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偶然と必然


必然とは何か
・ある一つの事象(これを仮に事象Aとする)について、それが起こる原因(複数存在する)をすべて特定し、それらの原因が存在した際、必ず事象Aのみが起こり、Aとは異なる事象(たとえば事象B)が起こる可能性が完全に存在しない状況において、事象Aが起こったら「それは必然である」という。
・この世界のすべての事象は原因と結果の関係に因っている。すなわち、それが起こるには必ず原因が存在し、原因のすべてが特定されれば必然的にその原因に対応した一つの結果が現れる。

偶然とは何か
・ある一つの事象(これを仮に事象Aとする)について、それが起こる原因(複数存在する)を可能な限り特定し、その原因が存在した際、必ずしも事象Aが起こるとは限らず、事象Bが起こる可能性も存在する状況において、事象Aが起こったら「それは偶然である」という。
・例えば一つの事象が起こる原因が100ある中で99を特定できたとして、最後の一つが特定できなければ、その事象が起こることを大方は予測できたとしても完全に100パーセント予測することはできない。従って原因の大部分を予測できたとしても、ほんのわずかな不確定部分があるだけで、全体が偶然ということになってしまう。我々が可能なのは、天気予報と同じで、ただ、「恐らくそうなるだろう」、「ほぼ、そうなるに違いはない」という言い方のみである。ここでもし「そうならなかった」としても間違いとは言えない。

 ある一つの事象は宇宙のすべての存在と関係し、すなわち宇宙のすべての事象が原因として関わっている。ゆえに宇宙のすべての原因を特定して初めて事象Aが起こった要因を完全に把握できる。ところが宇宙のすべての要因を把握することは不可能であり、さらに(ある時点の)宇宙のすべての要因を把握したとしても、その事象が100パーセント起こることを予言するのは原理的に不可能であることが分かっている。(「不確定性原理」参照)

・偶然とは、必然的因果関係を完全に特定できない状況下で事が起こることを意味する。従って我々にとってこの世界の出来事はすべて偶然である。必然と認識できるのは、この世界のすべての因果関係を完全に特定できる全能の神のみであって、神の立場から言えば、偶然などありえず、すべては必然である。
これは我々の知識が神と比べていまだに発展途上にあり、将来人間の知性が進歩を遂げた際解決されるべき問題である。ということではない。人間の知性がどれだけ進化しようと、未来永劫不可能なことなのである。もっと厳密に言えば「人間がありとあらゆる手段を尽くして収集した”認識可能な原因”を全て確定させることができたとしても、それによって起こりえる”認識可能な結果”を完全に予言することは不可能である」。つまり偶然を覆すことはできない。
・釈迦が解脱したのも、東日本大震災が起こったのも、あるいはあなたがゴルフの大会で優勝したのも、(大方の原因は把握できたとしても、すべての原因を特定できないために)歴史上の出来事すべては偶然である。ただし、歴史は必ず一つしか選択できない。東日本大震災が起こった歴史のみが存在し、起こらなかった歴史は存在しない。解脱した釈迦と解脱しなかった釈迦の二人が存在するのではない。歴史は予め因果の法則によって完全に決まっているものなのである。しかし、我々はそれを予め知ることはできない。我々は明日の天気を予言することすら不可能である。すなわち歴史は必然であり、同時に我々にとっては偶然である。
・歴史上の出来事も、歴史的大発見も全て偶然。コロンブスが生まれなければアメリカ大陸が存在することは永遠に分からなかった?ノー。別の誰かが発見していたはず。ニュートンが万有引力の法則を発見したのも、アインシュタインが相対性理論を思いついたのも偶然。もしレントゲンがX線を発見しなかったら、医学はこれほどまでに発展しなかった?ノー。自然界に存在するXはいずれ誰かが発見したはず。その時は人体内部を透視する機械のことを「レントゲン」とは呼ばれなかったかもしれない。
・あなたがゴルフの大会で優勝したのは偶然である。そう言うとあなたは、「自分は練習したから優勝した」と反論するかもしれない。では、同じように練習していたのに優勝できなかった人をどう説明するのか?あなたはまた「練習の仕方が違う」と言うかもしれない。では、どう違うのか?とさらに問えば、もはや答えられまい。「こうこうこういう練習をした」とあなたは説明するかもしれない。では同じように「こうこうこういう練習」をすれば誰もが優勝するのか?(優勝者は一人であるにも拘わらず)
・もしあなたが来シーズンは絶対に優勝してみせると豪語したとする。しかし青山があなたの家族を皆殺しにして、さらに家財産のすべてを焼き払い、さらにあなたに全身骨折全治1年の怪我を負わせても、なお優勝してみせると言い張れるか?
・あなたが今までどれだけの業績、たとえばビジネスの世界で上げた数々の成功はすべて例外なく偶然の産物である。それを自分の実力だと思い込んでいる。なんたる驕り高ぶった言い方であろう。真の実力などない。真の実力者など一人もいない。実力すら偶然の産物である。即ち何をやっても、どんなことを成し遂げようとも、所詮は自己満足に過ぎない。
そう言うと人によってはこう反論するかもしれない。「いやいや、自分のしていることは決して自己満足などではない。現に周りは喜んでくれている。私は社会(あるいは人類)に貢献しているのだ。」 それは、思い上がった考え方だ。周りが喜んでいるというのも、あなたの勝手な解釈である。もし相手が本当に喜んだとしても、それも偶然に過ぎない。
ただし、自分が満足すれば、それ以上のものはない。”自己満足”こそが最高に素晴らしいものである。
同時に何から何まで自己責任という話もない。それは驕った考え方である。一寸先は闇である状況で、自身ですべての責任を負い切れるわけがない。「自己責任、自己責任」と連呼することこそ愚かである。
・無論、この宇宙のすべてが単なる偶然というわけではない。もしすべてが偶然であり、必然性が何も無ければ、我々は世界について何も知りえない。何一つ分からない。それは世界など存在しないに等しい。しかし確かに世界は存在している。となると、必然性も間違いなく存在していると言えよう。ただし、必然性があるから、「偶然」ではないとは言えない。”完全な必然”でない限り、偶然は存在する。

