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この社会で生きるとは


 人間は果たして何のために生まれてきたのでしょうか?
生まれてきたいとも思わず、こんな地獄のような世界に生まれて、つまらない仕事をさせられて。それでも我慢をして、やっと貯めた金で楽しもうと思ったときにはもう年寄りになっていて、そのすぐ後に死が待っている。意味のない人生。果たして自分は何のために生きているのだろうか?国家のため、人類のため、自身の成長のため。そんな詰まらないことのために生きてきたのか?(補足1)

 人生は自由です。何をしてもいいのです。
しかし実際は自由ではありません。やりたくてもできないことは山ほどあるように思えます。この現実は自分の思い通りにはできない。この世界は自由なところではない。どれほど実力がある人でも、この社会を自分の好きなようにはできないのです。

 我々の社会は公平な場ではありません。例えば、税金は一律ではない。同じ行政サービスを受けながら支払う税金額が異なる。たくさん払っている側にしてみれば不公平を感じるかもしれません。
しかし勘違いしている方もいるかも知れませんが、そもそもこの社会は不公平が当たり前なのです。改善など絶対にできません。これが現実です。
また、わが国にも「生活保護」という制度があります。収入・資産がない貧困層の生活費用を税金で賄うのです。家計が苦しい人はたくさんいます。それでも何とか働いて生活保護を受けずに頑張っている人は、働かずにお金だけを得ている生活保護受給者に対して反感を抱くかもしれない。
しかし現実問題として「生活保護」がなければ生きていけない人もいます。その人たちに「死ね!」なんて口が裂けても言えません。もちろん不正に(十分な収入や資産があるにもかかわらず)受給している人間は厳重に処罰しなければなりません。
しかし働きたくても働けない人、病気の人、仕事がない高齢者もいるはずです。その人たちの(最低限の)生活を保障する。全体で得た富は改めて社会の隅々にまで分配し、可能な限り格差を埋める。これが社会保障制度です。(補足2) この仕組みがないなら、そもそも政府なんかいならない。法律もいらない。国もいらないのです。
自分が働いて得た報酬を勝手に取り上げられて働かない人間に無償で手渡すなんて明らかに損だ。だったら働かずに生活保護をもらった方が増しだ。
そう思ったらあなたも生活保護受給者になることをお勧めします。(補足3) ただし、生活費用は最低限しか得られません。車も買えない。家も買えない。観光旅行にも行けません。それであなたは満足ですか?
自分はこれだけの仕事をした。だから当然それ相当の報酬を得るのは働いた者の権利だ。(あなたがわずかながらも支払った税金から、生活保護費用に回される分もある) それを侵害するなんて許さない。なんて言い訳は社会では通用しません。もしこの社会で生きていくのが嫌なら、一人山奥へこもったらどうですか?それはあなたの勝手です。
つまりこの社会は、幸せになりたいならみんなで幸せになる。当人の努力に関わらず、一人だけ(飛びぬけて)幸せになることは許されない。全体が貧しいならみんなで貧しくなる。あなたも貧しくなる。それが不満なら社会から出ていく、この国から出ていくしかないのです。
要する社会の本質は”公平性”にあるのではなく”助け合い”にあるのです。それなくして社会の存在価値はありません。
そんな社会にあなたは生きているのです。こんな世界にあなたは生まれてきたのです。生まれてきたところがまさかこんな世界とは思わなかったかもしれない。この世に生まれてきたこと、それは確かにあなたが望んだことではありません。人間は誰一人として自らの意思で生まれてきたわけではないのです。ある人間は大富豪の家に生まれ、別の者は貧困家庭に生まれる。ある者は働き者、別の者は怠け者。生まれた時点ですでに差があるのです。本人の意思に関わりなく。(補足13) あなたが成功したのは、単にあなたが運がよかったからに過ぎない。あなたが努力した結果恵まれたのではありません。すべては偶然です。
これを理解できないようでは、あなたはこの社会で生きていく意味がない。あなたが自分の実力によってこれだけの報酬を得たと思っていたら、それはうぬぼれである。世の中には、自分がお金を儲けたことに対して批判されると、「正当なルールに基づいて得た報酬のどこが卑しいのか!」と開き直って反発する愚か者がいる。輩は助け合うこと、自分が貧しい者たちを支援しなければならないことに不満だ。この世界に正当なルールなど存在しない。そんなものが存在する。それは勝手な思い込みだ。社会は自分一人で成り立っているわけではないのである。
もしあなたがそれに不満なら、では伺います。あなたは何のために働いたのですか?もし働くこと自体が目的なら、報酬なんかどうでもいいでしょう。報酬を得るために働いたと言うなら、やはりそれはお金が欲しいのです。では、なぜお金が欲しいのですか?そのお金で何をするのですか?この質問に即答できなければ、あなたはただお金を得るためだけに生きている欲望の奴隷だ。汗水流して働かなくても、宝くじに当たればいい。あるいは親類が死んで遺産が転がり込んでくればいい。

