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天国からの使者


最初に
 誤解されないように説明すると、ここで語る「天国」、「神の存在」はあくまで想定されたもの(方便)であり、それが真実かどうかを問うことが不可能なため、科学とはまったく別の次元の話であることをまず初めにお断りしておきます。

なぜこの世界に生まれたのか?
 仏教で述べている通り、この世界は「空」です。この世界には意味も目的も方向性もありません。なるようになっているだけです。
では、我々はなぜこの世界に生まれたのか?その答えは、「理由などない」というものです。すべては偶然です。たまたま生まれてきたのです。本人の意志に関係なく。なぜなら生まれる前に(存在する以前に)意志などありませんから。(補足1)
意味なく生まれてきた。だから(誰であっても)、生まれてきてもよかったし、生まれてこなくてもよかった。ただそれだけです。(補足2)
さらに仏教ではこの世は正に「苦」です。苦しかないのです。楽しみや喜びは偽りのものです。これが真実です。だから人間は、宇宙にとっては生まれてきてもいいし、生まれてこなくてもいい。しかし生まれてきた本人にとっては、この世は苦しみしかないため、むしろ「生まれてこない方がよかった」のです。なぜなら生まれてきた以上は必ず苦しむからです。それは一人の例外もない。どんな金持ちの家に生まれても、あるいは王家に生まれても、あるいは天才的頭脳を持って生まれてきたとしても、誰であっても、生まれてこない方がよかったわけです。
歴史上の人物全て、釈迦やイエスも例外ではない。今世間で名の知れた有名人も一人残らず、生まれてこない方がよかったのです。人の誕生は悲劇なのです。そう言うと怒る人がいるかもしれませんが、これは真実なのです。なぜなら、仏教の「空」と「一切皆苦」を否定するのですからね。それは釈迦が嘘つきだと言っているのと同じですよ。仮にこの世界に苦ではなく「楽」もあれば、生まれてきた価値があるかもしれませんが、この世のすべての楽は偽りです。誤魔化しです。そんなものは麻薬(LSD)と同じです。
しかし、我々は既に生まれてきてしまった。もはや母親の胎内には戻れません。一旦生まれてしまったら、この地獄のような世界で生きていくしかないのです。ここに最大の悲劇があるのです。偽りではなく本当の楽しみや喜びがわずかでもあれば、それだけは救いですが、そうではありません。もはや親を恨んでも始まりません。どうすることもできないのです。しかも人類はこの悲しみの連鎖を止めようとはせず、未だに次々に子供を産み続けている。生まれた子供は間違いなく苦しむことが分かっていながら。そし人類は世界70億人に達しました。正にこの地球上に70億の不幸が存在するかのごとく。
現在は豊かな国であっても、過去食べるものすらなくて貧しかった時代。それでも人間は子供を産み続けてきた。今この時代に子供を産めば、不幸になることが分かっていながら。なぜでしょう?地方の農村では子だくさん。跡取りだけを残して、それ以外は都会へ出て行った。田舎では仕事がないからです。そうして地方から出てきた人間で都会は溢れている。そういう人たちに聞いてみましょう。なぜ都会に来たのですか?田舎じゃ生活できないから。生きていけないから。生きていけないということは、空気や水もないといっているのと同じです。そんなところでなぜ子供を産むのか?
親という者は、子供のためなら命を惜しまず尽くす。それが当り前です。しかしそれは犬や猫でもやっていることです。犬や猫でも子供のためには必死です。だから生き残ってきたのです。結局は動物的な本能(自然淘汰の産物)から来ている行為なのです。どれほど親が必死になって子供を育てても、所詮それは焼け石に水にもならないのです。釈迦の父親も同類です。どんなに贅沢三昧を与えても釈迦は満足しなかった。父は、子供ためにこれだけ一所懸命なのに、「何がまだ不満なのか!」と怒りをあらわにしたことでしょう。(補足3) しかし釈迦が求めていることはそんなもの(王位や権力)ではない。生まれてきた以上王ですらどうにもならない苦しみをどうやって克服すればいいのか?財や贅など偽りの幸福です。
つまり結局子供たちは親の煩悩の犠牲者です。親が何も考えずに行った行為が取り返しのつかない(子供を作るという)大罪を犯すことになるのです。そして生まれてきた子供たちも、いずれ親と同じように子供を作る。それが子孫に引き継がれる。不幸の連鎖は永遠に続く。そして幸福と言われているもの、金持ちになる。出世をする。有名になる。これらはすべて煩悩(生き残りたいという動物としての本能欲)からくる、見せかけの幸福なのです。

