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量子力学 観測問題


「観測しているときと観測していないときでは、状態が異なる」

 有名な干渉実験があります。図18「電子の干渉」をご覧ください。
まずは光をスクリーンに向かって照射(ライトで照らすなど)します。するとスクリーンは光に照らされます。ここで光源とスクリーンの間に壁を設けるのですが、壁には小さなスリット(切れ込み)を二つ開けます。すると二つのスリットを通ってきた光同士が干渉し(互いに影響を及ぼし)あってスクリーン上に縞模様を作ります。これが有名な光の干渉実験です。
ここで光を電子に変えてみます。そして多数の電子を一斉にではなく、一つ一つ照射してみます。すると電子も波の性質を持っている精で、やはり縞模様ができる(電子がスクリーン上の蛍光物質と衝突して発光させる)のです。電子一つ一つは、二つのスリットの上下どちらかを通ってきたはずです。そこで上下どちらのスリットを通っているのかを調べるために、スリットのそばにセンサーを置いて検知することにしましょう。するとセンサーを(上下の一方でも)置いた途端干渉縞は消えてしまうのです。
このことを量子力学では、「観測した途端、波の性質は消える」、「観測してない状態と観測している状態とは異なる」なんて言い方をするのですが。これが大いに誤解を生んでいるのです。まるで電子に意志があって、観測者がそれを確かめようとした瞬間振る舞いを変えるがごとく。
これじゃ、人間に向かって「写真をとります」と言ってスポットライトを当てた途端、「写真にとられる」という意識が働きそれなりのポーズを取るのと同じ現象では。(当人の本当の姿はライトが当てられていない暗闇の中にあるのだけれども、それをどうしても目にすることができない)
つまり電子も人間も「見られている時」と「見られていない時」で振る舞いを変える。見られていない時の状態を知ることはできないというもの。
何かおしかいと思いませんか?
正しくはこうです。
・観測するとはどういうことでしょう?それは意識的に物体に向かって光を当てて、その反射した光を受光することです。光はエネルギーを持っています。だから波状の電子に作用を及ぼすことになります。作用が加えられた電子は当然状態が変化します。電子の状態が変化(縞模様ができる、できない)したのは、電子にエネルギーが加えられたからです。因果関係が破綻したわけでも何でもありません。ごく当たり前のことです。
・では、観測してない(電子にエネルギーが加えられていない)状態のとき電子はどう振舞うか?
光子を当ててない状態では電子は(たった1個でも)波のように振舞うことから、電子は両方のスリットを通過する。通過した後波は干渉を起こし縞模様を現す。また、電子はスクリーンと衝突したことによって、その時エネルギーが加えられ元の粒子に戻る。そういう意味で、電子は波と粒子の両方の性質を示す。(光子も同様に波であり粒子でもある。)
・電子が上下いずれかのスリットを通過する場合は、センサーAまたはセンサーBで粒子として検知されているはずである。(そもそもセンサーを設けたのは粒子としての電子を検知するため)粒子として振る舞う場合は、それが二つに分離して両方のスリットを通過することはできません。(補足1)
つまりセンサーで検知している場合、同時に二つのスリットを通過することはありえない。だから縞模様はできない。
・もしセンサーから出す光子のエネルギーを徐々に弱めていった場合、そこを電子が通過したのかしないのか判別できないほど弱くした時点で、再び干渉縞が現れる。その干渉縞が現れる光の強度のボーダーラインは、偶然にも粒子が判別不能になるところ。(考えてみれば当たり前です)
・センサーをスリットの真ん中C地点に置いて(図18参照)、そこで電子を検知しようとしても、その場所を電子は通過しないため検知されない。その場合、干渉縞が現れる。ただしそのCの場所でも波としての電子は存在するため、縞模様に変化が見られる。(補足2) つまりこの波は仮想的なもの(あるいは確率を示す数学的なもの)ではなく、空間そのものを媒質とする実在する波なのです。
 ただし、注意しほしいことがあります。電子が波として振舞っていたとしても、その波の様子そのものを観測することはできない。ということです。(補足3)
さらに、最終的に電子がスクリーンに当たったときに痕跡を残すのですが、痕跡そのものは電子ではありません。波と同じように粒子としての電子そのものを観測することはできないのです。(あくまで痕跡のみ)(補足4)
では、実体なんか何もないではないか?と言われればそれまでです。マクロな現象ミクロな現象に関わりなく、これがこの自然界の本質なのです。哲学的な言い方ですが、この世界に存在なんてない。あるのは現象のみ。
質問、電子の実体が波なら、波には媒質があるはず。その媒質とは何か?
媒質とはそれを伝える物質のことです。例えば音波なら空気分子、海の波濤なら水の分子。では、電子の媒質は?それは電子そのもの?違います。電子の波は空間そのもの。つまり何もない真空です。そこに物質はありません。物質がないのに何もない空間が媒質になり得るのか?それが量子としての波の特性です。
誤解してはならないこと、この電子の波は雲のようにふあふあした実体ではないということ。雲の実体は水分子です。それとは違い電子の波は、空間そのものを媒質にした量子の波動です(波のように広がりを持っているとしても、それが電子の形状ではない)。だから波そのものを観測できないのです。同じように、粒子としての電子も観測できません。スクリーン上の痕跡はあくまで痕跡です。それは電子そのものではなく、電子が示した一つの反応の跡と言っていいでしょう。
我々はいかにしても電子の存在を直接観測できませんが、電子は痕跡や縞模様を残すなど、ある現象を引き起こすのです。我々はその現象のみ観測できます。(つまり電子を粒子と仮定する、あるいは波と仮定したときに、その現象を説明できる。と言うわけです。電子は粒子である。あるいは波である。というのはあくまで仮定なのです)
つまり、観測しようとしたら電子の振る舞いが変化したのではなく、観測するために電子の波にエネルギーを与えたから、その状態が変化した。変化した際の反応を一つの現象として我々が捉えているというだけのことです。