 Nothing is written 「決められた運命などない」アラビアのローレンス

・すべて偶然であるから、決められた運命などもない。仮にあったとしても我々人間ごときに知る術はない。それは無いに等しい。「あなたの運命は○○である」といかにも神のごとき忠告をする宗教家たちがいるが、いずれも嘘である。如何にすぐれた予言者であっても未来を、そしてあなたの運命を知ることは不可能である。
・人生には時として理不尽で理解しがたいことが起こる。例えば愛する肉親の突然の死。その事実を受け入れるのが精神的に苦痛であるためか、人はその悲劇の意味を見出そうとする。「これは神から自分に与えられた試練」あるいは「神の教えに背いた罰」など、もちろんそんなものは一切存在ない。肉親の死も含めてすべては偶然に過ぎないのである。その事象に何か特別な意味があるわけではない。それは単に事実を受け入れるのを拒む人間の自分自身に対するごまかしに過ぎないのである。
・結論から言えば、この世界で起こっている事象はすべて必然であるかもしれない。しかし、我々はそれを把握できない。よって我々にとって世界はすべてにおいて”偶然”である。

たった一つの必然
・世界で起こった事象、現象、事件は、すべて偶然である。
・ただし唯一の必然がある。それは今あなたがやろうとしていること。やった結果ではなく(それは偶然である)、あなたが今まさにやっている(現在進行形の形で)こと。なぜならあなたの主体的意思がそのようにやろうと決めて、まさに今やっていることだから、それは必然である。もしもそれすら偶然というならば、あなたは何一つできないことに等しい。なぜなら、それがあなたがやっていることなのか、あなた以外の何者かがやっていることなのかを特定できないからである。特定できなくても無意識的に行っていることなのかもしれない。そうすればあなたは存在しているのか、していないのかも判定できない。

