TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

最後の救世主


イスラム教について 
 キリスト教の考察に続きイスラム教について簡単に述べます。キリスト教もイスラム教もユダヤ教を基にしています。同根の宗教というだけあって、(特にキリスト教徒もイスラム教徒も少ない日本人から見たら)キリスト教と大変よく似ています。
イスラム教において、なぜ神(イスラム教では「アッラー」といいます)を設定したか?これはあくまで推測ですが、当時(教祖であるムハンマドのいた時代)、人々は神を恐れず、好き勝手なことを繰り返していたものと。社会に悪がはびこり、人間としての道徳もなく、競争に明け暮れる、退廃した世の中でした。ムハンマドはそれを憂い、神に対する絶対的な帰依を人々に教えたのです。(そもそも「イスラム」とは絶対的帰依を意味します)
イスラム教徒が行うべき、五つの行い(五行=信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)はそのためにある。人間は自分を超えた神を恐れる気持ちがなければ、善良に生きることが出来ないということです。
それともう一つ。当時ムハンマドが目にしたものは、弱者に対する慈悲に目覚しく欠けた社会。強い者が弱い者を抑圧し、あるいは搾取し、まるで獣のように自分の利益を追い求める。その浅ましい状況を憂いたのでしょう。そもそも神を恐れず、自分の力で何でも出来るという慢心が、この状況を作り出したものと。五行の中で神を恐れる姿勢を持つことを教えたのも、すべては(五行の中の一つである)喜捨(貧民への救済)のためにあると、青山は考えます。それはムハンマドの歩んできた人生から、そのような社会の矛盾、理不尽さを痛感したからでしょう。(彼は貧しくはなかったが、もともとは孤児であり、人々の温かい愛情のもとで育てられた。それゆえ弱者に対する慈悲を重んじたものかと)
イスラム教というと「イスラム原理主義」という何か恐ろしいイメージですが、世界中に10億人以上いるイスラム教徒の大半は、ごく普通の生活を営む善良な人間です。長い歴史を持つイスラムの教えは完全に生活の中に取り込まれています。もともとイスラム教は世界中のさまざまな民族とその文化に寛容的でした。だから広範囲に広まった。あるいは長い歴史を維持してきたとも言えます。(補足1)
喜捨などの行いは確かに社会性を持っていますが、信仰心はあくまで己の心の問題です。それが自分の心を超えて社会に出てきた時に問題になります。他人が同じ宗教を信じていないことが気に入らないという理由で、自分の信仰を押し付けるのです。それはすべての宗教にも言えることですが、他の宗教も認める寛大な精神こそ、これからの宗教が持つべき重要な特性と言えるでしょう。(補足2)

預言者
 神に対して絶対的な信、あるいは帰依することはあっても、その代理と偽る教祖、予言者、法王、その他誰であってもただの生身の人間(被造物)に過ぎず、間違っても帰依して(忠誠を誓って)はならない。それは神に対する冒涜である。
予言者はもちろん神の言葉を預かっているのかもしれない。ただし、神の前にすべての人間は平等である。ごく一部の特定の人間を介して神が啓示を下す。そんなことを神がなさるでしょうか?神は人間と直接(一対一で)相対するのです。イエスの言動がそれを示しています。
はっきり言って神の啓示といわれるものは、予言者の個人的意見に過ぎないのです。(だからといって価値がないとは言えない。その人間の思想なのだから)
宗教(特に新興宗教)には、教祖自身を神に類する存在として非常に(異常に)称えているケースがある。その教祖を批判(信者から言わせれば誹謗中傷)されると狂ったように猛烈に反発する。その怒りは下手をすれば殺人にまで及ぶ可能性がある。まさに狂気です。その背景には、教祖を貶めるに者に対しては、どんな非人道的行為も躊躇なく行うという異常性と、自分たちの教義の崇高性に傷をつける者に対しては、容赦ない攻撃を加えることも許されるという(狂人たちの)勝手な論理です。その危険性はあらゆる宗教に当てはまるのです。

救世主はもう出現しない
 イエスも救世主ではなかったのです。なぜなら彼の出現前後で、世界は何も変わっていない。ユダヤ教徒が嘆きの壁(エルサレムにあるかつての神殿の壁)で、今後何百年、何千年、あるいは何万年、何億年と祈ろうが、救世主が現れることはないと思います。
世界を救うと言っても、そもそも自分がこの世界に生まれてこなければ何の憂いもなかったはず。この憂いを取り除いてくれる(自分を生まれる前の状態に戻してくれる)救世主が現れない限り、どんな救世主も不要です。人を救うとは、人間にとって本当に幸福な状態にすること。本当に幸福な状態とは、生まれてこないということ。それに勝る幸福はない。しかし嘆かわしくも生まれてきた以上はどうにもならない。
もしかしたらイエスは最後の救世主だったのかもしれません。すなわちもはや永遠に救世主などは出現しないでしょう。誰も世界を救ってはくれないのです。誰もあなたに幸福を与えてはくれない。もはや、あなたを救うのはあなた自身しかいないのです。

