最後に 人生は苦しみに満ちています。そしてこの社会は矛盾、理不尽、不条理です。喜びや楽しみは見せかけのもの。なぜこんな世界に生まれてきたのか?好きで生まれてきたわけじゃない。誰が悪い。親が悪い。神が悪い。神こそ憎め。神こそ呪え。しかし神など初めから存在しません。世界は無意味です。成るようになるしかないのです。 では、我々に救いはないのか?人は誰でもいつか死にます。もし死が”無”であるなら、救いはあります。存在しないということは、苦しみもないということです。しかし本当に死は”無”でしょうか?誰にも分かりません。死んだ経験をした人はこの世にいません。だから信じるのです。信じることは自由です。死は完全なる無なのだと。確かめることはできなくても、信じることはできます。 人は誰でもいつ死ぬのかわかりません。今日かもしれない。100年後かもしれない。しかしいつか必ず死にます。明日死んでもいい。今日死んでもいい。死が無なら、死を恐れる必要はありません。次の瞬間死んでも構わない。そう思いながら生きる。人生の間にやらなければならないことなど、何一つありません。人生は無意味です。 今もし生きているなら、何のために生きるのか?その答えは万人共通です。即ち幸せになるために生きるのです。幸せは人それぞれ違います。何を幸せとしたとしても、それはあなたの自由です。人間はどう生きようとも完全に自由なのです。 試練を超えて 人生に困難は付きものです。困難のまったくない人生などありえません。人とは思いがけない不幸に見舞われます。災難に出会い全ての財産を失った。健康な体に不治の難病が襲い掛かった。最愛の人に先立たれ自分は孤独になってしまった。突然このような苦難に出会うと人は誰でも絶望を味わいます。あなたはこれを試練と考えますか?神の与える(あなたを成長させるための)試練などあり得ません。 人類の存亡に関わる世界的な危機。例えば地球規模の天変地異。伝染病の爆発的な拡散。そして未曾有の世界大戦。世界中が窮乏する経済的大不況。これらを神が人類に与えた試練と見ますか?この困難を人類が乗り越えられるかどうかを神は伺っていると。いいえ、試練など絶対にありえません。 ただし、自らがすべてを了解していることを前提に、自らが自らに課す試練ならあり得るかもしれません。何のために試練を課すのでしょうか?もちろん隣人に対する慈悲のためです。自らの成長のためなどでは決してありえません。 一つの例として、新型ウイルスの感染が世界的規模で拡大したとしましょう。各国政府は感染拡大を防ぐために、市民に不要不急の外出を禁止しました。市民生活は混乱、困窮を極め、経済的な打撃は計り知れない状況に。多くの人が職を失い。生活は窮乏する。人生に絶望した人が巷に溢れる。人々の不満は専らその元凶であるウイルスに向けられました。すべては”ウイルス”が悪いと。しかしここでいうウイルスとは、RNA(リボ核酸)とタンパク質からなる単なる高分子化合物に過ぎません。そんなただの”物体”に罪など問えません。あなたが不満なの、ウイルスの精じゃない。原因はただただこの世に”生まれてきたこと”にあるのです。 人々は放射能による癌や新型ウイルスの感染拡大に恐れ抱く。しかし放射線をまったく浴びないようにすることなど不可能です。(分厚い鉛で四方上下を囲まれた部屋から一歩も出ない。それでも”ニュートリノ”は貫通する) あるいはウイルスにまったく感染しない方法などありません。(宇宙空間にでも逃げ出すか?) 癌になる。あるいはウイルスに感染する。それはもはや偶然が左右することです。どのような方法を用いても完全にそれを防ぐことはできません。 はっきり言えば癌やウイルスなど恐れる必要はありません。癌に掛からなくてもウイルスに感染しなくても、人間はいずれ死ぬのです。どんな死に方をしても死ねば皆無になるだけです。死ぬのが嫌なら、困難に出会うのが嫌なら、生まれてこなければ良かっただけです。 生まれてきた以上死ぬことだけは確実なら、死など恐れるな!世間がどうあれ生きたいように生きれば良い。例え世間に迷惑を掛けようとも、そのようなことを憚ってはならない。掛けたいだけ迷惑を掛ければよい。憎まれたいだけ憎まれればいい。 ここで間違えてほしくないこと。それは自分に降りかかった困難の原因を自分に求めること。自己責任。悪いのは自分。そうではありません。悪いのはあくまで世界の方です。ただし、その誤りを正すのは、自分しかいないのです。そこで初めてすべては自分の責任、自分次第、と言うことになります。 苦悩こそ生き甲斐 世間でよく言われることとして、困難に直面した者、不幸に見舞われた人に向かって、あるいは親が子供に対して、「世の中にはもっと不幸な人かいる。お前はまだましな方だ。だから感謝しなさい。」と。この考え方は間違っています。