 今世界(特に先進国は)少子化です。子供が少なくて高齢者の生活を支えきれないのです。
生まれてばかりの子供にはわからないでしょう。この世が苦しみであることが分かるためには、まだ時間が必要です。それに対してもう何十年も生きてきた大人たちは分かっているはずです。この世が苦しみしかないことを。否、分からない?「楽しみだってあるじゃないか」 あなたは犬や猫と同じですね。その場の快楽を得られれば、それで満足ですか?その満足はすぐに苦に変わるでしょう。苦は度々現れる。そのたびに楽を求める。楽が得られれば苦を忘れてしまう。それを何千回、何万回繰り返してもまだ解らないんですか?楽しみなんか所詮生存本能から来る欲望を一時的に満たしたに過ぎない。あなたは最後の最後までそれに気付かず、犬猫のように苦と楽を繰り返しながら死んでいくのですか?
もうこの悲劇は止めにしましょう。生まれてくる子供が可哀想だとは思いませんか?高齢者を養う(贅沢な暮らしを維持させる)ために、少子化を解決するために、あるいは景気をますます向上させる(金持ち連中をもっと裕福にさせる)ために、”産めよ増えよ地に満ちよ”ですか?
はっきり言って、生産力を上げるため、あるいは高齢者を救うために、できるだけ子供を作るという発想は、借金を返済するために、あらたに借金をつくるに等しい。そのことに気付きませんか?
否、子供を産まなければ国は亡びる。そして人類がこの地球上から消滅するではないか!
国が滅んではいけない理由はない。人類が滅亡してはいけない理由はない。なぜなら、世界には方向性がない。世界は、そうなってもいいし、そうならなくてもいい。これが真理です。
人類が滅亡しなくても個々の人間は確実に死にます。死は絶対に免れません。ただ一片に死滅するか、時間差を置いて死ぬかの違いです。いずれ個々の人間は死ぬのだから、一人一人の人間にとっては同じこと?です。
ただし時間差を置いて死ぬと、死ぬ前に子供を残せるのです。そうして死ぬまでの間に必ず子供を残せれば、”人類という種”は生き残るのです。しかし人類という種が生き残ることに何の意味があるのでしょうか?
そもそも世界に意味などないのです。こうなってもいいし、ならなくてもいい。人類という種が生き残ろうが死に絶えようが、あなたは死ぬのです。
否!人類が滅びることは絶対に阻止しなければならない!
それはあなたの個人的願望でしょう。
否!人間なら誰だってそれを阻止したいと思うはず。私だけじゃない。周りの者全員が人類の存続を願っている。
あなたに他人の気持ちが分かるのですか?
当り前だ!なぜなら我が友人も「人類の滅亡は絶対に阻止する」と言っている。
そうあなたの耳で聞こえたのは単なる偶然であり、友人も自分も同じ気持ちだと、そうあなたが勝手に解釈しているだけでしょう?
あなたがなぜ自分の死後のこと(人類の滅亡)まで気にするのか?それが心配で死ねないのか(死にたくなくても死んでしまう)と言うと、それはあなたの脳がそうプログラムされているのですよ。それは人間という哺乳動物の種が進化の過程で身に着けた本能による働きなのです。
あなたはきっと、青山が、「人類なんか滅亡したっていいじゃないか」と言ったのを聞いた途端、不快な気持ちになるはず。(これを”理由なき不快感”と呼んでいます) それはどこから来ているのか?すべてはこの本能的な作用から来ているのです。もし自分たち(人類という種)の存続などどうでもいいという発想を持つなら、人類は精を出して種の存続に努めることもなく死に絶えていたかもしれない。すなわちこれは度々述べている「自然淘汰の産物」に過ぎないのです。(補足4)
人類が滅亡したところで、地球あるいは宇宙にとってはどうでもいいこと。それによって地球や宇宙が無くなるわけではありませんから。別に地球が消滅しても、あるいは人類が消滅したことによって地球環境が激変しても、地球にとってはどうでもいいこと。なぜなら地球に意志や感情はないからです。
図86「人類滅亡のシナリオ」をご覧下さい。この図にあるように、人類が滅亡すると言っても、隕石の地球激突や核兵器を用いた大戦争による人類絶滅なら、それは大変なことですが、バターンCのように、人類すべてがある時期を境に子供を作らなくなれば、まあ少子化が続くでしょうが、いずれ人類は自然消滅するでしょう。このパターンCに何か不都合はあるでしょうか?(補足5)
「少子高齢化問題」は先進国ならどこでも頭を抱えていることですが、安易に子供を産めばいいという問題ではない。「産めよ。増えよ。地に満ちよ」じゃ単なる馬鹿ですよ。子孫を残す残さないは個人の自由であり、最近増えているのが結婚していても子供を残さない夫婦(子供を産んで育てても、老後は見てくれそうにないし)。あるいは特定の異性に拘束されるのを嫌うため独身を選択する者。いずれも自由なライフスタイルで、それを他人から(あるい国から)非難される覚えはない。(補足6)
すると少子化は加速される。困るのは大勢の年寄りです。働き手からの支えが途絶える。苦しい老後となる。しかしそれは当り前。年をとればとるほど、人生が苦しくなる。生き辛くなるのは当然。(仏教で説く「老病死」) 今の若い人たちもいずれ辛い老後が待っているのです。楽しい老後を送ろうなんていうのは嘘です。その嘘を蔓延させるために、現実から目をそらすために、年寄りを裕福にさせるために、少子化を阻止するなんて現実無視も甚だしい。人生苦しみに満ちている。それはこの世に生まれてきたからには避けることができない現実です。それは当局による年寄りをだまそうとする行為に他ならない。なぜなら、それだと国が滅んでしまう。滅んだっていいじゃないですか?それだけこの世の苦しみが減るんだから。国家や人類が滅亡してはいけない理由はありません。
まあ最後の最後まで生き残った人、すなわち最後の地球人に自分がなったとしたら、最後は一人ぼっちですからとても寂しい思いをするでしょうが、人間死ぬときは誰でも一人です。この寂しさに耐えられない者は死ねません。しかし死ねるのです。これまでにたくさんの人間が”一人”で死んでいるように。
結局人類が生き残らなければならないという考え方は、人間の本能から来る指向に過ぎない。子供たちはその指向の犠牲になっているのです。(補足7)
もし人類を救いたいなら、それは子供を産まないことです。子供が一人生まれれば、それは一つこの世に不幸が生じることに等しいのです。

