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戦争の歴史


 今世界で一番大きな問題はやはり戦争と平和の問題でしょうか。以降この問題につい考えてみたいと思います。
人類の歴史はまさに戦争の歴史と言っていいほど、常に争いが絶えませんでした。ここでは人間はなぜ争うのか、戦乱の歴史に終止符を打つような画期的な方法はないのか?そして人類の悲願である恒久平和は本当に実現できるのかどうか、について考えてみます。
まずは有史以来、戦争、兵力の形態はどのように変化してきたかを見てみるとともに、それは将来どのような形をとるのか、併せて考えてみることにします。

1,戦争の起こり
 戦争はそもそもなぜ始まったのか?
もともとは喧嘩が発展したもの。集団対集団、素手ではなく、棒切れなどを手にすることにより、相手方を殺害するに至り戦争へとエスカレート。
相手方を倒す目的は、略奪そして略奪への反撃、報復です。昔は法律などなかったから、やられたらやりかえす。それも過剰に、こちらの怒りが収まるまで延々と復讐を続ける。
次第に集団の規模も大きくなる。一族対一族から、地域対地域、やがて国対国へ。

2,ローマ軍の集団戦法
 規模が大きくなると、戦いを効率的に進めた方が有利になります。集団戦では指揮官により統制された部隊が編成され、指揮官の命令で一斉に攻撃する。
確かにバラバラよりも効果的です。さらに武器も洗練され、殺傷力の高い鋭利な剣と防御のための硬い楯、完全に身体を覆う甲冑を身に着けることにより、攻撃力及び防御力が飛躍的に高まりました。その最たる形がローマ軍です。紀元前後ローマはヨーロッパ、アフリカ、アジアにまたがる大帝国にまで発展したのです。

3,騎馬軍団の出現
 無敵といわれたローマ軍も敗れることがありました。草原で馬を乗り熟していた遊牧民の騎馬軍団です。ローマ兵の重い甲冑は機動性にかける。戦いはスピードです。相手がもたもたしているうちにあっという間に馬で接近して攻撃する。隊形が崩れるといくら組織だった兵団でももろい。軽い身のこなしで馬で突撃するという機動力を最大に生かした戦法はローマ軍をも圧倒したのです。
その最たるものがモンゴル騎馬軍団です。たちまち世界を席巻し、ローマをはるかに超える大帝国を築きました。
騎馬兵一人一人に対して上からの指令などありません。ただ相手を攻撃して奪うという一点にそれぞれの兵が独自にかかる。その勢いに組織兵団は敗走することになるのです。

4,破壊兵器の進化
 それまでの武器は古代から伝わる剣に弓矢。あくまで体力をいかした手動のもの。やがて鉄砲が登場すると、弓矢よりもはるかに威力を発揮したのです。
体力と技術を要求される弓矢と違って、鉄砲は要領さえ覚えれば誰でも使いこなせる。鉄砲を手に入れた軍団は兵を沢山雇い入れることに成功。またまた数で圧倒して、騎馬軍団を蹴散らしていきます。やがて工業力が上がり武器も大量生産されていきます。すなわち強力な武器と沢山の兵を持つものが勝つのです。
技術革新によって、武器も精巧になり、さらに破壊力も増します。鉄砲はやがて大砲になり、機関銃になり、戦車になり、航空機から投下される爆弾になり、遠隔地まで飛んで敵を攻撃するミサイルが登場し、最後は原爆が作られた。破壊力が極限にまで達してしまったのです。
破壊力が上がったことにより、死傷者も桁違いに増えました。そしてとうとう、このまま戦争が続けられれば、人類そのものが地球上から消えるところまで来てしまったのです。

