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この社会で生きるとは


 人生は自由です。何をしてもいいのです。
しかし実際は自由ではありません。やりたくてもできないことは山ほどあるように思えます。この現実は自分の思い通りにはできない。この世界は自由なところではない。どれほど実力がある人でも、この社会を自分の好きなようにはできないのです。

 我々の社会は公平な場ではありません。例えば、税金は一律ではない。同じ行政サービスを受けながら支払う税金額が異なる。たくさん払っている側にしてみれば不公平を感じるかもしれません。
しかし勘違いしている方もいるかも知れませんが、そもそもこの社会は不公平が当たり前なのです。改善など絶対にできません。これが現実です。
また、わが国にも「生活保護」という制度があります。収入・資産がない貧困層の生活費用を税金で賄うのです。家計が苦しい人はたくさんいます。それでも何とか働いて生活保護を受けずに頑張っている人は、働かずにお金だけを得ている生活保護受給者に対して反感を抱くかもしれない。
しかし現実問題として「生活保護」がなければ生きていけない人もいます。その人たちに「死ね!」なんて口が裂けても言えません。もちろん不正に(十分な収入や資産があるにもかかわらず)受給している人間は厳重に処罰しなければなりません。
しかし働きたくても働けない人、病気の人、仕事がない高齢者もいるはずです。その人たちの(最低限の)生活を保障する。全体で得た富は改めて社会の隅々にまで分配し、可能な限り格差を埋める。これが社会保障制度です。(補足1) この仕組みがないなら、そもそも政府なんかいならない。法律もいらない。国もいらないのです。
自分が働いて得た報酬を勝手に取り上げられて働かない人間に無償で手渡すなんて明らかに損だ。だったら働かずに生活保護をもらった方が増しだ。
そう思ったらあなたも生活保護受給者になることをお勧めします。(補足2) ただし、生活費用は最低限しか得られません。車も買えない。家も買えない。観光旅行にも行けません。それであなたは満足ですか?
自分はこれだけの仕事をした。だから当然それ相当の報酬を得るのは働いた者の権利だ。(あなたがわずかながらも支払った税金から、生活保護費用に回される分もある) それを侵害するなんて許さない。なんて言い訳は社会では通用しません。もしこの社会で生きていくのが嫌なら、一人山奥へこもったらどうですか?それはあなたの勝手です。
つまりこの社会は、幸せになりたいならみんなで幸せになる。当人の努力に関わらず、一人だけ(飛びぬけて)幸せになることは許されない。全体が貧しいならみんなで貧しくなる。あなたも貧しくなる。
要する社会の本質は”公平性”にあるのではなく”助け合い”にあるのです。それなくして社会の存在価値はありません。
そんな社会にあなたは生きているのです。こんな世界にあなたは生まれてきたのです。生まれてきたところがまさかこんな世界とは思わなかったかもしれない。この世に生まれてきたこと、それは確かにあなたが望んだことではありません。人間は誰一人として自らの意思で生まれてきたわけではないのです。ある人間は大富豪の家に生まれ、別の者は貧困家庭に生まれる。ある者は働き者、別の者は怠け者。生まれた時点ですでに差があるのです。本人の意思に関わりなく。(補足6) あなたが成功したのは、単にあなたが運がよかったからに過ぎない。あなたが努力した結果恵まれたのではありません。すべては偶然です。
これを理解できないようでは、あなたはこの社会で生きていく意味がない。あなたが自分の実力によってこれだけの報酬を得たと思っていたら、それはうぬぼれである。

