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イエスの生き方 神学的考察


 神学的考察 原罪と救いについて

以下イエスの話を土台にして、人間の救いに関する神学的な(青山の独断による)考察を行います。

 アダムとイブが神にそむいて禁断の実を食べたがゆえに、その子孫である人間が生まれながらにして罪人であるという物語において、我々キリスト教徒でない者は疑問に思うところである。なぜ先祖が犯した罪を子孫が負わなければならないのか?と。それは象徴的に次のことを意味しているのではないか。
人間は誰であっても生まれてきた以上、生きている間に必ず罪を犯すものである。即ち人間は生まれながらにして罪人(つみびと)ということである。(補足)
さて、果たして我々はこの罪から救われることができるだろうか?
イエスは、悔い改めによる罪の認識によってのみ救われると説く。
それだけでは、イエスが神の子であり救世主である必要はない。ただ自分の説を唱えたに過ぎない。イエスももちろん(人間であるから)罪人である。彼自身は 自分が世を救うために使わされた”キリスト”などと名乗ったことはない。

 人間はなぜ善を求めながら悪を為すのか?
そこに苦悩がある。もしも罪の意識も良心もなければ人は動物と同じで、そのことで苦しむことはない。ではどうやってその苦悩から逃れられるのか?
方法はない。それは神にすがって救ってもらう以外にないのである。

 イエスの殺害に加担した者は確かに彼を救い主とみなすことによって救われるのである。しかし、殺害に加担しなかった者は罪の意識もない。少なくともイエスだけを救い主にする必要はない。人間は生まれながらにして罪人である。しかし罪の意識(すまない!許してれ!)は誰に対して持つのか?我々(イエスの磔刑とは無関係な者)にとって、少なくともイエスではなかろう。 イエスであっても罪人(生まれながらに罪を負った者)であると思われる。
もしイエスが人間の一切の罪を贖った。というなら、現代の人間は一切の罪が消えていることになる。すなわち無原罪である。イエス以前の人間とイエス以後の人間はどこが違うのであろうか?

 では正解を述べる。
人間の生まれながらの罪は、生まれたことにおける罪ではなく、今現に生きていることについての罪である。今生きているなら罪は免れ得ない。その罪は隣人に対する罪である。我々は生きている限り隣人に対して害をなす。即ち生きている限り罪を犯すことを止めることができない。どれほど良心的な人間でも、必ず罪を犯してしまう。またどんなに罪を償おうとしても、一生の間に今まで犯した罪を全て償いきることは不可能であり、さらに意識しなくても生きている限り新たな罪を犯し続ける。罪はイエスが十字架に架けられたことによっても消滅はしない。現在生きている全ての人間は罪に苛まれる。もちろん死ねば罪を犯すことは無くなるが、生きている間に犯した罪は消えない。
では、人間は救われないのか?そこでイエスの考えを引用する。悔い改めによって、人は救われるということ。逆に悔い改めない者は救われない。悔い改めるということは、罪を強く意識することである。自分は罪人だと。そして罪の意識と悔い改めの心を持ちながら生きていくこと。そこには(人間は何もできないという点において)消極的な意味しかない。すなわち積極的な布教もないし、例えば道徳を守って社会生活を営む。 あるいは積極的に働きかけて人間社会に貢献する意味もない。また悔い改めることによって今までの罪が消えることもない。(起こしてしまった(隣人を傷つけてしまった)ことを永遠に帳消しには出来ない)

 イエスの贖罪が意味するところ。
イエスが十字架に架けられたことによって、彼を十字架に架けた者の罪が償われた。なぜ償われたのか?彼らは罪を負っているにもかかわらず、悔い改めようとはしなかった。罪を意識していないからである。それを意識させるためにイエスは十字架に架けられたのである。それはイエスの予定の行動である。
ただし、彼を十字架に架けた者全てが悔い改めたわけではない。もちろんそのような者に救済もない。
即ちイエスは後の世も含めて全人類を救ったわけではない。ただ、イエス自身に関わった者。自分を十字架に架けた者たち。生まれつき原罪を負っている(と信じている)者たちを救ったのである。

 ただし、イエスの死から2000年、その間に世界は救われてきたのだろうか。 どうもイエス以前と以後では何も変わっていないような気がする。果たしてその間に人間は少しでも良心的になっただろうか?争い事はなくなり世界が少しでも神の国(平和な世界)に近づいたとみなせるだろうか。(宗教団体である教会だけが儲かったのでは?) どうもそうではない。だとしたら彼の死は何を意味するのか?全ては無駄であったのではないだろうか?