結果ではなく、「姿勢」
・この世において一寸先は闇である。世界は何が起こるか分からない。人間は明日の天気さえ分からない。どんな天才がどれだけ努力を重ねても、明日の天気を正確に予言することは不可能である。なぜならこの世界のすべての事象は偶然起こっているにすぎないから。雨が降ったのも偶然である。
・あなたが何かをやって結果を出した。成功した・失敗した、その結果を含めてすべては偶然である。成功・失敗などは問題ではない。偶々成功した。偶々失敗しただけのこと。失敗を避けるならやり方を改めればいい。ただし、やり方を改めても失敗する可能性はある。
・結果が出せないなら、努力しても報われないなら、すべてはただ空しい。努力しても意味がない。そう思うなら努力など止めてしまえ。結果を出すために頑張るのはいい。しかし期待通りの結果が得られるかどうかは偶然によって決まる。結果を出せなくてもその姿勢、自分の方向性が正しいと信じるなら、何度失敗しても努力を続ければいい。また結果を得られてもそれで終わることはない。その先があるはず。結果は一つの到達点であり、さらに努力を続けること。結果を出して勝敗を決して、それですべてが終わりなら、ついでに人生も終わりにすればいい。人生に最終ゴールがない以上、一つの結果を得ただけで満足はしないはずである。
・重要なのは結果ではない。結果は後から付いてくるもの。要は何のために何をしたかである。その結果どうなったかは二の次である。
・しかし世間は結果を求める。やっているだけで結果を出さないことには評価はされない。当り前であるが。しかしこれに騙されてはならない。結果はあくまでも偶然の産物である。社会の特にビジネスの中枢にいる連中は”自分”がもっと裕福になりたいがために、人々に競争を強いて結果を出すことを求める。その浅ましいたくらみに乗って、社会に評価されたいがために、大衆に迎合されたいゆえに「結果」を出すことに齷齪するあなたは、ただの愚か者である。あなたがどれだけ世間から称賛された過去を持っていようとも。なぜそれほど結果を出したがるのか。なぜそれほどまでに報われたいのか。それはあなたが、ビジネスの中枢にいる連中以上に浅ましい欲を抱いているからに他ならない。果たして報われることが幸せなのか?そんなことのためにあなたは貴重な人生を費やしてもいいと言うのか?
・結果よりも姿勢「何のために何をするのか」その問いがなく、ただ努力して結果を得たいというだけでは、後で後悔する。「こんなことのために努力してきたのか」と。(一生懸命努力するだけなら、アリやダニも毎日努力している。努力しないと生きていけない)
・課題はただ一つ、何のために努力するのか?それはすなわち何のために生きるのかという人生の目的である。(これがこの「科学概論」のテーマ)

地震や津波は地球における物理現象
・Aさんは津波に飲まれて亡くなったのに対して、Bさんは助かったことにおいて、そこに何か意味があるだろうか?Aさんは悪人だから死んだ。逆にBさんは善人だから助かった。もちろんそんな馬鹿げた話はない。Aさんが死んでBさんが生き残ったのも偶然にすぎないのである。
※津波が襲ってきた(広い)地域にも当然善人はいたし、津波が襲ってこなかった(広大な)他の地域にも悪人はいた。津波が襲ってきた地域にいた人は、例え命を落とさなくても、何らかの被害に遭っている(家屋の崩壊などの被害を受けていた)はず。津波に飲まれて亡くなった人の多くは善人で、のうのうと生き延びた人間の多くが悪人だったかもしれない。結局三流宗教が教える善人は利益を得て、悪人は罰を受けるなんていう話はまっかな嘘。(誰が善人で誰が悪人か?そんなこと単純に特定できるわけがない)
・ただ地震に対する備えをしていた人は助かり、していなかった人の多くは死んだかもしれない。ただし、地震に対する備えをしていても死んだ人もいれば、しなかったのに助かった人(多くは震源から遠く離れたところに住んでいた)もいるのはなぜだろうか?そこにあるのは備えをした方がしないことよりも助かる可能性があるだけである。もしそうでなければ誰も備えなどしないであろう。地震であっても結果は偶然なのである。備えをしていれば絶対に助かるという保証はない。結果的に亡くなろうが生き残ろうが、備えをして助かりたいか助からなくてもいいか、という姿勢(態度、生き方)の違いが唯一の問題であって、結果は本人がいかに努力したところで最終的にはどうにもならない。
・重要なポイントは、結果ではなく、あくまでできるだけ助かるために自分は何をすべきか。そしてなぜ助かりたいのかという、地震に対する取り組み方、災害に対する本人の態度・認識、強いて言えばこの世で生きていくための姿勢の問題である。

