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再び宗教について


最初に
 繰り返し説明すると、これまでに扱った「天国」、「神の存在」、「浄土」、あるいは「生前の世界」は、あくまで思考の中で存在すると想定したものです。これらについては真実かどうかを論争すること自体が無意味であり、科学とはまったく別の問題であることを再度お断りしておきます。

 この題名が「科学概論」であるにも関わらず、これまで宗教(特に仏教)に関する話をしてきました。そこで読者の皆さんの中には疑問に思われた方がいるかもしれません。
誤解を避けるために、改めてお話します。まず青山は一切の宗教について、読者の方にお勧めする気はまったくございません。宗教を特別に扱うこともしない。宗教は個人のものだから、相手の宗教に格別敬意を払うこともしません。それは人の趣味(好き好き)に敬意を払うようなもの。宗教は個人の趣味。だから他人(家族を含む)がどんな宗教を信じていても気にしない。他人の宗教を否定しない。余計なお世話。あなたは会社の同僚があなたとは反対に蕎麦よりうどんが好きだと言ったら相手を批判しますか?
再度皆様に確認をお願いしたいのが、「宗教と科学はまったく別物」。この二つは正反対。世界の両極に位置します。ということ。
これだけ繰り返し言っても、なお、誤解する方がいるかもしれない。青山の懸念はそこです。
青山の(個人的な)認識では、宗教がいかに怖ろしいものかということです。世間は宗教に対してあまりにも無知ではないか?と。
そこで再度宗教について(以下の通りテーマを絞って)お話したいと思います。

宗教は”悪”じゃない??
 世間の一般的な認識は、「宗教そのものは”悪”ではない」というものです。ここで考えてみましょう。人類の長い歴史はまさに”宗教の歴史”と言ってもいいくらい。人間と宗教は密接に関わっていました。というよりも切っても切れない関係です。
しかしその歴史は、決して喜びに満ちた明るいものではありません。それは闘争、暴力、殺戮、強奪、迫害、そして搾取、差別を綴っています。まさに宗教こそは、あらゆる悪の源。諸悪の根源とも言うべきです。もし世界に宗教がなければ、人類の歴史に宗教がなかったら、このような悲劇は起こらなかったでしょう。すなわち宗教は”悪”なのです。その宗教を未だになぜ、人間は捨てようとしないのか?
「宗教=悪」と言うと多くの宗教者は憤慨するかもしれません。宗教者じゃなくても疑問を呈すると思います。しかしここで「宗教は悪ではない」と言い切れるでしょうか?「宗教=悪」これを青山は勝手に”宗教方程式”(単なるパロディーではない)と名付けています。この「宗教=悪」が本当に成り立たたないと言えるでしょうか?図94「宗教方程式の証明」を参照願います。この図に基づいて説明します。
宗教はそもそも科学では説明不可能です。”信じる信じない”の問題です。例えば「神の存在」。これを科学で証明することは不可能です。神はあくまで個人が信じるあるいは信じない。というものです。つまり宗教は個人の心の問題なのです。(補足1) 信じている人間にとって、その宗教は決して「悪」ではありません。悪だったら信じるわけがありませんから。しかし本人以外の人間にとって、それは「善」でも「悪」でもありません。他人から見れば、個人の心の中で信じているもの、それが何なのか解りません。他者にとって、その宗教は存在しないに等しいのです。だから善でも悪でもない。もし世界中でその人間一人が「この宗教は善」だと主張しても、他の人間には善でも悪でもないのだから、統計的に見て、世界人口を70億人とすると、”70億分の1”の割合で”善”ということになります。この70億分の1は統計的には、”ゼロ”として扱われます。
ここで反論する方がいるかも知れません。話はこうです。
例えばキリスト教徒が20億人いたとします。そのキリスト教徒がみな自分たちの信仰を”善”だとみなせば、割合としては”70億分の20億”ですから、これは”ゼロ”とはみなせないでしょうと。
これは明らかに誤りです。20億人のキリスト教徒がいたとしても、それは形式上キリスト教徒なだけで(どこかの教会に1回でも通ったことがある等)本当に信じているもの(信仰の対象)が(20億人みな)一致している根拠は何もありません。なぜなら他人の心の内は計り知れないからです。結局、宗教は心の問題とみなせば、それは善でも悪でもない。ということになります。
ただし、宗教が個人の心を超えて他人に影響を与える。あるいは社会性を持つ。集団化する(教団が形成される)。宗教が政治や学問の分野を支配する。国を挙げて宗教を広め、民衆は強制的にその支配に組み込ませる。国と国が宗教を巡って争い合う。その過程で膨大な悲劇が生まれる。
これが人類の歴史です。宗教が個人の心を超えることは、悪以外のなにものでもないのです。これは歴史が証明しています。
ただし、長い歴史を持ち完全に生活の中に取り入れられたもの、つまり既成宗教は危険性が少ないと言えます。(一部原理主義は除く) なぜならその宗教を伝統的に続けている(親子代々その宗教)人々は心の底から本気で(信仰対象つまり神を)信じているわけじゃないですから。
イスラム教徒の人に、「イスラム教は一日5回も礼拝しなければならない。大変ですね」と言ったら、「昔から続けている習慣ですから」とそっけない。それは我々が毎日、歯を磨いたり顔を洗ったりするのと同じことなんです。
既成宗教の危険性は少ないのに対して、新興宗教の危険度は、はっきり言って分からない。不明です。歴史が浅いからです。危険はないかもしれません。しかし、オウムやその他のように、だまして信者を増やす。不安を煽って脱会させない。金を巻き上げる。洗脳させて人格障害を起こす。単なる詐欺集団の片棒を担がされる。あるいは社会的テロを実行する。にならない保証はないのです。従って今までの経験(歴史)から見て、危険度(悪である指数)は確実に”ゼロ”ではないでしょう。
まあ、新興宗教は何かと偏見の目で見られるものです。信者はまともかもしれない。しかし外部からは分からないのです。
ただし、何千年続いた伝統宗教も最初は新興宗教でした。草創期には、現代以上に迫害を受けた可能性もあります。(例えばローマ帝国におけるキリスト教弾圧の歴史) 最初は奇異に見られるのは当然。それでも誠意を持って教えを示し、長い長い年月を経てようやく認められる。それが歴史に残る宗教と言うものです。今の伝統宗教もそういう長い歴史を経てきたのです。それまで苦難を味わいました。新興宗教の方。もしそれが嫌なら布教など止めてもいいのですよ。
以上からこの「宗教=悪」は成り立つのです。これは偏見ではありません。科学的な手法によって導かれたものです。「いやいや宗教は悪ではないよ」と、それでも反論する方がいるかもしれない。それに対して青山は、「もちろん宗教は悪ではありませんよ。ただし、個人の心を超えなければね」(補足2)
宗教団体の中には、信者さんが本気で(純粋な気持ちで、つまり布教のための宣伝とは別に)ボランティア、様々な社会奉仕活動をしているところがあります。それはもちろん立派なことです。社会の役に間違いなく立っているでしょう。ただし、それと「この宗教の教義が素晴らしいから」というのは関係ありません。なぜなら、宗教団体に属さなくても社会貢献活動をされている人はたくさんいますから。
最近怖ろしいと思ったことがあります。宗教の歴史を知らない(近年では特にオウム事件を知らない。その後に生まれた)若者が軽い気持ちで「宗教そのものは悪ではない」と発言するのを聞いたことです。若者たちは、宗教がどれほど恐ろしいものか、宗教の負の歴史(人類の歴史そのもの)を知らない。従って宗教に対して無批判的です。我々大人は、経験や知識の浅い若者たちに、正しく宗教を教えなければなりません。そして彼等に勉強させるのです。若者たちをカルトの手から救うために。それは我々の義務と言えるでしょう。

科学を騙る詐欺
 もうずいぶん昔の話ですが、「新々宗教ブーム」というものがありました。今までの宗教とはスタイルが異なる新しい宗教(その中にはオウムも含まれる)が若者を中心に爆発的に信者を増やしていた時代、その新興宗教の教祖や幹部がテレビなどで発言していました。どう言っていたかというと、
「自分たちの宗教は、まったくの迷信などではなく、科学的な実証を伴ったもの。すなわち我々の宗教は、今までの宗教を超えた”科学”と言ってもいいものだ」と。
要するに、単なる信仰じゃなくて、実証可能な科学なんだと言っているわけです。青山から言わせれば、「何が科学だ。馬鹿らしくてお話にならない」。というより、ほとんど狂っているとしかいいようがない。結果的に狂っていた(ものもあった)。
ところが当時はこんなことを「科学」だと信じ込んでしまった人が実に大勢いたのです。結果的にだまされたということですが。なぜこんなことにだまされたのか?その原因は当時(現代もまさにそう)人々が科学について、まったくの無知だということです。
はっきり言って、「超能力」、「予言」、「宇宙人」、「死後の世界」、「輪廻転生」そして「空中浮遊」なんてみんな嘘です。(本当だと言い張るなら実証してください)
「科学とは何ぞや」は散々この「科学概論」で話していますから、読者の方はお分かりだと思いますが、「エレクトロニクス」、「スーパーコンピューター」、「スペースシャトル」(もはや古いですが)、最近では「IPS細胞」ですか?それ自体を科学とは言いません。(無論無関係ではありませんが) 科学は自分自身が実践して初めて価値があるのです。
オウムの場合について話をするとこんな感じです。
”ヨガ”や”瞑想”によって”超能力”を身につけることが出来る。それが経典に示されている。そしてそれを実演して見せて、信者を増やす。実証して見せるんだから「科学」だという訳です。
「超能力」って何?空中に1センチ飛び上がったことに何の意味があるの?明日の天気を予言できたからって、そこに何の価値があるの?心臓や呼吸を止めたからって、それが何の商売に役立つの?役立つことは一つだけ。宗教による金儲けだね。
ヨガや瞑想はもちろん科学ですよ。あれは心理学的に価値のあるものです。あれにはリラクゼーション効果があります。ただし一部の人にはね。メンタルヘルスにはさらに様々な人に効く精神効果をかもし出す手法をご用意しています。ロールプレイ、セルフケア、サイコセラピー、フォーカシング、エンカウンター、アロマテラピー、他多数。ただし、それによって”超人”になれるなんてことは保障いたしません。万が一超能力が身につかなくても治療代はお返ししません。(補足3)
つまり、メンタルヘルスと超能力は何の関連もありません。ヨガや瞑想は単なるリラクゼーション(心をリラックスさせるもの)です。ヨガや瞑想を何十年、何百年続けても、精神的なリラックスを得ること以上の効果は何一つ期待できないでしょう。(補足4)
オウムの他にも、超能力やらハルマゲドンやら非科学的なことを主張している教団は他にもあるようです。はっきり言って非科学的な宗教はオウムとどこが違うのか?外部の人間から見れば、同じにしか見えません。ただまだ犯罪に至っていなことぐらいでしょうか?(補足5)