努力家に”死”を
 相手が得をすると、自分が不当に損を強いられている気がして無性に腹が立つ。それは単なる妬み感情です。
世界は平等でなければならないという幻想から離れられない。努力したらした分利益を得るなどという浅い考え方にしがみ付いたまま。それは単なる愚か者です。まだ分からないのですか?この世界の本質を。では、分からないならあなたに質問しましょう。あなたは何のために生きているのですか?こんな不平等な社会にどうして生まれてきたのですか?
答えなどない。自らの意思で生まれてきたわけではない。だったらあなたは不幸ですね。人間がどれだけ努力してもこの社会の不平等性は改善できません。無駄な努力です。
この世界は自由ではない。この社会は公平ではない。すなわちこの世界は、「助け合い」の社会です。それがこの世界の本質です。従って、この世界には一生助ける側にいる人間もいれば、一生助けられる側にいる人間もいる。それでお互い満足ならそれでいいでしょう。
この世はそもそも不公平なのです。社会は助け合い。持てる者が持てない者を救う。そしてその見返りを期待しない。(補足7)
世間の大部分の人はそのことが解っていない。特に釈迦の仏教(世界は空)を理解せず、仏教を誤解している人たちは、この世界は因果律に則った公平な世の中であるという誤った思い込みから抜け出せない。ゆえに不幸な生き方しかできないのです。
この世界では、自分が努力したらした分の報いを受けるのは当然。世界はあくまで公平であると。あなたはそういう妄想を抱いていませんか?ある努力家がいたとしましょう。(宮沢賢治ではありません) その人間が努力をした結果、莫大な財産を手に入れたとします。翌日、その人間は頭をハンマーで割られて死亡しました。犯人とその人物は何の関係もありません。たまたまそこにいたため殺されたのです。「財産を手に入れる」と「頭を割られて殺された」には何の因果関係もない。人はこう考えます。努力したのだからその報い(報酬)を受けるのは必然。しかしそうはなりませんでした。それでは因果関係が成り立たないじゃないか。そんなことがあってもいいのか!あなたは憤るかもしれない。しかしハンマーで頭を割られるという現象は何も物理法則(この世の法則)に反しません。(ハンマーは光の速度を超えていない) ただの力学現象です。
するとあなたはこう反論するかもしれない。努力しても結果が得られないなら、努力するだけ無駄ではないか?我々は何のために生きているのか?それは法に則ったこの世界で成功するためである。それが幸福を得るということに他ならない。と生きる目的そのものを奪われたように怒りを露わにするかもしれません。しかしそれは単なる無知に過ぎないのです。努力は必ず報われる。それは甘えた考え方です。あなたはこのどうにもならない不平等の世界で、”成功する”。あるいは”成長する”。そんなことのために生きているのですか?それはまったく無意味です。もっと大切なことが他にあります。
「何のために生きているのか?」生きているのは自分なのに、あくまであなたはその答えを自分自身ではなく世界に求めている。おかしいとは思いませんか?この世界は無意味、無目的、方向性無しなのに。
そもそもこの世は理不尽、不条理なのです。それはどうにもならない。努力したから財産を得た。世の中はそんな単純ではありません。下らない因果関係(しかし決して自然法則には反しない)です。何々をしたから、こうなった。という考え方の何と幼稚なことか。
あなたは勘違いをしていませんか?世界に対して大変な認識誤りをおかしていませんか?頑張ったら頑張った分報いを得る。そうなる保証はどこにもない。これがこの世界の本質です。
その現実に不満を抱いている人に再度お尋ねします。あなたは何のために生きているのですか?生まれてきたから生きているだけですか?では、何のためにこの理不尽な世界に生まれてきたのですか?親が産んだからですか?

 青山は決して貧乏人の類ではないが、救う側でも、救われる側でもどちらでもいいと思う。ただし、救えるものなら救いたい。自分一人が儲からなくてもいい。もしも全体(我が国だけではない。地球だけではない。人間だけではない。宇宙全体)が困窮しているのなら、青山の資産を削ってもかまわない。年金が足りないのなら、減らされても文句は言わない。それで困窮者が救われるのなら。
世界に目を向ければ、貧困者は膨大な数に上るでしょう。豊かな日本とは比べものにならない。悲惨な現実。多くの人はそれを無視するでしょう。今にも生きるか死ぬかの瀬戸際。その多くは老人と子供です。これらの人々を自分の財産を削ってでも救いの手を差し伸べるのは、この社会に生まれた人間として当然でしょう。それができないような人間は、はっきり言ってこの地球に存在している価値はありません。我々は何のためにこの不公平な世界に生まれてきたのか?何のために生きているのか?その答えは明らかです。

(補足1) 「日本国憲法」には、”すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。”(第25条)とあります。