 相手が得をすると、自分が不当に損を強いられている気がして無性に腹が立つ。それは単なる妬み感情です。
世界は平等でなければならないという幻想から離れられない。努力したらした分利益を得るなどという浅い考え方にしがみ付いたまま。それは単なる愚か者です。まだ分からないのですか?この世界の本質を。では、分からないならあなたに質問しましょう。あなたは何のために生きているのですか?こんな不平等な社会にどうして生まれてきたのですか?
答えなどない。自らの意思で生まれてきたわけではない。だったらあなたは不幸ですね。人間がどれだけ努力してもこの社会の不平等性は改善できません。無駄な努力です。
この世界は自由ではない。この社会は公平ではない。すなわちこの世界は、「助け合い」の社会です。それがこの世界の本質です。裕福な人が貧しい人を救済する。それが助け合いの社会です。貧しい人が裕福な人を救えません。いつか貧しい人が裕福になって救う側に回るかもしれない。否、一生貧しいかもしれない。従って、この世界には一生助ける側にいる人間もいれば、一生助けられる側にいる人間もいる。それでお互い満足ならいいでしょう。あなたは不満ですか?何で裕福な自分がいつも助ける側にいなければならないのか?あなたはうぬぼれていませんか?あなたが裕福なのは単なる偶然です。いや努力だ!智恵だ!あなたが努力したのだってただの偶然ですよ。はっきり言ってこの社会は、本人の努力に関係なく経済格差が生まれるのです。それこそが”必然”です。
この世はそもそも不公平なのです。社会は助け合い。持てる者が持てない者を救う。そしてその見返りを期待しない。それがこの社会というものです(補足16)
するとあなたのような努力家はこう反論するかもしれない。「努力しても怠けても同じなら、怠けた方がましだ。全人類が怠け者になってもいいのか」とね。いいえ、努力しない者、怠け者はその報いを受けるのです。将来、努力した者よりも遥かに苦しい思いをしなければならないのです。それがこの世の常です。しかしあなたは重大な間違いを犯しています。あなたは何のために努力してきたのですか?自分の成功のためですか?そんな下らないことのために今まで頑張ってきたのですか?
世間の大部分の人はそのことが解っていない。特に釈迦の仏法(世界は空)を理解せず、仏教を誤解している人たちは、この世界は因果律に則った公平な世の中であるという誤った思い込みから抜け出せない。ゆえに不幸な生き方しかできないのです。(補足17)
この世界では、自分が努力したらした分の報いを受けるのは当然。世界はあくまで公平であると。あなたはそういう妄想を抱いていませんか?ある努力家がいたとしましょう。その人間が努力をした結果、莫大な財産を手に入れたとします。翌日、その人間は頭をハンマーで割られて死亡しました。犯人とその人物は何の関係もありません。たまたまそこにいたため殺されたのです。「財産を手に入れる」と「頭を割られて殺された」には何の因果関係もない。人はこう考えます。努力したのだからその報い(報酬)を受けるのは必然。しかしそうはなりませんでした。それでは因果関係が成り立たないじゃないか。そんなことがあってもいいのか!あなたは憤るかもしれない。しかしハンマーで頭を割られるという現象は何も物理法則(この世の法則)に反しません。(ハンマーは光の速度を超えていない) ただの力学現象です。
するとあなたはこう反論するかもしれない。努力しても結果が得られないなら、努力するだけ無駄ではないか?我々は何のために生きているのか?それは法に則ったこの世界で成功するためである。それが幸福を得るということに他ならない。と生きる目的そのものを奪われたように怒りを露わにするかもしれません。しかしそれは単なる無知に過ぎないのです。努力は必ず報われる。それは甘えた考え方です。(補足18) あなたはこのどうにもならない不平等の世界で、”成功する”。あるいは”成長する”。そんなことのために生きているのですか?それはまったく無意味です。もっと大切なことが他にあります。
「何のために生きているのか?」生きているのは自分なのに、あくまであなたはその答えを自分自身ではなく世界に求めている。おかしいとは思いませんか?この世界は無意味、無目的、方向性無しなのに。
そもそもこの世は理不尽、不条理なのです。それはどうにもならない。努力したから財産を得た。世の中はそんな単純ではありません。下らない因果関係(しかし決して自然法則には反しない)です。何々をしたから、こうなった。という考え方の何と幼稚なことか。
もしあなたが貧しい(生活に困っている)人を見て、同情心すら起こさず、これはこの人間が真面目に働いてお金を貯めてこなかったことに対する報いだ。それに対して、自分(あなた)は一生懸命仕事をしてきた。だから裕福なのは当たり前。と自分を正当化させる。これだけの”努力”=それ相当の”功徳”。そんな普遍的な等式(基準)なんかありません。つまり最大の誤りは、「努力したら、努力した分、報いを受ける」という認識です。
答えはこうです。この世界では、努力したらした分報いを得ます。努力してもしなくても、(因果律に則り)それなりの結果を得るのです。ただし、あなたが望む結果が得られるとは限らない。ということです。そもそも、【努力 ⇒ 成功】 この図式が間違っているのです。
あなたは勘違いをしていませんか?世界に対して大変な認識誤りをおかしていませんか?頑張ったら頑張った分報いを得る。そうなる保証はどこにもない。否、何をしてもしなくてもそれ相当の報いを受けます。しかしどういう報いを受けるかは分からない。一生懸命働いた人に死が訪れるかも知れない。それが分かるのは神様だけです。第一何をもってこの人は頑張った。こいつは頑張らなかったと言えるのか?そんな普遍的基準などありません。毎日ぶらぶらあくびをしていても頑張っているかもしれない。
これがこの世界の本質です。その現実に不満を抱いている人に再度お尋ねします。あなたは何のために生きているのですか?生まれてきたから生きているだけですか?では、何のためにこの理不尽な世界に生まれてきたのですか?親が産んだからですか?

