教にしろ多神教にしろ、この世界を創造したのは神であると教えています。現代科学では宇宙の誕生はビッグバンと教えている通り、そこに神は存在しません。ビッグバンは宇宙を観測した結果得られた学説です。宇宙を観測しても神は見つかりません。(補足1) 科学が発達していなかった古代の人間は、なぜこの宇宙が誕生したのか分からなかったから、神が宇宙を創造したと考えた。人間は分からないことを分からないままにしておくことを嫌います。それが精神的苦痛なのです。他の動物にはないほど知的好奇心に溢れているからです。科学では分からないことは実験と観察によって確かめることが必要になりますが、それは大変面倒。望遠鏡もない時代に宇宙とは何かに答えることは困難を極めます。それでも古代の科学者たちは、星の運行を観察して、そこに法則性を見出したのです。
ただ、そんな科学者ではない人たちには、なぜ世界がこうなのか?なぜ自分は度々不運に見舞われるのか?それに対して隣の家の男は、幸運ばかり手に入る。なぜだ。自分の何が悪いのか?人々は考えを巡らせるのです。実験と観察の術を知らない人間たちは、答えを早急に求める。答えのないままでは不安でしょうがない。そこに一人の神官が現れます。宇宙は神が造ったのだと。そしてお前たち人間も一人残らず神が創りあげた。さらにお前が不幸なのは、神を信じないからだ。神に捧げものをしないからである。だから神が怒っておられるのだ。そう語ります。その話を聞いた不運な男は、試しに神に(実際は神官に)たくさんの捧げものをした。その結果彼の人生は好転した。彼はますます神を(実際は神官の言葉を)信じるようになった。これが宗教の始まりです。神が世界を創った。神を信じないから不幸なのだ。この短絡的な考えは、日々の生活に追われて科学をする暇がない、生きることが精いっぱいの科学的知識に乏しい人々には、単純で受け入れやすい。大勢の人間がそれを信じることになったという訳です。無論科学では、それが正しいか正しくないかは実験と観察によって確かめてみなければならないのですが、忙しい人、考えることが苦手な人は、科学よりも単純で分かりやすい宗教に引かれるのです。

その怒りを神に向けよ
 今世界を見渡せば、悲しいことだらけです。まして過去まで含めれば、そこにはただ悲劇の歴史しかない。なぜこの世では、こんな理不尽なことが度々起きるのでしょうか?なぜ、世界はここまで不条理なのでしょうか?罪もない大量の人間が殺される。悪はますます増大する。優しいい善人が虐げられ、強欲で強大な力を握る悪党がますます得をする。この世には救いの片りんすらない。もし神が救い主なら、神はただ無能でしかない。善を退け悪をはびこらせる神に、愛や良心があると言うのか?なぜ神は、この地獄以上の最低最悪の世界を造ったのか?そこに善良な人間を放りだし、苦悩に歪む人々の顔を見て、喜悦を浮かべる大悪党こそが神である。神こそが悪の化身のようだ。この世の一切の悪の根源こそが神である。
青山はたとえ神に殺されても叫ばざるを得ない。この憎悪に満ちた世界を創造した憎っくき神に対して、罵ることはあっても感謝など口にしない。いかなる寛容の精神を持っても口にしたくない。この世の悲しみを思えば、正に腸が煮えくり返る思いだ!!神を讃美することは、悪を讃嘆することに等しい。もし神が存在するなら、一億回呪ってやる!一兆回罵ってやる!!一京(10の16乗)憎んでやる!!!一垓回(10の20乗)恨んでやる!!!!神の栄光など木っ端微塵に打ち砕いてみせる!!青山の怒りは天を突き抜け地を砕くだろう。もしも自分が死んだ後、裁きとして神の前に引きだされたなら、その場で神を殺すことを神に誓う。
青山は何も自分に降りかかった不運に対して怒っているのではありません。激しい憤りはただ、善良な人々を苦しめる神のその悪行に対して憤慨しているのです。世界中のあらゆる人々、貧しい人々、善良な人々、愛する人々から幸せを奪いとる神に対して、怒りを露わにしているのです。世界が始まって以来、人々をどこまでも苦しめて、善良で優しい隣人を地獄に突き落とした、神こそは憎んで余りある存在。絶対に許さない!!命に代えても粉砕してみせる!!
青山は自分自身が理不尽な仕打ちに遭うこと、不条理な運命に翻弄されることに対して、神に憎しみを抱くのではありません。ただ、名も知らぬ隣人を愛するがゆえに、神のこの仕打ちに対して、抑えがたい憤りを覚えるのです。例え神の怒りを買おうとも、神によって永遠の地獄に突き落とされようとも、こんな酷い神のやり方を絶対に許してはならないと、固く心に誓うわけです。
ただし、もしも神が存在しないとするなら、世界は”空”(後述)でありすべてが無意味であるなら、いかなる現実をもただ受け入れるしかないでしょう。(補足2)