「我々は常に観測している」

 有名なお話、もし自分が月を見ていない時には、月は存在していないのか?そんな馬鹿な話ってあるでしょうか?(図19「月は本当に存在するのか?」参照)
ここで月を見ているのは誰かと言うことになる。それは自分しかいない?もしその時点で別の誰かが見ていても、自分が見ていなければ月は存在しない?
何かおかしい気がしませんか?しかしあくまで観測主体は一人でなければなりません。あくまで判断は自分がするのです。自分が、庭にいる家族から「今、月がきれいに出ているよ」という声を聞いたからといって、それが真実かどうかは解りません。もし今夜が満月でも空が一面の雲に覆われていたら、月が本当に存在しているのかは解りません。
しかし足下の砂浜に波が寄せては返します。潮の満ち引きは月の引力の作用です。もし月が存在しなければ、この海の干潮、満潮がなぜ起こるのかを説明できません。やはり月は存在しているのです。
ただし、満月の明るい光の中にウサギの影が浮き彫りになっているあの美しいお月様が存在しているかどうかは、わかりません。なぜなら実際に観ていないからです。自分が見て初めて実体だと解るのです。(補足5)
逆に空が晴れていたら我々は名月を拝むことができます。そのときは足下の地球から眼をそらしています。すると地球を構成している原子中の電子を観測していないことになりませんか?観測していないものは存在していないなら、空を見上げた途端地球の引力が電子の分だけ軽くなるのでは?
そんなことはないですよね。(補足6)
我々に満月が見えなくても、月は確かに存在しているのです。それは海の潮の満ち引きによってわかるのです。空を見上げれば確かにあの美しい月が存在していることを確認できます。しかしその時足下を観ていないために、逆に月が潮の満ち引きを起こしていることはわかりません。足下を見ればそれが分かります。すると今度は美しい満月の存在が確かめられなくなるのです。我々がどんな状態であろうと、今の宇宙を観測しているのです。観測していないなんて状況は考えられないのです。ただ観測の仕方(あるいは対象)を変えているだけです。
つまり、観測の仕方を変える(故意にエネルギーの高い光線を当てたりする)と、その観測対象の状態も変化する。それだけのことです。

 量子力学に関わる概念としてよく言われることとして、「この世界は仮想現実」である。つまり我々が見ているものは本物の現実ではない。なぜなら、世界は観測した瞬間作られるから。何ともおかしな発想です。何のことを言っているのかさっぱり分かりません。観測してない状態では世界は存在していないということですか?(補足7) もし世界が仮想なら、本物って何ですか?本物が存在しない以上、「これは仮想だ。いや本物だ」という論争そのものが無意味です。我々は常に生きています。生きている内は常に世界を観測しているのです。間違った概念として、世界は見えているところだけが存在し、見えてない裏側は作られていない。つまり舞台のセットと同じ、裏側はハリボテというわけです。裏がなければ世界は存在しません。裏に回れば確かにそれはあるのです。(注) では、裏に回る前には存在していない?裏に回った瞬間、それは作られた?いいえ、世界は時間的に連続しています。だから急にパッと現れることはありません。もしあるなら、世界は突然現れたことになり、それは我々の理解を超えている。即ち我々にとって現実は理解しえない。理解しえなければ存在しないのと同じです。同様に空間的にもそこで切れている。(裏は完全なハリボテ)ということはありません。すべては繋がっている(関係している)のです。この考え方を仏教では「縁起」と言いいます。詳しくは最終章で。
(注) ただし、裏に回る際それは変化しますが。