この社会の存在意義について
 この世界に生まれてきたのは、もちろんあなたの意志ではありません。人間は例外なく有無を言わさず、この理不尽なまでに苦しみに満ちた世界に生まれてきた。あるいは生まれさせられたのです。しかし我々人間は愚かではない。智慧と慈悲を働かせます。今新たに誕生した子供たちのために、先輩である(先に生まれた)我々が、できる限り幸福に生きることができる「社会」というものを築き上げてきました。この社会に生きる者は、何人であっても(たとえ法を侵した者でも)幸せに生きなければなりません。この世界に生まれた来た者は、誰であっても、一人も漏らすことなく救う。それがこの社会の本質です。間違っても”競争する”ことが社会の本質ではありません。我々の使命は、この社会に生きている人を一人でも多く救うことではない。”一人でも多く救う”ことに意味などない。たった一人でも救われないなどということが無いよう、全員を一人残らずを救う。ことにあるのです。(補足19) もし”一人”を救えないのなら、一人も救わない方が遥かに増しです。
この世界の全ての人に言いたい。あなたは幸福になるために、それだけのためにこの世に生まれてきたのだと。

 最近インターネットの普及に伴い、誰もが簡単にホームページや動画サイトを使って、自分の意見を述べる。自分の主張をアピールする人が増えています。ただそれを誰が聞いて(見て)くれるのでしょう。誰が賛同してくれるのでしょう。人間は誰でも(他人の幸せではなく)自分が幸せになることのみを望んでいるのです。それは人間ですから当然です。だからただ自分の意見を述べるだけでは、単なる自身の欲望を満たそうとしているだけで、そんな言葉には誰も耳を傾けてはくれません。「私を幸せにしてください」と人々に訴えても駄目です。「あなたを幸せにします」と言われて初めて人は耳を貸すのです。(そう言うと怪しい宗教のように思われて大変不愉快なのですが
青山は、社会のため、国家のため、あるい人類のためと言いつつ、自分勝手な自己主張しかできない人間の言葉には耳を傾けません。青山の望みは、自己主張すらできない弱者のため、世界を変えることです。

 青山は決して貧乏人の類ではないが、救う側でも、救われる側でもどちらでもいいと思う。ただし、救えるものなら救いたい。自分一人が儲からなくてもいい。もしも全体(我が国だけではない。地球だけではない。人間だけではない。宇宙全体)が困窮しているのなら、青山の資産を削ってもかまわない。年金が足りないのなら、減らされても文句は言わない。それで困窮者が救われるのなら。
世界に目を向ければ、貧困者は膨大な数に上るでしょう。豊かな日本とは比べものにならない。悲惨な現実。多くの人はそれを無視するでしょう。今にも生きるか死ぬかの瀬戸際。その多くは老人と子供です。これらの人々を自分の財産を削ってでも救いの手を差し伸べるのは、この社会に生まれた人間として当然でしょう。それができないような人間は、はっきり言ってこの地球に存在している価値はありません。我々は何のためにこの不公平な世界に生まれてきたのか?何のために生きているのか?その答えは明らかです。
努力したら、努力した分、報いを受ける」。あなたの信念はこうかもしれない。それに対して青山の信念は「常に弱者の味方でありたい。そして強者の敵になりたい」。
もしあなたが今現在、健康でお金持ちという程ではないがそれなりの資産を持ち、毎月十分食べていけるだけの収入を得て、贅沢ではないが日々それなりに楽しく暮らしている。そして人生に大きな悩みも抱えていない。ならば、今世界中に溢れている貧しい人たち、ギリギリの生活を強いられ、今日一日食べていけるかどうかも分からない。あるいは働きたくても働けない困窮者たちを、もしかしたら我々(あなたとこの青山)は救うことができるかもしれない。決して裕福とは言えないが、我々は今日明日の食事を心配するほど困窮はしておらず、ある程度生活に余裕がある。そんな我々が日々貧困にあえいでいる彼ら困窮者たちに何かできるはずだ。もちろん我々だって決して明日の心配がないわけではない。ある日突然日々の糧を失うかもしれない。あるいは身体を壊し思いもよらない難病に自分や家族が襲われるかもしれない。しかし今現在は十分に生きていける。だからこそ彼らを救いたい。彼らのために何かできることをしたい。どうすれば彼らを救えるのか、この世界から貧困がなくなるのかを考えたい。なぜなら、今現在あなたとこの青山にはそれができるのだから