5,ゲリラ戦法の登場
 第二次世界大戦で使われた後、核兵器は実戦では使われなくなりました。超大国は、核兵器を脅しの道具にしたのです。実際使われれば世界は終わりです。
自国だけが生き残ることはできないのです。それでもやはり紛争は絶えない。地域戦争や、国内紛争、そして核兵器を持つ超大国に代わって戦う代理戦争。
もはや表立った国対国の戦争は起こしにくい。世界的な非難が起こるからです。そうなれば国際社会の中で孤立するでしょう。全く孤立した国は生きてはいけません。
ただし小さな戦争はたびたび起こる。地域戦争では人々が生活している中で、ゲリラと呼ばれる遊離兵が、山岳地域や村々に隠れて、集団兵に攻撃を仕掛ける。
組織化された集団兵は、見通しも利かず指揮官からの命令が届きにくい森の中で不意をつかれるのです。突然目の前から襲い掛かる。彼らは明らかに兵士だとわかる格好はせず、民間人に混じっているため、見分けがつかない。村人だと思って安心していると、それがいきなり攻撃してくる。体制を整えて攻撃を始めると、たちまち山の中に逃げ込んでしまう。それを追って山に入ると、相手は地形を生かした戦いに長けているため、太刀打ちできない。追撃をあきらめて引き上げ、隊に戻って休んでいると、その隙をついて攻撃してくる。
攻めれば逃げる。引き上げれば攻撃してくる。そうして少しずつ長い時間をかけて相手の兵力を消耗させていく。このゲリラ戦は功を奏し、大量に投入された兵も撤退を余儀なくされる。
この最たるものが、ベトナム戦でのアメリカ兵との戦いです。

6,ハイテク兵器の導入
 ゲリラに対抗したのは、ハイテク兵器という、暗闇でも見えるスコープ。どこにいても相手の位置を検知できるセンサー。これにより隠れているゲリラを察知して、遠隔から攻撃を仕掛ける。攻撃者は安全な司令室にいたまま、コンピュータのシミュレーション画面を見ながら敵を殲滅していく。まるでコンピュータゲームをしている感覚で戦いが進められるのです。こちらは敵の位置と敵の数が手にとるようにわかる。モニタの画面にそれがはっきりと映し出されているのです。シュミレーションされた仮想の空間に現れた敵をいつでも攻撃可能。攻撃者はパソコンのマウスをクリックしただけで相手を殺害することができます。
ハイテクを持たないゲリラたちはどこから攻撃されるかわからない恐怖を味わうことになるのです。

7,テロリストたちの企み
 いくらハイテク技術が進歩しても捉えきれないものがあります。テロリストです。テロリストは見た目じゃわかりません。レストランで隣に座った男がいきなり武器で攻撃してくるかもしれません。拳銃や爆弾は空港などのセンサーである程度察知できますが、世界中にセンサーがあるわけではありません。テロは暗殺と違って目的が達成されたら逃げるという行為がないのです。その最たるものが自爆テロです。
暗殺などは最初から逃げることを計算に入れているから失敗するのです。またテロリストにとって殺害するターゲットは一人とは限りません。体制側にいれば誰でもいい。だから一般市民が狙われるのです。
テロリストは詳細な計画を立てて事を運ぶようなことはしません。失敗しても構わないんです。
仮にもしテロリストがアメリカ政府を破壊しようと思ったら、まずアメリカ市民なって大統領選に立候補するでしょう。首尾よく大統領になれたら、何でもしたい放題です。殺される前にやれるだけのことをすればいいのです。
誰が自分の命を狙うテロリストなのかもわかりません。古くからの友人、いやあなたの家族もテロリストかもしれない。今夜あなたは最愛の奥さんに殺されるかもしれない。あなたは自分以外はだれも信じられなくなる。あなたがどこに逃げても、あなたを助けるものは一人もいない。「テロリストはすべて抹殺してやる!」と豪語しているあなたも、その恐怖に怯えることでしょう。
なぜテロリストなんかがいるんでしょうか?それは資金もなく最新の武器もない。戦う仲間も少ない彼らにとって、大きな力、大きな勢力に対抗する手段が他にないからです。まともに戦ってもとても勝ち目のない大勢力を倒すただ一つの方法なのです。
そのためには殺されてもいい。目的が果たせなくてもいい。途中で死んでもいい。少しでも敵を苦しめたという事を残して死にたい。
彼らが大勢力に従う道を選んだとしても、貧しい彼らは生きているうちに財産も家族も幸せもすべてを搾取されて、いずれ死ぬのは同じことなんです。
テロリストは命を惜しまない。世界に格差がある限りテロリストは未来永劫消えることはない。
大国がテロとの戦いに完全に勝利すると宣言したところで、そんなことは永久に不可能でしよう。