家が貧乏なことに不満で、子供が親に文句を言うと、親はこう子供に言い聞かせます。「もっと貧乏な家もある」と。すると子供は、そういう貧しい人を見て、「俺の方が幸せだ」と満足感を覚えるのです。今まで抱いていた(貧乏であるという)劣等感が消えて、何となく自分が人間的に上位に上がったような気分になる。「俺はあいつらより偉いんだ。価値があるんだ」とね。時には貧困国の子供の様子をテレビかなんかで見て、「あいつらは哀れだ。あいつらは俺よりも下層だ。人間的に劣っている」と。あるいはからだに障害を持っていない自分が、障碍者を見て、「やつらよりはましだ」と優越感に浸る。そうして人を見下すことにより、劣等感を克服するのです。 親だったら、我が子をこんな情けない人間には死んでも育てたくないと思いませんか。自分が能力的に優れていたら、あるいは財産を持っていたら、または身体が丈夫なら、それは優越感どころか苦悩を意味する。なぜなら、自分以上に不幸な人間がいれば、当然自分がそれを救わなければならない。釈迦が「天上天下唯我独尊」と唱えた。その時の彼の心情が分かりますか?そこには喜びも満足感もない。あるのは苦悩だけです。なぜなら自分以外の一切の衆生を自分一人が救わなければならないから。その果てしない道のりを思えば、そこにあるのは正に苦難です。考えようによっては釈迦こそがこの世で一番不幸かもしれません。もし自分が貧乏で何の能力もない人間なら、喜んで救いを待てばよい。誰かが必ず救ってくれることでしょう。 しかし、自分が優れた能力を持ち人々を救わなければならないという重責を負わされたとしても、確かに苦悩は苦悩であるが、そこには人々を救えるという喜びもあります。あるいは自分が貧乏な身の上で、あるいは身体に障害を持っていたとしても、逆にそのことをよい経験とみなして、その経験を活かすことにより人々を救う。そこにまた喜びもあるのです。 青山個人としては、今死んでも構わないと思っています。常に覚悟はできています。死をまったく恐れてはいません。この青山も老後を考える世代に近づいています。個人的な話ですが、青山にはそれなりの資産もあり、特に老後を心配する必要もない。それに子供の頃から貧乏を経験している精か、驚くほど少ない生活費でも生きていける自信があります。その生き方、他の人には真似できない?でしょう。青山は貧乏を苦にしません。しかし、自分の人生、この先に何があるかは、神様じゃないからこの青山にも分かりません。思わぬ事態に見舞われる可能性もあります。 もっぱら恐れるのは、死なずに生きていることです。年を取り、病に侵され、生きる糧を失い、孤独に陥る。それでも生きているうちは、まだ生きていかなければならないのです。この不安、この苦しみ、この孤独、そしてこの虚しさ、それに襲われながらも、人間は生きていくことしか許されない。床に伏せ、手足も動かせず、余命わずかと言われてもなお生きることを強いられる。それは辛いことです。この青山にもいつの日かそんな時が訪れるでしょう。最後の最後に。しかし今生きているなら、例え余命数時間と言われても、命ある限り希望がある。と。 希望とは、老いて病に伏せっていても、いつか立ち上がれるときが来るという期待です。その可能性はゼロではない。必ず病気は治る。いや、治してみせる。生きている限り、あきらめない。あきらめる必要はない。無限の未来がある。そしてもし立ち上がることができたなら、その時は何のために生きるのかを改めて問われる。青山なら出来る限り人のために尽くそうと、愛する隣人のために生きようと、この命を捧げようと思います。生きているからこそそれができるのです。 人生この先、どんな困難が待ち受けていようとも、どんな試練に出くわそうとも、それはそれでいい経験をしたものと思い、あるいは人よりも得をえたなと、そう思いつつ生きる。生きている限りゴールはない。いずれ「死」というゴールに達しますが、その時まで生きる。生き抜く。できるだけ寿命を延ばすことが目的ではない。とにかく人間は誰しも生きている限り、生きること、即ち幸せになること以外は何もできないのだから。 もしあなたが病気や事故により突然身体に障害を持ったとしましよう。あるいは一瞬の不運に見舞われ財産を失ったとしたら。あなたは何で自分がこんな不幸に見舞われなければならないのかと絶望に襲われるかもしれない。周りの人々は、あなたを勇気づけるためか(それともあなたの不満を聞くのが単に嫌だから)、世の中にはもっと不幸な人もいる。君よりも重い障害を持って頑張って生きている人もいる。もっともっと貧乏な人もいる。と励ます?かもしれない。むろんあなたにとっては、このように「もっと重い障害を持っている人もいる」なんて話を健常者からいくら聞かされても何の慰めにもならないと思います。