 一人の人間にできることは限られています。大きなことを成し遂げたいなら、大勢の人間の協力が必要です。異なる人間同士が一致協力して取り組むべきもの。それは戦争ではありません。平和を実現することです。もし世界平和を成し遂げたいなら世界中の人々に協力を求めなければ意味はありません。そしてもう一つ。それは人々を救済することです。(自分自身の救済ではない)
社会を形成している多数の人間は、顔が皆一人一人違うように生き方も考え方も異なる。しかしそれでも協力できることがあります。全ての人間、世界中の人々が無条件に賛同できること。それが人々の救済です。無論その具体的な手順を決める過程での意見の相違はあるでしょう。しかし議論を重ねることにより、確実に成果が期待でき、誰もが了承する最良の方法を見つけ出すことは可能だと確信しています。人々の救済。それがもともと他人である人間同士が社会を形成するただ一つの目的なのです。

(補足1) 世の中や社会に文句を言うと、「だったらこの国から出ていけ!」と反論する馬鹿がいますが。確かに、「好きでこの国に生まれてきたわけじゃない」と言えば、「だったらよその国に行ったら」と言われます。でも、「好きでこの宇宙に生まれたわけじゃない」と言ったとして、別の宇宙に行くことはできません。自分の意志によってこの宇宙に生まれてきた訳じゃありませんからね。人間誰しもこの世に生まれてくることを選択したのではないのです。親の意志でもない。(親はあなたを選択したわけじゃありません)。
「悪いのは政府だ!」、「総理大臣なんかさっさとやめろ!」と国や政府を批判すると、権力者たちは、「文句がある奴はこの国から出ていけ!」、「出ていかない者は強制収容所だ」と国民の声を無視して弾圧する。独裁国家じゃなくても為政者たちは少なからずそう思っているかもしれない。もちろん政府や政治家を批判することは間違いではありません。国民には誰にでも政府や国に意見を言う権利があります。それは少しでも国を良くするためなのです。
ただ権力者にしてみれば、今の社会にに文句があるということは、この世に生まれてきたことに対する不満、親に文句を言っているのと同じだと言いたいのかもしれない。国民のわがままを抑え込むために、支配者層は宗教と結託して、人間は自分の意志でこの世に生まれてきたなどという馬鹿げた論理を展開します。つまり輪廻転生。カルマの法則です。(これらが間違っていることは論証済) 前世での行い(カルマ)によってこの世に生まれて来た。などという。その思想は権力者にとっても都合がいいわけです。為政者たちは自分たちに不満の矛先が向かないように、こんなインチキを用いるのです。

(補足2) 「日本国憲法」には、”すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。”(第25条)とあります。

(補足3) どうしようもない理由により生活に行き詰ったら、生活保護を受給する。それは国民として当然の権利です。その際「後ろめたい」、あるいは「恥だ」なんて気持ちはかなぐり捨てるべきでしょう。食うや食わず、自ら死を選ぶかの状況で、生活保護をためらう理由はありません。頑張ってできる限り生活保護を受けないようにしたい。(補足4) それは、単なるやせ我慢でしょう。我慢すること自体無意味です。自業自得という言葉に騙されてはいけません。人間いかに努力しても、困窮するときは誰だって困窮する。それをすべて本人の責任というのは明らかにおかしい。当然裕福な人間たちにも責任はあります。そもそもこんな貧困層を生み出す社会をそのまま放置していた罪は大きい。彼らを救済するのは(同じ社会を構成している)裕福層の義務である。
世の中には生活保護受給者に対して何かとバッシング(不正受給者は別にして)する人間がいるらしい。彼らはやたらと”自己責任”という言葉を使って受給者を非難する。恐らくバッシングしている連中は、自分が低所得者であるにも関わらず生活保護を受給していない。それに対して生活保護をもらって遊んでいる連中が許せないのでしょう。それは単なる嫉妬。凡そ彼らの多くは、富裕層でもなければ、中間(中流)層でもない。すなわち”底辺層”(単なる経済的評価ではなく)です。(補足5) 富裕層は生活保護受給者に対して別に反感は抱かない。それは当然のことと思っている。(補足6)
ただし、個人的な意見ですが、わが国の生活補助費は多すぎると思います。それで貧乏などと不満を述べる受給者ははっきり言って甘えているのでは?国が困窮者の生活を保障する。しかしあくまで”最低限”。この最低限の意味を分かっているだろうか?もっと補助費を下げてもいいのでは?と思う。実際青山はそれ(生活補助費)よりも少ない金額で生活しています。(補足8)