若者と宗教 超常現象を信じる幼さ(補足6)
 この新々宗教ブームに限らず昔から若者が新興宗教にのめり込むという話はよく有ります。なぜでしょう。
頭のいい優秀な学生も含めて、なぜこんな非科学的なものの虜になるのか?共通一次試験(今もあるのか?)の理科と数学で満点を取ろうが、あるいは十代で博士号を取得しようが、所詮科学の本質を理解していない馬鹿者です。つまり経験が足りないのです。それは頭脳の優秀さ、知能指数の高さとは一切関係ありません。単なる年齢です。年配の人の方が頭脳は劣っていてもそれなりに経験を積んでいますから、そんな新興宗教にはまることは少ない?と言えるでしょう。(毎日毎日一生懸命勉強を重ねても、あるいはボーッと何も考えずに人生を送っていても、こと宗教に関しては、年齢が勝るのです)
話を聞いてみると若者たちも最初は宗教を否定していたようです。「宗教なんか下らない!」、「格好悪い!」、「今時宗教かよ!」 その理由は、宗教を信じているなんて周りに知れたら馬鹿にされる。奇異に思われる。格好がつかない。異性にもてない。つまり人の目が気になる。うわさを気にする。単に格好をつけたがっているだけ。なのです。なぜなら若者たちはまだ社会から認められていません。早く認められたいと思うのです。社会で価値のある(期待される)人間になりたいのです。そんなことは逆立ちしても不可能なのに経験が浅いためにそれが分からないんです。(だから若者はある意味”馬鹿者”と言われるんです。でもその若者を馬鹿者にさせている。あるいは煽てているのは悪い大人たちです)
さて、そんな宗教を否定していた若者が、なぜか短期間で教祖を神と崇め、教祖のためなら死んでもいいというところまで洗脳されてしまうのです。やはり経験不足が原因のようです。若者たちは有り得ることと、有り得ないことの区別がつきません。「超能力やオカルトなんか信じない」と口ではそう言ってみても、心の中では「もしかしたらあるかもしれない」という一抹の期待があるのです。ですから、もし目の前で、本物?を見せられると簡単に信じてしまう。
若者に限らず宗教にはよくある話ですが、一度や二度では信じない。それが十回、二十回、現証を体験させられると、信じてしまう。しかも一度信じてしまったら、妄信的に信じる。確信を持つ。疑う事を知らなくなる。だから厄介。これがもし一度の実演で信じてしまう。その方がまだまし。なぜなら、信じるのも早いが疑うのも早いからです。
若者の場合はやはり数回で信じてしまう。最初は何かトリックがあるのでは?と疑う。それがないと解かると固く信じてしまう。一旦信じると若者は早い。なぜか?早く答えを得たいという若者特有の(急ぐ)心理です。答えが出るまでまだまだ何日もかかる。若者はそれを待ってはいられないのです。
実際の科学は、一度や二度の実証じゃ証明されませんね。十回、二十回でもまだ実験は続けますね。ではいったいいつまで続けるのか?”永久”です。
最初は試しでやってみて、本当に功徳(病気が治った。金が儲かった)があったから信じている。という方へ。何回試したんですか?
「三回です。三回とも功徳がありました」。
たったの三回で信じてしまったんですか?どうせなら三万回やってみてはいかがでしょうか?
では、最後になぜ”超能力など”が実演可能なのか?もしも嘘なら失敗するはず。
答え、インチキには必ずトリックがあるということですよ。もし科学的なら、実演などしません。金儲けの話なんか出ません。マジシャンじゃなんだから。
昔から若者たちは、そういったオカルトや超能力に憑りつかれるのが常。最近では、チャネリング、地球外知的生命体、タイムトラベラー、高次元意識、パラレルワールド、イルミナティー、そんなキーワードが若者にとってはやりのようです。(言葉からいかにも科学的な感じがしますが、実は科学でもなんでもない) 結局これらすべては、若者たちを欺く一種の”宗教”なのです。つまりは新興宗教の単なる金儲け。その金づるが無知な若者というわけです。だって今時、念仏を唱えなさい。題目を唱えなさい。と言ったところで若者たちは耳を貸しませんからね。彼らにとっては不満でしょうが、この世の中は、ワクワクするようなことはみな嘘で、つまらないことほど真実なのです。
 ただし宗教にのめりこむ若者が愚かかというと、そう言い切れるでしょうか?若者は真摯です。純粋な気持ちで答えを知りたいのです。「自分は何のために生きているのか?何のために生まれてきたのか?」それは人間として当然な疑問です。若者たちは人生の先輩にその疑問をぶつけます。しかし親や周りの大人は答えらません。偉そうなことを言っている大人たちも考えたことすらないのです。ただ本能的に生んでしまった。犬や猫と何一つ変わりません。犬や猫に聞いても答えられないのと同じです。正しい答えは”理由などない”というもの。あなたがもし若者だったとして(若者じゃなくても)「何のために自分は生まれてきた?」という根本的な問いの答えが、「生まれてこなくても良かった」だったらどうでしょうか?まさか自分が生まれてきた意味などないとしたら、それはショックもしれません。しかしこれは真実です。なぜならこの世界は「空」だからです。人生に意味などない。生まれて来なくても良かった。その真実を受け入れるのが嫌だから、不満だから、人は神の存在や死後の世界を信じるのです。しかしそんなものは存在しません。
(では、我々はどう生きるのか?何のために生きるのか?の話はこの後続きます)

選民思想
 新興宗教に限りませんが、特に新興宗教に多い。若者信者に限りませんが、特に若者に多くみられること。初めは半信半疑だったその教義にいつの間にか引かれ、その功徳を疑いもなく信じるようになり、やがてその教団に属することになると、自分または自分たちが、世間が知らない特別な叡智を手に入れたという錯覚を起こす。そこに叡智など欠片もないことに気付かず、自分は選ばれた特別なエリートという思い上がった考えを生む。特に若者たちは、人生経験が少ないがため、狭く浅い考えに捕らわれ、このよなう選民意識を持つようになると言えます。もちろんこれらは単なるうぬぼれに過ぎないのですが。(新興宗教の全てがそうだとは言いません。)
恐らくその背景にあるのは、「自分は社会では取るに足らない存在」という劣等感。このまま一生名もない小物で終わりたくないという甘え。ここで人々を見返してやりたいという身の程知らずな思い。が(特に若者たちに)あるのではないかと推測します。
新興宗教の熱心な信者の中には、人々にこの宗教を勧めても(最初は穏やかな態度で布教する)、相手にしばしば拒否されると、「こんな素晴らしい宗教を否定するとは何事だ。神聖な信仰に対する冒涜だ!」と憤り、怒りに任せて相手を罵る者がいる。それは独断、思い上がり、あいは単なるフラストレーションだということです。

利他行為と言う名のビジネス
 宗教によく多いのは、自分だけの利益を追求せず、社会に貢献しましょう。自分だけが救われるのではなく、人々にも信仰の素晴らしさを教えてあげましょう。人に優しくしましょう。幸せを分かち合いましょう。みんなの利益のために頑張りましょう。なんて慈悲的な行為、あるいは利他的な行為を信者たちに勧めることがあります。それを素晴らしいことと宗教では教えますが、結局それは信者の数を増やすのが狙いです。(補足7)
悩みがある人、困っている人に近づき、優しい言葉で話を聞く、あるいは功徳と罰を盛んに示して相手を説得する。狙いはもちろん信者にすること。
そこであらたに信者になった人は、まだ入信していない周りの人間に働きかける。相手の悩みを聞く振りをして入会を促すのです。さらに信者になった者が次々とあらたな信者を勧誘する。(教団の中には信者獲得数を競わせているところもある?とか。もちろんたくさん信者を獲得した者は、教団内での地位が上がる。あるいは功徳がある。病気が治る。商売が繁盛する。信者たちはビジネス社会で売り上げをライバル社員と争うがごとく競争に精を出すのです。まさに犯罪。)
そうして次々に信者を増やす。一番最初に信者になった組を、一次信者、その一次信者から勧誘されたものを二次信者、そして三次、四次と行くのです。信者一人について入会金やお布施はわずかです。(お布施の場合は強制ではないところが多い、しかし莫大な金額を嬉々として納める者もいるとか)
しかし集まったお金すべてが教団に行くのです。それはまさに莫大な金額です。しかも宗教は税金とかで優遇されています。結局は大儲けです。
もうお分かりですね。こういう仕組みの事をズハリ「ネズミ講」と言うんです。
オウム真理教も盛んに言っていましたが、救済!救済!人々の救済。世界の救済。しかしこの”救済”って何?宗教団体の言う救済って、結局は(信者一丸となって)新たな信者を(一人でも多く)獲得することでしょ。つまり金儲けです。(いかに純粋な救済であっても、それは自分の「エゴ」であることを知るべきです。「愛と慈悲」参照)(補足8)
宗教にとって布教は金儲けです。信者数が多ければ多いほど教団は儲かるのです。宗教は結局ビジネスです。日本では宗教法人という特権を得た上での(悪どい)ビジネスです。(補足10)
このように「利他」あるいは「救済」という言葉に騙されてはいけません。ビジネスならまだ可愛いかもしれない。オウムのように”救済”の名のもとにテロを実行する。”救済”が殺人の動機になるんです。
結局信じれば功徳がある。信じなければ罰を受ける。なんて話はすべてあなたの心の中の妄想です。

インチキ商法
 昔から(今も)よくあるインチキ商売として、有名な「霊感商法」があります。最近調子が悪い。些細なことではあるが何かうまくいかないことがあると、人はその原因を何かしらに求める。ましてやたて続けに悪いこと(思わぬ事故や怪我、商売が下向き、どうしても治らない病気、家庭不和等)が起こると、そこに何か原因があるんじゃないかという心理が働くのです。もちろんそこに原因はあります。ただし意味はありません。すべては偶然です。ましてや霊能者の言う「先祖への供養が足りない。幸せになりたければお墓を買いなさい。壺を買いなさい」なんて話はみな嘘です。一体全体神経痛が治らないこととお墓を買い替えることの間に何の因果関係があるのか?人間の(弱い)心理として、それがどんなに非科学的なものでも、何かと何かを結びつけたがる。原因不明のままにしておきたくない。そこをインチキ宗教がつけ込む。絶望のどん底にあることは分かりますが、是非皆さん心を強く持って、何が真実なのかを見極めてください。(補足11)
要するに本当に信心の効果があったのか?それとも単なる偶然か?原因と結果との間には何の関係もない。人生の困難に直面して藁にもすがる思いの人は、とにかく飛びつく。冷静に現実を見据えることが困難です。そういう人には是非、周りが手助けを。
あるいは、また一つご利益があると次のご利益を期待する。それはあたかもギャンブルで一つ当たると、また次賭けたくなる。もっと得したいが故に。しかし結果的には損をしていることに気付かない。のと同じ。