神からの贈り物
 この青山の思想は悪魔の教えかもしれませんね。しかし生まれてきたことは苦であり、その事実は変わりません。人類が生き残っている限り苦しみは消えないのです。(人類が滅んでも他の生物がいる限り消えませんが)
さて、前に話した仏教でいう五戒の中の「不邪淫戒」について改めて説明します。これは基本的に子供を作ってはいけないことを言っているのです。(子供を産んではいけないと言っているのではないことに注意。産んではいけないとなるとそれは女性だけの戒律になる)
なぜ子供を誕生させてはいけないのか?それは生まれてきた子供は必ず苦しむ。そして生きている間に必ず殺生をする。(直接だろうが間接だろうが、必ず何かを食べるため) そして最後は必ず死ぬ。死ぬのが分かっていながら生命を誕生させることは一種の殺人である。(死の原因は産むことにあるため)(補足8)
では、今世界中で生まれてきている子供たちは、みな犯罪の犠牲か?その通りです。では子供を産むことは絶対悪か?その通りです。子供を作って産むことは、殺生と並ぶ大罪を犯すに等しいのです。
ただし、ここにこの「不邪淫戒」を克服できる考え方が一つだけあります。(これは青山の説です。他にもあるかもしれません)
これは人類の存続や少子高齢化社会の克服などという下らないものではなく、それらを超越した崇高な思想です。
それはこういう物語です。
人間はもともと、この地上に生まれる前には神の国、即ち天国に住んでいた。これは前世があるという考えとは違います。天国とはあくまでこの世界を超越した存在です。この世界で言えば、それは生まれる前は何一つ存在していません。人間の誕生の意味は定義によって決まります。すなわち母親の胎内から取り出された時を誕生とすれば、それ以前にはどこにも存在していないことになるのです。(母親の胎内にいる間は、母親の身体の一部)
この地上にいる人々(主に愛し合っている夫婦)は、神に祈ります。「救い主を遣わしてください」と。神はその願いを受け入れる場合も受け入れない場合もあるでしょう。もしその願いが聞き届けられたなら、神の国から天使を遣わすのです。それは正に神様からの贈り物です。夫婦はそれを神からいただいた大切な宝として扱うでしょう。この宝こそが子供です。すなわち子供たちは皆天使であり神の御子なのです。
即ち、我々は皆この地上に誕生する以前は神の国に住んでいたのです。しかし我々は皆そのことを忘れている。神はあなたを地上に遣わすときに諭しました。「地上を神の国にせよ」と。神の国とは、平和で愛に満ちた世界。そう我々は神から命を受けて地上に向かうのですが、「オギャー!」と生まれたときは既にそのことを忘れているのです。だから思い出しましょう。あなたは神に誓ったのです。「必ず地上を神の国にして見せます」と。(ということは逆に言うと、この地上は最低最悪の地獄(神の国とは正反対)だということです)
この話はみな作り話です。青山の空想です。しかし天国などはない。神など存在しない。と絶対に言い切れるでしょうか?もちろんその存在を証明することは絶対(原理的)に不可能です。逆に存在しないことも証明不可能です。証明することが不可能なことを科学では扱いません。あくまでそんなものはない。と言い切ることもできます。しかし我々人間が何のために生きているのか?という根本的な問いの答えを得るために、このような想定(もちろん真実ではありませんが)が必要な場合もあるでしょう。
あるいは、そんなもの(神や天国)は必要ないと言う方がいてもいいでしょう。しかしそれを信じるのは自由です。否、これはあくまでも青山の私見ですが、人間は(よりよく)生きていく上で、神を信じることは必要ではないかと思います。もちろん個々人の内面の問題です。信じる信じないはあくまでも自由ですが。 
さて、子宝を授かった夫婦はその子を神様の贈り物として大切に育てるでしょう。その子に無上の愛を注ぐでしょう。いずれの子供たちも神様からの贈り物です。たとえ障害を持って生まれた子供も天使です。神から宝を与えられた夫婦は自分たちの命を捧げても育て上げなければなりません。
子供を育てるということは、その子が大人になった時どういう人間にさせるかという課題を科せられたことになるのですが。すなわち救い主としていただいた御子です。当然最上な、あるいは理想的な人間に育て上げること。それは授かった夫婦にとっての当然の義務です。では、その理想的な人間とは何でしょう?それは仏陀です。覚者です。この世の真理を解き明かした者です。慈悲に満ちた存在です。