(補足4) 生活保護をもらわずに頑張っているあなたに質問します。何のために、頑張るのですか?
本当に困っている人に少しでも国の予算を回すため?そもそも本当に困っていない人には保護は支給されません。あるいは国のため、国民のため?生活に困っている人を援助するのは国の役目です。それをやらなければ国などいらないのです。生活保護をもらうなんて恥だから?あなたがそう思うのなら、それはそれで構いません。そんなに欲しくないならどうぞご勝手に。あなたが本当に生活に困っているなら、無理に頑張る必要はありません。やせ我慢はやめましょう。
「こんなに死ぬほど働いているのに!!」とあなたは文句を言うかもしれませんが。あなたは普通に働いて、普通に収入を得ている。その収入が生活保護の最低水準を上回っているだけではないでしょうか?だから生活保護をもらえない。当たり前の話です。
因みに無理をせず普通に働くとはどういうことを言うのでしょうか?もしあなたが今の仕事の報酬では生活費が足りないと判断した場合、仕事を変える。あるいは仕事を増やす。それによって収入が増えたとします。それで生活費が賄えるなら、あなたは生活保護を受ける必要はありません。普通に働くとはそういうことです。しかしもしあなたが何らかの事情により、どうしてもこれ以上の仕事ができないのなら、収入で足りない分生活保護を受けるのは何も問題はありません。この「何らかの事情」とは何か?それはそれぞれの判断があるため一概には言えませんが。もし「自分は仕事をしたくないから」と言ったら、また問われます。「なぜ仕事をしたくないのか?」。精神の病あるからと答えれば、許可されるかもしれませんが、ただしたくないでは、「勝手にしやがれ」といわれて終わりです。

(補足5) この底辺層(=マス層)にいる人間(全てではない)の特徴は、
 (1)どんな些細なこと(例えば相手が道を譲らない)でも他人から不利益を被ることに対して激しい憤りを覚える
 (2)自分たちよりも地位が高い者を批判しない。エリートを攻撃できない。常に地位の低い者をたたく
 (3)自分一人では何も出来ない。周りに同調して浮いた存在になることを恐れる
 (4)匿名を装い、自分の主張を堂々と述べることをしない
 (5)常に自分を被害者として位置づける
 庶民、特に若者たちは社会に対して不満を表す。それは自分の努力が認められないことに対しての不満。しかしあなたがどれだけ努力しても、社会がそれを認めることはありえない。幻想に過ぎないのです。いつか認められる。100年後?1000年後?そんな社会に認められたいがゆえの努力はすべて無駄です。そんなことのために生きるなんて何と下らないことか!人生を無駄にするに等しい。(自分が被害者意識を持つより、自分よりも弱者(必ずいます)を救うことを考えたらどうだ?) 人間にはこの世に生まれてきたからには、もっともっと重要なことがあるのです。

(補足6) 貧乏人が貧乏人を攻撃する。弱い者が、より弱い者を苛める。それは支配層にとっては好都合。このように大衆の力を分断することが連中の狙いです。それにしても、自分よりも弱い者を苛める底辺層。貧乏人から搾取する輩。正に人間の屑です。奴らは生きている価値すらない。

 社会の各層を経済的指標に照らしてみて、つまり所有資産がどれだけあるかによって、よく見られるピラミッド構造を示すことができます。(図96「社会の構成」参照)(補足7)
底辺層は資産こそ少ないが、社会の大部分を占めています。仮にあなたが資産だけを見ればこの底辺層に属しているとしましょう。あなたはこの社会にあって何を為すべきでしょうか?むろんあなたが自らの意志でこの社会に生まれてこなかったとしても、あるいは好き好んでこの底辺層にいるわけじゃないにしても、底辺層はあくまで社会のマス層です。あなたを初めとするマス層が、社会における”助け合い”のため、自ら立ち上がって行動すれば、この社会は確実に変わります。
自分を名乗らず隠れた場所で愚痴ばかり言っていないで、自分を表に出して、些細なことでも構いません。できることから始めましょう。この社会をより良い方向に変えるために。
生活困窮者を見ても何も思わない。自分がそれほど困窮していないのは自らの努力のおかげだとうぬぼれる。ただ裕福層を見て羨ましいという思いだけ。そういうレベルからいつまでたっても抜け出せない。あなたは人間としてそれで満足ですか?
もちろん自分が生活していくのに精一杯なら、無理をして他人のために奔走する必要はありません。あくまで自分の生活の維持に努めればいいのです。しかしもしわずかでも余裕があれば(不満を吐くだけの時間があれば)、社会のため、この助け合いの精神を持って、自分よりも困窮している生活者のために、できる限りのことをやる。それがこの社会における一人の人間としての価値であり、目的でもあるわけです。そこで初めて意味のある生き方が可能となるのです。
人間はいずれ死にます。どうせ死ぬなら好きなことをやれ。ただし、食べたいとか飲みたいとか金が欲しいとか、あるいは人に好かれたいとか有名になりたい。なんて欲望はただ単なる生存本能、つまり煩悩に使役された欲望の奴隷です。どれぼと努力しても人間はいずれ死ぬ。一人の例外もなく死から逃れられない。子供を産み続ければ人類という種は生き残るかもしれない。しかしそこに何の意味もない。そんなことのために生きるなんて何と愚かなことか。人間は他人のために生きるのです。確かに人間は誰であろうと、生まれてきた意味などありません。はっきり言えば誰もが生まれてこなくても良かったのです。しかし生まれてきてしまった。何のために?
そもそも生まれてきた意味などないなら、自分自身が改めて設定すればいいのです。人間は生きる意味がなければ主体的に生きていくことはできません。「天国からの使者」でも話しましたが、人間は一人一人使命を帯びている(無論真実は使命などない) と考える。そこに自分自身で生きる意味を見出すのです。金持ちに生まれたのなら金持ちとして。貧乏人に生まれたのなら貧乏人として。優秀な頭脳、あるいは稀に見る才能を持って生まれたのなら、その才能を(隣人のために)生かして。何一つ取り柄がない人間として生まれた者もそれなりに。善人でも悪人でもそこに生きる意味を見出す。そして今自分がどんな立場にいようとも、常に他人に対する慈悲の心を持つことです。誰であろうと使命は必ず見出せます。そういう点で人間は皆平等だと言えるでしょう。
もしあなたが今弱者を救える立場にあるのなら、あなたは自分の役割を自覚して行動すべきです。弱者を救うこと。それがあなの使命だからです。この社会、あるいはあなたの人生が、理不尽であればあるほど、あなたは隣人に慈悲を施せるのです。
是非、自分は何のために生きているのか?自分自身で考えて、自分は今何を為すべきかの答えを得てほしいと願っています。