■力による制圧、武力による平和
 ここで青山が言いたいことは、兵器をどれだけ強力にして、軍をどれだけ巨大化しても、武力によって平和を達成することは不可能だということです。
あなたがナイフをちらつかせている人間を倒すために、相手に拳銃を突きつけて、降参しないと撃つぞと脅せば、相手はおとなしくナイフを捨てるでしょう。
しかし次に相手が機関銃を持ってきたら、今度はあなたが手を上げる番です。あなたはそれに対抗するために、今度は戦車を使いました。相手は武器を捨てざるを得ない。
数日後、相手は原爆を持ってきました。あなたは降参です。この争いは永遠に続く。終わることがない。
こちらが強力な武器を持っていれば、敵はこちらの言うことを聞くでしょう。しかしそれは今日までの話。明日もそうなるとは限らない。明日になったら相手はより強力な武器を持ってくるでしょう。
常に相手に勝つためには、あなたは絶えず相手よりも強力な武器を作るかもしくは揃えるしかありません。一日でも努力を怠れば、たちまちあなたは負けてしまう。相手に勝つために一生あなたは気が抜けない。それが軍備拡張競争。そしてこれがあなたの人生です。
武器を持つ大国はこの永遠に終わることのない軍拡競争に権力者も国民も駆り出される。これが平和と言えますか?

■国防は自国の権利か?
 玄関を戸締りしたり、あるいは不審者の侵入を検知するための赤外線センサーを設けたり、果てはガードマンを雇って家の外を警備させたりすることは、家の持ち主にとって、自分の身を守るという意味での当然の権利と言えます。同様に外国からの攻撃に備えて軍備を保持するのも独立国の権利と言えるでしょう。ただし、ICBM(大陸間弾道弾)のようなミサイルを外国の領土に向けていつでも飛ばせるように配備する(常にボタンに指をかけている)ことは、隣人の頭に常に拳銃を突き付けている(ただし引き金は引いていない)のと同じ。人の頭に拳銃を突き付ける。そんな権利は誰にもありません。
ミサイルを持つ国の言い訳は、「相手国もミサイルを持っている。だからやられる前にやるしかない。ボタンを押すのが一瞬遅ければ、こっちがやられる。」それは互いに相手の頭に拳銃を突き付けて、相手が引き金を引く前に引かなければこっちが死ぬ。それと同じです。こちらが先に引けば自分は殺人罪。向こうが先に引けばこちらは死ぬ。同時に引けば相手も自分も死ぬ。いずれにしても自分は死ぬ。これがミサイル攻撃の意味です。
敵はいつ自分を襲うかわからない。先に襲われたらおしまいだ。だから襲われる前に攻撃するしかない。あなたは相手が信用できないようです。人を信用できない人間は誰も信用できません。友人も家族もあなたは信用できないでしょう。人間には信用できる味方と信用できない敵の二通りがいる。なんていうのは単なる思い込みです。いっそあなた以外の人間はすべて殺してしまったらどうですか?この地球にあなたしかいなければ、あなたは誰にも襲われる心配はない。それでようやくあなたは安心するのです。

