さて、仏教の悪口はこのぐらいにして、他の宗教をみてみましょう。まず世界最大の宗教であるキリスト教について(簡単に)述べます。 ただし誤解しないでください。これは決して仏教よりもキリスト教の方が優れていると言っているわけではないことを。青山はある特定の宗教を勧めることは絶対にしません。ただ、一つの宗教を知るだけでは必ず盲目に陥ります。他の宗教も含めて広く世界を、あるいは人類の長大な歴史を眺めてみるのも無駄ではないと考えます。(無駄ではないどころか、独断に陥らないために必要) イエスの生き方 キリスト教は、2000年前のイエスを起源としています。 イエスは2000年前に存在した人間です。青山は会ったことはありませんが記録が残っているため実在したのでしょう。もしくはモデルがいた? イエスを”神”とみなしている人がいますが、「神」って何ですか?我々人間とどのように身体構造が異なるのですか?イエスは人間の女性(マリア)を母体として生まれました。神がそんな生まれ方をするでしょうか?全知全能である神が人間同様母体がなければ出現できないなんて。 もちろん(イエスが神だと)信じるのは自由です。ただし、人に信じて欲しかったら客観的証拠を提示する必要があります。現代にもしイエス同様に人間を超越した存在がいれば、2000年前にいたとしても納得できます。 イエスの生涯 イエスの経歴を辿れるものは、今のところ聖書しかありません。そこからイエスの物語を(青山の独断を加味して)創造します。 イエスは2000年前の現在のパレスチナにユダヤ人の子として生まれました。(補足1) イエスの母はマリア、父はヨゼフです。イエスは長男ですので、下に弟妹もいたことでしょう。(昔は子沢山でしたから) ヨゼフは大工でしたが、家は裕福とは言えなかったようです。ただ本当の父親はヨゼフではなかったかもしれません。(マリアが処女懐妊したため?) イエスも子供の頃から父親に習って大工仕事を覚えたと思いますが、父親とはあまり仲がよくなかったと推測します。(本当の父親でないからか?母親とも仲がよかったとは言えない)。そして家を飛び出します。その後の記録は全くありませんが、恐らくフリーターのような仕事をしていたものと思われます。 30歳の頃になって当時の新興宗教であるヨハネ教団に入信します。イエスがヨハネ教団に入る前は記録が一切無く何一つ判っていません。当時ユダヤ国の宗教はユダヤ教でした。ヨハネ教団(ヨハネと言う人物が教祖)は新興宗教ですが、当然このユダヤ教の流れを汲んでいます。(外部から見たら区別がつかない) ユダヤ教の中心思想は、アダムとイブが犯した原罪です。つまり人間は生まれながらにして罪人なのです。その罪を贖って神の恩寵を受けることが人間にとっての課題です。当時は神殿への寄進(布施)か、律法(神が取り決めた掟)を守ることが、その罪を償うことに値しました。しかしそれでは寄進する金がない貧乏人や律法を守れない罪人は救われないことになります。そこでヨハネは、洗礼という方法で罪穢れを落とし、神の恩寵を受けられるようにしたのです。洗礼とは体を水に浸し、頭から水を掛ける儀式です。これなら貧乏人も罪人も罪を贖うことが出来るのです。イエスはこの洗礼を受けてヨハネ教団の信者になりました。 ところが彼はヨハネとは意見を異にするようになります。ヨハネにとっては罪を落とすためには洗礼を行わなければならないということになりますが、イエスの考えは、神の恩寵を信じればその時点で救われるというもの。(つまり神は一方的に救う。それをただひたすら信じる) 特に神に対して何かをしなければならないということではない。(なぜなら神は絶対者だから) この神の恩寵を彼は福音(よい知らせ)と呼びました。 やがてイエスはヨハネ教団から離れます。ヨハネは当時の既成宗教(元祖ユダヤ教)からの怒りを買って、後に殺害されます。(補足2) その後イエスは荒野をさ迷い、悪魔の誘惑という試練を受けます。(この点は釈迦と類似しています。「釈迦の生涯 出家と修行」参照) 悪魔の誘惑に勝って自分の考えに確証を得たイエスは、人々に教えを宣べ伝える活動に入ります。イエス教団の誕生です。彼を信じる者(老若男女)も集まりました。大抵は貧乏人、病人、障碍者、そして世間から蔑まれた者(収税人等)。弟子も集めました。十二人の弟子が特に有名です。イエスは病人を癒したり、死者を生き返らせたりさまざまな奇跡を行います。【解説】 ただし、何もしなくても(律法を守ったり、神殿に寄進したりしなくても)本当に神の恩寵があるのか?みんなが心から信じていたかと言うと、そうではない。イエスは見抜いたのです。弟子ですら信じていないことを。 その後イエスはご存知の通り十字架につけられます。 イエスが殺された理由は後のコラムで述べますが、イエスはなぜ殺されるのを解っていながら逃げなかったのでしょう。あくまで青山の推測ですが、イエスは、人々に対して、命を懸けて神に対する絶対的な信頼を示したかったのでしょう。どんな事態になろうと(十字架に架かろうと)、神(イエスにとっては父)が自分を救ってくれる。それを人々に身をもって示すことで、自分の宣べた福音が絶対に正しいことを示そうとしたのです。 それを思わせる聖書の言葉は随所にあります。 例えば、 ガリラヤ湖で弟子たちと共に乗った船が嵐にあったとき、「なぜ恐れるのか、信仰の弱い人よ」。これは神を絶対的に信じなさいと言うこと。 ゲッセマネで祈った時、口にした言葉、「できることならこの悲しみの盃を過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いからではなく、御心のままに」。これは明らかにイエス自身が神ではない証拠。絶対的な神ならそんな悲壮感などありえないからです。 しかしイエスは最後の最後に神の救いがなかったことに対して絶望し「神はなぜ、われを見捨てるのか」。と叫んでこと切れます。 要するにイエスは人間の罪を贖うために十字架に架かったわけではない。ということです。 (補足1) イエスキリストとして中世からよく西洋画に描かれていますが、その顔、容姿は北欧系の白人の顔です。でもよく考えてみてください。イエスがあのような(西洋的な)顔をしているなんてありえません。聖書などに彼の容姿、目の色、髪の毛の色などの記述はありません。さらに彼を直接見て描かれた絵画などない。すべては後の人間が想像で描いたもの。だから西洋画なら画家の身近にいる人をモデルに描いたと思われます。だからあのような容姿になってしまったのでしょう。最もイエスの容姿に近いものは、当時パレスチナ地方に住んでいた人の骨を分析して平均的な顔を割り出す試みです。恐らく黒人系の顔をしていたものと推測できます。少なくともこれまでの西洋絵画のイメージは捨てるべきでしょう。 (補足2) いつの時代も新興宗教の出現は既成宗教から攻撃を受ける要因を生む。 【解説】 イエスは、そのような社会から蔑また者、貧しい者に対して、罪を悔い改めることによって救済されると説いた。悔い改めたか悔い改めていないかは、(客観的に見た当人の)行動によって決定されない。それは個人の内面の問題である。従って客観的にこの人は救われる。この人は救われないという判定はできない。それは神及び本人にのみ解かることである。もし悔い改めることにより救われるなら、病人や貧しい者だけではなく、原罪を負った全人類にとって福音となるかもしれない。その点に関しては彼は救世主と言える。この救いを仏教で喩えるなら、これは神の一方的な救済であるから他力ではあるが、あくまで悔い改めなければ救われないので自力でもある。詳しくは次のコラムで解説します。
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