 ここまで神を否定したなら、神への信仰に厚い敬虔なあなたから強く反論されるかもしれない。なぜそこまで神を憎むのかと。それに対して青山はあなたに問いたいのです。この悲惨な現実を見てくださいと。どれだけたくさんの貧しい人々が、優しい人間が、弱い立場の人が、苦しめられているのかと。その現実を、あなたにとっては見たくもないかもしれないが、そのありのままの現実を、勇気を持って直視してくださいと。善良な人間が虐げられている現実を、あなたは神との関係を通してどう説明するというのですか?もはや誰にも説明のしようがないことです。もしもあなたの目で悲しいことは見えず、もっぱら楽しいことしか見えないとしたら、あなたは煩悩(後述)に毒されています。その煩悩によって人類は生き延びてきたのです。

神は存在しない
 科学的に言えば、神はまったく観測されない。その痕跡すらない。それは存在しないに等しい。
青山がここまで神を罵っても神は一向に応答しない理由はただ一つ、神などそもそも存在しないということです。これまで神を罵ってきたことも、すべては無意味だったです。(補足4)
では、神とは一体何でしょうか?これほど多くの人がその存在を信じている。神は我々人間にとって必要な存在でしょうか?それともまったく無用なものでしょうか?
この第六章では、人間の生きる指針について考えてみましょう。人類の長い歴史から考えての、主に宗教についての考察です。宗教を取り上げれば、当然神に行きつきます。それはこれまで取り上げてきた科学とは質を異にするものです。現実に存在しない神など扱うことは無意味ではないか?青山個人そうは思いません。なぜなら神は存在しなくても、宗教は存在するからです。そこに生きる智恵があるかもしれない。宗教、そして神について考えることは無意味ではなく、むしろ大いに(この世で最も)大切なことかもしれません。(補足5)

科学の限界
 この世界には人間にとって未知の領域が沢山いや無限に存在します。分かったことなどむしろゼロに等しい。”科学万能”なんてとても言えません。
「なぜ空は青いのか?」そこには理由があります。科学的な答えを得ることは可能です。それは光の性質(散乱)なのです。しかしなぜ光はこういう性質を持つのか?とさらに問われたら答えようがない。「そうだからそうなのだ」としか答えられない。科学の限界です。そこで神が必要になる訳です。物事には必ず原因が存在する。何事にも理由があるはずです。そうでなければ我々は何も理解できません。即ち神が(光の性質を)そう決めたのです。すると次に問われるでしょう。なぜ神はそう決めたのか?その答えは、「そう決めたからそう決まった」。これは先ほどの「そうだからそうなのだ」と同じです。つまり神の存在証明にはなっていない訳です。即ち神の存在を他人に語ることはできないのです。
神は実在しません。しかし自分自身がそう信じる。ことは可能です。「あくまで神がそうした」と。自分がそう信じているのだから、誰にもそれは否定できません。自分が世界に意味を付与しているのです。自分にとって神が必要なら、そう信じればいい。「なぜ世界はこうなのか?」 科学では答えが出ないのですから、”科学を超えた答え”を、あなたが与えればいいのです。

(補足1) 現代科学を認める宗教の中には、ビッグバンを起こしたものこそが神であると説明しています。しかしビッグバンは物理現象であり、ビッグバン自体に「愛」や「救い」は見出せません。神がいる証拠としてよく持ちだされるのが、「人間の良心」の存在です。”良き心”を持っている理由こそが神の存在であると。しかし逆に”悪い心”(犯罪や戦争などの要因)も持っています。それをどう説明したらいいのですか?良心、悪心も相対的なものであり、そこに意味などないのです。

(補足2) 巨大地震、建物の下敷きになる。あるいは津波に飲み込まれる人々。台風、水害、川の氾濫あるいは土石流に流される家々。その他火山噴火、山火事、干ばつなど、これら自然災害の映像を見るたびに、怒りで体が震えるのを抑えることができません。犠牲になった人々は何の罪もありませんでした。それなのになぜ!
これらの災害は神の仕業か?もしも神が天地を創造し、人間さえも造ったと言うなら、すべての罪は神にある。あるいはこの世界の矛盾。世の中は善良で優しい人間が報われず不幸。それに対して悪賢く強欲で人を蹴落し威張りちらしている連中こそが成功していい目を見ている。それはやっぱり神の仕業か?貧しい人を救わず、驕る者に罰を下さない。善人は天国へ悪人は地獄に落ちるなど嘘である。逆に善人を虐げ、悪人を讃えるのだ。それが神の本性。神こそ諸悪の根源。「何が神様だ!!」  神をいくら罵っても収まらない。神を敬っている人々は神に騙されているだけなのだ。
しかしもし神など存在しないとすれば、自然災害はあくまで物理現象。世界に意味はない。すべては偶然。善悪すらない。(補足3) ならば、神などに頼らず、世界の矛盾、理不尽に対して立ち向かうのは我々人間、否自分しかいない。