 長い歴史を持つ宗教でもごく最近生まれたはやりの宗教でも、宗教の特質(本質的な問題)を一言で言うならば、宗教は”聖”を商売道具にするビジネスだと言うことです。ただし教団にとってはビジネスでも信者にとってその信仰は純粋です。その自分たちの信じる宗教を非難されることは、自分の親を侮辱されるに等しい。従って信者たちは他の何よりもそのことに対して激しい憤り、抑えきれない憎しみを感じるのです。
無論科学ではそんなことはありません。自分の説を否定されたとしても実験によって正しいか間違っているか確認できる。間違いであれば潔く引く。そこに恨みはありません?真実は一つなのですから。
 何度も繰り返しますが、宗教を自分一人の内面のこととして捉えれば何も問題は生じない。問題は専ら自分の内面を超えて他人や社会に影響を及ぼすときに生じるのです。

前世の報い
 宗教の教えで完全に間違っていることは、自分に何か悪いこと(あるいは良いこと)が起きると、その原因を自分の過去(前世)の行いの精にする。前世などありえません。断言して言えます。全ては偶然です。世界や自分の人生に意味などありません。人間(特に若者)は世界に意味があると思いたい。しかしそれは単なる思い込みです。すると人は”自分に”何らかの原因があると解釈してしまう。このように事象の原因を自分の精にする(自罰主義の)教えは、その矛盾・理不尽・弊害の原因を社会に求めず個人に帰させて、大衆の不満を政府や為政者に向けさせないための一種の洗脳(プロパガンダ)です。こんな嘘に騙されてはけません。悪いのは政府です。政治家です。国王です。あなたではありません。彼らはこのインチキ教義で、大衆を支配しようとしているのです。
この自分にすべての責任を帰す思考とは、自分が貧乏なのも、生まれつき障害を負っているのも、(あるいは家族が無差別テロに巻き込まれて死んだのも、自分がレイプされたのも)自分がそれを望んだから。何という馬鹿げた考え方でしょう。しかし支配者、権力者たちにとっては、人々がこういった何でも自分の精にする自責思考を持ってくれる方が都合がいい。国の政策が失敗しても責められることもないですからね。その権力者即ち悪魔たちの手先になって人々を洗脳するのがカルト宗教です。
 人間の心理として、何か大きな悲劇(事件・事故・あるいは病気)に自分が見舞われると、その原因を特定にしないままにしておくことが、精神衛生上どうしても耐えられないというわけです。その際、悲劇の原因を他者(外部)ではなく、無理やり自分に帰せる(自分の精にする)ことが多いのです。なぜか?その方が楽だからです。他人をいくら非難しても相手はなかなか聞いてくれません。自分の精にすれば、自分一人が我慢すれば済むのです。楽ですよね。しかしそれは明らかにごまかしです。
本当は原因など特定できない、偶然の出来事に過ぎないのかもしれない。しかし、それでは自分が納得しない。従ってどんなにありえないこと(オカルト的な理由=前世の因縁、天罰、先祖への供養が足りない等)でも理由として無理やりこじつけて、いい加減な理屈で自分自身を納得させようとする。つまり、ストレスを少しでも低減して自分の精神状態を正常に維持、防衛するための脳の働きなのです。結局は現実逃避に過ぎない事を理解しましょう。そうでないとカルトにだまされますよ。
カルト宗教の典型として、自分の人生に何か不幸や不運、うまくいかないことがあると、そこに何か意味(先祖への供養が足りたないとか)なり過去の因縁なりがあると思い込まされる。人間の思考としてあるのは、何事に対してもその原因を特定しないと気が済まない。安心しない。「そうか。自分の精でそうなったのか。原因は自分だったんだ」。嘘でもいいからそう思いこませて(自分を騙して)無理やり納得させる。そういう働きが人間にはあるのです。確かに自分もその原因の一部かもしれませんが、しかしはっきり言って全ての原因を特定することなど不可能です。そもそもそれが起こった(不幸な目に遭った)理由などないのです。偶々そうなっただけのこと。そこには深い意味がある。いいえ、意味など何一つありません。それがこの世の中です。つまり世界はただ”空”なのです。これが釈迦の悟りです。今日仏教を名乗りながら、この釈迦の悟りとは180度正反対なことをぬかすインチキ宗教が横行しています。よくよく考えてみましょう。この世界に意味などありますか?

宗教と狂気
 例のオウム事件は過去のものです。しかし今後オウムのような教団が生まれない保障はありません。宗教教団はある意味特異な集団です。社会から理解されない。だから自分たちだけで集団を作る。さらに社会から奇異に見られる。それによって社会との関わりを断つ。閉鎖集団が生まれるわけです。閉鎖集団にいる人間は、自分の考えが正しいのか間違っているのか、社会の常識を知らないために、それが分からなくなるのです。(補足15)
教祖は絶対!教祖は神!教祖の言うことに疑問を持つな!いずれテロ集団の誕生です。
カルト宗教の教え、それはどれも馬鹿げている。その特徴は、世界はこうあるべきだ。世界には目的がある。その目的が何よりも最優先されなければならない。その教えを実行することは神から与えられた使命だ。
この「世界はこうでなければならない」と言う思想が一番危ない。それは宗教団体に限らない。ナチスも北朝鮮も戦前の日本も、あるいは社員教育を徹底して利益を上げている新興企業も、一種の宗教と同じです。国民、社員、そして信者を、一つの考えに絶対服従を誓わせる。総統を、社長を、そして教祖を、神のように崇めさせ、総統に逆らうな、社長は絶対だ。教祖はキリストだ。と信者に信じ込ませる。飴で釣って鞭で脅す。もはや狂気の集団です。大規模テロを起こすか、国を崩壊させるか、集団自殺に追い込むか、時間の問題でしょうね。
さらに恐るべきことは、この狂った思想です。我々の教団を批判する者は、自分たちから幸福を奪う憎き悪魔とみなし、そういった神(教祖)を冒涜する敵は殺しても構わないという論理。あるいは殺さなければならない。それは神の命令である。と言った勝手な理屈を作り上げしてしまうことです。
いったい何が誤っているのか?そうです。この思想です。「世界はこうあるべきだ」という思い込み。世界はこうでなければならない理由はないし、こうであってはいけない理由もない。世界は「空」であり、目的も意味も方向性もない。世界はただなるようになるだけ。これが真理です。これを解き明かしたのが「仏教」です。
オウムはこれが理解できず、釈迦の教えと正反対だったから崩壊したのです。(補足17)
最後に青山として一言。このオウム事件を無駄にしないために、この教訓を”宗教批判”に大いに活用させてもらいます。宗教のあらゆる犠牲者に誓います。いつの日か、この地上から一切の宗教が消えるまで。(補足18)

恐怖と脅し
 昔からカルト宗教の常套手段。人間の不安と恐怖心を煽り人々を宗教に勧誘する。「この宗教を信じないと災いが起こる」とね。「日蓮」(注)が有名ですが、信者を増やしたいがための手のようです。間違った宗教、思想を人々が信じその教えが蔓延すると、世の中が乱れ災いが起こる。政情が乱れる。経済が混乱する。市民生活が窮乏する。仮にこのような人為的災害が起こったとしても、天災、自然災害(台風被害、大雨による大洪水、地震、火山噴火など)と人々が間違った宗教を信じることとの間には、何一つ因果関係はありません。こんなことを言う宗教は完全なカルトです。こんな非科学的なものは、信じれば信じるほど不幸になります。
よくインチキ宗教が人々を脅すために使う文句。近い将来ハルマゲドン(世界最終戦争)が起こり、人類の90パーセントが死ぬ。いずれ地球に巨大隕石が激突し、人類は滅亡する。ただし、神を信じる者、信仰の厚い者、善人はその災難から逃れ助かるであろう。こんなことは100パーセント嘘です。隕石が落ちたら、善人も悪人も関係なく皆死ぬのです。善人の近くにも当然悪人はいます。一体どのような力学的な軌道を取れば、隕石は善人を避けるように落下できるのか?もはやこの教祖は狂っているか?明らかな詐欺師か?
 宗教の中に罰や祟りを強調するものがあります。仏像やお札その他宗教上神聖不可侵とされる物、崇敬の対象(御本尊等)を粗末に扱ったりすると罰が当たる。例えば神社の御神木を切ったりすると、関係者が事故に遭うなど。その他宗教上のものを馬鹿にした者は、交通事故や難病に襲われる。家族が不幸になる。務めていた会社が倒産する。などの報いを受ける。とか何とか言って人々を脅すわけです。もちろん木を切ったことと、事故に遭ったことは何の関係もありません。みな迷信です。もしそれが真実なら、実際に切り倒してみればいい。本当に仏像を破壊してみればいい。お札を破り捨ててみればいい。御本尊を燃やしてみればいい。そしたら必ず災難に遭うかどうか試してみればいいのです。これが科学における”実験”です。100パーセントそうなるなら本当でしょう。ただし、他人の仏像やお札を破壊したら、器物破損で訴えられるでしょうが。
身近なところでは、今年は墓参りをしなかった。だから先祖が怒った。その結果家族が交通事故に遭った。大きなところでは、新しい首相は恒例になっている閣僚の神社参拝を今年は行かなかった。そのため神が怒り、未曾有の大地震が起こり何人もの国民が命を落とした。その結果、首相は退陣を余儀なくされた。まったく馬鹿げている。こんなことをぬかす人間は完璧に狂っている。言うまでもありませんが、墓参りと事故の間に何の因果関係もありません。嘘だと思うなら、墓を参った年と参らなかった年を比べてご覧。今年は墓参りをした。その結果交通事故には遭わなかったけど反対に試験には落ちた。墓を参らなかったら落ちなかったかも?しれない。首相が神社を参拝したら、確かに今年は大きな地震は起きなかった。けれど全国的な大雨に見舞われ多数の国民が命を落とした。結果的に神社など参拝しない方が良かったわけです。なぜか?その神社を参拝したことによって、他の神社の神様が怒って別の災害を起こした。神の怒りなんてこんなものです。神は嫉妬の塊です。地震や大雨を起こし何の罪もない乳飲み子を無残に殺し喜悦を浮かべるなんて。神こそは悪魔も及ばない大悪党だ。
人間は何か災難(交通事故、大地震)が起こると、その原因をどこかに求めたがる。原因不明のままでは我慢できない。そこで無理やり何かと何かを結び付けて、人の行為を非難することにより満足を得る。正に餓鬼の心理です。
(注) 1222〜1282鎌倉時代の僧。「立正安国論」が有名

他人の不幸をひたすら願う
 特にカルト系宗教の信者にとって、自分たちの宗教の勧誘を断った未信の者に対する憎しみは計り知れない。相手に天罰、事故や病気などの大きな不幸が訪れることをひたすら願う。そして相手が不幸に見舞われ苦しんでいる姿を見て優越感に浸る。「そらみたことか!罰当たりども!」、「天罰だ!」、「ざまあみろ!!」。何という浅ましい(幼稚い)心根か。「我々の善意の忠告を無視したからこうなったんだ」という心理はカルト宗教以外の信者にも多少なりともあるものです。もろちん人間として最低です。
もし相手が自分たちの宗教に否定的で、何かと批判してくる。それに対して理屈で反論できないときは、信者たちはひたすら沈黙する。(あるいはターゲットを情報にうとい者に切り替える) そしていつか不信心者たちに不幸が降りかかるまで、いつまでもいつまでも待つのです。どんな人間でも将来必ず不幸に襲われる。その時こそチャンスです。

