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ささやかに生きる


 さて、いよいよ最後のテーマ、我々人間はどうやって生きていったらいいのか?についてお話しましょう。結論はもう近いのです。
その答えを得るために、これまで話してきた仏教から学んでみましょう。なぜなら仏教は他の宗教と違って”神”など設定せず、あくまで現実的な教えだからです。

仏教の教え
 おさらいです。まず仏教の基本は、この世が「苦」であること。それを理解しない限り、仏教はまったく分かりません。どんな仏教の大家でも、あるいはどれだけ偉大な高僧であっても、この「一切皆苦」を説かなければ、仏教とは言えないのです。それは偽の仏教です。この「一切皆苦」は釈迦の最も重要な教えだからです。この「一切皆苦」さえ解れば他はどうでもいいくらいです。(「一切は苦」参照)
次にこの「苦しみ」の原因は何でしょうか?それは我々が他に執着(関わる)すること。それを求めること。求めても得られないことから「苦」が生じるのです。人間はこの「執着」(様々な欲望、愛も含まれる)を完全に消し去ることは、この世で生きている限り不可能です。そもそもこの世界は「空」であるにも関わらず、その空を”実”(存在するもの)として捉えることに苦があるのです。死ねば一切の執着から解放されます。 この苦しみの世界から消えるからです。ただし、今この世界で生きているということは、すなわちこの”空の世界”で生きていく他ないのです。しかし出来る限りこの「執着」を抑える(苦を減らす)ことはできます。
では、具体的にどうやって生きればいいのか?日々何を心掛けて、あるいはどういう行いをすればいいのか?

清貧の哲学
 日本は素晴らしい国です。日本には古来から仏教が伝わり、あるいは中国からの思想(具体的には「老荘思想」(注1))を受けて、その中に「清貧の哲学」(昔「清貧の思想」という本があってベストセラーになりました)があります。
「清貧」とは清く貧しく(=質素に)、そして心を清らかにしてささやかに穏やかに日々を生きること。それが日本の文化に残っています。仏教を起源とするものとして、生花、茶の湯、香道。芸能として、能(有名なのは世阿弥)。文学として俳諧(有名なのは松尾芭蕉)。その他の隠者文学。その中でも青山が座右の書として日々愛読している?のが、兼好法師(注2)の「徒然草」(つれづれぐさ)です。
この徒然草には、清貧の生き方が綴られています。特に第38段「名声や利益を追い求めて一生を費やすことこそ馬鹿らしい」。あるいは第75段「人は、他のこと(世間のこと)に心を煩わせることなく、ただ独りでいるのがいい。・・・「生活・人事・技能・学問等への諸縁を絶て」と「摩訶止観」にもあるよ」。この「摩訶止観」は中国の天台大師の説法をまとめたものです。
(注1) 古代中国の思想家、老子と荘子の考え方。自然に従って生きることを基本とする
(注2) 吉田兼好1283?〜1352鎌倉時代の随想家。最初は出世を志したが、後に出家して文筆家になった。最初は立身出世を目指し、後に出世の愚かさを悟って世を捨てた者に、西行、中国の李白などがいる

