TSUKUSHI AOYAMAのホームページ

トップへ戻る インデックス
← 前へ 次へ →

臨死体験と霊魂


 天国や死後の世界、あるいは神の存在を、自分一人が心の中で信じる分には何も問題はありません。自分の心の中は誰にも侵害されない領域だし、そこで自由に自分の思いを展開してもいいわけです。
ただし、「自分は死後の世界を信じている。だからお前も信じろ」と他人に向かって言った途端、客観的な根拠を提示する必要が発生するのです。つまり何を持って、「死後の世界」が存在すると言えるのか?特に宗教団体だとして、人を勧誘したいなら、それなりの科学的な根拠を示さなければなりません。根拠を示さず宗教に引き入れるなんて無責任です。もし間違いだったらどう責任を取るんですか?(補足1)
かつて世間を騒がした「オウム真理教」は「生まれ変わり」や「輪廻転生」、「カルマ」とか盛んに言っていました。さらにこの教えは科学なんだと。はっきり言えば、こんなもの科学的でもなんでもない。(これについては後ほど) 現代において、科学的な根拠を示さず、同じこと(生まれ変わりや輪廻転生など)を主張して、人々を勧誘する宗教がもし存在するなら、オウムと同じとみなします。
宗教には厳しい態度を取るべきです。でないと、また同じような事件が起きますよ。宗教はそれほど危険なのです。
「死後の世界」や「生まれ変わり」などは、”死にたくない”という人間の願望が生みだしたただの「妄想」です。何の根拠もありません。(補足2)

「死後の世界」の否定
 以前ここで「死後の世界は100パーセント存在しない」と述べましたが(「死後の世界」参照)、未だに世間には(科学的な根拠なしに)「死後の世界は存在する」と他人に教えている人々がいます。もちろん信じる分には否定しませんが、何度も言うとおり人に勧めたら根拠を提示しなければなりません。
すると「死後の世界」肯定論者は、「では、死後の世界が”ない”ことを証明しろ」と反論するのです。
現在も、世界中で毎日のように人が亡くなっているのに、どこかへ行ってしまったなんて話は一つもありません。(イエスを例外として) それ(肉体)がそこに(死亡場所)留まっているのに、どこかへ(別の世界に)行ってしまったなんて事はないでしょう?ここで何かが消えたのなら、それがどこかへ行ってしまった可能性は有りますが、そのような例はありません。「証明しろ」と言いますが、何千、何万、否、何億の事例(死亡という現象)が証明しています。(補足3)
「死後の世界」について証明しなければならないのは肯定論者の方です。その前に死後の世界とはこういうところで、どういうメカニズムによって死んだらそこに赴くのか?詳細にかつ分かりやすく説明して欲しいものです。
すると肯定論者は、「人間は肉体と霊魂によって構成されている。肉体が滅んでも霊魂は(永遠に)不滅である」と。
”霊魂”って何?観測不可能なものがあるかないか、そんなことを論議したってナンセンスですよ。霊魂の存在を証明したいのなら、「霊魂」とは何かを具体的にかつ反証可能(注)なものとして定義する必要があります。(図87「白いカラスと霊魂の存在」参照)
ここで、「死後の世界はある」と主張している方に質問です。亡くなった方はあの世でどういう姿なのですか?身体がないと誰だか(今年亡くなったおばあちゃんだと)分かりませんから、身体はあるでしょう。人間は顔を見て他人と区別しますからね。さて、その身体は裸のままですか?そんなことないでしょう。ちゃんと服を着ているはずです。服だって着ているうちに汚れるでしょう。着替えはあると思います。何着も。だったらあの世にも洋服店があるのでしょうか?あの世でも時間が経つのでしょうから、人間の顔も変化しますよね。あの世で多いのはお年寄りですから(年寄りの死亡率が高いため)、既に老けた顔がさらに老けるのでしょうか?あの世では何を食べているんですか?食べなくても平気なんですか?だったら(あの世でも)生きていけませんね。あの世で死ぬことはあるんですか?死んだらどうなるんですか?それとも死なないんですか?だったらお化けと同じですね。病気もないから医者も病院もいりません。健康に気を使うこともいりません。さあ、教えてくださいな。あの世はどういうところか?誰一人として死んだ経験なんかないはずです。だから死後の世界はこうだなど、言えるはずがない。
因みに仏教では「霊魂」の存在は完全に否定されています。なぜなら釈迦がはっきりと示していました。「無我」(固定された主体などない)とね。この「諸法無我」は仏教の基本中の基本です。(仏教では「霊魂」の存在は肯定されていると思っている方は、勉強不足だと思いますよ)
不滅の霊魂が存在し、それがこの世に何度も生まれ変わる。と言っても、”誰”が”誰”に生まれ変わった?そんなものは絶対に分からない。生まれ変わる前の記憶は一切ないし(あったら大変)、身体だって別物になるし(同じものなら、年寄りで亡くなったら、年寄りの身体のまま生まれてくることになる)、つまり(自分と生まれ変わる前の自分は)他人と同じ。結局生まれ変わりというものは、こういうことではないでしょうか?(図88「生まれ変わりとは?」参照)
我々は花が咲き、それが枯れても種ができ、それがまた新しい花を咲かせる。そこに生命の因果性を感じます。同様に親が子を産んで、それがまた孫を産む。そこにも生命の連続性を見出すのです。あるいはある人が庭の鉢に花の種を植えたとします。その人は自分の植えた花が咲くのを見ずに亡くなってしまいました。でもその後種は美しい花を咲かせたのです。ここに生命の永遠性を見ないでしょうか?花は亡くなった人の生まれ変わりなのです。そこに不変なあるいは固定的な霊魂など存在しません。霊魂すなわち永遠不滅の主体(アートマン)が肉体Aから肉体Bに移ったなどという証拠は何一つない。(誰が誰に生まれ変わったのか、それがはっきりと示されれば別ですが、そんな証拠は一つもない)
釈迦は「無我」を説きました。すなわちアートマンを否定したのです。(「仏法の基礎」参照)
(注) 反証可能とは、その理論が誤っていた場合、Aという結果が得られる。もしAが得られれば、その理論は間違いであることが証明される。というもの。そう定義されなければならない。この要件を満たすことは近代科学の基本であり、この反証可能性が示されなければ、科学の理論とは言えません。