(補足2) どうしようもない理由により生活に行き詰ったら、生活保護を受給する。それは国民として当然の権利です。その際「後ろめたい」、あるいは「恥だ」なんて気持ちはかなぐり捨てるべきでしょう。食うや食わず、自ら死を選ぶかの状況で、生活保護をためらう理由はありません。頑張ってできる限り生活保護を受けないようにしたい。それは、単なるやせ我慢でしょう。我慢すること自体無意味です。自業自得という言葉に騙されてはいけません。人間いかに努力しても、困窮するときは誰だって困窮する。それをすべて本人の責任というのは明らかにおかしい。
世の中には生活保護受給者に対して何かとバッシング(不正受給者は別にして)する人間がいるらしい。彼らはやたらと”自己責任”という言葉を使って受給者を非難する。恐らくバッシングしている連中は、自分が低所得者であるにも関わらず生活保護を受給していない。それに対して生活保護をもらって遊んでいる連中が許せないのでしょう。それは単なる嫉妬。凡そ彼らの多くは、富裕層でもなければ、中間(中流)層でもない。すなわち”底辺層”(単なる経済的評価ではなく)です。(補足3) 富裕層は生活保護受給者に対して別に反感は抱かない。それは当然のことと思っている。
ただし、個人的な意見ですが、わが国の生活補助費は多すぎると思います。それで貧乏などと不満を述べる受給者ははっきり言って甘えているのでは?国が困窮者の生活を保障する。しかしあくまで”最低限”。この最低限の意味を分かっているだろうか?もっと補助費を下げてもいいのでは?と思う。実際青山はそれ(生活補助費)よりも少ない金額で生活しています。(補足4)

(補足3) この底辺層(=マス層)にいる人間(全てではない)の特徴は、
 (1)どんな些細なこと(例えば相手が道を譲らない)でも他人から不利益を被ることに対して激しい憤りを覚える
 (2)自分たちよりも地位が高い者を批判しない。エリートを攻撃できない。常に地位の低い者をたたく
 (3)自分一人では何も出来ない。周りに同調して浮いた存在になることを恐れる
 (4)匿名を装い、自分の主張を堂々と述べることをしない
 (5)常に自分を被害者として位置づける
 庶民、特に若者たちは社会に対して不満を表す。それは自分の努力が認められないことに対しての不満。しかしあなたがどれだけ努力しても、社会がそれを認めることはありえない。幻想に過ぎないのです。いつか認められる。100年後?1000年後?そんな社会に認められたいがゆえの努力はすべて無駄です。そんなことのために生きるなんて何と下らないことか!人生を無駄にするに等しい。人間にはこの世に生まれてきたからには、もっともっと重要なことがあるのです。

(補足4) 日本の生活保護受給者の割合は先進国の中でも少ない方です。もっと生活困窮者に制度を知らしめて、あるいはハードルを下げて、一人でも多くの人に(手軽に)この制度を活用してもらいたいものです。それが社会福祉というものです。それなくしていかなる政府も不要です。役所は速やかに店をたたんでください。青山は税金を払いません。そんなお金はドブに捨てた方がましです。
ただし、一人当たりの補助費はぐんと減らしてもいいと思います。日本の生活保護は贅沢すぎる。余ったお金は貧しい発展途上国の困窮者に惜しみなく回すべき。
例えば病人や障碍者、老人や子供は別にして、働き盛りの健康な人間が、ただ怠けたいからといって遊んで暮らしている。甘えるのもいい加減にしろ。と言いたい。(あくまでも相手に対する”慈悲”という意味で) 人間、働こうと思えば働けるはずです。例えば収入がわずかで残りはどうしても生活保護に頼らざるを得ない場合でも、少しでもいいから(決して無理する必要はない。あくまでマイペースで)自分に出来得る仕事を行う。それが社会の中で生きるという意味です。(補足5) 人生は苦しいのです。社会は厳しいのです。そんなことは当たり前。望まなかったとしても、そういう(苦しみしかない)世界に生まれてきてしまったのです。
ただし、そういう生産性で劣る人間でも、あるいは現代の経済システムに適応できない人も、そして競争社会にそぐわない人間でも、生きていける社会。そういう人たちでも、受け入れる。生き甲斐を持てる。安心して暮らしていける。そういう社会を構築しなければ、それはわれわれ社会を構成している全ての人間の使命です。