(世界には規則性がある)イコール(世界には意味がある)ではない
 この世界には確かに秩序が存在する。それは自然法則。つまり”因果律”である。結果には必ずそれに対応する原因が存在する。もしも原因など無ければ、我々は世界を認識することはできない。すると人間にとって世界など存在しないに等しい。
ただし、「AだからB」と単純に割り切れない。一つの結果に対する原因は無限に存在する。そのすべてを人間ごときが把握することなど不可能。それは正に神のみ可能。人間の認知能力の限界である。つまり我々は、「だいたいそうなるだろう。」、「恐らくそうなると予想される。」、「そうなる確率が最も高い。」ぐらいしか言えないのである。
にも拘わらず、世の中では、「AだからBなんだ。」といかにも原因が完全に特定されているかのごとき言い方をする。特にテレビや書籍の中で、評論家たちがそう述べる。すると一般人は騙される。よくよく考えてみよう。そのように世界は単純なものですか?すべては偶然なのである。

神は存在しない
 神の存在を信じている人(特に宗教関係者)の中には、その根拠として、世界の秩序だった様子を取り上げる場合がある。つまり、決まった時刻に朝日が昇る。決まった時刻に夕日が沈む。天体の運行。そして物理法則。あるいは奇跡的ともいえる生命活動(生物の発生、免疫システム、自浄作用等)を観察すると、その精緻さ、厳格性に驚異を覚える。科学の研究を深めるほど驚きは増すのである。それは科学者自身が一番経験していることである。しかし、いくら自然法則が寸分の狂いもなく成り立つからといって、そのことによって世界に”意味”(何のために世界はこうあるのかという世界の目的)があることにはならない。即ち神が存在することの証明にはなっていないのである。なせなら、その規則性は神の存在を仮定なしくても成り立つからである。世界を規定している秩序は、意味なく存在しているのである。(補足1)
否、実は神は存在しており、世界には意味があるのかもしれない。しかし例え神が存在していても、我々にはそれを認識することは不可能。我々から見れば、世界には意味がないように思える。そう認識することしかできない。つまり我々にとって神は存在しないに等しいのである。
ただし、我々はそれを信じることはできるかもしれない。
要するに、神とは、存在するかしないかではなく、信じるか信じないかのカテゴリーに属する。すなわち個人の心の問題である。(補足2)

 この世界で起こっていることはすべて偶然である。従って未来の状態を完全に特定することは不可能である。できることは、恐らくそうなるであろう。という大方の予測をつけるのみ。大方であるから、必ずそうなるとは限らない。未来がこうなるということを、誰であっても完全には予測不可能だということ。世界が過去から現在までこのように進化してきたのは偶然に過ぎない。

結論

1.この世界は決められた方向に進化しているわけではない。また世界が今後どのように進化していくのか事前に予測することは不可能である。
つまり世界はどのような方向に向かっているのか分からない。この世界では決まった進化の方向は存在しない。世界はただなるようになるだけである。世界の傾向、例えば統計を取れば年々交通事故の件数が減っていることが分かる。それをもって、世界は交通事故が減る方向に向かっている。とは言えない。今後(事故が)増えないとは断言できない。(図a5「社会の傾向性」参照)
同様に国際紛争での死者が減少傾向にある。しかしそれは現時点の大体の傾向であって、それをもって世界は平和に向かっているとは言い切れない。
もしも世界に定まった方向性があるなら、その方向に向いている人間と向いていない人間の二通りが存在することになる。すなわち人間に優劣ができることになる。方向性がなければ、優劣もない。あの人は優れている。あの人は劣っているというのは個人の見解であって、それはこの宇宙の普遍的評価価値ではない。
この宇宙を閉じた空間とした場合、唯一方向性があることとして「熱力学の第二法則(エントロピーの増大の法則)」がある。(図25「量子力学とエントロピー」参照)
ただし人間は宇宙全体を同時に観測できない。局所的にはエントロピーは増大することもあれば、減少することもある。はるか100億光年先の状態と目の前の状態には観測的に時間差があり、同時に観測されたとは言えない。従って熱力学の第二法則が正しくても、実際人間が観測できるのはある局所的な領域のみである。