不安な時代と宗教
 戦争、大規模自然災害(地震、火山噴火、台風他)、経済的大恐慌他、まさに100年に一度の大事件に世界が見舞われ社会が混乱すると、人々は宗教に煽られる。あるいは神にすがる思いで見境もなくインチキ宗教に飛びつく。オカルトや非科学的なことが流行る。例えば「祈れば景気は上向く」とか「瞑想によって伝染病の感染を防げる」など。いつの時代も人類はこのような愚を繰り返してきました。それは歴史をたどれば明らかです。そんな世界的な事件じゃなくても、一地方の小規模な出来事、しかしその当事者に自分がなれば、やはり宗教にすがる。あなたの不安は解ります。しかし今一度冷静になって、何が真実なのかを見極めましよう。ここぞとばかり人々の心の隙を狙う怪しい宗教に引っ掛からないよう注意しましよう。こういう危機的状況の時こそ、むしろ余裕を持ってゆったりと構えるのです。気を楽にしましょう。本当のことは何か?いかなる事態にあっても科学的姿勢を捨てないように。それがあなたを幸福に導くただ一つの方法です。

歓喜は狂気
 特に新興宗教の信者で熱心な人を見ると、とにかく顔が明るい。歓喜の表情。そこに何か違和感を覚えます。なぜ彼らはそんなに嬉しいのでしょうか?外部から見れば幸せどころか、不幸にしか見えない。本人たちはその外部の視線を(不幸に思われていることを)、気付いているのかいないのか?ただ本人たちは本当に幸福だと思い込んでいるのです。(そう思わなければ止めている) 「死と真の世界 涅槃と仮の世」で示した通り、絶対的な歓喜や至福の境地は、この世界に生きている間は味わえません。味わえる幸福感は一時的なものです。そこを理解しないと、歓喜はただの”狂気”かもしれません?よ。(補足20)
生きているこの世で味わえるのは、あくまで仮の喜びでしかないのです。絶対的自由、絶対的幸福、あるいは絶対的な平安の境地、すなわち「涅槃」はこの世で生きている内に体験することは”絶対に”不可能。ここがオウム最大の誤解です。どれだけ修行を積もうが、煩悩(動物としての本能的欲)を完全に死滅させることはできません。あるいはどれだけ思索を重ねようが、絶対的幸福境涯を得ることはできない。生きている間にこの(絶対的な)境地に達した者は人類の歴史始まって以来一人も存在しない。厳しい修行の果てに解脱した釈迦であっても、最後の最後まで欲望に使役されていた。当然ですが生きている間は、「食べたい」などの本能的欲望から解放されることはありません。(補足21) これだけは絶対に誤解しないでください。(ただし、生きているうちにこの世で”仏陀”にはなれる。かもしれません。釈迦だってなれたのだから)

悪魔の教え
 総じて言えば、人間から幸福を奪い人々を危機的状況に陥らせる根本原因は「悪魔の教え」(宗教)を広めることにあります。その指導者(政治的指導者および宗教的指導者)たちは、民衆を欺き巧に地獄へ導こうと図るのです。彼らはその教義をもとに全世界の支配を企む。まるで悪魔の化身のごとく。もちろん実際に悪魔など存在しません。あるのはただ指導者たちの精神に根付く、間違った観念、誤った思想です。彼らもただ欺かれている(自分で自分を騙す)、あるいは誤った観念に囚われているだけなのです。
この世界を正しく観察すれば、世界の真理は仏教の「空」が示すとおり、世界には意味も目的もあるいは方向性もない。世界はただなるようになるだけである。こうあってはいけない理由はない。こうでなければならない理由もない。これが真実です。
従って神も存在しない。(神様は存在しないが「パンダ」は存在する。存在するとは手で触れられるということです) それを有るものと解釈する。あるいは”有る”と捉えてしまうことに、周りの人間も巻き込む人類最大の不幸を作り出してしまう要因が潜んでいるのです。この解釈の誤りから、戦争、暴力、殺戮、飢餓、搾取、貧困が起こるのです。まさに人類にとっての一切の悲劇の原因はここにあるのです。(補足22)
もちろん個人的に(神の存在や世界の意味)信じるのは自由です。
しかしこの現実世界においては、そのような科学で捉えられないものは、個人の想定を超えることは出来ず、存在しないに等しい。と言えるでしょう。この「科学概論」を終える前に、今一度あなた自身で、真実を見極めてください。青山からの命を掛けたお願いです。

今更止められない
 宗教でよくある話。最初は半信半疑、ところがちょっとしたきっかけによって熱狂的な支持者に変身してしまう。なぜ宗教におぼれるのか?どんなに気の強い人間でも、心の片隅に弱さを持っているものです。以降教祖を絶対的に信頼してしまう。そこまで来ると思考停止です。教祖の暗い部分が見えない。教団の矛盾に気付かない。いわゆる洗脳にかかってしまっているのです。
しかしいずれ分かります。どんな妄信者でもね。その宗教の裏の姿を。教祖はそれほど立派な人間ではなかった。いやむしろ強権的で悪どい性格の持ち主。最初慈悲深く見えたが実は金の亡者。そこに葛藤が生まれます。本当にこの宗教は正しいのか?疑問が湧いてくるのです。どこまでも教祖の言葉を信じるべきか?いずれは救われるのか?湧き上がる疑問を必死に打ち消そうとします。しかし疑いは尽きない。でもあれぼと支持していた教祖を今更裏切れない。そんなことは人としてできない。あるいは背信したら地獄に落ちるかもしれない。この自分の背信行為を潔しとしないことを含めて、そこにあるのは単なる甘えです。自分の誤りを認めるのが嫌なだけです。精神的苦痛なのです。それを誤魔化すために周りに対してはあくまで熱心な信者を装い、自分に対しては理屈をこねて正当化する。「俺は間違っていないぞ!」ってね。心の中で叫ぶのです。結局いつまでもその剥がれ落ちた信頼にしがみ付いたまま。その信仰を手放すこと自体怖くてできないのです。そこにあるのは一種の恐怖心です。逃げです。誤魔化しです。
宗教に限らず、カリスマ的政治家を一旦支持してしまうと裏切れない。裏切れないのは自分が弱いからです。早く目を覚ましましょう。見たくない気持ちは解りますが、現実から目を背けるのはもう止めましょう。そして勇気を持って行動して下さい。あなたとあなたの愛する人の幸せのために。

社会に影響を及ぼす宗教の弊害
 一般的に国の憲法では、信教の自由とともにあわせて政教分離、すなわち国家が宗教に有利な政策をとることを禁じています。この政教分離は近代国家では常識です。もし政府が特定の宗教に便宜を与えることになれば、その宗教の信者とそうでない者との間に差別が生じます。国民に対する平等の精神からすれば明らかに不本意。すなわち信教の自由にも反するわけです。にも関わらず、ある特定の宗教を国教(現在のイスラム教国の一部、あるいは戦前の日本の国家神道)にしている国もある。時代錯誤も甚だしい。新興宗教の一部にも政治に進出しようとしているものがあります。それは旧ドイツにおけるナチス(これは一種の宗教です)の(あくまで選挙による)政治進出と同質です。
あるいは昔から権力者たちは、大衆を支配するためによく宗教を利用してきました。権力者ではなくても、いずれの政府も大なり小なりこの宗教を利用するのです。(ナチスドイツも共産主義も戦前の日本も一種の宗教) 権力者が最も嫌うものは「無神論」です。それは大衆が現実を見据えることを恐れるからです。ということは宗教は人々を不幸にするものと言えるでしょう。(科学とは正反対)
宗教がどれほど恐ろしいものか。宗教は国と国との戦争を引き起こす要因にもなりえるのです。するとこう言うかもしれません。戦争の原因は経済問題である。為政者は戦争に勝ちたいために、即ち国民の戦意を高揚させるために宗教を利用しているに過ぎないと。もちろんそれはその通りです。ただし、戦意高揚に利用できるほど、そのために多くの犠牲者が出ることもはばからない(神の名のもとに戦う)ほど、宗教はこの世で最大の悪なのです。(補足23)
考えてみれば、戦争というものは国と国との争いではなく、宗教と宗教が信者(または利益)を奪い合うことから起こるものかもしれません。
戦争というものは、一人の人間が怒りから相手を攻撃する。即ち喧嘩とは異なります。自分が利益を得るために相手から奪う。その略奪行為自体を戦争とは言いません。戦争は一人の指導者だけでできるものではない。ジェノサイトや大量の粛清は一人の独裁者だけでは起こりえない。そこに大勢の信者(無知な大衆)が付き従うことで、この悲劇は起きるのです。これは一人の独裁者を教祖と仰ぐ一種の宗教です。どの国の国民であっても、人はもともと、人間としての良心を持っています。己の私欲のために、相手を殺しても奪う。それを良心が許さない。敵国の人間だからといってそれを理由に人を殺せるでしょうか。普通の人間ならそこで躊躇する。あるいは心の痛みを覚えるはずです。良心を持つ人間が、ためらいもなく人を殺せる背景には、そこに宗教(絶対的な教義、教祖)があるからに他ならないのです。

人生を無駄にする選択
 あなたの信じてきた宗教が実はインチキであった。あなたが崇拝してきた教祖が実は詐欺師であった。それを知った(いや、前々から薄々気付いていた)あなたは、潔くその宗教を止められますか?今まで長い間信じてきたのに、初めて信じたときには涙を流して感動したのに、それ以来疑いもせず続けてきたものをあなたは捨てられますか?
人間は間違いに気付いてもなかなかそれを受け入れることができない。それはこれまでの人生を否定することに等しいからです。自分の愚かさを認めたくはない。だから悪だと分かっていても止められない。それが宗教の恐ろしいところです。このように悪と知りつつ止められない。世間ではよくあるケースです。そんなインチキ宗教は、世の中にたくさん存在します。そこに留まっている信者はただただ不幸なだけです。
だから今すぐにでも、信じる心をかなぐり捨てて、これまでの信仰を続けていくことをここできっぱりと断念しなければ、あなたの人生は無駄になるばかり。真実を見つめるのは辛い。それはとても苦しいことです。騙されてきた自分を認めたくはない。その気持ちは解ります。しかしいつまでもその悪の柱にしがみついたままですか?それであなたは幸せですか?チャンスは今しかありません。生まれ変わったつもりで、勇気を持って決断しましょう。
あるいは、(こんな宗教に)騙されたのもいい経験だと思って、いい勉強をさせてもらったと感謝しつつ、人生をゼロからやり直してみれば。今からでも十分間に合います。ただし、今すぐ決断してください。