(補足1) もし電子を(シンクロトロンなどの加速装置を使って)超高エネルギーでスリットにぶつけると、場合によっては電子は破壊されバラバラになって(複数の他の素粒子になって)両方のスリットを通過する可能性も無きにしも非ず。

(補足2) これを実験的に示したのを、アハロノフ・ボームの実験といいます。このように電子を粒子とみなした場合において、運動経路以外の場所に作用を及ぼしても干渉縞の変化が見られるということは、電子は空間的に広がりを持った波とみなせるわけです。

(補足3) 波は実体であるから、状態により電子は大きく広がることができる。ある意味、一つの電子は地球よりも大きくなることができる。電子などの波(これを物質波といいます)は、周りに何もないと宇宙空間に無限に広がりながら大きくなってしまう。
ただし、電子も他の粒子と相互作用するから実際地球より大きくなることはない。電子の波は他の粒子と相互作用することによって、大きさが変化する。もし波が実体ならその変化のスピードは光速を超えることができない。

(補足4) 電子は時に粒子として時に波として振る舞う。とよく言われますが、ここで言う粒子とは何でしょう。大きさのない点でしょうか?大きさがないものがなぜ痕跡を残せるのでしょうか?痕跡を電子の影だとすると、痕跡自体も大きさ(広がり)を持っています。もし痕跡に大きさが無いなら、我々に見えるはずがありません。痕跡も広がりを持つ。即ち粒子として振る舞う場合も電子は(わずかながらも)広がりを持っているのです。つまり形としてはこれも(小さい点に過ぎないが)一種の波です。観測するために電子に光を当てると、その波の形が変化するというもの。即ちこの世界のいかなる存在でも、作用を受ければ、皆必ず変化せざるを得ない。これこそ当たり前のことではないでしょうか。
つまり量子についてはこう考える方が正しいのです。「電子は粒子でもあり、波でもある」のではなく、「電子は常に波の状態にあり、状況により(作用によって)その波(イコール電子ではない)の形(広がり具合)が変化する」。

原因が無いのに結果が存在する
 先のスリットを通過する電子の干渉実験において、最初に飛ばした一番目の電子がある特定のスクリーン上の点Aに当たったとして、次の二番目の電子がスクリーン上の異なる点Bに当たったとしましょう。(AとBは人間が目で確認できるくらい離れている明らかに異なる場所) この時逆に一番目の電子が点B、二番目の電子が点Aに当たってもよいはず。すなわち、最初に点Aに当たらなければならない理由はない。マクロな視点で見たとき、例えば野球のある試合で先攻チームの4番打者が最初の打席でホームランを打ったとして、その際結果としてレフト側に打球が飛び、ライト側には飛ばなかったのには明確な理由(原因)が存在する。のとは大きく事情が異なるわけです。マクロな視点は明らかな因果関係が存在するのに対して、量子力学的視点では、原因(理由)がないのに結果(一番目の電子がスクリーン上の点Aに痕跡を残した)が存在する訳です。

原子内の一つ一つの電子など存在しない(図19「量子の存在」参照)
 ある一つの原子、たとえばリチウム(原子番号:3、原子記号:Li、陽子の数:3)。そのリチウムで、原子核の周りにある電子が陽子の数よりも一つ足りないプラスの電気を持ったものをリチウムイオンといいます。電子の数は二つ。量子力学の原理に従いその二つの電子の場所は決定されています。エネルギーが低い状態では、その電子2個は原子核の最も内側の1S軌道にスピン上向き、スピン下向きとして配置されます。さて、そこに一つの電子を加えます。後から加えられたその第三番目の電子は、1S軌道には入れない(パウリ(注1)の排他原理の)ため、次の2S軌道に入るでしょうか?いいえ、そんなことは言えません。ここが古典論(注2)との違いです。もはや後から追加された第三番目の電子はどの軌道に入ったかなど分からない。いいえ、分からないのではありません。もはや一つの一つの電子など存在しないのです。電子3個分が合わさってあくまで一つになったのです。一つの一つの電子に区別などないのです。これが量子力学の考え方です。
従って、電子を観測していない(一つの電子の位置を特定していない)段階においては、
「今現在、その電子は原子核の近傍に存在している確率が高い」・・・誤り。正しくは、「現時点では個々の電子は存在していない。全体で(電子と原子核を合わせて)一つの原子を構成している」
注1:1900〜1958 スイスの物理学者
注2:新しい物理学である量子力学に対して、ニュートン力学等を古典論という