解りますか?生まれてきた子供はいずれ仏陀になるように育てなければならないのです。それは神のご意志でもあり、人間に与えられた使命でもあるのです。すなわち生まれてきた子供は、誰かれ関係なくすべて仏陀に育て上げなければなりません。(もちろん愛情を持って育てなければなりませんが、愛するということは単に甘やかすということではありませんよ) 逆に仏陀以外の人間には育ててはいけないのです。(プロ野球選手やプロゴルファーに育てるのではありませんよ) これは神の命令です。背くことはできません。もし仏陀ではない者に育てようとしたらそれは神に対する裏切り行為です。
仏陀とは何か?と問わると、もちろん一概には言えませんが、釈迦が仏陀かどうかは別にして、それは理想的な人間を指します。当然善良であり、世界を正しく認識する能力を持ち(科学的である)、人と争わず、慈悲に満ちている。(というのは一つの例です) 仏陀とは何か?それは人類がこれからも問い続けていく課題だと思います。
そしてもう一つ重要な点があります。子宝というものは、単に夫婦二人に授けられたものではない。それはこの地上に遣わされたもの。すなわちこの世界への贈り物です。当然夫婦だけに養育の義務があるのではない。それは神から我々(自分の子を持っている持っていないに関わらず)に課せられた使命です。
ここで人間はあまりにも傲慢な考え方を持ちます。あたかも命は自分たちで作れるものだと考える。神を恐れないこの考え方は人間を悪魔に変えます。人は生命という尊厳ある言葉に敬意を表すべきでしょう。神の前に純真となり、人知を超えた存在を認めるべきです。
”命そのもの”は決して人間が創造できるものではありません。まして完全な”無”から何かを存在させるなど不可能です。子作りは命の創造ではありません。命を与えるか与えないかは神が決めることです。現代医学は遺伝子操作によって望むべき人間を創造できるようになったようですが、それは間違いです。人間は完ぺきではありません。こういう子供が欲しいというのは、あくまで神に対する祈りです。それが通じるか通じないかは人間の力によって決まるわけではない。命を創造できるなどという神をも恐れないこの思考は、悪魔の思想とも言うべきでしょう。(補足9)
子供を宿すことはできても(それも神のご意志)、誰が生まれてくるのかは、生まれて来るまでは分かりません。現在母親が妊娠した時点で、エコー(超音波探知装置)などによって、既に(生まれてくる子が)男の子か女の子かは判ります。しかし”誰が”産まれてくるかは、産まれて初めて判るのです。例えるならこういうことです。会社の人事異動で新しい課長さんが来ることになったとき、発令時点で「今度の課長は男性で、年齢は○○、背が高くてハンサムで・・・」なんてうわさが聞こえてきます。ただし”誰”が来るのかは、着任して初めて判るのです。
子供もこれと同じ。母親の胎内から取り出されて、「オギャー!」と泣いたその顔を見て初めて、「ああ、生まれてきたのは”あなた”でしたか」と分かるのです。誰が生まれて来るのか、誰が神の国から遣わされるのか、それを予め知るのは神のみです。すなわち親(および我々人間)は生まれてくる子供を絶対に選べないのです。「この子が欲しい」と神に頼んでも聞き入れられるとは限りません。誰が神の国から遣わされても、それを天使だとみなして大切に育てる。それが人間の使命です。
人間は生まれた以降周りから仏陀として育てられる育てられないに関わらず生きて行きます。地上を神の国に変えようという使命を意識するしないに関わらず成長していきます。そこで善をなしたり、愛を施したり、はたまた悪や罪を犯すのです。
ここで人間には(本人が意識するしないに関わらず)皆役割が与えられていると考えます。それはもし善良な人間として生まれた、そのような性質を持って生まれて来た人間には、その善意を如何にこの地上で発揮して、この世界を少しでも神の国に近づけるか?
逆に凶悪な性格、無慈悲な性質を持って生まれてきた者は、それを発揮して残虐に生きる。いいえ違います!その(凶悪、無慈悲な)性質を如何に克服し、それを抑えて、できるかぎり善行を為せるか?そういう課題を負っているのです。(補足10)
さて、今生まれてきた子供は今後どれだけ寿命があるのか分かりませんが、いずれ死んで、また神の国(天国)に戻るのです。そこで神と対面します。この地上で善を行った者も悪を行った者も皆「一生懸命頑張ったけれど、神の国を作ることはできませんでした」と言って神に許しを請うのです。神の前で嘘をつくことはできませんから、みなこれは本心です。神はもちろん皆を許すでしょう。なぜなら神は愛そのものだからです。
 お分かりですか?「邪淫」=子供を作る行為。それは単なる動物としての欲望ではない。それは神への祈りであり、子供を遣わすのは、神のご意志なのです。神の意志ならばそこに”罪”はありません。