この清貧の哲学を現代に即して、その生活指針を以下にまとめました。あくまで青山流ですから、個々の事柄について真似る必要はまったくありません。

・何事も上を目指さず、今の状態で満足すること。
・財を求めず、財で身を飾らず、できる限り質素であること。欲張らない。
・何事においても人と競争しないこと。どんな些細なことでも勝ち負けを争うなかれ。相手の挑発に乗って戦いに加わることほど愚かなことはない。
・社会や周りに認められようとは思わないこと。他人の評価など一切気にするべからず。そんなことに精を出せば、自分の人生を犠牲にすることになる。
・周りから注目されるようなことはしない。自分を飾らず、目立たずに、人知れずに生きる。
・できるだけ一人になる。人付き合いを最小限にすること。家族以外の者と親しく付き合わない。ただし、友は必要。本当に心の中まで正直に話せる真の友達なら。
・社会的身分の高い人、何事も100点じゃないと満足しない人、完ぺき主義者とは付き合わない。(補足1)
・下らない遊びに時間と金を浪費しないこと。ただし学問は必要。
・何事にもこだわらないこと。どうでもいい。人生はただなるようになるだけ。100点を目指さず、70〜80点で満足する。
・やろうかやるまいか迷っていることは、大概はやらないほうがいい。(補足2)
・自然を好み自然と共に生きる。
・できる限り愛するもの(人)を作らない。
・贅沢はできないが、貧しいながらも楽しく生きる工夫をすること。例えばお金の掛からない趣味を生かす。
・物がなくても欲しがらずに、今あるもので工夫して生きる。所有する物が多いと返って気を煩わせる。(補足2) ※人々の多くは、物が余計にあっても足りないよりはましだと考えていますが、最低限必要な物はともかく、無くても何とかなるなら、余るよりも足りない方がいいと思うのが清貧者の生き方です。なければ我慢すればいいのですから。
・流行を追わない。世間の評判を気にしない。余計な情報を仕入れない。どうでもいい情報は知らない方がまし。
・人と自分を比較せず、常に自分のペースで事を行う。何事にも頓着しない。他人にできて自分にできないことがあっても、卑下する必要なし。それは当たり前のこと。
・地位や役職を求めない。人の上に立たない。特定の組織に属さない。
・名誉や誇りなど微塵も持つな。直ちに捨て去れ。(補足3)
・何事にも怒らず、常に心が穏やかであること。礼儀正しく。人に優しく清い(何事も正直な)心を持つ。
・人間として人を差別せず、評価せず、嫌わず、誰にでも親切であること。見ず知らずの人も助ける慈悲の心を持つ。ただし相手からの評価を求めない。
・人に惜しみなく施すこと。ただし一切の見返りを期待しない。つまりケチにはなるな。ただし質素であれ。
・単なる無知ではなく、人生の智慧を体得していること。
・世俗の成功は求めないが、人間としての必要な知識の修得(勉学)には精を出すこと。
・知識と経験を生かして、世の中の愚かなことに惑わされず、正しい行いを人に勧める。
・知足知止・・・今知っていることで満足する。ある程度知り尽くしたらそれ以上貪欲に何から何まで知ろうという気を持たない。(補足4)

現代人は何かと忙しい。忙しいことが幸せな人はそれで良いでしょう。ただし、忙しいことが苦なら、何もしない。
よく、しようかしまいか迷っていることは、したほうがいい。失敗を恐れるなと言われます。特に企業経営者や資本家たちが偉そうに説教する場合があります。つまり、しなければ成功も失敗もない。たとえ失敗しても得るものはあるというわけです。もっともなようで、それは明らかに誤り。
なぜなら、それをすることに何か意味があるのか?成功することに何の価値があるのか?この世界は「空」です。何をやっても無意味なのです。
何か事業を起こして例え歴史に名を残したとしても、その名はやがて人々の記憶から消え去るでしょう。その死とともに。(「死後に残るもの」参照)
必要のないことはやらない方がまし。何もしない(食べもしない飲みもしないわけではない)。生きた証を残さない。そういう人生であっても別にいいでしょう。現に仏陀は皆こうでした。(釈迦は例外)
よく言われるように、死ぬ前に後悔しないために、何でも好きなことをやれ。やりたいことをやれ?いいえ、後悔しない人生とは、”何もやらない”人生のことです。
また、「清く、正しく、美しく」とありますが、清く貧しく(=質素)、そして正しい人は美しいのです。身なりを虚飾で飾りたてる者は、返って醜い。
「清貧」ということは、もちろん、「やせ我慢のケチ」ではありません。「ケチにはなるな。ただし質素であれ」ということです。
要は世俗の下らない(呆れた)競争に組するなという意味です。競争は愚の骨頂です。(それはまた次のコラムで)
何だかんだ言っても、人間は皆最後は死ぬのです。そして確実に「来世」(次の人生)などありません。財を増やして何の意味があるのでしょうか。ただ愚かなだけです。

年を取ったら
・世間に関心を持たない。暇のある身となって世の中のことにあれこれ思いを巡らさないことを第一に心がけること。(補足2)
・老いと病いに逆らわない。若いうちは、病気はできる限り直した方がよいが、年をとったら病いは当り前のことと思うべし。
・人と決して争ってはならない。勝負事は行わない。
・何事もありがたい。食べたものはすべておいしい。と思うべし。
・好き嫌いを持たない。(年を取ってから)
余談ですが、年寄りは何かと周りを煩わせて、皆から嫌われます。悲しいことですが、それは老人の運命とも言えるものです。年寄りを厄介者とする若者もいずれ年を取って嫌われるのです。若者たちは忙しくて年寄りに気を使っていられない。気が付いて暇になった時には自分も既に年寄りになっているのです。