観測した時点で状態が決まる
 電子はそれ自体自転しています。つまり磁気を持っているのです。その自転に伴う角運動量は特定の値しか持てません。これを量子化といいます。電子ビームに磁気をかけた実験では、もし磁気をかける前の電子がバラバラの方向(自転軸の方向)を向いていれば磁場の作用の受け方によって、電子ビームはバラバラの方向に曲がることが予想されます。しかし実際は、電子ビ―ムは二つの方向にしか曲がりません。これは磁気を当てる前に電子は磁気を持っておらず、観測しようとして磁気を当てた途端量子力学に従った特定の値を示したという訳です。(図19「量子の存在」参照)
すなわち観測した時点でどのような結果を返すかは、観測する前から決まっているわけではない。ということです。分からないのではなく存在しないのです。つまり、マクロ的な(日常の)常識では、結果があるということは、それに相当した原因がある。ということですが、ミクロな視点では、結果があっても原因が存在しない。ということです。

なぜ物理量はとびとびの値しか観測されないのか
 古典物理学と違って量子力学では観測される物理量(例えばエネルギーや角運動量など)がとびとびの値になります。なぜでしょう。(離散的ではなく連続的な値をとる場合もある)
例えば水素原子から放出される(または吸収される)光の周波数(または波長)はとびとびの値を取ります。一番エネルギーの高い時(ライマン系列)での波長が1,216オングストローム(注2)、その次に高い(バルマー系列)での波長が6,563オングストローム。ではなぜ、中間の3,000オングストロームや4,000オングストロームの値は取れないのか?
アインシュタインの光量子説では、光(光子)の持つエネルギーEと周波数νの関係は、

 E = h・ν (hはプランク定数) になります。

つまり、水素原子から放出されるエネルギーはとびとびになる。デンマークの物理学者ボーア(注1)はこう考えました。水素原子というものは中心に陽子が一つあり、その周りを電子が回転している。調度太陽の周りを地球が公転しているように。ただし、電子の軌道、つまり陽子と電子の間の距離は自由にとれる訳ではなく、限定された値しか許されない。なぜなら、電子は波の性質を持つから。どういうことかというと、陽子と電子の距離をrとしましょう。即ち電子は円周2πrの軌道を回っている。電子が波として振る舞うとき、その波長λは、ド・ブロイ(注3)の関係式より、

 λ = h/p (pは電子の持つ運動量) 電子の公転速度をvとすると、p = m・v (mは電子の質量)

となりますが、この波長λの自然数倍が調度円周2πrになるような軌道を取らなければ、電子は波として存在できないというもの。つまり波長の1.5倍の軌道では駄目なのです。従って、電子の取りえる軌道、即ち距離rは、

 2πm・v・r = n・h (n=1,2,3・・・)を満たさないといけない。これをボーアの量子条件と言います。(ボーアのこの考え方は、現代では「前期量子論」と呼ばれ、理論に限界があることが分かっています。即ち新しい「量子力学」の成立を待たなければいけませんでした)

では、なぜこのようなとびとびの値を取るのか?量子力学とはそういうものだ。と言ってしまえばそれまでですが。こういうことだと思います。ミクロな世界では電子は波のような性質を持ちます。常に波のように振動しているわけです。そして陽子に捉えられて水素原子として形を持った電子は、静的であり動かない。つまり止まっているということです。こういう状態のことを定常状態といいます。もちろん波ですから振動はしていますが、言ってみればその場で振動している感じ。これを定常波といいます。電子と陽子が相互作用の結果一つの安定した形を形成するためには、ある空間的な条件を満たさなければならないわけです。(これを境界条件という。この境界条件のもと方程式を解く問題を数学的には「境界値問題」という)。その為に電子が持つ物理量はとびとびの値になる(こともある)。ということです。もし電子が自由に好きな軌道を取れるとしたら原子自体は安定しません。つまり動いていることになるのです。動いてはいけないのです。止まっていなければ。それは一つの原子とは言わないのです。つまり我々は止まっているものしか観測できないのです。
注1:1885〜1962 
注2:長さの単位。100億分の1メートル。波長はエネルギーに反比例するから、波長が短いほどエネルギーが高くなる
注3:フランスの物理学者。1892〜1987