2.この世界で起こっていることすべてについて(どのようにしてそれが起こるのかという科学法則としての原理はあるが)、なぜそんなことが起こるのか、その理由は存在しない。世界がどうなるのか誰にも分からない。ただなるようになるだけである。世界はまさにどうにでもなりえる。(ただし科学法則に反しないこと)
従ってこの世界は、こうでなければならない理由はない。また、こうであってはいけない理由もない。それをやってはいけない理由はないし、それをやらなければならない理由もない。(人間が勝手に作った”法律”がどうであるかに関わらず)
人間は誰であっても、その人物が生まれてこなければならない必然的理由はない。生まれてきても生まれてこなくてもどっちでもいいと言える。(親としては生まれて欲しかったに違いないが。ただし、誰が生まれてくるかまでは親の選択権はない) これは歴史上の人物も含め、すべての人間に言えることである。釈迦やイエスであっても例外ではない。
ただ、現に生まれてきたのだからそこには理由があるはず。理由がなければ生まれてこない。とも言える。が、その理由とは?と問われたら誰も答えられないであろう。それはこの世界そのものの存在理由が不明だからである。すなわち、たとえ理由があったとしても人間がそれを把握するこができない。把握できないということは存在しないというのと同じである。

3.世界が向かうべき進化の方向が定まらないということは、世界にはズバリ目的がない。
存在理由もなければ、世界が目指す方向がない。人類に普遍的な共通の目的などない。人それぞれバラバラであって価値観も異なる。普遍的な価値、普遍的な善悪、普遍的な基準もない。従って世界はどうあってもよい。(”法律”は普遍的基準ではない)
人類が滅んで、恐竜が生き残ってはいけない理由はない。宇宙にとってはどちらでもいい。人類が滅んではいけない正当な理由は宇宙には存在しない。そこにあるのは「人類が滅びないでほしい」という個人の願望だけである。そこに普遍的な根拠があるわけではない。
「人類が滅びないでほしいと思うのは私だけではない。私の友人も同じだ」と言うかもしれない。しかし偶々一致しただけに過ぎないのである。
ホームレスが乗った飛行機と経済団体の幹部が乗った飛行機と、どちらが墜落して、どちらが助かった方がよいか?そんなことは宇宙にとってはどちらでもいい。青山個人としては全く関係がない。ただし経済団体会長が私の奥様なら話は別である。
普遍的な基準もないから、人間に順位などもない。あるのはあくまであなた個人が好きか嫌いかの違いである。ここでアンケートを取れば、ホームレスの乗った飛行機が落ちた方がましだという意見が多いかもしれない。しかしそれは現時点の統計上の傾向に過ぎない。全く独立している個人の傾向を集めた結果は、時によっても、あるいは調査対象によっても違ってくる。そこに普遍性など見いだせないのである。つまり世界がこうあって欲しいというのは個人の希望であって、世界の目的ではない。世界はただなるようになるしかなく、そこに目的などはない。目的があったとしてもそれを知るのは神のみであって、いかなる人間であっても「その目的とはこうだ」と断言することができない。
世界に目的がない。いかなる普遍的基準もない。すなわち世界はどうあってもいい。人類が滅んでもいい。ということなら、いかなる犠牲も正当化されないということである。
例えば、多国籍軍がテロリストのアジトを攻撃する際、付近にいる住民にも被害が及ぶことを知りながら、攻撃を仕掛け、結果罪のない犠牲者が出たら、多国籍軍側の「テロリストを殲滅するために多少の犠牲はやむを得ない」などという勝手な言い訳は通用しない。世界に方向性がない、こうならなければならない、あるいはこうであってはいけない理由がないからである。
もしも目的を示せるのなら、神のように世界の未来を完全に知ることができるはずである。
よく「この世で起こっていることは偶然ではない。この世界には意味がある。目的がある」と言っている人に対して、「では、明日の天気を正確に予言してみてください」と言ったらどうなるか?そんなことは間違いなく不可能である。人間は明日の天気さえ分からない。予言とは、「明日は、晴れ時々曇り、ところによってにわか雨が降る」というのでは駄目。それなら何でもあてはまる。聞いているのは、このバケツに雨が何滴落ちるのか?大体500滴位というのは駄目。正確に○○滴と答えなければ、それが1滴でも違えば予言は外れたとみなされる。あるいはここに羽式風速計があって、それが1日で何回回転するか?大体1000回というのでは駄目。正確に1149回という具合に予言してもらわなければ正確とは言えない。
予言といっても、「大体こうなる」、「恐らくこうだろう」という言い方では、そうならなかったとしても間近いとは言えず、そんなものは予言ではない。
結局明日の天気を予言することは、どんな天才がどれだけ努力しても不可能である。
※1億人の人間を動員して一人一人に(0から100000000までの)異なる数を割り当てれば、誰かは当たるかもしれない。ただし当たった人間が予めその数を知ったわけではない。
つまり人間は明日の天気さえ分からない。だからこの世界がこうなるという予言はできない。従って世界の目的は永遠に不明である。