■人はなぜ争うのか?(戦争と宗教) 戦争と平和の問題を人類の歴史から考察。
※この「科学概論」のテーマは言うまでもなく”科学”です。そこで科学の対極にある”宗教”についても考察してみます。「宗教」についての本格的な考察はこの後述べます。
戦争の要因は何か?もしもこの世に宗教が一つもなかったとしたら、戦争もないと思います。即ち現代の戦争はみな宗教が原因と考えます。そう言うと必ず自分の信仰している宗教を貶められたと思い怒りを込めて激しく反論する方が現れます。もちろん宗教が戦争の原因とは簡単には言い切れません。そんなことを言うなら、「もしこの世に出刃包丁がなければ、銀行強盗は存在しない」と言っているのと同じことになる。おかしな理屈です。確かに世界中からすべての出刃包丁を取り上げれば銀行強盗は減るかもしれませんが、出刃包丁がなくなれば調理師の人が困ります。そもそも出刃包丁は銀行強盗をする目的で作られたのではありません。
じゃあ、こういう言い方では、「宗教は戦争の要因の一つ」。それであっても彼ら信仰者は反論するでしょう。「戦争の原因は宗教ではなく経済問題だ」と。即ち二つの国が一つの利益を奪い合うことにより互いに争う。しかし今日でも、国の指導者が国民を戦争に向かわせる口実として必ずと言っていいほど宗教を掲げます。宗教の影響はそれほど大きいのです。(人間を人殺しに駆り立てるのだから) 即ち宗教は戦争の要因の一つには変わらないのです。(それは銀行強盗の原因の一つが出刃包丁の存在と言うのと同じ)。従って宗教がなければ戦争もない。のは確かなのです。それほど宗教は危険なのです。宗教こそは人類にとって、”悪の中の悪”なのです。(宗教に対する批判は後程)
そもそも人間はなぜ争うのでしょうか?人間に限らず動物は争います。主に食べ物(あるいはメス)を巡って。
例え話として、AとB二人の人間がいるとします。AにとってもBにとっても満足する利益がそこにあれば争いなど生じません。しかし現実の世界はそうではない。利益は両方が満足する分には足りないのです。その限られた利益を巡って人は争う。この動物でも起こる個人と個人の利益を巡っての争いは宗教とは関係がありません。この時A君とB君を比較して、AはBよりも遥かに体力がある(ライオン並み)。それに対してBはひ弱(ネズミ並み)。すると戦いの結果は自ずと決まりAが勝つ。Bは退く。そうすれば争いは早々に終結する。ところが別の人間Cが、Bに同情してBの味方として加わる。すると勝負はすんなり決まらない。更に今度はDが2対1は卑怯だとAに味方する。更に争いは終わらない。戦いはむしろ拡大される。AD対BCの正に戦争です。もしも単なるAとBの争いなら、戦いはすぐに終わったことが、別人が加わることにより、戦争にまで拡大された。その原因はCとDの同情による参加です。これって宗教じゃないですか?あるいは、愛する家族を隣の敵対する部族の連中によって殺された。家族の仲間たちは相手に憎しみを抱きみんなで復讐することを誓う。それは利益を巡っての争いではない。確かに家族を失えばそれは明らかに利益の損失だが、既に殺された後では戦っても失われた家族(利益)を取り戻すことはできない。利益面から言えば、そのまま戦わない方が増し。(あらたに(今生きている)別の家族を奪われる危険性がなければ)。それにも関わらず、なぜ新たな戦いを起こすのか?要因は決して抑えることができない憎しみにあり。これも宗教ですよね?
結論的に言えば、「人間の争いの原因は、動物的な利益の奪い合いだが、大勢の者が本人の意に反してでも参加を余儀なくされる戦争の要因の一つは”宗教”である」。
【ポイント】歴史に学ぶ
真理を探究する。思い込みを排する。そしてより正しいものを明らかにする。即ち科学の営みとして肝心なことは、事実(現実)をありのままに観察することです。自然科学においてそれは実験ですが、社会科学においてそれは歴史から考察することが非常に重要だということ。過去に学ばなければ現在を誤ることになります。