言いようのない不快感
 何度も言う通り、人間は何を信じるのも自由です。パンダを神聖な存在だとして崇めるのもね。ただし人に押し付けない。例え親子でも兄弟でも。もし人に勧めるのなら、それが正しいことの科学的な根拠を提示する必要があります。それができないのなら、潔く布教など止めるべきです。宗教が個人の心の話なら、何も問題はありません。それが個人を超えて社会に影響を与えるようになったときに問題が起きるのです。
「そんなことは解っている」 本当にそうでしょうか?
あなたが熱心に神(ある宗教)を信じていたとしましょう。たまたま電車で隣の席に座った人間が”無神論者”だったら、あなたは尋常穏やかでいられますか?その存在を許せますか?あなたは言いようのない不快に襲われるはずだ。隣の人間が許せない。自分と考えを異にする者がこの同じ宇宙に存在する事実を認めたくはない。しかしそれはあくまであなたの(異物を拒絶するという)単なる生理現象に過ぎない。「神を敬うのは当たり前だ」、「宗教に敬意を払うのは人間として当然である」 それはあなたの勝手な論理です。自分と異なる価値観を認めない。あなたこそ人間としてどうかと思いますよ。
あなたは以下のことに気付いていない。
世界は「空」なのです。こうでなければならない理由もなければ、こうあってはいけない(無神論者がいてはいけない)理由もない。人はみな異なる価値観を持っています。あなたと完全に同じ考えを持つ者など存在しません。人は皆あなたとは(本質的に)異なる存在なのです。その異なる価値観を受け入れて、あなたの狭い認識を捨ててこそ、あなたは真の人間になれるのです。目の前にはあなたの思い通りにはならない現実しかないのです。その奥にあなたにとって不快な隣人がいるのです。そしてこの現実世界に生きる人間は、その不快な隣人を愛する以外何もできないのです。(補足24)

たった一つの誤り
 「権力者と大衆」でも示した通り、たった一つの誤った思想、間違った考え方が、世の中に悲劇をもたらすのです。それが個人を超えて社会に与える影響が大きいもの、例えば政治的指導者や巨大宗教の教祖が誤っていた場合、被害は甚大になるのです。例えばナチス=ドイツの歪んだ思想、あるいはオウム真理教の誤った教義。ヒトラーの思想に多くの大衆が共感した。あるいはオウムの教義に信者が心酔した。人々は迷妄しているために正しいことが何かを完全に見失ってしまうのです。
誤りはただ一つ。世界は”こうあるべきだ”という思い込み。「ユダヤ人は殺してもいいのだ。それが世界のためだ」、「絶対的な教義を広めるためには、殺人も慈悲の一つである」。このような歪んだ思想の生まれる原因が、「世界はこうならなければならない」という勝手な解釈です。これらは皆間違いです。世界の正しい解釈はただ一つ。世界に目的など一切ない。(補足25) 世界は無意味、即ち「空」であることだけです。絶対的なものなど存在しません。
ただし世界が「空」なら、「ユダヤ人を殺してはならない」というのも勝手な解釈です。従って、自分がどう判断にして、どう行動するかは、すべて自分の意志による。一切が自分の責任だということです。つまり世界には何が正しくて何が誤りなのかを決める(偽)神など存在しないということです。

 この現実世界が「空」だというのは誰にとっても正しい。すなわち世界の真理なのです。従って、自分の内面のみにおいて、この現実世界に神の存在を想定することは許されていても、それをもって世界に働きかけること(隣人に対して神の実在を語ること)は許されないのです。なぜならそれは世界の真理(空)を抗うことになるからです。世界に神が存在しないことを証明することはできません。しかし逆に神が存在することを証明することは原理的に不可能なのです。

 人間はいかなる者であっても、生まれながらの悪人なんか一人もいません。どんなカルト宗教、洗脳宗教、テロ宗教の狂った教祖でも、あるいは信者を騙し搾取し、あるいは背信者を裏切り者としてためらいなく殺害する極悪非道な教祖も、生まれたときは無垢でした。それが狂気を帯びてしまった背景は、人生の過程で自らが神秘主義にのめり込み、この「世界はこうならなければならない」という誤った思想に憑りつかれ、「神を信じない者は殺してもよい」、「この穢れた世界を破壊するのが神から与えられた使命である」という狂った考えに至ったことが原因です。人間が宗教を狂わせたのではない。宗教が人間を狂わせるのです。もしも人間が宗教を狂わせるのなら、それほど怖いことではない。その逆、宗教が人間を狂わせるからこそ恐ろしいのです。世界が空でなければ、人間はどこまでも残酷になれるのです。

 もしも創造の神が存在するなら、全ての責任は神にあります。世界が空なら、全ては自分一人に帰すのです。「神の名のもとに行う」だとか「上官の命令に従っただけ」という言い訳は通用しません。世界には(元から)意味がある。(自分とは独立した)善悪の普遍的な基準がある。とすることから、こういう無責任な(すべてを神の精、上官の精にする)人間が生まれるのです。この世は空です。何も決まっていません。決めるのは政府でもなく法律でもなく、あなた個人です。

 人間生きていれば思いがけない不運に見舞われることはあります。その不幸のどん底にいて、何かにすがりたい。救いが欲しい。そう願うのは当然です。そしてある宗教に出会った。信仰を始めた。そして救われた。地獄で仏に出会った。幸せが戻った。それ以降信仰を続けている。
それはいいのですが、その信仰は健全なものでしょうか?非科学的なものではありませんか?あなたが苦しかった時に出会った宗教を否定するつもりはありません。そして苦しみが去っても、あなたは未だに信仰を続けている。神の存在を疑わない。念仏や題目に力がある。それを信じるのは自由ですが、他人にも(あるいは家族にも)それを勧めていませんか?
良い宗教を人に勧めて何が悪い?
あなたは幸せになれたかもしれませんが、他人も同様に幸福になれるとは限りません。あなたは宗教団体に利用されていませんか?幸せが戻ったなら信仰を止めるのも自由だと思いますよ。ここで止めたらまた不幸のどん底に突き落とされる。そんな恐怖に縛られていませんか?
この信仰を広めて人々を幸福にするのは、わたしの使命だ。
一昔前のあなたは苦悩の人でした。しかし今のあなたは増上慢です。あなたはそのことに気付いていない。

 ここまで宗教を批判すると、青山こそが”宗教に対する偏見だ”、あるいは”宗教弾圧だ”と非難されるかもしれません。青山は宗教のすべてか悪いと言っているわけではありません。宗教にももちろんいいところ、素晴らしいところはあります。それは認めます。青山自身は特定の宗教の信者ではありませんが、様々な宗教施設(寺院、神社、教会、少ないけれどモスク、ただし新興宗教系はなし)には訪れていますし、訪れてみると心穏やかな気持ちになります。さらに古代からの教典(仏典、聖書、コーラン等)も読んでいます。これらは本当に貴重なものです。読めば間違いなく勉強になります。
さらに言うと、「宗教弾圧」というのは、他の宗教がある特定の宗教を弾圧あるいは迫害することを指すのであって。歴史上のキリシタン弾圧は、反キリスト教一派がキリスト教を攻撃した。そして近年のオウムは、反オウム一派がオウムを攻撃した。あるいは近代の共産主義国家における宗教の弾圧は、共産党が宗教を攻撃した。(共産主義(今日の中国、北朝鮮)も一種の”宗教”です) なぜ他が攻撃するのか?もちろん信者を奪われないようにするためです。科学は、非科学的なことを広めようとする宗教を批判しても弾圧はしません。
とにかく自分一人が何を信じようと自由。それを人にも勧める分には自由です。しかしその宗教を人類普遍なものだと解釈して、相手が否定しているにも拘わらず、なお勧めようとすること。人類普遍の宗教など存在しません。所詮あなたやあなたの周りのごく一部の人間の宗教(サークル)です。自分一人が素晴らしいと思っているに過ぎない。本当に普遍的なものなら、誰もが受け入れて世界に広まっているはずです。そうなっていないということが、それが普遍性をもっていない。何らかの(他の人から見た場合の)欠点があることの証拠です。
あくまで科学的な立場から言えば、科学と宗教は無関係。
言うまでもありませんが、科学が宗教に侵害されたことによって起きる悲劇は、この人類の歴史の中で最大のものでしょう。例えば中世の魔女狩り、異教徒の殺戮。つまりこの世で起きている天変地異(自然災害、飢饉や伝染病の流行など)や社会不安(戦争や圧政、政情不安)、その原因として、社会の一部に異端者が交じっている。神を信じない者たちがいる。我々(王様から庶民まで)が不幸なのは、間違った宗教を信じている。あるいは正しい宗教を信じない輩が存在するからである。彼らを駆逐しなければ我々は幸福にはなれない。明らかに狂気です。なぜ神を信仰しないと、地震などの災害や起きるのか?伝染病が蔓延するのか?あるいはあなたの家が火事になる。子供が不良化する。それと宗教と何の関係があるのか?科学的根拠なんか何もありません。そのためにこれまでにどれだけの人間が生贄に(犠牲に)されてきたのでしょう。だからこそ青山は我慢ならないのです。宗教に対しては容赦ない態度を取るべきだと考えます。

 ここで皆さんは疑問に思うかもしれません。なぜここまで青山は宗教に批判的なのか。それにはもちろん訳があります。それほど宗教に熱心じゃないにしても、世の中には宗教に対して特別反感を抱く人は少ないと思います。特定の宗教に関わっていなくても、他人の宗教を批判したりはしない。ただし関心も持たない。それが宗教に対する一般的な態度です。それに対して青山は宗教の存在に抑えがたい怒りを感じるのです。その理由。この世の中を見渡してください。あなたは気付かないかもしれないが、世界のどこかで毎日のように幼い子供たち、あるいは弱い立場の人間が、貧しさに苦しめられている人々が、理不尽な虐待に見舞われている。その苦しみにあえいでいる人に向かって宗教はこう諭すのです。世が悪いのではない。すべてはお前の精だ。そうして声を上げることを禁じる。彼ら弱い立場の人間は黙って耐えるしかない。幸せになる権利さえ奪う。それが宗教なのです。よく考えてみて下さい。この世のすべての悲しみの源は何か?目を逸らしたくなるような悲劇がなぜ繰り返されるのか?いつまでも尽きることがないのか?宗教はありもしない理屈(神や業)で誤魔化し、人々に我慢を強いるのです。だからこそ青山は許さない。命に代えても許さない。絶体に許さない!この世界から一切の悲劇が消え去るまで。

 カルトと分からずだまされる。カルトと気付いたにも関わらず止められない。そういう人が大勢いるのは事実です。なぜ彼らはこんな宗教にだまされるのでしょうか?それには理由があります。
前にも話しましたが、人間の心は弱い。自分で解決できない大きな不幸が襲い掛かってきたら、何かに頼らざるをえないでしょう。それはどんなに心が強い人でもそうなるのです。誰にも頼れない孤独な身に、あるとき天使のような囁きを聞いたら、まさに地獄で仏に会ったごとく人々はそれにすがるのです。だまされた人を誰も責められません。それは我々にこそ非があるのです。だまそうとする宗教を放置させていたこと。そして絶望した人々に手を差し伸べなかったこと。(補足26)
カルト宗教を信じてしまった人は決して特別心が弱いわけではない。誰にでもその可能性はあるのです。今それほど大きな悩みを抱えず、宗教にすがらなければならない身でもない、この青山も含めた我々が、そういった人々の支えになれるよう努力しなければならないと感じています。なぜなら我々には”それができる”からです。