(補足7) ここで留意すべきことは、このようなピラミッド構造(図96)が現実に存在するわけではない。ということである。社会は支配層・被支配層に分離されるわけではない。いかなる支配者たちも所詮は大衆の機嫌を伺っていなければ生きてはいけない。すべての存在(人間以外の動植物を含む)は支配し支配されるのである(仏教の「縁起」より明らか)。大衆はエリートに騙され、エリートは大衆を恐れる。完全に人間社会を支配できるのは、神御一人である。何人も神にはなれない。

(補足8) 日本の生活保護受給者の割合は先進国の中でも少ない方です。もっと生活困窮者に制度を知らしめて、あるいはハードルを下げて、一人でも多くの人に(手軽に)この制度を活用してもらいたいものです。それが社会福祉というものです。それなくしていかなる政府も不要です。役所は速やかに店をたたんでください。青山は税金を払いません。そんなお金はドブに捨てた方がましです。(補足9)
ただし、一人当たりの補助費はぐんと減らしてもいいと思います。日本の生活保護は贅沢すぎる。余ったお金は貧しい発展途上国の困窮者に惜しみなく回すべきだ。(補足10)
例えば病人や障碍者、老人や子供は別にして、働き盛りの健康な人間が、ただ怠けたいからといって遊んで暮らしている。甘えるのもいい加減にしろ。と言いたい。(あくまでも相手に対する”慈悲”という意味で) 社会が、あるいは自治体が、困窮者の生活を未来永劫保障してくれる。そう思ったら大間違いだ。人間、働こうと思えば働けるはずです。例えば収入がわずかで残りはどうしても生活保護に頼らざるを得ない場合でも、少しでもいいから(決して無理する必要はない。あくまでマイペースで)自分に出来得る仕事を行う。それが社会の中で生きるという意味です。(補足11) 人生は苦しいのです。社会は厳しいのです。そんなことは当たり前。望まなかったとしても、そういう(苦しみしかない)世界に生まれてきてしまったのです。
ただし、そういう生産性で負ける人間でも、あるいは現代の経済システムに適応できない人も、そして競争社会にそぐわない人間でも、生きていける社会。そういう人たちでも、受け入れる。生き甲斐を持てる。安心して暮らしていける。そういう社会を構築しなければ、それは我々社会を構成している全ての人間の使命です。
青山は今まさに生活に困窮している人々を救うためなら、いくら税金を投入してもいいと思います。もし税収が足りないなら増税も構わない。社会福祉、そのためにこそ我々は税金を支払っているのだから。もしそれ以外のために予算を費やすのであれば、税金など一円も払いたくはありません。税を貧しい人々のためにこそ使う。彼ら救済を必要とする貧しい者たちも、いつの日か生活に余裕が生まれたのなら、今度は自分たちよりも貧しい者たちを救う。そのつもりで生きてほしい。結果としてそれが叶わず、一生保護を受ける立場であっても、気持ちだけはそうあってほしいものです。この世界で重要なことは結果ではありません。目的です。あなたには是非人々を救う仏陀になってもらいたいのです。それが青山の願いです。

(補足9) 本当に生活に困っている人を救う仕組みのない社会など存在価値なし。貧乏人を切り捨ててはいけない。例えば食うや食わずのギリギリの生活を強いられている人にとっては、消費税を上げることは飢え死を迫るに等しい。それは正に人殺しである。

(補足10) 生活保護受給者の中に、自分が保護をもらっていることを他人に知られるのが恥ずかしいのか、そのことを隠す人がいます。しかしそれは事実なんだから、隣近所や周りの知り合いに、あるいは(子供がいる場合)学校に、知れ渡るのはある意味仕方がないことです。それが嫌で生活保護をもらわない。そんな恥ずかしいという気持ちよりも、生活できない方が問題でしょう。自分は「生活保護受給者だ」と堂々と周りに言えばいいのです。事実を隠すような人間には、生活保護をもらう資格はない?と。