 イエスの贖罪をどう考えるか?
まず、なぜイエスは十字架に架けられたのか?それはそうなることを本人も自覚していたのか?その答えはYESである。
十字架に架けられた理由は、人々から憎しみを買ったからである。なぜ憎しみを買ったのか?それは当時の宗教的権威を否定したからである。さらに人々の偽善を暴いた。それは当時の権威と人々の怒りと憎しみを買うことになった。
では、なぜ殺されるのが解っていながら、彼は自分の行動を改めなかったのか?
恐らく彼は自分が選ばれた者であることを自覚していたと思われる。誰によって選ばれたのか?もちろん神によってである。まあ言ってしまえばそれは思い上がりではあるが。
選ばれた目的は?人々の救済である。
では、どのように救済したのか?それは人々に「悔い改めることによって天国へ行ける。そして全ての罪が浄化される」と伝えること(これを福音という)によって。悔い改めれば当然罪を犯さなくなる。将来に渡って一度も罪を犯さないかと言えばそうとは言えないが。
ただしそれを信じない者がいる。信じない者は、罪を犯し続けるであろう。そういう者は当然救われないのである。つまり地獄へ赴く。
では、どうすれば信じさせることができるのか?
当時の人々はこう考えていた。人間は原罪を背負っているために救われない。つまり神の示した律法を守ろうとしてもどうしても守りきることができない。そのことを裏付けている。従って天国にも行けない。どうすることもできないと。特に悪人や献金ができない貧しい者たちはそう思っていたことであろう。(律法を守ること、及び宗教的機関に献金することによって、その分よい報いを受ける。つまり何もやらないよりは、(献金や律法を守ることを)やった方がましである) しかも人々は、イエスが言うとおり悔い改めによって罪が償われることを知らない。実は人間が持つ原罪が神によって既に許されていることも知らないのである。即ち悔い改めるだけで、救われるのかということである。それを示すために彼は敢て十字架に架けられたと考える。これは一つの賭けであり(賭けが当たるかについては彼自身にも不安があった)、彼は十字架に架けられても死から復活できることを人々に認めさせれば、それによって、これこそが神から既に許されている証拠であると人々は理解するに違いないと考えた。そして再生を果たしたのである。そこには旧約の予言に見る自分自身の運命を受け入れる覚悟があったことであろう。(磔ではなくて打ち首だったらと考える)
現代人はそのような賭けには出ない。ただし自分の命を犠牲にして、人々を救う者はこれからも現れるであろう。その人間は決してこの地上では復活しないが、天国では復活する。と考える。
後世キリスト教の教えとして、イエスが全人類の罪を購いキリストになったという教義が確立したが、そうではないことが分かるであろうか?
現代に生きる人間であっても原罪を負い目と感じている人にとっては、イエスの犠牲によって自分たちが救済されたことは確かであるが、彼の死によって、人々の罪を肩代わりし、神によって許されたと見るのは誤りである。なぜなら罪というものは犯した本人が負うものであり、決して他人(イエス)が肩代わりできるものではないからである。ただ、既に神から許されていることを人々に示すために、自分の命を犠牲にしたと見ることもできる。
本当に救われるためには、既に救われているという事実を絶対的に信じることである。そのためにはもともと人間は皆罪人であるという自覚。そしてそれが神によって許されたという事実を認識することである。自分自身(の過去)を振り返ってみれば、必ず罪を犯しているのは紛れもない事実である。それも数え切れないほどたくさんの罪を。全ての人間は罪人である。どんなに良心的な人間でも知らない間に罪を犯している。またどんなに意志が強い人間でも、肉体からくる欲望には逆らえない。(これを悪魔の誘惑と言う。悪魔は決して外にいるのではない。人間の心の中に住む。それはその人間そのものである) だからこそまず自分自身の罪を知ることが大事。罪を認識すれば、自然と悔い改めの心が生まれるのである。罪を知らなければ悔い改めもない。悔い改めが無ければ救いもない。(なぜなら人間は悔い改めることにより、(今後は)罪を(できるだけ)犯さないようする。ただし誤って犯すことはある。が、悔い改めない者よりも良心的になる)
悔い改めとその救いとは、事前に許しを乞うものではない。既に罪を犯してしまった者が、残気と悔恨の念に苛まれ、身も心も打ちひしがれるような苦しみに喘いでいる状態において、心の底から悔い改めることによって、神がその心に応えて一塵の糸のような救済の光を差し伸べる。そのことによって苦しみの淵から救い出してくれる喜びを味わうことを意味する。それは簡単なことではない。悔い改めたことが無い者には想像もできないほど壮絶なことなのである。例えほんの一瞬隣人の人格を否定した。あるいは人をだました。一度だけ人の嫌がる行為をした。冗談半分に人を苛めてしまった。などの軽い行為であっても、そこには神の前にひざまずくような激しい態度と赦しを乞う姿勢(決して外面的な行為ではなく、あくまで内面的なものであるが、ただし内面がそうであるなら、大抵の場合、それは表情や行動に出る。そこには身を切るような思いが伴う。罪とはその対象、社会に対する影響度によって、その償い具合が異なるものではない)が求められる。それは神の前で謙虚になることであり、自分をさらけ出すことであり、あるいは自分の無力さを自覚し、全てを神に委ねる態度(それはイエスの磔刑に通じる)が必要である。自らの力で自らを救うのではなく、全てを無条件に委ねること。それが肝心である。
悔い改めることとは、罪を知ることであり、自分の無力さを自覚して、すべてを神に委ねること。神に全てを委ねることとは、神が必ず真に、否、絶対的に自分を救う。否、既に神は自分を許していることを全面的に、かつ無条件で信じることを意味する。
自分は救われる。否、既に救われていることを信じるとこによってのみ、人間は救われるのである。(これは仏教の浄土信仰と同じ)