余談ですが
 ここで観点を変えて考えてみましょう。(いささか物理的ですが) なぜ我々の身体はマクロ的なのか?なぜ我々の脳の大きさは素粒子レベルではないのか?マクロな視点で見ればこの世界は3次元です。もしも人間の身体が電子ほどの大きさしかないなら、我々は電子と同じ量子レベル(多次元)の視点で世界を眺めます。電子には電子の世界に対する認識があるでしょう。それは我々の認識とは異なります。我々の認識はあくまでマクロ的なのです。マクロな視点でいえば、意味のある情報は必ず物質に記録されなければなりません。そのマクロな世界において有限に蓄えられた情報から世界を認識するのが人間の意識です。その脳(他)という物質に蓄積された有限の記憶は、死とともに消滅するでしょう。一切の記憶が消滅した後で生きているときと同じように世界を認識できるでしょうか?(難しい話でしたか?)

臨死体験
 ここでは、死後の世界の証明で有名な「臨死体験」を取り上げますが、はっきり言えばあれは死者の証言ではありません。生きている人間の証言です。従ってどんな特異な体験でも、それが「死後の世界」の証明にはならないのです。もし完全に死んで、火葬場に運ばれ、墓に葬られた、本当の死者の証言なら信用できますが・・・(自称霊能者は論外)
ここで臨死体験について少し述べてみましょう。
臨死体験とは、ご存知と思いますが、事故や病気で瀕死の状態の人間が、意識不明の最中に、様々な体験を行うことを言います。その体験した内容を意識を取り戻してから本人が語るのです。
臨死体験者の体験は、ほとんど夢と変わらない脳の幻覚作用です。つまり精神医学(脳神経学、心理学を含む)に基づく脳内の生理現象でほとんどすべて説明できます。(補足4)
例えば、意識不明の状態で、遥か昔の記憶が蘇る。臨死体験は単なる(いつも見ている)夢とも異なります。脳が特異な状態にあり、つまり多数の脳細胞および感覚器官が機能停止している状況下で、情報(刺激)が限られている中、作動している脳細胞が敏感になることにより、忘れ去られていた過去の記憶が蘇ることも不思議ではありません。
また、意識不明の状態で、自分が寝ている病室の状態が(天井から)見ているように観察される。(これを体外離脱現象と言う) 目は閉じられていても、光の強弱は検知しているのかもしれない。耳や指の感覚、その他の器官で受ける刺激によって、意識回復後、脳で物語を作っている可能性あり。(図89「臨死体験の仕組み」参照)
臨死体験者の話でよく出てくるものとして、綺麗な花園の風景を見ている。そこを死後の世界と理解してしまうというもの。果たしてその花園とはどこなのか?体外離脱した病室の場面が、いきなり花園になったら、これは地理上の移動としては変です。まあ病院の裏庭なら納得できますが。見ている場面が何の関係もないところに突然移動してしまうのは理屈に合いません。ただし夢だと解釈すればすべて納得します。臨死体験者の証言では、体験した内容は夢とはまったく違うとのこと。恐らく現実よりもリアルなのでしょう。
例えば自分の目の前にある花が今何を感じているのか、花の気持ちが解かるのです。しかも何百何千という花がみなそれぞれ違うことを考えている。それが一瞬にして解かるのです。
余談ですが、山好きの青山は、日本中の山々を訪れています。日本の山には冥界を思わせるような場所や地名がところどころにあります。たとえば「賽の河原」とか。行ってみると綺麗な花園です。それは現実にある冥界です。臨死体験者の見ているものは、現実の花園よりも、よりリアルに見えるようです。
夢でもリアルな夢はあります。例えば(青山の体験ですが、みなさんは真似しないで下さい)、気を失うほど酒を飲む。そして酔っ払って眠ってしまう。そのときの夢はオールカーで非常にリアル、触覚、聴覚も敏感になり、風の冷たさを感じたり周りの物音も聞こえる。同じように脳が特異状態になったとき、(情報が限られることにより)返って敏感になるものと思われます。
臨死体験中に見る花園と現実の(実際の地名にあるその場所に行ってみた際の)花園は決定的に違います。臨死体験中の花園はどんなにリアルに見えても実際のものではありません。つまり現実を規定している自然法則に従っていないのです。例えば、もし花々がみな揺れているのなら、それを揺らす力が働いているはず。現実の場面ならその原因は風です。さらに花が見えているなら、花を照らす光源があるはず。現実にはそれは太陽です。そして光源の反対に影が出来るのです。もしあなたが臨死体験をしたなら、本当に風があるのか?太陽などの光源はあるのか?影はあるのか?冷静に観察してみてください。恐らくないでしょう。(例外は除く) なぜなら、現実ではないからです。すべては脳内の出来事です。

