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イエスの生き方 イエスの言いたかったこと


 イエスはなぜ殺されたか?
 「あなたがどんなに寛大でも、一人だけ許せない男がいる。その男の名はイエス
 もしあなたが敬虔なキリスト教徒だとして、一人の男から「あなたの信仰は偽善です」と言われたらどうでしょう。あなたの信仰が熱心であればあるほど、その男が憎らしく思えるはずです。あなたの憤りはごもっとも。しかしあなたは本当に神に誓って自分の信仰は本物だと言えますか?
※それに対して、もし青山がイエスから「あなたの信仰は偽善です」といくら言われても、まったく怒らないでしょう。なぜなら信仰心なんか(最初から)欠片もないからです。
イエスは別に特別なことを言ったわけではありません。本当のことを言ったに過ぎない。言いたいことを言ったに過ぎないのです。ただし、殺されると解っていながら。
本当のことを言っただけで、なぜ彼は殺されなければならないのか?
イエスは決して暴君や独裁者に殺されたわけではありません。彼は普通の庶民に殺されたのです。しかも(当時の)正当な裁判を経て。法に則ればイエスは殺されるべくして殺された。彼を殺し者に罪はない。しかしイエスは普通の庶民こそ偽善であると見抜いたのです。そこを見抜かれた市民、普段は敬虔な信者を装っていた者が、隠しておきたかったことを容赦なく暴かれた。自分は不信心者にさせられた。この怒りはイエスという男を殺さないではいられないところまで高めたのです。
しかし神はお見通しです。神に代わってイエスが言っただけです。それだけ当時イエスの周りには偽善者が多かったのかもしれません。
偽善を暴いたイエスは自分が殺されることを重々承知していました。それでも彼は相手の偽善を暴くことを止めなかった。彼は神を信頼していたからです。神に嘘をつくことなど決してできないと考えていたからです。だから正直に、偽善者(偽善に見えた者)に対しては”偽善”であると言いきったのです。(つまり本当のことを言っただけ)(補足1)

あなたもイエス
 イエスは決して世界を救おうとした救世主ではない。彼は神の子でもない。ただ、言いたいことを言ったに過ぎない。だからあなたもイエスになれますよ。言いたいことをはっきり(正直に)言うだけです。ただし、殺されるかもしれませんが。
現代でもあまりはっきり何かを主張すると、権力者や闇の組織に殺されるかもしれない。殺されない場合でも拘束されたり、冷遇されたり。あるいはごく普通の個人に対しても、相手から悪く思われることはよく有りますよね。だからみんなは黙る。言いたいことを言わない。でも、それでいいんですか?満足ですか?殺されたらおしまいだから黙っていないと損。もっともです。でも、殺されなくてもいずれ死にますよね。
あなたは損か得かで人生を決めるのですか?遅かれ早かれ人間はいずれ死ぬのです。青山個人としては、例え相手から憎まれても、言いたいことを黙っている方が詰まらないと思いますよ。人生楽しく生きましょうよ。そのためにはストレス解消。言いたいことを言いきる。例え人間関係にひびが入っても、例え社会が混乱しても。人間どうせ死ぬんだから。

イエスの教えの伝道
 イエスの教えはあくまでユダヤ人を対象にしたものです。(聖書を読めば解ります) なぜ、ユダヤ人以外には教えを伝えなかったのか?ユダヤ教徒ではない異邦人(その中には無神論者もいるかもしれない)に神の話をしても解らないと思ったからでしょうか?
もしイエスの救いがユダヤ人に特化したものなら、彼は救世主ですらないと言えます。救世主ならユダヤ人に限らず全人類を救うはずでしょう。
さらに世界を救うと言ったところで、世界の何かが変わったんでしょうか?紀元前(B.C)と紀元後(A.D)で世界が変わったのか?日本(および中国)ではキリストの誕生なんかその当時まったく知らなかったし、その時代に何か事件が起こったなんて話は何一つありません。現在キリスト教は全世界に布教されていますが、イエスの福音を信じているキリスト教(他の一神教を含む)国の人間の方が、福音を信じないその他の宗教国の人間よりも幸福であるなどとは言えません。イエスは救世主ではなく、ましてや神などではない。世界の一地方に現れた、ほんの短い間だけ話題となった、一人の賢者に過ぎなかったと思われます。
ただ、彼の弟子たち、あるいはパウロが、当時異教徒だったローマにまで伝道したことで、一地方の新興宗教で終わっていたかもしれないイエスの教えが、今日キリスト教として世界宗教になったのは意味があります。今一度キリスト教、否、イエスの教えについて考えてみてはいかがでしょうか?青山のような完全無宗教者にとっても有益だと思います。