(補足1) 何度も言う通り、自分一人がその宗教を信じる分には、何一つ罪は問われません。心の中は法による制約は一切受けません。そこは自由な世界です。また人にその宗教を勧めること自体は犯罪ではありません。憲法にてそう保証すべきです。(信教の自由) ただし、間違っても相手に強制してはいけません。断られたら、例え親でも会社の上司でも引き下がるべきです。ここで引き下がらなければ法により罰せられることもあるでしょう。

(補足2) 自分一人が信じている宗教(一人しか信じていないものを宗教と言えるか?強いて言えばそれは個人的な思想性?)が異常なもので、その人間が反社会的な行動(無差別殺人やテロ)を起こすことはあります。しかしそれはあくまで個人の行動の問題、あるいは個人の精神の障害の問題で、他からの宗教的な影響がなければ、個人の行動に宗教が関与しているとはみなされず、結局それは個人の精神の(あるいは思想上の)異常として解釈されます。

(補足3) ヨガはもちろん健康促進に役立ちます。つまりメンタル面だけではなく、身体の疲労回復(物理的作用)にも効果あり。あわせて瞑想についても、もしかしたら、記憶力や思考力が多少増進するかもしれない。ただし、その効果の大小は人によって違います。大変効果があった人。少ししか効果がなかった人。人によって効果が変わるものを”真理”などとは呼べませんね。一般的な「ヨガ教室」や「瞑想の場」では、非科学的なこと(超能力)まで期待しませんから。

(補足4) オウム真理教の言う通り、釈迦は宇宙の真理を説いたのではなく、ヨガを実践した(空中浮遊などの超能力を身に着けた)だけなら、彼は「ヨガ実践教室」の所長と言うべきである。会員すなわち弟子たちは”肩こり”、”神経痛”などが治れば、それで満足したであろう。釈迦は確かにヨガを実践した。ただし彼にとってそれは一つの手段であり(他にも手段はいくらである)、目的ではない。

(補足5) ”科学的ではないもの”とは、誰もが確認できる事実に基づかない推論を展開し、それを真実(現実としてあり得るもの)だとみなす宗教。例えば神や悪魔、妖精や宇宙人の存在。何の証拠ありません。あるいは「あなたが不幸に見舞われるのは、先祖への供養が足りないため」。先祖なんかとっくに死んでいます。今更何をしても先祖は喜びません。このような非科学的な宗教はf間違いなくインチキでしょう。

(補足6) 今日、宗教特に新興宗教の衰退は目覚ましい。かつては爆発的に信者を獲得していた宗教団体も、信者の高齢化に伴い数を減らしている。年配の信者が辞めなくても新しい信者の入信がない限りいずれ団体は消滅する。だからこそいずれの宗教も若者の信者獲得に熱を入れている。特に学生を狙って若者が興味を引きそうなUFOや超能力、あるいは陰謀論、その他都市伝説の類、これらのオカルト話をもとに、古臭い慣習にとらわれないやり方で彼らを釣ろうとはかる。学生は暇だから、特に気が弱そうな若者が狙われる。しかし若者の宗教離れは世界的傾向である(新興宗教に限らず、仏教、キリスト教、イスラム教に至るまで)。もはや未来にわたり宗教の復活は望めないであろう。

(補足7) そう言うと信者は反論するかも。「いいもの。ほんとうにいいもの。人間を幸せにする教えを人に勧めて何が悪い!」と。自分がいいと思ったものを人にも勧める。それは当然のことです。しかし本当にそれは正しい行いでしょうか?ここが実は落とし穴なのです。若者は騙される。最もな話として納得してしまう。
あなたは幸せになった(ような気分を味わっている)かもしれないが、他人も同様に幸せになれる保障はありません。大体あなたにとっての幸福観(人類の繁栄)と相手の幸福観(自分の安らぎ)が異なる場合もあるでしょう。だから他人にいくら、社会のため、人類のためとか説明しても、相手には理解できないかもしれません。あなたはその人のために、善意で、利他行為だと思って、勧めているのだろうけど、相手は大変迷惑がっているかもしれませんよ。もしそれを強引に勧めて、相手が不幸になったらどうしてくれるんだ!ってことになりかねない。
もちろん相手が幸せになる場合もないとは言えませんから、勧める分には問題はない。ただし、相手に断られたら黙って引き下がること。宗教なんてものは、個人の好き嫌いの問題なんだから、合う合わないはあるはずです。

(補足8) 宗教団体の中には、あなたの(弱みに付け込んで?)盛んに勧誘してくるものがあります。あなたがそれを拒否すると、相手はあなたを突き放します。そして暗にあなたを脅すのです。「今ここでこの救いを拒否すれば、この先耐えがたい飢えや渇きに苦しめられることになる」、「本当に富も安らぎもいらないのか?」、「あなたは、いずれ誰からも相手にされず孤独になるだろう」、「後になって、『自分は間違っていた。この通り懺悔するから、どうかお助けを』と私にすがっても、(勧誘を断った恨みから?相手は敢て慈悲のためと言うかもしれない?)そう簡単には許さないぞ。当然この時我々の救いを拒否した報いを受けなければならない。それでもいいのか?」と。そう言ってあなたを不安にするのです。もちろんあなたはこの先度重なる辛い不幸に見舞われるでしょう。それを恐れるあまり、飢えや渇きを恐れるがために、あなたは不信を抱きながらもその宗教に対して強い(拒否の)態度を取れなくなるのです。その場合どうしたらいいのか?(補足9)
これは本当に辛いことです。強い意志がなければ駄目です。人は誘惑に弱い。イエスは弟子たちに言いました。「目を覚ましていなさい。心は燃えても肉体は弱い」(マルコによる福音書) イエスは敢て辛い道を選択したのです。自分は殺されても意志は曲げない(宗教に対する恭順の態度を示さない)。その彼の意志を支えたものは、「愛」だったのかも?しれません。

(補足9) この不信心者への報い、罰を掲げる宗教の悪いところは、騙されている一般信者さえ、自分たちの宗教をそしる者に対する憎しみが生じる。ということが少なからずあるということです。自分の話に耳を傾けない者、信じることを拒否する者に対して、”罰”が当たればいいなという心理。もしも相手が不幸に見舞われたら、「それみたことか、ざまあみろ」と自分は喜びに浸る。相手の不幸が自分にとっての幸せ。このような宗教は人間の精神をも歪めるのです。

(補足10) 教団の中には、完全に開き直って、「信者は、喜んでお布施(もちろん莫大な金額ではないが)を出している。それを受け取ってあげるのも慈悲」などと言っているところもある。もっと開き直って、「宗教だって所詮ビジネス。信心すれば必ずそうなる(ご利益がある)とは言っていない。つまり我々は詐欺ではないい。儲けることのどこが悪い」。正に商売として、自らは信心なんかしていないのです。連中は罪悪感の欠片もないでしょうね。

(補足11) 現代においても宗教は真にビジネスだと思います。特に一部の新興宗教の教義や宗教と言えないまでも今はやりのスピリッチュアル系人生相談、あるいは自己啓発セミナーなど、言っていることはどれもこれも”非科学的”。物質よりも精神を重んじるとか、思考よりもマインド重視など、まるで前近代的な道徳に毛が生えたようなもの。あるいは過去の遺物。
ただ、これらの中には非常に成功しているものもあり、信者や会員などから得るお布施、セミナー参加費、書籍購入費などから莫大な利益を上げています。要するに”ビジネス”なのです。(この手のスビリッチュアルにはまる人は、どういうわけか、男よりも若い女性や中高年のおばさんが多い)
青山はまったくビジネス気はありません。この「科学概論」を書くのも単なる趣味です。それに対して彼らは信者獲得に生活が掛かっています。だから「非科学的だ」と、ちょっと批判を加えただけで、”神聖な教義に対する侮辱だ!”(商売で言えば営業妨害)といきり立て、名誉を侵害されたとして訴訟を起こすのです。この訴訟もいくつかの意味で有効です。さらに儲ける。世間の知名度を上げる。そして批判すると倍返しの目に遭うぞと言う脅し。中身はどれも非科学的ですが、彼らの狙いは信者を一人でも多く獲得して利益を上げることのみ。そのために昼夜を問わず努力・研鑽しているのだから、その報酬は当然だという考え方なのです。つまり連中はビジネスだと割り切っているのです。正に金の亡者ですが、信者たちには清貧・質素倹約を説く。矛盾しているんです。(補足12) もっとも危険なのは、その教義があまりにも非科学的なことです。オウムと同じ。オウムは過去のことじゃないのです。
しかし、なぜこの手の非科学的宗教まがいのものが未だに無くならないのでしょうか?それは社会の需要があるからなのです。心の隙を埋めたい。味気ない日常に変化を持たせたい。その顧客のニーズに応えているだけなのです。彼らに言わせれば、自分たちのやっていることは全うなビジネスであり、悩みを抱えている信者に幸福を与えるのが、社会的責任だと考えているのです。まあそれはそれでいいでしょう。どんな商売があったとしても、需要と供給のバランスが取れているのだから。ただし、商売ならその製品やサービスに問題があると非難してもいいわけですよ。言われなき誹謗中傷、明らかに事実に反するものならともかく、それに対して抗議の声を上げるのは正当です。しかし客観的な問題点を指摘されたことに対して、それは”神に対する冒涜だ!”と非難して、相手に圧力(心理的圧迫)を掛けるやり方はまずいでしょう。さらに青山の懸念はそれが非科学的なことにあります。科学に反する行為からは間違っても幸福は得られない。それだけは断言いたします。