単純に見ても宗教上の問題が戦争に結びつく例は多いのです。例えば13世紀の「十字軍」。17世紀の「三十年戦争」。三十年戦争は同じキリスト教徒の間の戦争です。イスラム教徒内でも争いは数々起こっている。それも宗教がらみ。では、第一次世界大戦。第二次世界大戦は?国家の指導部が相手国がいかに悪(酷い、野蛮だ)かを国民に宣伝し、国民一人一人の愛国心に訴えることにより、戦争に駆り立てる。そこで「俺は戦争なんか嫌いだ。平和の方がいい」と戦うことを拒む者がいれば、周りから袋叩きに遭うように仕掛ける。これって宗教ですよね?(正しい教義はあくまで一つと見せかけ、他の考えは排除する)
ただし、逆に宗教が平和をもたらすという例もあります。小さな小競り合いはあっても大戦争はない。例えば中近東にイスラムが広まっていた時代。アラブは一応平和だった。(特にバクダットを都としたアッバース朝時代) もしも全世界がイスラム教一つになれば、世界平和は実現されます?今日でもあるのが、勢いのある新興宗教がそれを全世界に拡大させることによって、世界を統一し黄金の平和時代を築くという一種の野望。しかしその意図はあっけなく崩れ去るでしょう。統一など不可能です。なぜなら普遍的な宗教など存在しないから。
【誤解】一神教徒は好戦的?多神教徒は平和的?
客観的に見て、宗教に優劣などはありません。これは正しい宗教、これは誤った宗教。そんな普遍的な基準などない。宗教はあくまで個人的なものです。よく言われること、一神教は多神教よりも高度な教えである。多神教はまだ発展途上のもの。歴史から見て、いくら一神教は元々多神教だったと言っても、だから多神教は劣っている。とは言えない。逆に多神教の方が平和的であり、一神教は争いが絶えない。歴史的に見てもそれは嘘。よく八百万の神の多神教である日本は、どの国よりも平和を愛する国だった?そうですかね。あなたは歴史を知っていますか?日本にも「戦国時代」がありました。その後天下統一を果たした江戸幕府は、人々を力(中央権力に逆らう者を厳しく統制する)と宗教よって支配し、250年にわたる時代を築いたのです。(江戸時代の統治システムに通じる「世界政府」による独裁的な権力支配。それが不可能なことを後々明らかにします)
歴史を余り知らない人がよく唱えることとして、「縄文時代の日本人は、ほとんど争いを行わず、長きにわたり平和的であった。だから日本人は元々平和的な民族だ」。本当でしょうか?日本人だけが特別なのでしょうか?その時代が平和だったのは、地域性、文化性、そして当時の歴史的背景があったからです。その後大陸から様々な文明が入ってくると、次第に戦いを始めるようになる。文化が変化したからです。争いを始めた当時の日本人は平和だった縄文時代の血を引いているのです。それが証拠に明治以降の日本人はやたら諸外国と争うことに。これも西洋の文化が入ってきたからです。日本人だけが平和を好む優秀な民族など、単なる思い込みです。世界中を見渡せば時代により民族により、日本人よりも平和的だった例はいくらでもあります。日本人の遺伝子には生まれながらにして平和を愛する性質が備わっている。など都市伝説以下の神話です。他よりも平和的な民族など存在せず、逆に他よりも好戦的な民族も存在しません。
【考察】結論
宗教が戦争を引き起こす。確かにそうであっても、だから宗教をなくせ。そんなことはもちろん不可能です。否、宗教はより幸せに生きることを願うすべての人間にとって必要なものかもしれません。ただ、宗教の実態、宗教の本質を正しく理解しているでしょうか?もし人々が真の宗教そして真の科学を知れば、人間世界に未だに残る、多くの悲劇を生む醜い戦争から、いつの日か解放される日が来るかもしれません。

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