心の出家
 出家というとまた例のオウムを思い出しますが、前にも話した通り、本当の出家とは、世間とのかかわりを避けて、まったく一人になることです。はっきり言えば現代において、ほとんどの人間にとってそれは(一人山奥で自給自足の生活を営む)無理でしょう。しかも出家者は生産活動(仕事をして報酬を得る)を禁じられています。現代の僧侶の出家は、とても”出家”とは言えない。(結局は在家、彼らも一応所得を得ています)
かと言って、オウムのような出家は駄目です。注意すべきことは以下の2点です。
・社会と隔絶した閉鎖された集団で、出家と称して集団生活を営む。
このような出家は単なる社会からの逃避です。閉鎖集団はおかしな考えが蔓延してもそれに気づかない。いずれ破滅の道を辿るでしょう。(「再び宗教について」参照)
・師弟関係が厳格である。師は絶対。弟子は師に服従を誓う。
後の仏教は師弟関係を重要視しているところ(特に禅)がありますが、そもそも釈迦の時代、釈迦と弟子は師弟と言うより友人に近かったのではないか?
仏教では師匠よりも友人を重んじます。良き友は”善友”と言って、時には師にもなるのです。教える側、教わる側が逆転する場合もあるのです。時に師の誤りを弟子が正すこともありえます。師は自分の間違いを悟れば、素直にそれに従います。そういう自由な雰囲気が釈迦の時代にはあった?と想像します。
しかし今日師弟関係は絶対です。師は決して誤らず、弟子は無条件にそれに従う。ここに弊害が現れるのは火を見るよりも明らかです。
釈迦にとって唯一の悩みはアーナンダでした。他の弟子はすべてを悟ったのに彼一人が悟れない。その要因は師弟関係にありました。師は弟子を可愛がり、弟子は師匠を頼る。つまり師や弟子に執着してしまう。仏教ではこの”執着”が最も悪であることは言うまでもありません。釈迦はそのことを深く後悔したのです。だからアーナンダに自灯明(自分をよりどころとして、他人をあるいは師をよりどころとしてはならない)と散々教えた。友を重んじたのは、師に対してより執着が少ないならです。(「釈迦の生涯 弟子たち」参照)
以上、上記二つの内いずれかに該当するようなら、はっきり言って出家などしない方がいい。
現代おいて実際出家は難しい。しかし上記清貧的な生き方を実践すれば、”心の出家”になるかと思います。すなわち社会においても、家族と接していても、自分は「清貧」に生きるのです。それがこの世の苦しみを最小限にすることです。

 よく言われることですが、求めて得られないから苦しむ。すなわち得られれば苦しみは無くなる。否、得られれば得られるほど、もっと得たいと思うものです。しかも高い望みは得がたいもの。得ようとすればするほど苦しみが増すのは子供でもわかります。得ようと思わなければいいのです。まったく得ないわけには行きませんが、得たいものを減らすことは出来ると思います。得ることが下らない。無意味だと思えばいいのです。それが賢い人生の選択です。

幸せに生きるには
 人間誰でも生きている限り悩みは尽きませんね。何が人間とって一番の悩みでしょう?出来る限り優先順位をつけて、それ以外のことでは悩まないようにしましょう。それが悩みを解決する第一の秘訣です。
・今のことと将来のこと 将来のことはわかりません。今の悩みの方が大事。
・人のことと自分のこと 当然自分のことですね。人のことはとりあえず置いておきましょう。
・自分の身体のこととそれ以外 とにかく自分にとって一番大事なことは、心身ともに健康なこと。

人のために生きる
 周りから愛されたい。人々の尊敬を集めたい。社会から評価されたい。そう自分以外(他者や社会)から期待する前に(そんな期待など当てにするよりも)、自分が逆に他者に何ができるかを考えよ。「人からそうされたい」より「人のためにそうしたい」。それが人間としての生き方である。人が喜ぶこと。人々のためになることとは何か?自分が愛してもらえるように努めるよりも、まず人を愛せよ。
特に年を取ったり、病気に掛かったりした時にこそ、自分のためではなく、自分ができる限りにおいて、人々のために生きる。