(補足11) 自分に合わない仕事をただ生きるためという理由で無理やり選択させられるのは幸福とは言えない。生きる(生き残る)ために、無理やり嫌な仕事を自分に科す者(生きるために仕方がないと考えている者)は不幸である。生き甲斐を、やり甲斐を持って初めて人間は幸福になれる。ただ生きているだけでは駄目なのです。人間は幸福になるために生きているのであって、そうでなければ生まれてこない方が増しと言える。
とにかく、自分は社会には合わない。自分にできることはない。と最初からあきらめている。自分のことを何も知らないくせに、自分の可能性を否定して、努力をする以前に結論を出してしまっている。確かに「為せば成る」とは限らない。しかし、自分に失望することは、生きるのを放棄するに等しい。最後まであきらめない。それがこの世で生きること、に他ならないのです。
行政側としては、ただ与えるだけではなく生活保護受給者が熟考の上自ら仕事を選択できるように常に働きかける。そうでなければ、人間は堕落する。働かなくてもいいという甘い考えに捕らわれ、自ら幸福を掴もうとする意欲そのものが失われる。それは人間を廃業することに等しい。自立してこそ人間であり、それでは社会の奴隷に過ぎない。無論行政としては、相手に生き方を選択させるように働きかける方が返って負担かもしれない。ただ単に補助費を与えるだけの方が楽である。しかしそれは真の福祉ではない。福祉とは相手に快楽を与えることではない。相手が人間として自ら幸福を得ようとすることに対して支援を行うのである。(補足12)

(補足12) 先進国の中には、福祉が行き届き”過ぎている”ものもあると思います。生活のすべてを政府が保証する。そのためにやたら税金が高い。そりゃ何もかも国が面倒を見てくれたら楽ですが、それじゃいったい何のために生きているのかが分からない。人々は働かず遊んで日々を送る。それが本当の幸せでしょうか?幸せは自ら掴むもの。ただ与えられるだけでは、ペットと同じ。行き過ぎた福祉政策のために、本当の生きる意味を失い、返って自殺率が高い。何と不幸な話だ。人生には困難がつきもの。それを乗り越えてこそ価値があると言えましょう。

(補足13) 明らかに誤った考え方として「子供は親を選んで生まれてくる」というもの。もしも子供たちが自由に親を選択できるのなら、裕福な家に生まれることを望むはずです。(それ以前に、この地獄のような世界に、自ら進んで生まれてこようとする者などいない) 結果金持ちは子沢山。貧乏人は子供が少ない。実際は逆ですね。どうしてそうなのか?
人間はより高いレベルへ成長するために、あえて困難な境遇を自ら選択した。人生は自分を高めるための修行の場だと。これはまったくの嘘です。統計的にいえば貧困世帯の子供のほうが将来犯罪者になる率が高いのです。(かと言って貧困家庭で育った人間が誰しも犯罪者になるなんてことは間違っても言いません) これはあくまで統計上の結果です。あえて逆境に身をおいた結果犯罪を犯してしまったら成長どころか後退するでしょう。そしてそうなる確率は高いのです。それでは元もこもありません。もし貧乏な家に生まれた方が、より努力を積んで善良な人間になる可能性が(率として)高いのなら、この話も頷けますが。(逆境が成長につながるなら、ゴキブリに生まれた方が良いのでは?)
要するに自分が貧しい家庭に生まれたのは試練を乗り越えるため、とあくまで自分一人を納得させるのならいいのです。これが他人も含めて人間は誰しも生まれるところを自らの意思で選択したなどということにはなりません。明らかに矛盾しています。(補足14) こういう思想が(親や周りの大人の責任放棄という形で)人間を甘やかすのです。それでも子供が親を選んだと言うなら、世界中に五万といる親の中からこの親を選択するにあたり比較評価分析した結果を出してもらいたいものです。(こんな”子供が親を選ぶ”なんて考え方は、昨今増えている児童虐待を思うと怒りさえ感じる。一体どれだけの子供たちが親の犠牲になったことか?どれだけのノーベル賞が失われたか?親によって殺された子供たちは将来ノーベル賞を取っていた。かもしれない。虐待の上殺された子供が、たとえ一人でもいたとしたら、他に何万、何億の人間が支持しようとも「輪廻転生」なんて考え方は宇宙の彼方に吹っ飛ぶであろう)
つまり自分の意思ではなくそうせざるを得なかった。つまりこの家に生まれてくるように強制されたのです。そこに自由(選択)意志などありません。生まれる前には存在していないのですから。この強制的に生まれされられたという話も、何者かが必然的にそう作用したというわけではなく、背後に何もない。誰もいません。すべては偶然です。あなたがこの親のもとに生まれてきたのも、この性別で生まれてきたのも、そしてこの国に生まれてきたのも、すべては偶然です。意味などありません。世界には貧しい国もあれば裕福な国もある。独裁者が支配してその権力に民衆が虐げられている国もある。よく「この国に生まれたのは、お前がそう選択したからだ」と、親の場合と同様生まれる前に自分がそう選択したという話を聞きますが、これもデタラメです。「だから国に文句を言うな!」と。結局為政者にとって都合のいい理屈です。
ただし、もしあなたが悟りを得た菩薩なら、世界は一つである事、即ちこれは私の物、これはあなたの物というわけ隔てなど存在しないこと(共に一つの世界の一部であること)を悟っているがゆえに、どんな境遇であっても、例えば障碍者として(障碍者の身体を持って)生まれた。あるいは虐待する親の下に生まれた。であってもそこに問題などないと考える。(補足15)
このような賢者として生まれた者は、自己と世界の本質が分かっているゆえに、いかなる境遇でも試練などとは考えない。自身を高める成長などないことを知っているのです。