特定の観測値を取る理由と不確定性原理との関わり
 なぜ、水素原子における(他の原子も含めて)スペクトル(原子が放つ、あるいは吸収するエネルギー)の値が離散的(不連続)になるのか?もしどんな値でも観測することが可能なら、原子(電子)は動的すなわち変化していることになります。変化しているということは電子が動いていることに等しい。もし原子核の周りの電子が動いているなら、その加速度運動により電子は光子を放射するはずです。ならば原子はエネルギーを失って崩壊してしまうでしょう。これでは安定した物質として存在できないということ。即ち電子は動いていないのです。(だから放射も起こらない) 否、電子など存在していない。原子を構成した(原子核に取りり込まれた)時点で消えるのです。原子は全体で一つなのです。もはや分解はできません。分離した時点で原子は崩壊してしまう。安定した原子内の電子と原子核を無理やり分けて考えて、原子内の個々の電子の軌道を正確に求める。そんなことは不可能なのです。これが即ち不確定性原理が存成り立つ必然的(積極的)理由なのです。(注)
観測とはそういうものです。人間が認識できるような観測結果しか起こらない。それは人間の認識の限界であると同時に宇宙はそれ以上の何者でもないということです。(人間が認識できるものが、この世界の全て、だという考え方)
注:この世界が観測されたままのものなら、不確定性原理の存在は必然的であるという意味

(補足5) もし、自分が家の書斎で読書をしていた時、たまたま庭にいた自分の息子とペットの犬が月を見ていて、「パパ。月がとってもきれいだよ」という息子の声が聞こえたとしたら、そのとき月は存在するのでしょうか?
答え、観測者である自分が実際に観ていなければ100パーセントとは言えない。たとえそれが息子でなく、ロイヤル・ソサイエティ(イギリスの科学学会)会長だったとしても。
ただ、人間も機械とみなして、その反応(息子の声)を自分が検知することによって、月が存在する確率を高める。もはや99.99パーセント(この数値に根拠はない)の確率で月が存在することは確かである。

(補足6) 量子力学的に言えば、例え空に月が見えなくても、月は100パーセント存在しないとは言えない。ただし100パーセント存在しているとも言えない。
確かにはっきりと空に月が現れたら、それは100パーセント月は存在しているといえるけれども、直接見ていない以上100パーセントとは言えない。ある確率(99.99パーセントかもしれないが)で月は存在しているとしか言えない。

(補足7) 確かに”自分”が存在しない。自分が生まれる前、そして自分が死んだ後、世界は存在していないかもしれません。ただし、自分が存在している(生きている)内は、世界は常に完全な形で存在しているのです。もしあなたが今生きているなら、目の前にあるものこそが真実です。それ以外に世界などありません。(「目の前にあるもののみが真実」これは仏教(特に”禅”)の考え方です。詳しくは後述)

 量子力学の観測問題は、観測するという行為が対象に変化を与えてしまうという点から、「人間の意志によって現実が決定される」という言い方をされてしまうことがあります。これが誤解を招くのです。ひいては「自分がいなければ世界は存在しない」とか「イメージしたことが現実となる」などと言われる。これじゃあまるでオカルトです。魔法使いじゃないんだから。赤い花に向かって「青くなれ!」と言った途端、花が青くなるような話です。
この観測問題とは、観測の際対象にどうしても無視できない作用を及ぼしてしまい、その作用の度合いを求めるにあたっては、補正に必要な厳密な誤差の値を確定させることが、「不確定性原理」により不可能である。と述べているに過ぎないのです。要するにこの不確定性原理の意味を考察することが、唯一量子力学を理解する上での問題だということです。これについては別途。

 最後に結論としてまとめると、
『量子は、観測してない時にぱ波として振る舞い、観測した途端に粒子としての振る舞いを変える』のではなく、『量子系(例えば二重スリット)に加えられる作用(力のかたち)を変えると、量子群が示すパターン(スクリーン上の模様)に変化が生じる」』とした方が誤解されないと思います。これはあくまで個人的見解ですので、ご意見などあればよろしくお願いいたします。

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