結論
 幸せとはささやかに生きること。人間関係に煩わされることなく、自分一人のささやかな幸せを楽しむ。それが苦から離れる方便。
とりあえず何よりも自分の健康、自分の幸せ(もちろん金銭的なことではない)が第一です。自分が健康でないと周りの人を楽しませることができない。
人間は自分の意志で生まれてきたわけではない。そしてこの世では得たいものが得られない。得ても得てもきりがない。世俗での努力はすべて空しい。この世は空である。すなわち苦しみと悲しみに満ち満ちている。それは誰であっても例外がない。金持ちの方が返って不幸。それがこの世の姿です。その苦しみから少しでも脱すること。少しでも幸せになる生き方。それがここで述べる「清貧の哲学」なのです。
ただし、清貧とは決して貧しいだけの意味ではありません。財はなくても、地位はなくても、肩書きはなくても、心が豊かである。人に優しく。見ず知らずの人にも親切に振る舞い、争う事を嫌う。そして智慧に優れ、学問的知識も豊富。さらに何より自由であること。何者にも束縛されず、自由爛漫に生きている。自由を楽しんでいる。人生を楽しんでいる。これが清貧の意味です。
※注、以上の内容については、実際青山が常日頃実践しているわけではありません。ただし、青山もゆくゆくは実践したいとは考えております。(補足5)

(補足1) 兼好法師は、徒然草の中で友達になりたくない人として、社会的に身分の高い人他7種類を上げています。

(補足2) 徒然草第98段で紹介している「一言芳談」の中に記されていること。

(補足3) これは青山の個人的考えです。名誉や誇りなんてものは、何の役にも立たない。(糞(植物の肥料)にもならない) 名誉や誇りで人は救えない。むろん名誉や誇りを重んじる。それに命を掛ける人がいてもいい。どうぞご勝手に。ただし、あなたの趣味(名誉や誇りを尊ぶ)を、人に(この青山に)押し付けないでほしいものです。

(補足4) この「知足知止」とは、古代中国の思想家「老子」の教えです。「知止」とは”無知”とは異なり、知りたいという欲をほどほどにして止めるという意味です。これは科学の探求とは正反対の考え方ですが、むやみに知識だけを求めるのではなく、今得ている知識だけから、より深く熟考せよ。という意味もある?のです。

(補足5) あくまで余談ですが、青山はどんなお金持ちでも、あるいは世間の有名人だって、うらやましいと思ったことがありません。
贅沢は出来ませんが、好きなものを食べて、たまに温泉につかって、酒を飲む。そして大好きな山に登る。これ以上の幸せはない。少なくとも王侯貴族よりは幸せ者だと思っています。(否、王侯貴族の方が幸せだという方へ。だったら王侯貴族になったらいかがですか?そんな王侯貴族なんか簡単にポンとなれるものではない。誰もがなれるものではないなら、それは「不幸」ですね)
もちろん、青山だって金が欲しい。”ただ”であげると言われればもらいます。ただし、これだけの金を得るのに、これだけのこと(労働)をしなければならない。そうまでして金を得るくらいなら、”金なんかいらない”

最後に(余談ですが)仏教の話を。
 以前お話した菩薩の修行法には六つあって、パーラミータと呼ばれている。(「菩薩の修行」参照) その中に「禅定」というものがあって、具体的には「座禅」(ヨガ)だと。座禅はお寺で(特に禅寺で)お坊さんたちが修行のためにしていますが、何のために座禅をしているのかと言えば、もちろん目的はあって、それは「成道」すなわち「仏陀」になるためです。
そんなことは当り前。ところが寺では、何かの目的で座禅をするのではなく、ただ座れ。とにかく座禅をしろと教えます。それはどういうことかというと、何かのために座禅をするとすると、僧侶としての役務のためとか、寺の維持のため(檀家のため)とか、先輩僧侶に気に入られたいためとか、それらは全て世俗的な欲です。最終的には「お金」や「保身」のためです。つまり動物としての本能的欲。そういった煩悩に操られているだけなのです。それでは成道はできません。
「成道」いうのは、仏になることですが、仏はある一つの状態を指すのではない。従って”仏”という段階に達することは永遠にできないのです。(方便として「釈迦」が存在するが。この「仏は一つの状態ではない」については、後のコラムで説明します)
しかし仏を目指して座禅をしている今の状態が、既に「仏」だと言えます。禅では日常のすべてが修行です。修行している姿が仏なのです。(釈迦も死ぬまで座禅を続けました)
ここで青山が一番気に入っている”禅問答”を紹介します。(あまり本題とは関係ありませんが)
「趙州洗鉢」
昔中国に「趙州」という禅の坊さんがいました。その趙州の寺に若者が一人入ってきたのです。ある日その若い僧侶が趙州のもとを訪ねて、
「わたしはこの寺に来て間もない者ですが、どうか”仏教の最高の教え”についてお話しください!」
すると趙州は言った。「朝の食事は終わったのか?」
すると僧は答えて、「はい、いただきましたが」
趙州は言った。「だったら、自分の茶碗を洗いなさい」
何事も日常のことが大切だと言うことです。以上「無門関」(中国の禅問答集)より。

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