宗教について
 今まで(仏教、キリスト教他)宗教について述べてきましたが、留意してほしいこととして、宗教とは、そこで提示された物語を有意味的に解釈し、そこから思想を汲み取るもの。そこに宗教の価値があるのです。語られている物語は、一種の哲学的象徴であり、思想を比喩的に表現したものと言えます。従って、科学的な見地からそれを事実と解釈するのは誤りです。現実に照らしてみると、
・実体としての神は存在しない 神の存在は定義によって異なる。
・断言して言えることは、生まれ変わりなどあり得ない イエスや釈迦の生まれ変わりと主張する教団があるが、教祖が自分で自分を権威付けたい。そして信者を集めたい。そして金を儲けたいがための?嘘です。もちろん信じるのは自由ですが。
・教典に書かれていることは、そのまま事実とは言えない。何が有り得ることで、何が有り得ないことか、経験と今目の前にある世界を観察した結果を根拠に見極める必要があります。
・奇跡と言う言葉にだまされない 奇跡と言うものは、滅多に起こらない事が起こったことをいい、それは必ずしも起こらないとはいえない。なぜなら自然法則の原理には反していないからである。(起こる確率が低いだけで、決して起こらないとは言えない) それに対して神や生まれ変わりは、明らかに自然法則に反する。

祈りと科学
 「祈り」とは何でしょうか?人は幸せを祈る。望みを得たいと祈る。あるいは神に救いを求める。科学的見地に立って、この”祈る”だけで事が解決するでしょうか?例えば病気が治った。対人関係がうまくいった。あるいは試験に合格した。商売が上向いた。祈ったこととそれらの結果との間に因果関係など全くありません。よくあるインチキ宗教に騙されてはいけません。何々(例えばお布施)したから悩みが解決したなんて話は、よくよく考えてみれば馬鹿げたこと。本当にそうしたら解決した?しなかったら解決しない?検証して確かめましたか?これらは皆単なる”こじつけ”です。科学的にはあり得ない。
ただし、絶対にありえないかと言うと、それもやはり”絶対”とは言い切れません。もしかしたら”祈る心”が自分の行動に作用して、さらに周りの環境も変えていく。ことがないとは言えません。「祈れば救われる」そう信じるのは自由ですから。否、人間は弱いものです。最後には「祈る」しかないかもしれません。この青山もよく祈っていますよ。もちろん祈ったからといって、何かが変わるわけじゃないことは知っています。しかし祈らざるをえないのです。この青山も、神の存在を心の隅で信じているのかもしれません。最後は信じるしかない。それが人間というものだと思います。

仏教と他の宗教との違い
 仏教と他の宗教とは大きく違います。それは世界に意味があるかないか?仏教では世界は”空”とみています。即ち世界は実体がない。目的も意味もない。つまり(絶対的な)神など存在しない。これが他の宗教との違いです。他の宗教、例えばキリスト教などは、世界には意味があり、その意味を体現している神が存在していることを大前提としています。しかし仏教は違うのです。世界に意味がないと同様に、人生にも(元々は)意味がない。生きる目的なども(元々は)存在しない。これが本来の仏教の考え方です。それは現実と乖離しません。すなわち科学的なのです。(現代の(特に日本の)仏教はそれを大きく逸脱しているが)
つまりすべてを”空”と捉え、従って世界や人生やあるいは自分自身に執着してはならない。執着することから苦しみが生じるのだと教えています。すべて(自分も他者も)を愛するなと。
考えてみればもっともなことです。世界は”空”。そうであってはならない理由はないし、そうでなければならない理由もない。その人物が生まれてきてもいいし、生まれてこなくてもいい。従って他の宗教で主張している神や死後の世界の話は非科学的だと言えるでしょう。

心の問題。生きる指針・哲学
 科学的ではないからといって、宗教が(教典に書かれていることが)無意味とは言えません。人間は生きていく上で指針や哲学(何のために生きているのか、あるいは人間にとって幸福とは何か)が必要です。それがなければ存在者として主体的に生きていくことは出来ません。つまり宗教の教えが人生にとって大いに参考になるということです。そしてそこ(教典)に示されたもの(死後の世界や神)が意味を持つこともありえるでしょう。もちろんそれが存在することは証明不可能ですが、それがあるとする(信じる)ことによって個人の人生に深みを持たせるものがあります。
あくまで個人がそうするかしないかは勝手です。死後の世界や神は自分には必要ない。そう認定することも自由です。
ただ、もし生まれる前の状態があるなら、もし死後の世界があるなら、もし神が存在するなら。その”もし”を想定すること(本当な存在しないかもしれない)で新たに方向(生きる目的)を見つけることもあるかもしれない。それを踏まえて、改めて我々人間の生き方を見つめてみたいと思います。(この試み「心の旅」は次回に続く)

(補足1) イスラム教徒は誰でも厳格な戒律を守る敬虔な人間とは限らない。中には王侯貴族あるいは大富豪でありながら金を湯水のごとく使うバカもいる。
ただし、武力によって強制的に自分たちの宗教を押し付け、人々を不幸のどん底に叩き落す悪魔の教団「イスラム武装勢力」に対しては、断固たる措置を取るべきです。やつらを決して甘やかしてはならない。一切の妥協を排して、情け容赦なくこの”宇宙”から駆逐しなければ。
何度もいう通り、自分一人が何を信じても自由。それを人に押し付けなければいいだけ。結局いずれの宗教においても、宗教は「自然淘汰の産物」に過ぎないのです。

(補足2) よく話題になるのが、イスラム教徒を嫌悪する人間が「コーラン」を焼き捨てる。それを見たイスラム教徒が怒るという話。「コーラン」はイスラム教徒にとっては大切な聖典です。それをわざわざイスラム教徒の目の前で燃やす行為は非難されて当然だと思います。あなたの愛する両親の写真を、故意にあなたの目の前で破り捨てられたらどう思いますか?それは相手の心情を踏みにじるものです。ただし、自分の所有物を処分してもいいはず。経典に限らず、例えば仏像であっても、本尊であっても、自分が不要だと思えば、ゴミに出すなりいかように処分しても構わないでしょう。それ自体単なる物体(紙製その他)ですから。それに特別な効力があると考えることは偶像崇拝に他なりません。

ご意見・ご質問