 最後にイエスの教えをまとめます。
1,人間は皆罪人(生きていること自体罪を犯している)であるから悔い改める必要がある 「悔い改めなさい。天国は近づいた」
2,偽善を装わず、神の前に(誰に対しても)真正直であれ 「鳩のように純真であれ」
3,(敵味方に関わりなく)隣人に対してはひたすら無償の愛を注ぐこと 「敵を愛せよ」(「隣人愛」については後ほど説明します)
4,注意深く観察せよ。人の腹を見抜け。「蛇のように聡くあれ」
5,動物としての本能的欲望に使役されず、心を強く持て。欲望におぼれると悪魔が付け入る 「目を覚ましていなさい。心は燃えても肉体は弱い」(補足2)
6,いついかなる場合でも、神に対する絶対の信(帰依)を忘れるなかれ 

最後に
 イエスでも釈迦でも聖人扱いするのはもうやめましょう。彼らは普通の人間ですよ。ただ少しばかり頭が良かった。イエスは「神の子」ではありません。人間です。イエスを神だと信じるのは自由ですが、それは電車で偶々隣に座ったおじさんを神とみなすのと同じです。
もしあなたが死んだ後、「神の子」にされたらどう思いますか?あなたは既に死んでいるのだから関係はありませんが。
「それは実に名誉なことだ」。そう思ったなら、あなたは救いようもない愚か者だ。
もしイエスが死んでなくて、そのまま宇宙船に乗り込み、相対性理論の「浦島太郎効果」(高速で飛ぶ宇宙船では、地球より時間が進むのが遅くなる)により、(イエスにとって)わずか数年で地球に戻ってきたら、今日の状況を見てどう思うだろうか?いつの間にか自分が神に祭り上げられている。いくらイエスでも商売の台をひっくり返して怒る?でしょう。(「イエスの神殿での行い」)
とにかく、人を指して「神」だなんて、人をバカにしているのか!失礼極まりない。(万が一イエス自身が自分を神だと思っていたなら、救いがたき愚か者だ)
特に許しがたいのは、神の名のもとに、あるいはイエスの名のもとに、自身の行為を正当化すること。(補足3)
つまりイエスを神様扱いすることは、崇敬と言うよりは、彼に対する最大の侮辱だと思いますよ。特に今日の自称キリスト教徒たち。イエスの清貧の生き方を忘れて事業(金儲け)に精を出す。社会で成功することを望んでいる。(補足4)
イエスにしてみれば現世での成功など何の役にも立たない。ただ愚かなだけです。成功したキリスト教徒たちは、土足でイエスの顔を踏みつけているようなもの?本当にイエスの教えに従うなら、何をなすべきか自ずと解る?と思いますが。

(補足1) つまりイエスは新しい宗教を興そうとしたのではなく、宗教そのものが持つ偽善を破壊したかったのではないかと考えます。そのためには殺されても構わない。もしイエスが現代に蘇ったら、キリスト教も含めて多くの宗教、あるいはすべての宗教を糾弾したことでしょう。命を捨てる覚悟で。

(補足2) 「心は燃えても、肉体は弱い」とは人間の本質をよく言い当てていると思います。その通りなんです。”精神”よりも肉体の方が強い。どれほど意志の強い人間でも肉体から来る欲望には叶わない。つまり動物的な本能(食欲や性欲あるいは睡眠欲)には逆らえないのです。イエスは正に賢者だと思います。