(補足5) 自分に合わない仕事をただ生きるためという理由で無理やり選択させられるのは幸福とは言えない。生きる(生き残る)ために、無理やり嫌な仕事を自分に科す者(生きるために仕方がないと考えている者)は不幸である。生き甲斐を、やり甲斐を持って初めて人間は幸福になれる。ただ生きているだけでは駄目なのです。人間は幸福になるために生きているのであって、そうでなければ生まれてこない方が増しと言える。
とにかく、自分は社会には合わない。自分にできることはない。と最初からあきらめている。自分のことを何も知らないくせに、自分の可能性を否定して、努力をする以前に結論を出してしまっている。確かに「為せば成る」とは限らない。しかし、自分に失望することは、生きるのを放棄するに等しい。最後まであきらめない。それがこの世で生きること、に他ならないのです。
行政側としては、ただ与えるだけではなく生活保護受給者が熟考の上自ら仕事を選択できるように常に働きかける。そうでなければ、人間は堕落する。働かなくてもいいという甘い考えに捕らわれ、自ら幸福を掴もうとする意欲そのものが失われる。それは人間を廃業することに等しい。自立してこそ人間であり、それでは社会の奴隷に過ぎない。無論行政としては、相手に生き方を選択させるように働きかける方が返って負担かもしれない。ただ単に補助費を与えるだけの方が楽である。しかしそれは真の福祉ではない。福祉とは相手に快楽を与えることではない。相手が人間として自ら幸福を得ようとすることに対して支援を行うのである。

(補足6) 明らかに誤った考え方として「子供は親を選んで生まれてくる」というもの。もしも子供たちが自由に親を選択できるのなら、裕福な家に生まれることを望むはずです。(それ以前に、この地獄のような世界に、自ら進んで生まれてこようとする者などいない) 結果金持ちは子沢山。貧乏人は子供が少ない。実際は逆ですね。どうしてそうなのか?
人間はより高いレベルへ成長するために、あえて困難な境遇を自ら選択した。人生は自分を高めるための修行の場だと。これはまったくの嘘です。統計的にいえば貧困世帯の子供のほうが将来犯罪者になる率が高いのです。(かと言って貧困家庭で育った人間が誰しも犯罪者になるなんてことは間違っても言いません) これはあくまで統計上の結果です。あえて逆境に身をおいた結果犯罪を犯してしまったら成長どころか後退するでしょう。そしてそうなる確率は高いのです。それでは元もこもありません。もし貧乏な家に生まれた方が、より努力を積んで善良な人間になる可能性が(率として)高いのなら、この話も頷けますが。(逆境が成長につながるなら、ゴキブリに生まれた方が良いのでは?)
要するに自分が貧しい家庭に生まれたのは試練を乗り越えるため、とあくまで自分一人を納得させるのならいいのです。これが他人も含めて人間は誰しも生まれるところを自らの意思で選択したなどということにはなりません。明らかに矛盾しています。こういう思想が(親や周りの大人の責任放棄という形で)人間を甘やかすのです。それでも子供が親を選んだと言うなら、世界中に五万といる親の中からこの親を選択するにあたり比較評価分析した結果を出してもらいたいものです。(こんな”子供が親を選ぶ”なんて考え方は、昨今増えている児童虐待を思うと怒りさえ感じる。一体どれだけの子供たちが親の犠牲になったことか?どれだけのノーベル賞受賞の機会が失われたか?親によって殺された子供たちは将来ノーベル賞を取っていた。かもしれない。)
つまり自分の意思ではなくそうせざるを得なかった。つまりこの家に生まれてくるように強制されたのです。そこに自由(選択)意志などありません。生まれる前には存在していないのですから。
ただし、もしあなたが悟りを得た菩薩として生まれてきたなら、世界は一つである事、即ちこれは私の物、これはあなたの物というわけ隔てなど存在しないこと(共に一つの世界の一部であること)を悟っているがゆえに、どんな境遇であっても、例えば障碍者として(障碍者の身体を持って)生まれた。あるいは虐待する親の下に生まれた。であってもそこに問題などないと考える。
このような賢者として生まれた者は、自己と世界の本質が分かっているゆえに、いかなる境遇でも試練などとは考えない。自身を高める成長などないことを知っているのです。

(補足7) 例えば日本だけ豊かであり、他国は貧しいという状態は駄目。日本人は勤勉だから豊かなのは当然、は通用しない。助け合いとは世界中が豊かになること。もちろん人間だけ、あるいは地球だけ幸せならいい、というのも通用しない。

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