なぜならそういう障害という経験をしたことがない人間は、誰であろうと所詮あなたの絶望など理解しようもないからです。 しかしその時あなたはこう思ってください。恐らく自分以上の不幸な人間はいないだろう。自分よりも貧しい人間はいない。自分以上に重い障害を持って生きている人はいないのだと。否もしかしたら、あなた以上に重い障害を持つ人も世の中にはいるかもしれない。その人と比べれば確かにあなたは軽い方です。その重い障碍者(例えばイギリスの科学者ホーキングとか)から、「お前は甘い!」と言われれば、素直に「その通りです」と答えるしかないでしょう。しかしもし健常者からまるでひとごとのようにそう言われたのなら、無視すればいい。なぜなら健常者は経験してないゆえにあなたのその苦しみが解らないからです。 この「自分以上の障害を経験した人間はこの世界にはいない」という思いが、あなたに力を与えるのです。なぜならそんな経験をした人間はあなたしかいないのだし、その貴重な経験をしたあなたは誰に対しても堂々と物が言える。もちろんあなた以上の障害を持った人に対しては言えないが、仮に健常者が相手なら、あなたは誰に向かっても(身分や地位には関係なく)、偉そうなことが言えるはずです。つまりあなたは誰も味わったことがない重い障害を今まさに経験しているという”幸運”を手にしているのです。それを糧にあなたは力を得ることができます。その力を慈悲に生かす。あなたの使命がそこに見出されるのです。もしここで「世間には自よりもっと重い障害を持っている人もいるんだ。自分はまだ増しな方」などと思ったならば、それによってあなたの力は弱められる。何事をも恐れないという気概を失うのです。あなたは世界を変えるのです。だったら何者にも負けない自信を持つしかないのです。 つまり、「自分よりももっと苦しんでいる人、重い障害を持った人もいる」では、そこからは消極的な安堵感しか生まれません。その安堵感は所詮誤魔化しです。そこからは何も生まれません。そうではなく、「自分は世界で一番苦しんでいる。最も重い障害を負っている。という幸運を今得ているのだ」という考え方からは、積極的な行動意欲が生まれるのです。自分は今まさに行動する。何のために? 無論他者に対する慈悲のためです。 この自負と力は釈迦も活用しました。彼が6年間の苦行を終えて、「恐らく自分よりも激しい苦行をした者は存在しない」という自負を抱く。しかし実際は彼よりも厳しい苦行を行った者はいたことでしょう。釈迦の苦行は実際のところ”序の口”かもしれない。しかし、そういう自負によって、何者をも揺るがせない強力な力を得て、その力を背景に大いなる悟りに達することができた。そしてそれが世界を変えていく動因となったのです。また障害も行動力になります。障害、ハンディーを強さに変えて行動した人物としては、あのホーキングがいます。彼が述べた、「神は存在しない」、あるいは「死後の世界はない」は、そんじょそこらのインチキ宗教家よりも説得力があるでしょう。逆に、自分よりも貧しい人もいる。自分よりも重い病気の人もいる。と考えると強い気持ちを持つことができなくなります。是非あなたはその逆境を力に変えて、それを自分よりも弱い、貧しい、不幸な人のために活かしてください。 そう言った不運も力を持つ好機として活かすことです。そして不幸(障害、あるいは貧困等)に見舞われたあなたを救ってくれる。あるいはサポートしてくれる優しい友人も現れるでしょう。その人たちの親切心に心から感謝しつつも、それを自分の為す事業、世界変革に活かすのです。それが相手に対する御恩返しです。相手は即ち、あなたに世界を変えてほしいがために、あなたに慈悲を掛けたのです。そう思って、思い切り為すべきことをなそうではありませんか。すべては慈悲のために。 障害というものは、決してハンディではない。それ自体有利でも不利でもありません。もちろん障害によってあきらめざるを得ないこともあるでしょう。例えばスポーツ選手を目指すとか。ただし、絶対に無理とまでは言えません。ハンディはありますが可能性もある。障害は何も身体的なことだけではありません。経済的な障害、家庭の問題(家族が不仲)、あるいは地域的なこと(生まれた国が悪かった)もあるでしょう。その場合も同じように一部の事柄で断念を強いられる。ただし、やはりそれ自体は有利でも不利でもないのです。いわばあなたの個性です。あなた独自の特性です。それはまさに不利とは言えません。ある固定的な基準を当てはめるから、不利だとみなされるだけです。世間でよくある価値観に照らすと、劣等感を醸し出す。しかし、そんな基準や価値観(”障碍者は不利”というレッテル)何てそもそも勝手に人間がこしらえたものです。絶対的なもの、あるいは普遍的なものではない。有利不利の基準が世界には存在するという概念も結局(仏教の)「空」を理解していないから生まれる誤った思い込みです。