過去の自分はない 自分が自分であるという確証。
 そもそも自分が存在している確証はあるでしょうか?「われ思う、ゆえにわれあり」という具合に自分が存在していないと話が進まないから、とりあえず存在しているとしましょう。(補足5)
それ(自分)はどこに存在しているのですか?ここです。何時存在しているのですか?今です。そう。今しか存在していないのです。図90「過去の自分なんか存在するのか?」を参照願います。AさんとBさんのそれぞれ1分前の写真を比べて、果たしてどっちがAさんの写真で、どっちがBさんの写真でしょうか?分かりません。1分前でも状態が変化します。
何が過去の自分なのか判らないなら、過去の存在など考えること自体無意味です。自分が明らかに存在していると言えるのは今現在しかないのです。自分が今しか存在していないなら、不滅の霊魂も存在しないでしょう。(補足6)

過去の罪は問えない?
 ここでちょっと横道。もし過去の自分が存在しないのなら、1年前に犯罪(泥棒でも人殺しでも)を犯した者の罪は問えないのでしょうか?
答え:問える
罪を償わなければならないのは、今です。過去ではありません。罪とは、現在の当人(犯罪者)の状態に対して、責任を問われることです。過去については責任を問えません。
では、過去に犯罪を犯した者は、何が罪なのでしょうか?自分は1年前に泥棒をした。そう自分の頭で”記憶している”こと自体が罪なのです。忘れてしまったら周りの人間(証人、あるいは被害者)が思い出してくれるでしょう。「お前が泥棒だ」ってね。「あっ、俺は泥棒だったんだ」。そう思ったら罪を償わざるをえなくなるのです。(これは誘導尋問ではありません。物的証拠をもとに犯人を問い詰めているのです)
つまり応報刑(注)などありえません。すべては今(記憶している)状態を更正させるための刑、教育刑(目的刑)しかありません。
(注) 犯罪者が実行した行動内容に対する報いを刑罰の形で施すもの。

 以上にように死後の世界はない。と言えます。(信じるのは自由)
死後の世界があり、死者はそこで生きている。生前良い行いをした○○さんは天国へ行って幸せに暮らしているだろう。悪い行いをした○○は地獄で苦しんでいるはず。
自分がそう思うのは勝手ですが、あたかも知っているような(見てきたような)口調で、人にもそう(死後の世界はあると)教え込むのは無責任です。人類の長い歴史に上で、死を実際に体験した人間(釈迦やイエスも含まれる)は一人として存在しない。既に死んでいる人間は何一つ語らない。死後の世界なんて無知な人間がいい加減に想像しているに過ぎないのです。
それは死者に対して失礼だと思いませんか?否、過去に世界中でどれだけたくさんの人間が悲惨な死を遂げたか?あるいは無念の死を遂げたと思いますか?そんな悲しい死に方をした人に対して「慰霊」とか「供養」とか、そんな言葉で誤魔化すなんて。死んでしまった人間はもうどうにもならない。存在していないのですから。取り返しがつかない(何一つしてあげられない)のです。そうして死んでいった人々を思うと、安易に「あの世で幸せに暮らしている」なんて口が裂けても言えないと思いませんか?
最愛の人に旅立たれてしまった人が口にする言葉、「亡くなったあの人は、私の心の中で生きています」。そうなんです。生き続けているのです。あなたの心の中で”永遠に”。それは心情として、この青山にもよく分かります。その感情は人間としてごく自然のことだと思いますよ。それを死後の世界について、”異次元世界”だの”量子脳”だの、はたまた”虚時間”とか、いかにも科学で説明できるような言い方をするからおかしくなるのです。
死後の世界は間違いなく存在しない。ただし、これはあくまで自分がこの世界に生きていて、他人であった故人が死後どこかへ赴くのかという話(どこにも行かない)をしているのであって、自分自身が死亡した場合、どうなるかについて語っているのではないことに注意して下さい。自分の死と他人の死は全く異なるものだということです。(自分の死については次のコラムで)