 さて、イエスの死に際して、もっとも救われた者は、イエスから癒された人々、そして弟子たちであったと思われる。イエスを慕った人々も全てが彼を信頼していたかというと疑問である。弟子の中にさえ、イエスを無条件に肯定してはいない者もいたはずである。弟子は彼の行う奇跡に心酔していたのであって、その言葉を全面的に信用していたとは限らない。一時的にせよ。イエスを心の中では蔑むことも無かったとは言えないのである。従ってイエスが十字架に架けられたのを目の当たりにしたとき、激しい悔恨の念に駆られたのも当然のこと。つまり自分たちが原因でイエスを殺してしまったことを知ったからである。
しかしイエスを救世主とみなせば、自分たちは救われる。イエスを殺害、あるいはそれに加担したことはもちろん許されざる罪である。しかし、彼を信じて悔い改めれば、その罪が浄化されると悟ったのである。それを諭すためにイエスは自らを犠牲にしようと考えたのである。
イエスの復活を見た彼らはイエスの言うことが全て真実であったことを悟ったのであろう。それまでは信じていなかったイエスを全面的に信じること。ここにキリスト教が出現した動機がある。

【質問】

1.人間は神が創ったものか?
NO
その人間の本質すなわち主体(神にとっての隣人)は神と並行して存在している。神はその主体を完全に支配することもできるが、神はそれ(人間)を愛するがゆえに、それに肉体と心を与えた。と我々人間がみなしているに過ぎない。

2.イエスの行為によって全ての人間が持っていた原罪は消滅したのか?
NO
自らが為した行為により人間は罪を負うことになる。それはアダムとイブの行為とは無関係である。人間一人一人が原初的に持っている罪である。それは人間として存在している限り失われることがない。人間の本質と言える。従って罪の原因は神ではない。神は常に人間をこの罪から救おうとしているのである。なぜなら神の本質は愛だからである。神は世界を支配するために強力な力を発揮するのであるが、しかしあくまで神の本質は愛であり、裁きや支配がその特性ではない。

3.その原罪から救われる手立てはあるか?
YES
悔い改めることによって救われる。しかし人間として存在している以上は、再び罪を犯すこともある。なぜなら原罪を完全に克服していないからである。それは人間の本質なのだ。

4.原罪を克服できなければ天国へ行けないのか?
NO
悔い改めることによって天国へ行ける。そう信じることが大切。

5.天国へ行けば原罪を克服できるのか?
YES
天国ではもう罪は犯さない。

6.早く天国へ行くために敢て自殺する行為は赦されるのか?
NO
この世に生きている限り、自らの行為によって天国に赴くことはできない。それは神が導くところであるから。

7.神や天国は人間が想像によって創ったものか?
YES
実体としての神は存在しない。神や天国は人間が自分の本質を知るために創り出したものである。しかし神がいないとなれば人間は自分の本質が分からない。神は存在しないが、世界と自分たちを創った神を人間は永遠に必要としている。