(補足3) この世界に善悪の普遍的な基準など存在しません。あるのはただ「自然淘汰の法則」だけです。つまりは人間という種が自然界の中で生き残るために、これは良い(生き残る可能性あり)、これは悪い(人類が滅んでしまう)で基準を設けているに過ぎないのです。その基準も時代によって変わってきます。人(民族)によっても違うでしょう。一応人類共通の善悪基準があるかもしれません。しかしそれが何なのか分かりません。基準を定めたとしても結果的に生き残るか滅びるかも偶然の産物なのです。しかもこの世界において、種が生き残るかどうかなどまったく意味がありません。(「自然淘汰とは何か」参照)

(補足4) もし神がいないのであれば、神をいくら罵ってもどれだけ侮辱してもあるいは執拗に暴言を吐いても、罰は当たらない。もし罰が当たったとしたら、それは自分の深層心理として、心の中で本当は存在しない神を恐れているからである。

(補足5) これが人文科学の基本的考察です。神が現実に存在することを前提に考えるのではなく、神が人間にとってどのような意味を持つのか、あくまで現実をみながら(実験と観察によって)考察するわけです。科学の対象はあくまで現実なのです。

宗教は教えます。神の御心に叶った者には褒美を与え、反した者には罰を施す。この”御心”とは宗教教団にとって都合がいいことに他なりません。この罰と褒美という感覚。神に従い道徳的な生き方を心がけることによって得る安心感。試練を乗り越えたときに得る、自己の成長、高位に上がったという満足感。それを人々に与えるために、宗教は神という物語りを作り上げたのです。
例えば、何か幸福が訪れたときは神に感謝し、不幸が訪れたときも、それを自分の成長のために神が与えた試練だと思って、やはり神に感謝する。宗教はいずれの場合も神を有
り難がることにするわけです。それでは信者が不信を抱く余地はありません。でもこれは単なる思い込みじゃないでしょうか?
神はいるいないは解釈の問題です。もし神が現実に存在するなら、
@神とは何かという神の定義
A神が実際に存在するなら、なぜ観測されない(客観的に捉えられない)のかという疑問
B神が存在するという証拠
これらについて説明する必要があります。宗教者の説明は人々を納得させるものとは言えません。何か屁理屈のようにも取れます。
例えば、神はなぜ地上に悪を放置し、我々に災いを及ぼし、さらに理不尽なまでの悲しみを与えるのか、についての二つの解釈。
(1) 神は人間を成長させるために、わざわざ試練をお与えになった。(質問)なぜ神は我々を成長させようとするんですか?(答え)人間を愛しているから。(質問)ではなぜ、我々は成長しなければならないのですか?あるいはそれを望むのでしょうか?(答え)神が行うことは我々にとっては理解不能である。
(2) 神はもともと存在しない。この世で起きることに意味などない。偶々良いことが起きた。悪いことが起こった。それだけである。
「オッカム(注)のカミソリ」という話があります。「必要のない論理を多く並立するよりも、単純な論理のみで説明できる方を選択せよ」というもの。さて、この(1)と(2)と、どちらがシンプルでしょうか?
結局神とは、”神がいてほしい”という個人の願望が生みだした幻想なのです。
(注)14世紀の神学者でオッカム(イギリスの地名)出身のウイリアムが名前。

 神の絶対性を信じ心から神を崇敬しているあなたにとっては、神を罵る青山のことが絶対に許せないかもしれない。あなたはこの青山のことが殺したいほど憎いかもしれない。しかし、なぜあなたが青山に対して憎しみを抱くのか、その理由が分かっていますか?それは神への冒涜者を許せないという正義感ではありません。すべては動物としての本能です。
もしあなたの目に悲惨な現実、虐げられた人々の苦しみが見えているなら、神に対して怒りを覚えないのは、人間としてどうかと思いますよ。その人間としての素直な感情を、あなたは宗教という外的要因によって消されてしまっているのです。
神の存在に関して、過去様々に論じられてきました。神の絶対性(例えば、救霊予定説)と人間の自由意思は明らかに矛盾します。未だにいかなる論理的説明も、それを解決するには至っていない。神は人間の人知を超えている。説明はそれだけです。それは即ち神などこの現実世界には存在しないという従来の見解から一歩も前進をしていない証です。即ち、神は自分の心の中だけの存在なのです。この当たり前のことがどうして解らないのか?未だに神の実在を信じている。
青山は、ただ自分の主張をあなたに押し付けるために言っているのではない。自分の考えを広めたいがために述べているのではありません。信じられないかもしれませんが、すべてはあなたに対する”慈悲”のためなのです。その理由はこれ以降語ります。

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