 さて、もちろんここに書かれていることは皆空想です。神も天国も存在しません。(本質は「無」) しかし絶対に存在しないことも証明不可能です。ということは存在してもいいでしょう。となる。あるいは存在することを信じてもいい。他人に無理やり信じさせなければ。それは悪ではない。と言えます。(補足11)
もちろん信じない人はそれでもいい。しかしこの世が「空」で目的も意味もない。従って、生きる目的や意味が分からない人にとって、より今の生を有意義に、人生を意味あるものにしたいと言うなら、こういう(自分だけ)物語を作ってもいいのではないでしょうか?
そうでなければ、人は生きてはいけない?と思います。いずれにしてもこの世界に一旦生まれたからには、もう元には戻れません。もはや前を見て生きて行くしかないのです。

(補足1) 人間は一人も例外なく、自ら望んで生まれてきたわけではない。よく「誰にでも生きる権利はある」と言いますが、(だったら死刑囚にもあるのか?) それ以前に、「生まれる権利」、「生まれない権利」があってはじめて、「生きる権利」を主張できるのではないでしょうか?人間には生まれる権利すらない。そして老いない権利も死なない権利もない。生まれてきた以上、人間は生きること以外選択できないのです。

(補足2) 親は自分の子供がほしい。即ち子供が”生まれてくる”方を望んでいるのです。ただし、”あなたが”生まれてくることを望んでいるとは限りません。あなたじゃなくてもいいわけです。もっと優秀な子供を望んでいたかもしれない。