8.人間は原罪を負っていても救われるのか?
YES
イエス以前は、人間は生まれながらの罪人であるから、常に罪を犯す可能性を秘めていると、その中で少しでも生前善い行いをした者は天国へ、悪い行いをした者は地獄へ行くと教えられていた。では善い行いができない者(その善い悪いの基準は誰が決めるのか?ラビ(ユダヤ教の司祭)か)、あまりに大きな罪(殺人や略奪あるいは強姦など)を既に犯してしまった者は、残りの人生に如何に善い行いを重ねても償えないため、天国へ行くことをあきらめざるを得ないとしていた。それがイエスによって救われたのである。ただし生きている限り人は罪を犯すであろう。

9.神によって既に原罪が赦されているなら原罪は既に消滅しているのか?
NO
人間の本質は原罪にある。それは人間がこの世で生きている限り存在する。従って神によって赦されたのは、今まで犯してきた罪である。神は全ての罪を赦すであろう。ただし、罪を自覚しない者は、罪を赦されたという思いもない。神によって原罪即ち人間の本質が赦されたというのは、原罪か消えて無くなったのではなく、その原罪を本質的に持ち続ける人間を神が受け入れたことを意味する。従って過去の一切の罪を赦したと同時に、これから誤って罪を犯したとしても赦すと言っているのである。ただしそのためには今悔い改めが必要である。もちろん悔い改めない者は地獄へ落とすというのも、悔い改めさせるための方便であり、悔い改めない者に対しては、イエスのような人物をメシアとして遣わし、必ず悔い改めさせようとするであろう。なぜなら悔い改めないということは救いもない。少なくとも救済される人間にその自覚が無いことを意味する。それは本人が「自分は救われない」と苦悩に苛まれるのと同じである。それを哀れと思って神はあなたに罪を意識させようとしているのである。今まさに悔い改めることによって救済されるのである。悔い改めない限り生きているうちの(今この瞬間の)救済はない。

10.死んでから後の悔い改めによっても罪は許されるのか?(いわゆる「セカンドチャンス」の問題)
NO
悔い改める機会は生きている今をおいて他にない。イエスは、「明日までに悔い改めよ」とも「(人生のどこかで)生きているうちに悔い改めればよい」などとは言っていない。今悔い改めようとしない人間は、明日も悔い改めない。今日の内に死ぬかもしれない。死んでからでは遅いのである。なぜなら、自分が死んでしまったら、この世で隣人に償うことができない。死者は、生きている人間に対して何もできない。
今この瞬間にこそ、心の底から悔い改める。苦しめてしまった、悲しませてしまった隣人に対して命を掛けて償うほかはない。生きている今ならまだ間に合う。あなたの目の前にその隣人はいる。罪を知ってしまった今正に償うなら、たとえ明日死んでも救いはある。ただし、償いに終りはない。この世で犯したどんなに小さな罪に対して、死ぬまで償っても決して赦されることはない。一生を掛けた償いであっても、わずかばかりの罪さえ消し去ることはできない。

11.人間の存在理由を明らかにするために人間が神を創ったとしたら、全ての起源は人間にあることになる。
NO
神を全ての始まりとしても、その神の存在理由をさらに問われる。それはもちろん人間ということになる。しかしさらに人間の存在理由が問われ、また問いは神に戻る。このように問いは果てしなく続き、永遠に答えが出ない。神が存在しなければ、人間の存在理由などない。もともと(人間は、あるいは人間を生成した宇宙、自然は)存在していたとする考え方もある。しかしそれでは人間はどう生きたらいいのか?まったくわからない。同じく神を全ての始まりとしても、人間の罪の問題(どうして神は人間を創ったか)など解決しないことが残る。
即ち人間が先か神が先かというその問いは、人間が存在している限り永遠に問いが終わらないのである。人間と神は表裏一体である。人間が存在するためには神が存在しなければならない。神が存在するためには、人間が存在する必要がある。人間が存在せず、神だけが存在することなど無意味である。神は実在的存在でも客観的存在でもない。そこに観察される実体はない。神はイエスの例で解かるように、人間にとって相対する存在。即ち対話の相手である。

(補足)食べるために殺生をする。嘘をつく。邪淫を犯す。等仏教で言う五戒を犯す行為は人間として生きている以上必ず行う。
ただし、生きているからこそ、人を愛すること、隣人に慈悲を施すことができるのである。

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