4.世界が存在している理由が不明ということは、世界の存在は無意味といえる。
世の中には、何か事件があったり、自然災害があったり、あるいは個人的な出来事を体験したら、そこに何か意味があると思い込んでいる人がいるが、意味なんか全くないのである。
意味があるなんて話はインチキ宗教の類が人々を欺くために拵えた嘘に他ならない。反論するならそこにいったいどういう意味があるのか示してもらいたい。
否、この混沌とした社会にも実は意味があるのかもしれないが、それを知るのは神のみ。我々は神ではないのだから、意味があっても知る術がない。分からないことは無いのと同じである。
「世界にはこういう意味がある」と信じるのは自由であるが、それはすべて、現実を受け入れたくないという一種のごまかしに過ぎない。

5.世界に意味がないから、神も存在しない。
この世界であなたがどれだけ災難に遭おうと、あるいはどれだけ悲劇を味おうとも、神を罵ることは無意味である。なぜなら神はいないのだから。この世を憎んでも意味がない。この世は無意味である。
なぜこの世は理不尽なのか?戦争、犯罪、飢餓、今も多くの人間が苦しみあえいでいる。そして一向に救いは無い。この世はまさに天国とは正反対の地獄である。このような不条理の世界になぜ生まれてきたのか?喜びも楽しみも一切なく、ただ悲しみと苦しみしかない世界、それが一生続く。それはすべての人間に例外なく、金持ちだろうが貧乏人だろうが関係ない。その運命を憎んでも、そしてこの世界を創造した神をどれだけ罵っても、それはただ無の空間に向かって叫んでいるのと同じある。なぜなら神など初めから存在しないのだから。存在しない神を勝手にいるものだと思い込んでいた自分が愚かだったと自覚するだけで終わりである。
結局、すべては偶然である。奇跡は滅多に起こらない。長い人生の間に大いなる幸運も、大いなる不運も、滅多に出会わない。稀に見る幸運に見舞われた人間も、逆に稀に見る不運に見舞われた人間も少数でしかない。すべては統計の内に存在する。世界の本質は確率でしかない。ということは、この世に神が存在しないことは明らかである。
ただし、「確率とは」でも述べた通り、奇跡は稀にしか起こらないが、いつか必ず起きる。即ち、この世界の出来事がすべて偶然だからこそ、「奇跡はかならず起きる」のです。