(補足1) 根拠がなくても自分が信じる分には構わないと思います。人に話をする際も、「自分は死後の世界を信じてますけど・・・」と自分のことだけを言えばいい。暗に、「あなたも信じてみませんか」と信じるように勧めていますが、「証拠はありません」と最初に断っておけば、そんな科学的根拠まで出す必要はないと思います。「信じなくてもいいですよ」と相手に選択の余地を与えていますから。

(補足2) 「神の存在」や「死後の世界」を信じたいという習性(欲望)は人間にしかありませんが、結局死を恐れるという本能的な恐怖心を相殺する(誤魔化す)ために心理的に生まれた思考パターンの一種に過ぎない。結局はそれも自然淘汰の産物なのです。

(補足3) 自称霊能者が「霊が存在”しない”ことを証明しろ」なんて主張しますが、霊などのわけのわからないものが存在するか存在しないかなんて議論そのものが不毛です。その前に「霊」とは何かを具体的に定義する必要があります。その上でそれを証明する。証明責任は、もちろん「霊は存在する」と主張している連中にあるのです。その存在が証明されない限り、「霊は存在しない」という主張は成り立つのです。

(補足4) 例えばUFOの目撃情報もそうですが、事例すべてを完璧に説明することは不可能です。どのような場合でも説明不可能(証拠不十分)なものが最後に残るのです。科学は完全無欠ではありません。絶対に正しいという方が返って非科学的です。

(補足5) 自分が存在している絶対的な確証はありません。あるなら、示してください。

(補足6) 自分とは何でしょうか?後でも説明しますが、まず手や足、あるいは脳ではありません。つまりこの身体が自分ではないのです。なぜなら、それは鉛筆やパソコン(物体、道具)と同じです。「自己とは、世界とは」または「自己と世界」で述べた通り、自分は世界を認識する主体です。実は自分とは”意識”のことなんです。意識とは自分が自分である認識です。意識がなければ自分が存在していないのと同じことです。自分にとってその意識は現在ただ今しか存在していないのです。過去の意識、あるいは未来の意識なんか存在するでしょうか?仮に存在していても(自分にとって)それは意味をなしません。(自分が)意識しているのはまさに今だからです。また、人間は他人にはなれません。他人の意識を伺い知ることは不可能です。もし知り得るのであれば、それは他人になってしまうのと同じことです。すなわち、霊魂も輪廻(時間幅を持った自己)も存在しないのです。

 以前(「死後の世界」)も話しましたが、死ねば確かにすべては”無”になるのです。(もちろん物質的な質量とエネルギーは保存されるが) ただし、あなたが現在”この世”で生きているなら、この世でどう生きるか?今何をなすべきかは、生きている限り無くならないあなた自身の課題です。なぜなら、あなたは生きていくこと以外何もできないのですから。(自殺はできない。「自殺について」)

最後に
 死後の世界など、亡くなった人に生きていてほしいという願望が生みだした妄想です。霊魂や生まれ変わり輪廻転生を主張する宗教はみなインチキでしょう?言うまでもありませんが、科学的な根拠は一切ない。
「死後の世界はある」と個人的に思っている人には何も言いません。ただし、死後の世界が存在すると主張する者は、死後の世界が何であるかを明確に定義した上で、その存在を科学的に証明する必要があります。死後の世界が証明されない限り、「死後の世界はない」とする考え方は否定されないのです。
ただし、人間の生と死についてはまだまだ分からないことが多々あります。生死についてはすべての結論は出た。などとんでもありません。道元(注)の有名な言葉、「生をあきらめ、死をあきらむるは、仏家一大事の因縁なり」。(生とは何か、死とは何かを明らかにすることこそ仏教最大の目的である)にある通り、生と死は永遠の謎かもしれません。
(注) 1200〜1253鎌倉時代の僧。著書に「正法眼蔵」がある

ご意見・ご質問