そんな基準や価値観なんて何の意味もありません。こんな意味のない基準を設けるから、不利だと決めつけてしまうのです。こんな下らない基準や価値観にあなたは決して振り回されることなく、むしろそんなものはかなぐり捨てて、あなたの個性を生かしましょう。あなたはそれ自体素晴らしいのです。何も卑下する必要はありません。 誤解てはいけません。障害というものは誰にでもあるものなのです。どれだけ心身が健康でも、経済的にも裕福であり、さらに人間関係が良好であっても、すべてにおいてパーフェクトな訳はありません。(身体の不自由以外も含めて)何一つ障害を持たない人間はこの世に存在しません。誰であれ何かしらの障害を持ってこの世に存在しているのです。もしまったく障害を持たないとしたらそれは神です。 ただ、もしあなたが周りの人間に比べて身体が不自由、例えば心臓の持病を抱えている、目が不自由で本を読むことができない、足が不自由で車椅子が不可欠など。それを何とか改善して他の人間のような健常者になりたいという願望を抱いていたとします。そして医学的治療などによってその障害を改善、克服できるとして、それを実現させようと努めたとします。その時青山はあなたに問うでしょう。なぜその障害を克服したいのかと。もしあなたが人間なら、その明確な回答があるはずです。ただ単に病気を治したい。目がよく見えた方がいいから。車椅子など使わず普通に歩けた方が有利。などという回答はありえません。そこにあるのは、単にそうしたいという動物としての欲望だけです。では、何のために病気を治したいのですか?何をするためですか?人間としての答えがない限り、それらはすべて無意味です。 あるいはもしもあなたが、何らかの法に触れる犯罪を犯した。人を傷つけた。命を奪ってしまった。そこまで行かなくても、人を差別した。他人に不快な思いをさせてしまった。今あなたは死ぬ程後悔しているはずです。なぜこんなことをしてしまったのだろう。あの時思い留まっていたら。その間違いに気付いていたら・・・。しかし、既に取り返しようがない。もはや自分は死んだとしても相手に償いきれない。あなたは地獄の底に叩き落されたような苦悩を味わっていることでしょう。しかし今更過去は変えられない。無かったことにはできない。それはあなたを一生苦しめる。誤魔化すことも逃げ出すこともできないのです。それは事実だから。この苦悩から脱する方法はただ一つ、この事実を決して忘れないこと。無かったことにはしないこと。この現実から目を背けないこと。ただひたすらそれを直視して、何らかの行動を起こすこと。一時も休むことなく、この営みを死の直前まで続けること。これが科学の実践です。 障碍、犯罪、不慮の災害、そして不治の病。自分に降りかかったこれらの不幸。人はそこに押しつぶされそうな苦悩を感じ、誰であっても立ち上がる気力さえ失われることになるでしょう。しかしもはや目の前の現実を見続けることしかできない。その苦悩の中でも人間は生きること以外何一つできないのです。 もう過去には戻れない、やり直しはできないのであるから、ただ苦しみ悩むだけではなく、後悔に明け暮れるだけではなく、遭ったこと、見たこと、体験したことは、すべて良い経験とみなす。この経験があるからこそ、経験していない自分よりも今の自分は優位であると。そうみなすのです。むろん犯罪を肯定しているわけではありません。そうではなく二度と犯罪を犯さないためにはどうしたらよいのか、その答えを探し求めようとする営みはまさに犯罪を経験したからです。犯罪を経験していなければ、そのようなことは考えもしなかったかもしれない。あなたはある意味幸運だったのです。 人間は皆誰でも最後には安らぎが訪れます。しかし、あなたはまだ死んでいない この世界に生きています。生きている今、何かをできるはずです。やらなければならないことがあるはずです。その何かを決めるのはあなたです。 青山個人としては、大好きな山に登れないほどの難病に今襲われたとしても、未来に期待を持つ。例え年老いて身体が動かなくなったとしても、希望を捨てず、いつかまた山に登れる。それを励みに生きていく。そして慈悲のために、人々から喜ばれる人生を送れるように、希望を持って生きていきます。 とにかくどうせ生きるなら快活に、好きなことをやって、楽しく生きる。何も恐れることはない。世界のどんな勢力の陰謀も全く恐れるに値しない。殺されても構わない。人間はいずれ死ぬのだから。そして不幸によって得た力を、隣人に対する慈悲に活かす。 それがこの青山の幸せです。 災難や障害に出会っても、まあ現実問題として、あまり気を張らないで。ポジティブ一点張りだと疲れます。無理せず焦らず、のんびりと気楽に、人生何とかなるさ。時が経てば何事も慣れます。
|