(補足12) よく新興宗教の教祖やスピリッチュアル系カウンセラー、自己啓発セミナーの講師が、「お金に執着してはいけません」とか、「自分一人のために生きるのではなく、世の中のため人々のために生きなさい」とか言っているのを聞きますが、その教えに感動した信者が喜々として大金を教団に貢ぐ。それでいて教祖は決して清貧でも利他主義者でもない。実は金儲けの権化、ケチな利己主義者。なのに信者に対しては利他や博愛を説く。信者は完全に騙されているように思えます。(補足13) いいえ。騙されているのではありません。信者も薄々気付いているのです。教祖の正体を。ただ、騙された振りをしているだけです。なぜでしょう。信者たちはそこに癒しを求めているのです。教祖によって癒され、たとえ嘘でも幸せになったような気分を味わえるなら、そこにお金を出しても構わない。日常のつまらない人生に、たとえ一時でも夢を与えてほしい。その願いをかなえてくれるのなら、大金さえも惜しいとは思わない。これが本音かもしれません。反対に教祖や教団の幹部連中は、自分たちは信者にこれだけ多くの癒しを与えたんだから、それなりの報酬を得るのは当然だと、罪悪感の欠片もない。何かを与えたなら、その代償を得る。信者はしてもらった分、代金を支払う。まあ簡単に言えば一種の売買契約。つまりは宗教も商売とまったく同じだということです。
ただし、健全な商売とは言えません。全うな商売なら、外部からのクレームには真摯に対応するでしょう。お客様の生の声を聴いて、それを改善に生かす。そして顧客満足度を上げて安定した経営を可能とするのです。ところがこの宗教ビジネスの場合は、ビジネスであることを表に出せないのです。あくまで建前は金儲けなんかじゃない。崇高な教義に基づいた神聖な宗教の活動に、卑しい利潤追求などあってはならないのです。それこそブランドが傷つく。「会費が高い。もっと安くしろ」なんて教団に言うと、教祖や信者から激しい怒りを買います。「宗教は金儲けのためにやってるんじゃない!神聖な教義にケチをつける者は地獄へ落るぞ!」ってね。宗教ビジネスにとってのブラントとは、あくまで尊厳性、絶対性、神聖にして不可侵なのです。だから外部からのクレームを受け付けない。受け付けた時点でブランド価値が下がる。教祖の金満体質、教団の金儲け主義。たとえそれが真実であっても、信者にとっては教団のプライドを傷つけ、教祖を誹謗抽象する輩を絶対に許せないのです。教団と一丸になってまるで狂ったように徹底的に攻撃を加えます。(教祖と自分は一体だという考えから、自分自身が誹謗されているように思える) (補足14) 宗教ビジネスにとって、教団への非難に対するこの妥協を許さない反発こそが、ブランド(商品価値)を保つことなのです。このパフォーマンスがあるからこそ、信者を引き付けておけるわけです。(あるいはまたこれらの類は、メンタルヘルスでのカウンセリングとも違います。メンタルヘルスではイメージ療法など様々な心理療法(中には非合理的なイメージを連想させるものもある)がありますが、あくまで精神医学に基づいたもので、オカルト的なことは行いません。クライエント(患者)にはありのままを説明します。)
ただし、このような宗教ビジネスは間違いなく長続きしないでしょう。なぜなら、真実が明らかになった時点で、もはや信者獲得は期待できない。既成信者にとっても教団の癒しのテクニックに飽きて来れば、静かにこの宗教から離れていくのです。
しかし、この手の宗教ビジネスは、消えては生まれ、消えては生まれ、いつの時代にも忘れたころにまた現れようとするものなのです。それだけ現代人の心には隙があるようです。

(補足13) 伝統的な宗教では、教祖が生き方の手本を示して、信者はそれを真似る。たとえば釈迦が清貧に生きたなら、弟子たちも同じように清貧を実践する。またイエスが愛を説くならば、信者もそれに従い愛に生きる。これが当たり前の宗教なのに、現代ではまるで逆?

(補足14) その宗教を純粋に信仰して、そこに救いを求めている人にとって、自分の信じている宗教を批判されるということは、自分の心が深く傷つけられることを意味します。その傷ついた心を癒すのは容易ではないでしょう。人間は傷つきやすい生き物です。あなたは教団を非難した相手に、自分は傷つけられたと訴えるかもしれない。しかし、もしその非難が正当であるなら、青山はそこに甘えを感じます。例えば、自分に子供がいて、その子供が何か犯罪を犯し、世間から非難されて自分は心を痛めたとしたら、それは仕方がないこと。確かにあなたの心は傷つきましたが、青山はそれを乗り越える強さを期待します。

(補足15) オウム事件は過去のことです。ただ絶対にこの事件を忘れてはならないのです。今こそ「オウム真理教」を研究しましょう。危険だからと言って関わらないでいると、いずれ第二第三のオウムが現れます。宗教の本質としてあらゆる宗教にこの危険性が潜んでいるのです。人間は厄介なこと難しいことは敬遠しがちです。しかし現実から目を背ける行為の方がもっと危険です。この教義を調べてみると、時に「なるほどな」と思うことも正直あります。ある意味「この教義は素晴らしい」、「教祖は天才だ」と思えるようなところもあるかもしれません。それはそれでいいのです。調べれば調べるほどオウムがいかに(宗教批判に)役立つかが分かります。(補足16)
ただし、何を調べるにしてもあくまで科学的な態度を取ることが必要です。オウム最大の誤りは、”科学的”ではないこと。(信者たちは科学だと思い込んでいたかもしれないが) 自由と言われる宗教ですが、科学の見地に立てば、いかにそれが危険で悪に満ちたものかが分かります。
一つの例ですが、様々な宗教が説く宇宙の構造が現代科学とはいかに相反するものかを示してみました。(オウムにも独特の宇宙構造がありました) 図95「宗教的宇宙の構造」を参照してください。ここで示す宇宙構造は仏教で説く「須弥山宇宙」に似ていますが、仏教の宇宙観もすべては方便(説明するためにあえて図で示した)で、現実のものではありません。仏教はあくまで「空」を説いているのです。はっきり言えば宗教の説く「宇宙構造」なんてすべて嘘です。あるのはただ「空」ということだけです。

(補足16) オウムが注目され始めたころ、学者や知識人たちの中にオウムの教えを称賛した者がいました。今考えるとこんな幼稚な教義を頭のいい人間が称えるなんて信じられません。しかし学者といえども人間です。心の隅には当然、不安や恐れはあります。そこを突くのが宗教。教義が理屈に合わなくても、人を引き付けてしまう。その裏には人間本来の弱みがあります。そこが宗教の恐ろしいところです。

(補足17) 仏教は釈迦の教えです。彼の教えは極めて常識的で、そこにオカルトの入る余地はありません。理解するのも容易ですから、もし機会があったら触れてみる(信じなさいとは言いません)のもいいかも?それに対して現代の仏教は釈迦の教えを逸脱しているように思えます。坊主は堕落し、在家は在家で僧侶を出し抜いて偉そうなことを言う。釈迦とは正反対に「世界はこうあるべきだ」と教える。そんな話は元々仏教にはありませんよ。そんなことを平気で言うなんて、まるで釈迦の顔を土足で踏みつけている?ようなもの。キリスト教の場合もイエスの教えとかけ離れてしまいました。イエスが神の子なんてとんでもない。キリスト教徒もまさにイエスの顔を土足で踏みつけている?ようなものです。

(補足18) いずれにしても宗教に無関心は良くありません。宗教に入らないまでも宗教について何も知らない(宗教は危ないというイメージしか持っていない)と大変なことになります。世間ではもっぱら宗教は話題にならない。知人が何の宗教を信じているかなど興味を持たない。知ってはいけない。なぜなら人の心の中を覗くと厄介なことになる。本当は知りたいのだけど、聞いてはいけない。触れば祟りがあるかも?触らぬ神に祟りなし。(恐ろしいから)必要以上に近づかず、(宗教は自由だから)反論もしない。(一種のタブーと考えている)
ある程度年齢が行った世代はこうやり過ごしている。ただし、若者はこうはいかない。無理に無関心を装っていても、関心を捨てきれない。それは大人よりも若者の方が純粋だということ。なぜなら大人や世間は決して教えてくれない(教えてくれないんじゃなくてただ分からないだけ)。 「人間は、何のために生きているか?」 この重要な人生のテーマを知りたいのです。それは(あなたが人間であるなら)誰にとっても重要ですが、考えない。考えたこともない。一時期考えたけど、答えに至らず、考えるのを止めしまった。考えている時間がない。毎日が(生活していくので)忙しい。ただ、それだけです。
しかし、このオウムの事件から目を背けていては何もならない。人によってはオウムの悲劇を忘れたい。無かったことにしたい。それでは第二第三のオウム事件が必ず起きます。断言して言えます。似たような事件は、今後何百回も何千回も何万回も起こるでしょう。なぜなら、どんな狂った宗教の教祖も、独裁者ヒトラーも、彼を支持したドイツ国民も、我々と同じ人間ですから。人間の本質は変わらないのです。(補足19)
事件を繰り返さないことはただ一つ。繰り返し繰り返しこの問題について徹底的に考察することです。考えれば解ります。宗教というものがこの世で一番の”悪”であることが。
※あなたに代わってこの青山がすべて考えました。答えはここにあります。

(補足19) どれだけ巨大な宗教の教祖、あるいは長い歴史を持った宗教の開祖(例えば釈迦)でも、あるいは大国の皇帝、国民から敬愛されている国王(女王)、カリスマ的政治指導者、あるいは超大企業のCEO、世界的な有名人、スーパースター(俳優、ミュージシャン、スポーツ選手)であろうが、犯罪を犯して刑務所に収監されている悪党とほとんど変わらない。人間は生まれながらにして皆平等だからではない。生物学的に言ってその本質(動物としての習性)は変わらないからである。どれだけの人物であろうと、完全無欠な人間など存在しないのであり、人間である以上、誰もが間違いを犯す。イエスを神だとすることは、ヒトラーを神だと言っているのと同じである。

(補足20) この世では、どんなに努力しても”絶対的な幸福”など得られるはずがない。なぜならこの世で生きている限り欲望を完全に克服することなど不可能である。欲望がある限り「苦」も消滅しない。ここにオウムの考え方の浅さを見る。なぜこの世では絶対的な幸福を得られないのか?オウムは、その真実の答えにたどり着けなかったのである。即ちこの世の本質(一切皆苦)を解らなかった。さらにこの苦しみの世界で生きる意味を理解出来なかった。それゆえの誤った考え方である。この世は苦だからこそ、絶対的な幸福が得られないからこそ、逆に生きる意味があるのである。

(補足21) その宗教を長年信仰していると今までの疑念、不信などがすべて解け、もはや何も疑うことなく絶対的な安心の状態に到達する。これを仏教用語で「信心決定」(しんじんけつじょう)と言います。しかし、疑問はすべて解決。もはや疑いようがない。なんてことが果たして可能でしょうか?人間は生きている限り何事も疑ってしまう動物です。長年教会に通い詰め、あるいは聖書を何度も読み返した結果、最初はまったく信じることができなかった神。いくら牧師の話を聞いても数え切れないほどの疑問を抱え、それを消し去ることができなかった。ところが今日、今まで信じられなかった神の存在について、その疑いが一切消えてなくなった。
たとえ今日そういった境地に達したとしても、明日また一つの疑問が湧いてくるかもしれません。何しろ神自体は見えませんから。そして疑問は永久に残るのです。一つ消えてもまた一つ増える。否、疑問は消えるどころか次第に増えていく。この信仰を続ければ続けるほど新たな疑問は増えるばかり。自分の心に忠実であればあるほど疑いは消えず。人間だから仕方がない。それが現実ではないでしょうか?