(補足3) 親は自分の子供を喜ばせたい。この性質を子煩悩という。煩悩ということは所詮動物としての本能。それはどんなに子供に尽くしているつもりでも、自分勝手な欲望に他ならない。だから子供が喜ばないと、返って子供が憎たらしく思える。それが何より煩悩である証拠。

(補足4) 「人類が滅んでもいい」という考え方も、実は自然淘汰から生まれた性質なのです。生物としての人間の行動、言動はすべて例外なく自然淘汰の影響を受けています。ただし、いかなる性質も自然淘汰だけでは説明できません。人間という存在、否、この宇宙のいかなる存在も自然淘汰を超えているのです。

(補足5) 余談ですが、このパターンCを見て思い出したことが。吉田兼好(卜部兼好)が書いた有名な随筆「徒然草」に、「子というものはない方がいい」とあって、昔聖徳太子が「ここを切れ。あそこを絶て。こうして子孫を絶やそうと思う」と言ったようなことが書かれていました。本当に聖徳太子がそう言ったのか分かりませんが、言ったとしたら大したものです。(この話は「徒然草」の第六段。聖徳太子の話は「聖徳太子伝暦」から引用)

(補足6) 本題とは関係ありませんが、自由なライフスタイルと言うことで最近では「同性婚」というものが流行っています。男と男、女と女が結婚するってどういう意味でしょう。結局は生活を共にするということですよね。(何も「同性婚」なんて言葉を使わなくてもいいのでは?) だったら何も二人に限らなくても。三人、四人、五人でもいいでしょう。集団で生活すると経済的に有利(例えば食費を節約できる)ですから。
一緒に生活している人のことを家族といいます。血のつながりがなくても家族です。最近ではペットも家族の一員という考え方があります。従来の夫婦と子供という家族観にとらわれなくてもいいと思いますよ。そして子孫繁栄など目指さなくてもいいでしょう。子孫繁栄なんて所詮動物的な指向ですから。

(補足7) 子供あるいは若者たちの悩み。自分はなぜ生まれてきたのか?何のために生きているのか?大人はこんなことでは悩みません。しかし若者たちは純粋に答えを求めているのです。彼らは周りの大人たちに尋ねます。しかし大人に聞いても無駄なことです。誰も答えてはくれません。なぜなら、大人たちはそのようなことを考えたことすらないのです。若者たちは自分で答えを見つけようと哲学書を読むのです。しかしどこにもその答えは書かれていません。そこで若者たちはカルト系宗教にのめり込むことになるのです。そういう悩みを抱えた若者は宗教にとって格好の餌食です。
では、大人の一人としてこの青山が答えを言いましょう。なぜ生まれてきたのか?理由など一切ありません。はっきり言えば誰であっても、生まれてこなくてよかったのです。偶々生まれたに過ぎない。これが正しい回答です。それでは不満ですか?

(補足8) もし親が、子供が死ぬことを解っていながら子を宿したなら、それは一種の殺人です。ただし、親になれば分かりますが、親は子が死ぬことを前提に子供を欲しがっているのではない。親は子が永遠に死なないことを前提として子を宿しているのです。

(補足9) 人間が生命そのものを作り出すことはできない。遺伝子操作で生物が創れるわけではない。無から原子(分子)をどう生成するのか?遺伝子操作は、単に生物の変更である。ある生物の身体的特性を変化させているに過ぎない。それは人間の頭髪を散髪する(髪型を変える)操作と同じである。

(補足10) むろん人間に役割など初めからありません。それが真実かもしれません。しかし生きる意味を持たないと人間は生きてはいけないのです。だからこそ自分でその役割を見つけるのです。

(補足11) この世界が「空」で意味がないから、逆に何事も自由に想定することが可能です。天国も死後の世界もそして神も、自由に創れるのです。それは人間にしかできないことです。

 執こいようですが、最後に 再度お断りします。ここで語っている空想上の話(神とか天国とか)は、青山からの皆さんへの一つの提案に過ぎないのです。人生にはもともと意味などないのだから、自由に物語を作れるはずです。その一つがここで言う神と天国の話だと。もちろん他にもいろいろな考え方があるでしょう。あなたの生きる力となれば何でも構いません。自由に物語を作ってください。

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