(補足3) アメリカは、建国以来キリスト教の教えが広まっている。そのアメリカの昨今(もう過去の出来事?)における軍事行動を見ると、そこには悔い改めも何も無いことが分かる。イラクやアフガニスタンで軍事行動を起こす姿勢。テロリストを駆逐するならともかく、罪のない市民を巻き添えにしている。もし市民に危害が及ぶことが分かっていながらの行動であるなら、それは地上最も卑しい決して許されない行為とみなすしかない。たとえテロリスを早く、そして予算を掛けずに駆逐するための止むを得ない行為だとするならば、もはやその考え方に弁解の余地は与えられない。軍事行動を開始する前に、教会でその成功を祈るために、牧師からミサを受ける政府閣僚の浅ましい姿を見ると、その教会が悪魔の殿堂のごとく見える。(もちろん教会は満足であろう)
あらかじめ献金をしておけば、神も大目に見てくれるなどとは誠意の欠片もない所業であり、献金に頼って救われるというイエス以前の浅ましい状況に陥る行為以外の何者でもない。(もちろんすべてのアメリカ人が悪いとは間違っても言えないが)
もしも本当に世界平和を実現したいなら、今すぐ武器を捨てることである。世界の秩序はこうしてつくられる。そのための犠牲は止むを得ないという考えは自分に都合のいいように神を利用しているに等しい。
しかし悔い改めは、個人の内面のことであるから、赦されるか赦されないかは、その人間個人と神との間の出来事であり、それを他人が推し量ることはできない。
しかしイラクを攻撃したアメリカの閣僚が悔い改めているとはとても思われない。罪の自覚もない。悔い改めもしない。ただ自分の安穏だけを願って教会へ行くくらいなら、行かない方がましである。聖書など読むに値しない。イエスを信じなくてもいい。しかし悔い改めは心の問題であり、行為によって判定されない。彼らは本当に悔い改めているのかも知れないし、していないのかもしれない。では、どうするか?
我々は他者の行為に対してどう対応すればよいのか?そこに隣人愛の意味がある。相手の態度を見て、口先だけで「悔い改めている」と言われても、とてもそうは見えない場合、隣人として指摘する。あるいは指弾する。相手から反発を受けるかもしれないが、こうこうこういう理由で、あなたは悔い改めてはいないように見える、と忠告してあげよう。相手は行為を改めるかもしれない。それによって相手は救われるかもしれない。逆に怒りを買うかもしれない。そのためにあなたは殺されるかもしれない。しかし、そこが隣人に対する愛と慈悲である。例え殺されても、こちらは愛と慈悲によって相手を救おうとする。あくまでこちらは隣人に対する愛ゆえに、そのような行為、指摘や忠告をするのである。相手があなたを怒りから殺した場合でも、相手はいつの日かその罪を知る。そして悔い改める。悔い改めることによって相手は救われる。あなたによって救われるのである。いずれにしても相手は救われる。
逆に自分が間違っており、本当に相手は悔い改めているのかもしれないが。それならそれでいいのである。ただし問い正さない限り、それは分からないのである。

(補足4) イエスが”裕福”とは無縁の生き方をしたのは聖書を読めばわかります。それに対して現代の(形だけの、特に先進国の)キリスト教徒の中にはとても裕福な者もいます。裕福でも神に対する信仰を持てば(教会に寄進すれば)許されるものと勝手に理解しています。金持ちたちは、自身が義人でないことを分かっている。ゆえに(神を恐れるがために)返って信心深い。神を信仰するのも罪滅ぼしのつもりなのです。罪だとわかったら金儲けから足を洗えばいいのに、彼らは哀れにも儲けることを止められない。イエスは金持ちを嫌っていました。「金持ちが天国に入ることより、ラクダが針の穴を通る方がやさしい」(マタイのよる福音書)。
 余談ですが、この青山も貧乏な家庭で育った精か、金持ちであることを自慢する輩が嫌い。あと生まれつき裕福な王侯貴族も嫌い。貧乏人に生まれたためのルサンチマン(強者を憎む弱者の心理)でしょう。そのため個人的には王家に生まれた釈迦よりも、貧乏人として生まれたイエスの方が好きです。