(補足14) この「親を選んで生まれてくる」という考え方は、仏教の基本にも反します。仏教でいう”苦”とは、「自分ではどうにもならないこと」を指します。それが「生老病死」です。釈迦が言うには、「生まれる」ことは本人の意思ではどうにもならないことなのです。考えてみれば当たり前です。

(補足15) 世界は一つだというのは、仏教の「縁起」から導かれることです。あなたの立場を二通りで考えてみましょう。仮にあなたの境遇が裕福な家庭に生まれて、財産的にも個人の能力としても恵まれていたとしましょう。(パターンA) パターンBでは、貧乏な家庭に生まれ経済的にも貧しく、さらに能力もない。さて、その違いは何かあるでしょうか?有りません。パターンAもパターンBも同じ世界を見ているのです。家庭が裕福か貧乏か。能力があるかないかは、自分ではなく世界の姿です。財産のありなしは、同じ世界の”一つの部分”を見ているに過ぎないのです。財産や個人の能力を自分の属性と見るから誤るのです。世界全体を自分と対峙するものとして眺めれば、世界はあくまで一つです。その一部を自分だ。他人だとするから一見不平等に思えるのです。今たまたまその一部分を眺めているだけのことです。

(補足16) 例えば日本だけ豊かであり、他国は貧しいという状態は駄目。日本人は勤勉だから豊かなのは当然、は通用しない。助け合いとは世界中が豊かになること。もちろん人間だけ、あるいは地球だけ幸せならいい、というのも通用しない。

(補足17) 仏教では、頑張ること=自我を通そうとすること、つまり「頑張ること」は悪なのです。自らの努力によって報酬を得ることは、生きる目的ではありません。自分の力で世界を思いのまま変えてみせるなど、思い上がった考え方とされます。

(補足18) ただ努力した方が何もしないよりはましです。望ましい結果が得られる確率が高い。しかしこんなこと(結果)のために、ここまで努力する必要があるのか?ならば努力しないという選択肢もありか?

(補足19) このような”一人でも多く”という功利主義の考え方は、一見正しいように思えて実は根本的に間違っている。このような間違いに陥るは、仏法の”空”をあくまで理解してないことにあるのです。今一度宇宙の真理であるについて考えてみて下さい。

最後に
 この現実社会を見れば、今日でも戦争や貧困、その他わたしたちの身近でも理不尽、不条理なことが多すぎると思いませんか?どうしてこんな悲しい状況が未だに改善されないのでしょうか?青山が思うに、それは人々がこの現実世界の真理、即ち「仏法=宇宙の真理」を知らないことにあるような気がします。(これは飛躍ではありません) 仏法には「諸行無常」、「諸法無我」、そして「空」が説かれています。特にこの「空」を人々が理解できていない。目の前の現実を観察すれば、世界が空であることは明白であり、万人が納得することなのです。世界が空とは一切が空であり、すべてが”無意味”であることなのです。しかし人々、特に宗教に固執している人たちは、この真理を受け入れがたい。なぜなら宗教で説く神や救いを否定することになり、それは間違っても認めるわけにはいかない。と言うことでしょう。因みに仏教は神や救いを否定しています。そういう意味で仏教は宗教ではないのかもしれません。即ち仏陀とは宇宙の真理を体得した人間を指し、仏とはあなたを苦しみから救うために存在しているのではありません。
この仏法を知らない。あるいは誤解している人々が未だに多数を占めているために、「個人よりも全体が大事」とか「人間には優劣がある」という誤った考え方に社会が染められてしまっているのです。このような「個人よりも全体が大事」、「人間には優劣がある」と言った考え方が我々に備わっていたからこそ、人類は生き残ってきたと言えます。ただし、人類が生き残らなければならない理由などどこにもありません。滅んだっていいのです。人類が生き残る。あるいは恐竜が生き残る。宇宙にとってはどちらでもいいのです。それが神の存在(あるいは死後の世界)を信じる宗教者(神官、信者)には受け入れがたいものになっているようです。当然ですが。
人類が生き残ったとしても滅んだとしても、個々の人間即ちあなたは確実に死ぬのです。人間一人一人は死んでも人類は生き残る。そこに何の意味があるのでしょうか?この現実世界は明らかに空なのです。あなたの死後人類が生き残ろうが滅びようが、あるいは国家が存続しようが滅亡しようが関係ありません。この諸行無常の世の中、即ち一切が移り変わる現実世界において、国家や人類にしがみ付いて、あるいは妄想上の神をいつまでも手放せずにいるから、理不尽、不条理が未だになくならないのです。国家や人類、神、そのようなものを潔くかなぐり捨てて、たった一人目の前の隣人を命懸けでひたすら愛する。これがあなたのこの世界で為さなければならない唯一のことなのです。
この話はまた後で。

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