(補足22) この世界に客観的実在としての神は間違いなく存在しません。(「神の存在」参照) 宗教を信じる人間の中には、自分たちの行為を正当化するために「神の名のもとに」と口にする者たちがいる。神の名のもと戦う。神の名のもとに殺害する。神の名のもとに強奪する。もし神が存在しないとすればそのような言い訳は通用しません。神などというものは、人間の煩悩(動物としての本能的欲望)を満足させようとする働きによって生み出された幻想に過ぎないのです。結局は”神”も”宗教”も進化論上の「自然淘汰の産物」に過ぎないのです。

「空」を知らない故の”無責任”とは
 すべての無責任の要因は、神の意志に従う。世界に意味がある。といった誤った認識です。要するにあなたに命令を下すものは何も存在しない。「敵を殺せ!」とあなたの耳元で囁いているのは、あなたの自身の幻聴に過ぎない。教祖の命令に従っただけというあなたの言い訳は単なる責任逃れに他ならない。教祖あるいは上官の命令は絶対。それこそがあなたの勝手な思い込みです。世界には何の規範もない。規範や道徳の根拠を自分ではなく他者に求めるのは、あなたの甘えです。「神の名のもとに」、「国家の名のもとに」、隣人に残酷な仕打ちをしてしまったすべてのて責任はあなた一人か負うのです。

(補足23) キリスト教もイスラム教ももともとはユダヤ教から始まりました。これら3つを合わせると、世界人口の大半を占めます。いずれの宗教も隣人に対する愛や慈悲を説きます。しかしご存知の通り、これらの宗教は互いに敵対していますね。宗教内部でも争っています。(キリスト教のカトリック、プロテスタントの争い。あるいはイスラム教のシーア派とスンニー派の対立) 元をたどれば同じなのに、なぜ争うのでしょう。根源は同じでもそれぞれの地域で信仰していく中で、異なる教義、異なる仕来りが生まれてきます。それは地域差、それぞれの民族の伝統、文化などが異なる精で、当然のことと言えます。時代とともにその違いは顕著になる。気が付いたときには、隣の宗教と自分たちのそれとは全く別の宗教に思える。すなわち違う神を信仰しているかのごとく。すると相手を背教者とみなし、そこに争いが生まれるのです。
さて、ここからは青山の私論ですが、争いが生じる最大の原因、その背景には何があるのか?それは神がこの世界に本当に実在するという思い込み。本当は神など存在しないのです。神そのものには実体がありません。神は個人の心の内にのみ存在するのです。従って隣人がいずれの神を信じているかなんて分かりようがないのです。にもかかわらず神は存在しなければならない。しかも世界で唯一の神が。その神に背く隣人を敵とみなし、殲滅しなければいられないという考え方が生まれるのです。即ち、その驕った有神論こそが、争いの要因と思われます。
はっきり言います。神など存在しません。

(補足24) 人間は人を愛さずにはいられない。この愛欲こそが、他人を自分の思うがままにしたいという欲望です。しかし隣人は決してあなたの思い通りにはなりません。思い通りにならないとその愛が憎しみへと変わる。この浅ましい愛欲を捨て、慈悲を持って相手を受け入れ、智慧を持って(科学を用いて)隣人を諭すこと。それが真の愛です。

(補足25) 即ち人間は誰しも、生まれてこなくてもよかった。しかしそんなことを親が子供に対しては、口が裂けても言えない。しかしここで誤魔化す(真実を偽る)と、子供たちはカルト宗教に向かってしまう。もし本当に子供を愛するなら、カルト宗教の魔の手から救いたいなら、嫌でも真実(生まれてこなくてもよかった)を語るしかない。

(補足26) オウム事件の際、手厳しく宗教を批判した多くの評論家やジャーナリストたちが、問題になるまではみな批判を控えていたのは、彼らでも心の隅のどこかに宗教に対する恐れを少なからず抱いていたものかと推測いたします。しかしこの恐れが宗教に対して甘い態度を取ることになり、結果事件が起こってしまったとみるべきでしょう。
あまりにも大きな悩みを抱えて宗教に頼らざるを得なかった人々に「宗教など止めなさい」とは言えません。ただし、外部の人間に承認(自分の宗教を認めてほしい)を求める姿勢などは甘えとみるべきでしょう。外部の人間には、その教祖を称える信者の言動が理解できないのは当り前。理解できたら信者になっていますよ。さらに、自己を外部(未信の者)より優位に(逆に外部を自分たちより劣っていると)みる態度は、驕り以外の何物でもない。
 話は少し外れますが、よく詐欺に騙されて大金を振り込んでしまうお年寄りが話題になります。「こんなことに騙されるなんて」と周りはその年寄りを責める。しかしなぜ騙されてしまったのでしょうか?騙された年寄りが馬鹿だったから?いいえ、騙されたおじいちゃんおばあちゃんが優しかったからです。人を疑うことができなかった。困っている人間を放っておけなかったからです。お年寄りに非はありません。人に優しいこと、そして人をどこまでも信じることは、人間として最も尊いことです。悪いのは優しいおじいちゃんおばあちゃんの心を踏みにじって、年寄りを食い物にする連中です。こんな人間の屑は絶対に許してはならないのです。
それに対して、カルト宗教に騙された。功徳があると言われて大金を差し出してしまった。あるいは”成功人生術”、”勝ち組経営セミナー”と称する詐欺に騙された。金をむしり取られた。まったく効果がなかった。その騙された背景には、金を儲けたい。周りから褒められたい。貧乏で詰まらない人生におさらばしたい。という浅ましい欲があったのです。つまり自業自得。むろん騙した人間が悪い。しかし騙された方にも(多少なりとも)非があるのです。

宗教とは何か
 果たして宗教とは何でしょうか?宗教を持つ者は人間だけでしょうか?他の動物には宗教などないのでしょうか?同じ霊長類の猿(ニホンザル)と比較してみましょう。猿と人間は親戚だけあって非常によく似ています。身体も脳の働きも、そして行動も。違いは何か?
人間は、(大抵の場合)自分が”人間”であることを自覚しています。人間の母親は、自分の腕に抱いた我が子を見て、この子も自分も同じ人間であることを理解しているでしょう。しかし猿は自分が猿であることを(恐らく)理解していないと思われます。青山は猿ではないから分かりませんが。猿は自分の産んだ子供が、自分と同じ猿であるとは理解していないでしょう。
また人間は、自分がいつか死ぬことを理解しています。しかし猿は自分は永遠に死なないと思っているのです。自分の親猿が死んでも、自分も同じように死ぬとは思わない。猿にとっては、生も死もない。それに対して人間は、自分はある時期にこの世に生を受けて、いずれ死んでいくことを理解しています。その生と死の間(これを人生という)をどう生きるかが自分にとっての唯一の課題だと認識しているのです。さらに生(誕生)の前には何があったのか?自分は何のために生まれたのか?そしていずれ訪れる死に対して恐れを抱くのです。(猿も犬もライオンも本能的に恐れを抱きます。しかしその恐怖の原因が死であることは分からない。) さらに死んだ後はどうなるのか?死は避けられないと知りつつも、今何のために生きるのか?という問いを常に自分に発しているわけです。
そこに神や死後の世界という考え方が生まれるのです。これが宗教の起源でしょう。
では、進化の過程で人間と猿が分岐する際、何が原因で、人間だけに、「自分は人間である」という自覚が生まれたのでしょうか?恐らくそれは人間同士のコミュニケーションの発展によるものと思われます。もちろん猿の間にもコミュニケーションはあります。しかし人間のそれは猿よりも遥かに高度です。その高度なコミュニケーションの基は複雑な言語の使用だと考えます。ある日突然、人間が人間であることを自覚したのではない。それは長い年月を経て、徐々にその傾向が生じてきたものと思われます。
ただし、この話から、人間は猿よりも遥かに進化している。人間に比べれば猿は下等だ。とは言い切れません。自分は人間である。あるいは猿である。これは確かなことでしょうか?生も死も幻かもしれません。さらに神も死後の世界もない。猿はそのことを知っているのかも知れません?

 もちろん宗教のすべてが悪いとは言いません。ただ(偏見かも知れませんが)、宗教に不寛容(選民思想・排他主義)−権威主義−競争主義・勝利至上主義−相手の自由を認めない−非科学的・オカルト・陰謀論を信奉。これらは連動しているのでは??それに対して、宗教に寛容−非競争主義・何よりも平和を愛する−権威に縛られることなく自由爛漫、同時に他人の自由も認める−常に科学的見地に立つ。ことが、人間として重要なことだと思います。

最後に
あなたが自分の意志でその宗教を選択して、今それなりに幸せを感じているなら青山は何も言いません。
ただ、一言だけ。「本当に幸せですか?」
本当は幸せではないのに、止められない。止めたいのに、理由があって止められない。そんなことはないですよね。
あるいは、今不幸なのも、試練だと思って耐えている。いつかまた幸福が訪れる。
試練なんかない。幸福が訪れる保障なんかありません。でも信じる?
いいでしょう。もう何も言いません。

 ここまで宗教について、いろいろ述べてきましたが、青山は宗教団体のすべてが”悪”だと決めつけているわけではありません。新興宗教の中にも、健全なものも当然あるでしょう。信者たちが本当に幸福になれるのであれば、それを非難する気は毛頭ありません。
否、宗教を真摯に信仰して、人々のためにささやかながらも祈り、日々真面目に敬虔に生きている人間に悪人はいないと思っています。特にこの殺伐した世の中において、下品で不平不満をあらわにし、目的もなしに生きている大部分の宗教とは無関係な人間より、少しでもその教えを学び信仰を深め、日々の拠り所を得て、生きる目的を自覚して、毎日を感謝に生き、人々に優しさを与えることを喜びとしている信者の方々の方が、遥かに上品で人間的に優れ幸せに満ちていると思います。彼らの大半は誠実であり謙虚であり且つ決して慢心を抱かず、真面目で控えめであり清貧な生活をしているのです。そういう方々のささやかで素朴な信仰を侵すつもりは、この青山まったくありません。こういう人々の模範になるような生き方をされている方々を、青山は心から尊敬申し上げます。(補足27)
その宗教が本当に誠実であり、真摯であり、金儲けとは全く無縁であり、信者誰もが幸福に満ち満ちているものであるなら、それは本当に素晴らしいものだと思います。これからも、信者の心の支えになってほしいと願っています。あらゆる宗教の信者が、幸福になれるように祈ります。

(補足27) ただし宗教の全てが清貧かと言うとそうではありません。この場合新興宗教よりもむしろ既成宗教の方が、長い伝統にあぐらをかき、教団は形骸化し、大衆化され、指導者は堕落し、信者は謙虚さを失っている。特に若者の宗教離れですが、嫌々信心しているようにも見受けられます。親や周りの大人に半ば強制的に信者にさせられたといった感じで、その不満は顕著です。そんな宗教ははっきり言って不要です。宗教は自らの意志で入信してこそ意味があるのです。

  最後に一言。真の宗教は本当に素晴らしいもの。以前にも話した通り、人類が編みだしたものの中で、宗教こそは、科学と並ぶ全人類にとっての最高の宝と言っていいでしょう。そう自信を込めて言える日が一日も早く訪れることを願って、このコラムを終えたいと思います。

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