 悪魔(金と権力を手に入れた者)たちは、賢者(イエス)を兵糧攻めにしようとしたのである。イエスが死の恐怖に耐えられなくなり(生存本能に逆らえなくなり)、命乞いをするまで。しかしイエスは最後まで白旗を振らなかった。イエスが破壊したかったのは”宗教”(=人間の甘え、誤魔化し、驕り)そのものだったのではないだろうか。だから人々は彼を憎んだと思われる。イエスは”宗教”に殺されたのである。(青山はイエスの真似などとてもできませんね。すぐに降参しますよ。心も肉体も弱いですから。ただし、青山は、イエスを殺した”宗教”に怒りを覚えます。この「科学概論」で宗教を攻撃するのはそのためです。とにかく兵糧攻めに遭っていない今なら言いえます。言える時に言う)
つまりイエスは悪魔の奴隷になることを拒否したのである。それに対して彼を殺した大衆は、自分が悪魔に魂を売ったことに気づかない。悪魔の誘惑に魅せられた一般大衆は金儲けや功名にのめり込む。しかし悪魔など存在しない。その正体は自分自身に巣くう動物としての本能である。
イエスを殺した後、悪魔たち(一般庶民)は、イエスをまんまと取り込み、「キリスト教」なるものを作り上げてしまった。単なる人間に過ぎないイエスを神に祭りあげてしまったのである。
イエスを殺したのは庶民たちである。そういう意味で人類は皆”ユダ”である。もちろん”悪魔”など現実には存在しない。その正体は我々人間が持つ「煩悩」(生存のための動物的本能欲)である。(補足5)

(補足5) あなたがもし純粋で慈悲深い人間なら、目の当たりにした世の中の理不尽、不条理に対して怒りの声を上げるでしょう。そして世界を変革するために立ち上がる。しかし悪魔たち(世の独裁者、闇の権力者たち、あるいは一般の庶民)は、そんなあなたの行動を阻害するだろう。そしてあなたの身体およびあなたの愛する家族、さらに生活の糧を奪い、それらを人質にするのです。悪魔たちはあなたを脅迫するでしょう。「大人しく我々の言うことを聞かなければ、これらを滅ぼす」とね。あなたはその脅しに屈服するかもしれない。身体そして家族そして幸せな日々を奪われるくらいなら、悪魔に魂を売るしかないと。しかしもしあなたが”イエス”なら、この身体がどうなろうとそんな脅しに屈することはない。もしあなたが”釈迦”なら、国家や家族を失おうとも、絶対に悪魔に跪くことはないと。彼らは皆そうして世界を変えていったのです。

最後に 人はすべて救われる
 イエスは天国に入るためには悔い改めることが条件だとみなしました。つまり自ら悔い改めたない者は救われないのです。人間は誰もが罪人です。否がおうでも罪を犯してしまうのです。だから悔い改める(自分が罪人であることを自覚し、行いを改め、神に許しを請う)ことが必要なのです。
ただし、人間はどれほどの悪人であっても、生まれてから今日まで悪事の限りを尽くして来た者でも、救われたい。この苦しみから逃れたいのです。そのため、誰もが神を求める。最後には神に祈る。祈るしかできない。そして悪人として生きてきた人間も臨終の間際、死ぬ直前には、自分を投げ出して許しを請う。即ち皆悔い改めるのです。悔い改めることは必然であり、すべての人間にとって絶対的な神は、必須の存在なのです。「悔い改めない者は天国に入れない」というのも、人々を悔い改めさせるための方便だったのです。すべての人間は悔い改める。即ち、すべての人間は必ず救われるのです。(仏教の浄土信仰と本質は同じ)
ここに至って神の絶対証明がなされました。もしイエスがそこまで見抜いていたとしたら、彼は何という賢者でしょうか。イエスは正にメシアです。

さて、みなさんにはイエスの”気持ち”が分かりましたか?彼がなぜこのような行動をとったのか?彼の身になって考えれば分かると思います。なぜならイエスも我々同様人間だからです。「否、イエスは神である。だから我々には理解できない」。もしそうなら彼の教を理解できないことになります。理解できない”教”など、我々には何の価値もありません。イエス同様釈迦も人間を超越した存在なら、釈迦の気持ちも分からない。だったら彼の教えも意味がない。彼らの教が我々にとって価値を有するのは、我々が彼らの気持ちになって考えることができるからに他なりません。気持ちが理解できるということは、彼らも我々同様人間である証拠です。

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