6.完全な自由
この世界に意味も方向性もないなら(あるいは神など存在しないのなら)、逆に我々は何をしても自由である。自分の生き方を決定し、今何を為すか、どう世界に働きかけるかは、自分自身の完全な自由である。世界の決定者、判定者は自分のみ。ただし、その行為の責任は自分一人が負うこととなる。

(補足1) 神の存在を信じている人によくある間違いとして、「世界には秩序がある(自然法則がある)」よって「世界には意味がある」。あるいは「世界には秩序がある」よって「神は存在する」という考え方です。上で説明しているとおり、自然に規則性があったとしても、世界に意味や意図があることにはならないのです。即ち自然の規則性や秩序の存在は、神を仮定しなくてもいいわけです。この世界のあらゆる存在がそもそも自然法則そのもの(一体)なのです。もともと無秩序に存在していたものに神が後から秩序を与えたわけではない。
よく話題になるものとして、細菌の鞭毛モーター(注)の精巧な仕組みに驚いて、こんなに複雑なものがダーウィンの進化論、すなわち偶然によって出来るはずがない。というもの。もちろんまったくの偶然でできるはずはありません。根底には精緻な自然法則という動かしがたい秩序が存在します。だからといって、世界に意思や目的が存在することにはなりません。
もし目的があるのなら、では、なぜ細菌には鞭毛モーターが必要なのでしょうか?
水中を泳ぐため。
ではなぜ泳がなければいけないの?
生存のため。
ではなぜ生存しなければならないの?
???。
最終的にはこのような答えがないところに行き着くのです。すなわち神が存在するのかしないのかは永遠に不明なままです。鞭毛モーターが生まれたのにも、必然的な理由があるのです。しかしその必然性が神の存在を保証しているわけではないのです。
もしも生物の進化に神の意志が働いていたなら、神はなぜ恐竜を滅ぼしたのですか?滅ぼすのなら恐竜など最初から誕生させなければよかったのに。もし恐竜の出現と滅亡が、人類(哺乳類)の誕生と進化に必要だったと答えるのなら、すべては人類を誕生させるために行ったのですか?
ではなぜ、人類を進化させたのでしょうか?それが神の計画だから。としか答えられない。神の計画など人間に理解できるわけはないのに。しかもその人類だって滅びない理由はありません。個々の人間は間違いなく死ぬのです。
否、この生物進化の過程において、その根底には神の奥深い計画があったのかもしれない。しかしどんなに考察を重ねても所詮我々人間にはそれを知ることはできないのです。
(注)一部の細菌類にある、水中を移動する際に使われる鞭毛を回転させるためのモーター。いわば船のスクリューを動かすエンジンのようなもの。

(補足2) 神の存在を信じるのも信じないのも自由だし、パンダが宇宙を創造した。それを信じるのも信じないのも自由。

最後に
 我々(この青山と読者であるあなた)が、今それほど生活が苦しくなく、貧困にあえぐこともなく、インターネットを見れるほど余裕があり、神や仏などにすがらなくてもいいのは、単なる偶然です。あなたは自分よりも貧しい人々を、あるいは悲劇を味わった人を見て、多少可哀想だと思っても、あくまで他人ごと。その人たちに何一つ手を差し伸べることもなく、自分が悲惨な目に遭わないことを、自分の行いが良い精だと思い込んでいるのは、大いなる誤解です。一つ間違えば立場は逆、不幸のどん底に突き落とされていたかもしれない。そうなっていなのはあなたの精ではない。ただの偶然に過ぎないのです。そうではないなどと口が裂けても言えないでしょう。もし自分の今の成功が自分の実力だなどと言うなら、明日の天気を(正確に)予言してみてください。あなたは明日の天気すら予言できないほど愚か者なのです。自分の実力だなんて思い上がりもいいところです。
我々(この青山と読者であるあなた)が不幸のどん底に突き落とされていないのはただの偶然。だからこそ我々にはやらなければならないことがあるのです。そうです。悲惨な目に遭って、悲しい境遇にあえぐ人々に手を差し伸べることです。我々にはそれがでるから、だからこそやらなければならないのです。それは我々に神から課せられた義務といってもいいでしょう。

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